悲劇の魂
第一等級『人魚姫』顕現――圧倒的な魂の質量が、大気を満たした。
俺も、誇る訳ではないが、自分の力にはそこそこの自信があった。
我を通すだけの力はある。そう思っていた。
だが、紫峰の力を目の当たりにして、その思いにあっさりとひびが入った。
二人の人間がいれば、強者と弱者が生まれるのは必然だ。
弱者の立場に立つのなんて、あまりに久々過ぎて、乾いた笑みしか出てこなかった。
「とんでもないな……」
呻くように呟きながら、視線を八束へと移すと、あいつも目の前に存在する脅威に冷や汗を流していた。
傍から見ている俺などよりも、よりはっきりと紫峰の力に晒されているはずだ。
よくぞ一歩も後ろに下がらない、と皮肉でもなんでもなく、褒めていい所だろう。
「こ、の……」
よほどの馬鹿でもなければ、力量の差が分かる。
だから八束は、大馬鹿なのだろう。
相手がどれほど強大かを理解しながらも、立ち向かおうとしていた。
魂魄の暴風に耐えながら、自らの魂を奮わせ、力を振り絞る。
燃え上がる憎悪の気配、噴き上がる殺意が、形を得る。
「第一等級が、どうしたっていうのよ……、そんなもので、私の殺意は止まらない!」
あらゆる暗い感情を煮詰めた、どす黒い瞳で、八束は自らの魂を詠う。
「――黄泉比良の命、千を殺めも分かず――」
呪いの祝詞と共に、八束から汚濁が溢れだした。
黒い外套から滲みだすように漆黒の影が噴き出し、蠢きながら輪郭を形成していく。
背中に浮かぶのは、四枚の歪んだ鉄板を重ね合せたかのような翼で、漆黒だったものが深い血のような赤に染まっていった。
視界に収めているだけで、気が狂いそうな程に感じる、廃棄区域にこびりついた程度の怨嗟とは比べ物にならない極大の害意は、ただそこにあるというだけでこちらの魂を削る力を持っていた。
気を抜けば、仮に八束にその気がなくとも、殺される。
そう確信できてしまうほどに、殺傷性のある想いだった。
「後悔しなさい」
短く告げ、八束は四枚ある翼の一つに手を突き入れた。
ぶちぶちと血管でも引きちぎるかのように、鉄塊の内から引きずり出されたのは、長い棒だった。
その先端についているのは、三日月のような曲線を描く、歪な刃だ。
細かな鉤爪が連なって出来た刃が、ゆっくりと回転を開始し、瞬く間に最高速へと至る。
生理的に受け付けがたい金属の擦れる音と、眩いほどの火花を散らす、殺意で塗り固められた大鎌を引きずるようにして、八束が地面を蹴った。
翼が歪んだ金属音を立てて羽ばたき、衝撃を生んで八束の身体を前へと押しだした。
茨を飛び越えて、紫峰と肉薄した八束が大鎌を振り上げた。
「死になさい」
一抹の不安が生まれる。
両者の間にある力の差は歴然だった。当然、八束に不利という方向で。
だというのに、八束は口にした言葉を冗談ではなく実現するつもりなのではないか……そして、何かの間違いで力が通ってしまうのではないか。
そんな不安は……嘲笑われた。
「かっこつけんなよ、雑魚。ただでさえ弱くて惨めなのに、憐れみまで覚えるぜ?」
紫峰が地面の茨を踏みしめ、さらに血が噴き出すと同時、八束の身体が後ろに吹き飛んだ。
「は?」
なにが起きたのか、俺には理解できなかった。
ただ、紫峰は佇んでいただけだ。
腕を動かしたわけでも、何か特別な力を使う素振りもなかった。
だというのに、大鎌が粉微塵に砕け散り、八束は吹き飛ばされ、近くの建物の壁を突き破って姿を消した。
「まだまだくだばってねぇだろうな!」
さらに一歩、紫峰が前へ歩み出して、茨が血を啜る。
「ほら、さっさと出てこい!」
再び、前触れも無く八束の叩き込まれたビルが、巨大な手で上から押しつぶされたかのように崩壊した。
