穏やかな時間
夕食も終え、結が紫峰や朱莉先輩と風呂に行くのを見送った俺は、食器洗いを済ませて、居間で一人お茶を飲んでいた。
子供の面倒を見るなんて、初めての経験だったせいか、なんだかんだで俺も気を張っていたらしく、今になってどっと疲れが押し寄せてきた。
純粋に、疲労からの溜め息をこぼす。
すると、襖を開けて遠季が居間に入ってきた。
「どうした。飲み物でも探しに来たなら、お茶くらい淹れてやるぞ」
「……お願い」
頷き、キッチンへとはいった俺は、新しい湯呑みを用意して、お茶を淹れ直した。
それを遠季のもとへと持って行き、ちゃぶ台を挟む形で向き合って座った。
「……あなた、が……子供を、引き取る、と……言った時は、少し、驚いた」
「まあ、そうだろうな」
人柄として、という意味だけではないだろう。
魂からして俺は略奪者、捕食者だ。
そんな俺が誰かを育むなど、性質に背いているにも程がある。
「でも、なんでもかんでも、魂の示すままに生きなくたっていいだろう」
「……その考え方は、魂の、劣化に、繋がる」
「ふうん……」
まあ、そうだろうな。
本来とは違う用途に戦火朔を使うんだ。その無理の分だけ摩耗は大きいだろう。
「だとしても……俺に関して言えば、そんなのいくらでも取り返しはつくだろう。気にするなよ」
俺の魂は積み重ねだ。
摩耗し、削れたのなら、その分補充すればいいだけの話でしかない。
結を育てる事で俺の魂が劣化していくというのであれば、その劣化を無しにしてしまえばいいのだ。
『黄泉軍』であるからこそできる荒業だった。
「……そう」
遠季は俺の返答に納得したのか、それ以上は追及してこなかった。
「それにしても、お前はどうしてそう、いちいち俺を気にかけるんだ?」
自意識過剰であるつもりはない。
遠季真央、『魔王』は確実に『黄泉軍』を特別気にかけている。
それは、誰が見たって分かる事実だろう。
これが部隊の戦力として、ならば分かる。
自分で言うのもなんだが『黄泉軍』は餌さえあればどこまでも肥大化し続ける化物だ。
しかし、遠季が見ているのは、そんな上辺だけではないように思えた。
単純に、力、と面で見ているのも間違いはないのだろう。
だが、それを利用したいとか、助けて欲しいとか、そういうありきたりな思いは感じられない。
遠季が何を思っているのか、俺にはまるで分からなかった。
「……あなたは、私の憧れだもの」
「憧れ、ねえ」
とてもではないが、自分に向けられているのがそんな前向きな感情には思えない。
こいつと『黄泉軍』――否、『共食い』の間に十年前なにがあったのか、詳しくは聞いていない。
それでも、俺の魂が暴れ狂った形である『共食い』が尊敬の念を受けるなど本来ありえない事だし……なにより、こうしている今も、俺の肌をぴりぴりとした感覚が包んでいる。
一触即発、とまではいかないが……これは、敵意にも近いなにかだろう。
……すっきりしないな。
遠慮なしにつっかかってくる八束や紫峰とも違う。
はっきりと仮面をかぶっている朱莉先輩とも違う。
遠季は、そういう点では一番中途半端だ。
隠し切れていないのか、隠そうとしていないのか。
白髪の向こうに隠れた表情は、今、はたしてどんな感情を浮かべているのか。
「……これから、少し手合せでもしないか?」
だからだろうか。
つい、遠季の本心の一部分でも知りたくて、そんなことを口にしてしまったのは。
乗って来るか?
乗って来るだろう。
なにせ、ここまでお膳立てしたんだ。
そう思っていたのに……気付けば遠季が座っていた場所に、彼女の姿はなかった。
「は?」
「――まだ」
声は、俺の背後から聞こえてきた。
遠季はいつの間にか俺の後ろに立ち、耳元に唇を寄せて来ていた。
「まだ、準備ができていない。女の支度には時間がかかるもの。待っていて、私の憧れ」
「お前……」
何が憧れだ、と乾いた笑みがこぼれた。
憧れっていうのは、自分より勝る者に使う言葉だろうが。
現時点で、『魔王』が『黄泉軍』に憧れる要素なんてどこにある。
冷や汗が頬を伝い落ちた。
「……おやすみなさい」
軽く俺の肩を叩くと、遠季は足音も立てずに、居間を出て行った。
彼女の気配が遠ざかり、二階へと足音が消えていくのを確認し、俺はようやく身体から力を抜くことが出来た。
「……出鱈目だ」
俺と違って、純粋に個の魂の癖に。
それでもなお、俺を上回っているっていうのは……どう考えたって異常だろ。
これが、第二次大規模飽和流出の英雄様かよ。
……そういえば。
結局俺は、あいつの魂装を一度として見たことがないんだよな。
攻撃? 防御? あるいは願望成就のように思いもしない効果を発揮するものなのか。どういう形態をとるのかすらも、知らない。
知りたくもないな、と。
心底思うのだった。
† † †
