置いて行かれた少女
振り下ろされた破壊の大鎌を受け止めたのは『御供夜叉』の白衣の袖だった。
薄い布地に見えるが、それ自体が魂を固めて作られた人形であり、生半可な攻撃では小揺るぎもしない。
『御供夜叉』を形成する魂の総量は、魂魄界との接続が切れた今もなお、絶大だ。
幸い、これ以上になる事はないが、だからといって油断の出来る相手ではなかった。
それが分かっているからこそ、千華も手は抜かない。抜けない。
千華の命を奪うには十分すぎる力を『御供夜叉』は秘めているのだから。
「丁度いいわ……腹に穴が空いていようと関係ない。あんたのことをぶっ飛ばしてやりたかったのよ」
大鎌を肩にのせた千華の言葉に、紡はくすりと笑みをこぼす。
まるで、子供のやんちゃを見守る、優しい母のような眼差しだった。
「そのように怒らせることを、したでしょうか?」
「現在進行形でね!」
千華が一陣の風となって、紡へと斬りかかる。
だが、彼女を守る様に『御供夜叉』の白衣の袖がかざされ、大鎌の刃は弾かれてしまう。
弾かれた大鎌は手放して、千華は四枚の血錆の翼の先端を『御供夜叉』の袖へと突き立てた。
強力な抵抗に震えながらも、翼が白衣の袖を切り裂いた。
すかさず、千華は大剣を翼から引き抜くと、紅蓮の刀身を紡へ突き出した。
舞う蝶のような動きで紡が後ろに跳んで回避するが、千華は簡単には逃がさない。
大剣の先端から、凝縮された熱の弾丸が放たれる。
迫る炎弾を、紡は……無造作に両手で包み込んだ。
骨まで一瞬で灰になるような灼熱を受け止め、指の隙間から炎が噴き出す。
だが、紡の手には、火傷の一つも存在しなかった。
魂の付与により、圧倒的な強度を得ているのは、なにも『御供夜叉』の幻影だけではない。
紡自信もまた……あるいは夜叉の影よりも強く、魂を纏っていた。
「破壊の魂……強大ですが、これならまだ脅威ではありませんね」
いくら破壊することに特化していても、そこに歴然たる力量の差があれば、当然、破壊など出来ない。
相手が『人魚姫』や『勇者』であれば、十分に通用しただろう。
だが、相手は『御供夜叉』……十分に力を蓄えた状態でなら、並みの第一等級では相手にもなりはしない。
魂の付与という支援に向いた能力から、目立つことはないが……その実力は間違いなく、特第一等級にも迫っている。
「お引きください」
紡が軽く腕を振るうと、『御供夜叉』も合わせて動き、羽虫でも払うかのように千華の身体を打った。
彼女の細い身体が横に吹き飛ぶが、勢いを翼から何度も衝撃波を放つ反動で相殺し、手直に転がっていた先程放棄した大鎌を大剣を持つ方とが逆の手で掴む。
「断る。死者を弄ぶような女は、一度ぶん殴ってやらないと、気が済まない」
「……困りましたね。一度殴られるくらいならば構わないのですが……今、それを許せば振るわれるのは拳ではなく、断頭の刃でしょうし……」
苦笑する紡の態度は、余裕そのもので、千華は歯噛みしながら両手の武器を握りしめ、地を蹴った。
一瞬で紡に肉薄すると、まるで挟みこむように左右から武器を振るう。
『御供夜叉』の両腕が、それぞれを受け止めた。
だが、千華の攻撃を受け止めくれずに、『御供夜叉』の両腕は腐った木が軋むような音を立てながら、ゆっくりとねじ曲がり、ついには砕けてしまう。
二つの刃が、紡の首へと叩き込まれた。
いくら強大な魂を持っているとはいえ、無防備な首筋への挟撃は、防ぎきれるものではない。
――その、はずだった。
「な……」
大鎌と大剣に伝わって来たのは、硬い感触のみ。
刃は、紡の薄皮を裂くに留まり、血の滴がじわりと滲む程度の結果しか残さなかった。
「危ないところでした」
なんてことはない風に告げる紡に、千華は信じられないものを見る目を向けた。
そこで、はたと気づいた。
紡の背後にいた『御供夜叉』の幻が、消えていた。
「自分自身の身体を澱の寄り代にするのは、私の魂への負担が大きすぎるので、避けたいのですが」
わざわざ力を分け与えて夜叉の幻影を作り出したのは、伊達や酔狂ではない。
天道啓の魂が、魂魄界の澱に沈み汚染されたのと同様……紡も、そうして汚染される可能性は十分にあり得るのだ。
故に、半分以上の澱は夜叉の形で放出した。
それを再び自らの内に取り込み力としたのだから、当然、発揮する力も変わる。
必殺であったはずの一撃が、無為の一撃に変わってしまうほどに。
「そうそう……さっきから、ずっと考えていたんです。あなたが、一体どうしてそこまで怒っているのか」
紡の口元に、薄く怪しい笑みが浮かぶ。
「――大切な人を取り戻した私に、嫉妬しているのでは?」
「あ?」
それを聞くと同時、千華は大剣を手放すと、大鎌を両手で握り込み、血錆の翼を羽ばたかせて、ここまでで最大の重さを誇る一撃を紡に叩きこんだ。
嫉妬している。
そう言われて、思考が殺意に染まった。
「うるさい……黙れ」
叩きつけた大鎌は……しかし、あっさりと紡の掌で受け止められていた。