積み上がる瓦礫と立ち上る土煙に、俺の視界が奪われる。
「いくらなんでも、これは……」
やりすぎじゃないのか。
魂装者といえど、不死身の化物ではないのだ。
「まずい。八束さんが怪我をしていたらどうしよう」
「すぐに治癒系の魂装者を手配しましょう」
流石に朱莉先輩や紡からも焦りの気配が伝わってきた。
だが……その心配を払いのけるかのように、瓦礫の山が内側から炸裂した。
舞い上がる砂塵の向こう側から飛び出した八束は、全身埃まみれだが、怪我らしい怪我もなかった。
その目に宿るのは、これまでで一番大きい憤怒だ。
自分に仇なす敵への怒りが、醜態をさらしている自分への怒りが、加速度的に深みを増していく。
「今度こそ――」
八束の両腕が、再び歪んだ翼へと伸びた。
大鎌を取り出した翼とは、また別の翼から、同じように引きずり出したのは刃がひしゃげて切れ味など皆無であろう巨大な戦斧と、刀身が赤く輝き放つ熱で陽炎を生む巨大な剣だった。
二つの武器を構えた八束の姿は、まるで遠近法を無視したかのようなアンバランスさがある。
「――殺してあげる」
八束はまず、先に大剣を片腕で振るった。
風を切る刃は、とてもではないが紫峰に届く距離には無い。
だが……刀身が宿していた熱は一気に開放され、紅蓮の刃となって紫峰へと奔った。
膨大な熱量は近くの棘を燃やし、地面を溶かしていく。
熱量は、さすがにそこに特化している俺より下回るものの、それでも十分すぎるほどの破壊力には違いない。
振り終えた大剣が黒くなった所からすると、おそらく短時間には一度しか使えない、もしくは熱が溜まるまでは使えない一撃なのだろう。
その代価に相応しいだけの威力が、紫峰へと牙を向く。
「はっ、ぬりぃ」
紫峰の足元から伸びた棘が、あいつの左腕に絡みつき、皮膚を切り裂いた。
血が溢れだすと同時に、炎の斬撃が霧散する。
熱の残滓すらもない。
「本当に、何なんだ……」
得体の知れない力に、相対しているわけでもないのに寒気に襲われた。
だが、八束は自分の攻撃を無力化されたというのに、怯まず再び突撃を繰り返した。
怯まないのは、勇気を振り絞っているからとか、覚悟を決めたからとかじゃない。
たった一つの意思の他は、全てを放棄しただけ。
「あいつ……」
魂装とが、その人間の魂そのもの。
だからこそ、強すぎる想いを見る者へと伝えてしまう。
だが、それははっきりと認識できるものではない。
そんな気配がする、程度のものだ。
だが、今の八束は違った。
はっきりと言葉が脳裏に響くほどに強く、あいつは願っている。
――死ね、と。
それを成すこと意外、今のあいつの頭にはないのだろう。
「そこまで……」
俺だって憎しみを抱いた事はある。
だが、こんな深度、こんな強度……とても心が耐えられるとは思えない。
強すぎる想いは、自身をも傷つけるのだ。
それでもなお、憎悪、復讐、殺意、暗い想いの一欠けらとて捨てようとしない姿は……きっと、俺が選ばなかった、選べなかった姿だ。
「は、あぁああああああああッ!」
獣のような雄叫びと共に、戦斧が振り下ろされる。
紫峰の腕に絡みついた茨はさらに這い上がり、首筋や頬までをも傷つけて行く。
そして、戦斧が紫峰の肩に叩き付けられた。
間違いなく、命中した。
確実に、破壊の魂が届いた。
――そのはずだった。
「で?」
戦斧が紫峰に叩き込まれると同時、あいつの足元を中心に地面が大きく砕け、周囲の建造物が一斉に崩れ始めた。
残骸の雨に降られながら、紫峰は怪我一つなく唇の端を吊り上げる。
「馬鹿げてる」
これが第一等級なのか?