浴場には結と朱莉、七海の姿があった。
「だぁから、そうじゃなくて、こう、頭を揉む感じで洗うんだよ」
「うー……」
シャンプーそのものを苦手そうにしている結に、七海がどうすれば髪を傷つけず綺麗に保てるかを指導し、朱莉は湯船の中から二人を微笑ましげに見守っていた。
「懐かしいですね。私も、前にそうやって教えてもらいましたっけ」
「ったく、てめぇら揃いも揃って女の魅力ってもんを磨こうとしてねぇんだから、信じらんねぇよ」
ぶっきらぼうに告げる七海を見て、むしろあなたがそういう点に細かいことこそ信じられませんでした、と朱莉は心の中で呟いた。
「おい、なんか不穏なこと考えなかったか?」
「いえ、なにも」
どうしてこういう時に妙な鋭さを発揮するんだ、とこぼれそうになるため息を、口元まで湯に沈めて隠す。
「泡が目にしみるよー」
「あ、馬鹿。だから閉じてろって言ってんだろ。どうして開けるんだよ馬鹿。この馬鹿」
馬鹿馬鹿と繰り返しながらも、七海は楽し気に結の頭についた泡をシャワーで流していく。
「はー、ガキってのはうらやましいな。なにもしてなくてもモチ肌だぜ」
「うー、髪も身体も洗ったから、もうお風呂入るー」
呻くように言って、結は七海の手を逃れ、湯船へと飛び込んだ。
その勢いのせいで、湯面に発生した小さな津波が思い切り朱莉へと襲い掛かった。
「結ちゃん、湯船に飛び込むのは感心しませんよ」
七海であれば何度か馬鹿となじるところだが、朱莉は笑顔で諭すように言い聞かせる。
「うん」
明るく、子供らしい無邪気さで結が頷く。
「おい、そいつ分かってねぇぞ。また同じことやるのに千円かけるわ」
「それじゃあ賭けが成立しませんね」
笑顔のまま、さらりと結への後ろ向きな信頼を口にし、朱莉は彼女の頬に指先を伸ばした。
触れて、その肌の温もりを感じる。
その熱は、生命の証だった。
「……おい、朱莉」
遅れて湯船に浸かり、七海は半眼で朱莉の事を軽く睨み付けた。
「誰を見てるんだよ、この馬鹿」
「え?」
要領を得ない指摘に、朱莉が小首を傾げる。
「そこにいるのは、他の誰でもねぇ、間宮結だ。力足らずなテメェを映す鏡じゃねえぞ」
意味は分からないのに、朱莉の胸の鼓動は大きくなっていた。
隠し事を暴かれた時のような、嫌な緊張だった。
「なに、を……」
「分からねぇなら考えるんだな。ったく、優しさとソレを履き違えんなよ」
言いつつ、七海は右手で左手の薬指を握ると、ゆっくりとあらぬ方向へと曲げていく。
関節が本来曲がらない方向に捩じ上げられて、悲鳴を上げた。
脱臼する直前の、痛みの最高潮に、七海は表情一つ変えない。
代わりに変化したのは、湯面だった。
かすかに波打っていた湯が渦巻きながら盛り上がると、数匹のリスを形作った。
透明なリスは、まるで湯面を地のように、自由自在に駆け回る。
「わあ……!」
瞳を輝かせた結が、すぐにリスの後を追い、湯船の中を進んでいく。
小さな手を、リス達が逃れていく。
「七海さん……」
咎めるような朱莉の視線に、七海は肩をすくめた。
「この程度の願望なら、大して世界の境界も揺さぶらねえよ。見逃せ」
言いつつ、七海が指揮者のように指先を振ると、、リス達は結から逃れるのを止めて、彼女の手や肩、頭へと上る。
結の歓声に、七海が目を細めた。
「……ま、アタシもお前のことはいえねぇけどな。むしろ性質の悪さで言えば……」
「え?」
「なんでもねえ」
瞼を閉じ、瞳の奥に揺れる感情を隠しながら、七海は首を横に振った。
「やっぱアタシら、まともな魂してねぇよな」
どうしようもない、と七海が苦笑をこぼす。
第一等級……その魂の強度は常人と隔絶していて、乖離しているのだ。
光が強ければ、闇も深くなるように……強大な力が生むのは、魂の歪みだ。
† † †
居間でしばらくのんびりしていると、風呂をあがった結がやってきて、笑顔を見せた。
「お兄ちゃん!」
駆け寄ってくる結に軽く笑みながら立ち上がると、腰のあたりに抱き付いてくる。
続いて、紫峰と朱莉先輩が姿を見せた。
「冷たい飲み物でも入れてやる。オレンジジュースでいいか?」
「うん!」
大きく頷く結の笑顔に、つい、自然と手が動きそうになる。
それを、意識して止めた。
「……?」
「少し待ってろ」
結の抱擁からするりと抜けだして台所へと向かう。
「おい、戦火、アタシらにも頼むわ。牛乳と……朱莉はなんだ?」
「でしたら、別々に用意してもらうのも手間でしょうし、私も同じもので」
「はいはい」
言っておくけど牛乳飲んでも、そうそう胸や身長がでかくなるわけじゃないぞ。
内心で思っただけなのに、親指を噛み切った紫峰からは不可視の衝撃波が放たれ、朱莉先輩からは白銀の剣が飛んできた。
それらを『聖域』で受け止め、俺は深いため息をこぼした。
次話投稿は本日の22時予定です。