「そうして怒るのも、事実であるという証明でしょう……だから言っているではないですか。あなたの姉も――」
「いいから、黙れ!」
もう一度、大鎌を振るうが、やはりあっさりと受け止められる。
彼我の実力差がどれほどのものか、嫌でも突き付けられる。
「どうして、ご自身の願望を否定なさるのですか?」
「だから……黙れと、言っているのよ!」
千華が大鎌を捨てて、翼に手を突き入れる。
引き抜くのは――大鎌、大剣、戦斧に続く、四つ目の武装。
明らかに翼そのものよりも長大、三メートルを優に超える、鏃を巨大化させたような幾重もの溝が刻みこまれた突撃槍だった。
千華は突撃槍を構えると、自らの身体ごと紡へと突進した。
それすら、紡は悠然と片手で受けとめた。
かと思った次の瞬間、突撃槍に刻まれた溝から、真紅の光が噴き出した。
受け止められた突撃槍が加速する。
「お、おぉおおおおおおおおおッ!」
千華の気迫に後押しされるように、突撃槍はさらなる力を発揮し、紡の足が、地面にめり込むように後ろに押し込まれる。
「これは……」
あまりの圧力に耐え切れず、紡の掌に一筋の裂傷が刻まれた。
未だ、千華の魂の成長は止まっていない。
目の前に壁がある限り、それを打ち崩す為に、彼女の力はより強大に膨れ上がっていく。
際限のない増大がどこまで行くのか……それを想像した紡は、一筋の冷や汗を流した。
しかし、まだ紡のほうが圧倒している。
紡は突撃槍の穂先と掴むと、全力で腕を振るった。
千華の身体が、いくつものビルを倒壊させながら、吹き飛んだ。
「……すみませんが、私も止まれないんです」
立ち上る土煙の向こうを見つめながら、紡が呟く。
「……もう、置いて行かれたくなど、ないのです」
せめて共に死にたい。
そう、彼女は願っていた。
今も……過去も。
† † †
第三次飽和流出……未曾有の大災害を前に、第一特務もまた、出動の要請を受けていた。
市街地は他の魂装者に任せ、彼らが受け持つのは最も魂魄界に近しく、高い等級のサワリが出現すると推測される廃棄区域だった。
「兄様……」
廃棄区域へと向かおうとする兄を引き止めるように、紡は声をかけた。
胸の前で手を組み合わせ、どこか祈るように、一歩、また一歩と兄へ歩み寄る。
振り返った兄は、優しい笑顔を浮かべ、紡の不安など全て見通したかのように、そっと彼女の髪を撫でた。
「大丈夫。心配はしなくていい……紡を一人にしたりはしないよ」
「本当、ですか?」
生まれた時から、ずっと傍にいてくれた兄へ寄せる親愛と信頼は、誰よりも強かった。
だからこそ、失うことを恐れるのだ。
「僕がお前との約束を破ることがあったかな?」
物心つくころには、親は母だけだった。
父がどうしていないのかなど、聞いたこともなかった。
そもそも、それを聞くべき母とも、ほとんど会話をしたことがない。
不仲というわけではなかった。
だが、母は人と語らうにはあまりにも不適格な性格だった。
正確に言えば、母と語らうには、大多数の人間が不適格だった、と言うべきか。
優秀すぎる故に、母は人の言葉を殆ど必要としなかった。
一人で完結することが出来てしまうのだ。
長い時間を共にした娘の紡ですら、母が対等に誰かと会話をしたところなど、たったの一度しか見たことがない。
そんな母だったから、紡が啓に強く依存したのも、仕方のないことだった。
「私も、兄様と一緒に戦います」
だから、滅多に口にしない我が儘も口にしてしまった。
「紡……確かに、お前の力は強い。遠季さんが戦えない今、恐らく、誰よりも」
ゆっくりと、啓は柔らかな声で言い聞かせる。
「けれど、それは世界の調和を乱しかねないほどの力なんだ。だから……というのは全て、建前だ」
途中まで言って、啓は苦笑に、頬を掻いた。
「妹には危険な場所に出て欲しくない。それは、兄として当然の想いだろう?」
「兄様……でも、私は……」
異を唱えながらも、紡は理解していた。
啓が意見を曲げるわけがないと。
誰かの為に戦う。
自分ではなく、他人を守る。
それが『聖域』と呼ばれるに相応しい、彼の魂だ。
その清らかさが、紡の意見を殺す。
自分が傷つくのだからお前は黙って後ろに控えていろ。
そう告げられ、紡は俯いてしまう。
「必ず、帰ってきてください」
「もちろん。約束だ」
もう一度、紡の頭を撫でて、啓は背中を向けた。
「行ってくる」
「……はい」
――そして、約束が守られることはなかった。
† † †
瓦礫に埋もれながら、千華は思う。
どうして自分は、こんなにも無力なのか――と。
強くなったと思った。
全てを壊せると思ったのだ。
だというのに、それは幻想だと言わんばかりに、強大な現実は彼女を押し潰してくる。
「この世界は……私に残された、唯一のものすら、奪うと言うの……?」
破壊。
それしか残されていない少女の声は、誰にも届かず、瓦礫の中に埋もれた。