これが人間か?
目の当たりにして、第二等級と第一等級の間にある壁がどれほど巨大なものなのかを感じた。
いいや、こんなのはもはや、次元が違うといっていい。
蟻と象の闘いだ。
「なんなのよ……あんたの、その力は!」
牙を剥き出しに、八束が叫ぶ。
「だから言ったろ、『人魚姫』だって」
肩を竦めた紫峰は、肩に乗せられたままの戦斧を無造作に掴む。
身動きをするだけで、まとわりつく茨は肌を裂き、抉っていた。
血をしたたらせながら、紫峰は八束ごと戦斧を地面に叩き付けた。
「ッ……!?」
八束の身体は地面を砕き、生まれた衝撃は降り注ぐ残骸の雨を払いのけた。
まるでボールのようにバウンドした細い身体を、紫峰が蹴り飛ばし、地面に転がす。
目を逸らしたくなるような、あまりにも一方的な蹂躙だった。
「人魚姫って知ってるか? まあ、知ってるよな。海でおぼれた王子様を助けた人形のお姫様。けれど人魚だから想いを告げられず、人になるために魔女の甘い言葉に誘われ、声を捧げて人になっても、結局想いが届くことはなく……最後は、それでも愛する王子様のために自らの命を投げ捨てた」
紫峰は自分の胸に手を当てて、朗々と語って聞かせる。
その口元は微かに緩み、まるで甘い純愛の物語に想いを馳せているかのようだった。
だが、あいつが口にしているのは間違いなく、悲劇だ。
メルヘンで、ロマンチックかもしれない。けれど悲しい結末を迎えた物語を、どうしてそんなにも幸せそうに口にするのか、分からない。
「……それが、なんだっていうのよ」
ふらつきながらも、八束が立ちあがる。
「ん、ああ、いやいや。なんつーの。あれだよ。お好きなものは? ってやつ。自己紹介の一環だって。アタシは人魚姫の話が大好きだ、っていうさ」
おどけるように肩を竦めながら、紫峰は自分の指先に絡みついた茨を弄ぶ。
指先に、細かな傷がどんどん刻み込まれていった。
「おかしいか? 好きになるなら、シンデレラとか、白雪姫とか、そういう最後には幸せになる童話のほうが……って思うか? いやいや、アタシに言わせてもらえればそんなの分かっちゃいねえよ」
紫峰が大げさに首を振って、唇の端を持ち上げた。
その笑みが、ひどく不吉なものに思える。
「楽しかった思い出よりもさ、案外、辛かったこととか、恥ずかしいことのほうが長く記憶に残ることってないか? あるよな? あるだろ、それが人間なんだ。胸の傷を忘れられない。疼いて触れて掻き毟り、また血が出て、かさぶたになったら剥がして痛めて……」
朗々と語られる内容に、八束は眉をひそめていた。
俺も、あいつが何を言おうとしているのか、見当がつかない。
「人の一生なんて、あっという間だ。地球が出来てからの歳月と人類が地上に生まれてからの歳月ですら、比べてみれば瞬き一回みたいなもんなんだぜ? しかも、胡蝶の夢みたいに今が現実なのか夢の中なのかも分からなくなるような、曖昧で適当なものだ」
「あんたは、さっきから、何を言っているのよ……ぐだぐだと」
「ぐだぐだ言いたくもなるだろう。こんな一生にアタシは不満があるんだから。たかが一生の内に、アタシはなにが出来る? 一体、何が残せるんだ? 生きた意味は? 証は? 死んじまえばそれでお終い……大概の人間が、そんなものじゃねえか」
紫峰の言葉は、不思議なくらいに、胸の奥へと響いてくる。
深い絶望……失意……祈りにも似たなにかが、俺の魂を震わせていた。
ああ、そうか。
すぐに気付いた。
八束の殺意が伝わって来たのと同様に、これこそ、紫峰の……。
「だからアタシは、悲劇になりたい。なによりも鮮烈な悲しみで、アタシという存在をこの世界に刻みつけたい。語ってくれよ、泣いてくれよアタシの悲劇を」
この世界に傷として残りたい。
それが、紫峰の魂が訴える願いだった。
茨の魂装は、それが形になったものに他ならない。
「なに、それ……そういうのって、自己顕示欲っていうんじゃないの? 恥ずかしいわね」
「おいおい、自分はここにいるぞ。生きていたぞ。そう叫ぶのは、ちっとも恥ずかしいことじゃ……ねえだろうがよッ!」
「が……!?」
紫峰の怒号と共に、八束の身体が地面に押しつけられた。
「アタシから見れば何でも噛んでも壊して殺して、って……そっちのがガキっぽくて恥ずかしく見えるぜ!」
「な……」
一瞬絶句した八束だったが、すぐさま怒りを全身に滾らせ、震えながらも紫峰の力に抗って立って見せた。
「おーおー、頑張るねぇ」
紫峰は、余裕そのもの、という態度だった。
目の前の存在が自分を傷つけられるなど、微塵も考えていない。
「ところで知ってるか。人魚姫が人になるために払った代償は、声だけじゃないんだぜ」
ずっと指先で茨を弄って自傷を繰り返しながら、紫峰は何気ない風に口を開く。
そもそも、その行為に一体なんの意味があるのか。
もしかしたら、魂装に関係のあることなのだろうか?
実際に目にした事はないが、魂装の中には、力を振るう対価を求めるものもあると聞いた事がある。
そもそも、だとして、それだけのリスクを負って発現している力はなんだ?
魂装の力は個人によって千差万別だが、唯一、一人につき一つ、という絶対条件は変わらない。
先程から見ている限り、『人魚姫』は純粋に物を破壊したり、自身の強度を高めたり、あるいは不可視の力で敵を抑えつけることも可能としている。
正体がまったく見えてこない。
だが、答えは想像以上にシンプルで……かつ、馬鹿げたものだった。
「人魚姫は人になっても、歩くたびに足を針で突き刺されるような激痛に襲われた。願いを叶えるのには、地獄のような痛みすら支払わなくちゃならないのさ」
「は?」
思わず、俺の唇から魔の抜けた声が漏れた
紫峰の言葉が意味するところを汲み取るのは、あまりに容易だった。
先程、紫峰は自己紹介と、そう言ったが……正にその通りだ。
あいつは、こうして教えてくれたのだ。
自分の力がどういう想いから生まれ、どんな形として現実に存在しているのかを。
「……願望、成就」
俺の呟く声は、微かに震えていた。
痛みさえあればどんな願いも叶う。
なんでもあり……それが、紫峰の能力なのだ。
「そんな、出鱈目な……!」
呻くように八束が絞り出す。
そう、正に出鱈目と言うほかない。
「言われ慣れてるよ」
紫峰が地面から一気に伸びた茨を数本鷲掴みすると、きつく握りしめる。
まるで下ろし金にでも押しつけるように、掌から血肉が飛び散った。
全身傷だらけになって、『人魚姫』は満足げに願いを叶える。
「ま、自分の程度を知ったところで……ぶっ飛べよクソ新入りが!」
「――!」
場を満たす力が紫峰の願いを果たそうとする気配を感じ、三つの武器を破壊された八束が最後の翼へと手を伸ばす。
その時、世界が凍りついたかのような錯覚に襲われた。
全身を包み込む寒気……その正体は、なんだろう。
もしかしたら、恐怖と呼べるものかもしれない。
そして、それは紫峰に感じるものではない。
突如として現れた……新たな魂の気配。
それは……。