狂気の芽吹き
日本は、特に魂魄界との距離が近い、とされている。
十年前、初めて魂魄界の存在が実証された。
日本で発生した第一次大規模飽和流出により、サワリが現れたからだ。
最初の飽和流出が起きたのが日本であるのも、魂魄界との距離が近いとされる所以だが、他にも大規模飽和流出が先日で第三次を迎えたというのもある。
第一次大規模飽和流出以降、世界各地でサワリは出現するようになったが、大規模飽和流出のようなサワリの大量出現が確認された国は、そう多くない。
そんなものを三度も繰り返しているのだから、日本が魂魄界となにかしらの深いかかわりを持っているのは明らかだった。
他にも、他にも日本に近いほどサワリの出現確立は高まるということも確認されている。
天道秤博士が双界概念に気付けたのも、その辺りが関係しているのだろう、とも言われている。
そして、この十年の間に、たった二度だけ確認された第一等級のサワリは、たったの二体……どちらも、当然のように日本で出現した。
一度目は、第一次大規模飽和流出で出現した。
サワリを喰らうサワリ……当時、その個体を目撃し、生き残っている者はごく僅かだが、そう伝えられている。
炎を纏う、雷撃を放つ、吐息に触れれば凍りつく。四足の獣であり、翼持つ巨鳥であり、あるいは人を模した異形であった……と、出鱈目な情報が飛び交う中で、サワリを喰らうという情報だけは共通していたらしい。
当時、まともにサワリへ対抗する術など存在していなかったが、第一等級『共食い』はいつの間にか姿を消しており、その存在は今でも解明されない謎の塊とされている。
二度目は、第二次大規模飽和流出での出現だ。
第一等級『魔獣』と称されている、このサワリは、『共食い』ほど不明な存在ではない。
身の丈は六メートルを越える、巨大な六本足に三本の尾、長大な角を持った狼のような獣であったとされている。
あらゆるものを咆哮で砕き、爪で裂き、牙で貪ったという。
第二次大規模飽和流出での被害の七割は、この一体によるものだとも、まことしやかにささやかれるほどだ。
おそらく、それすら『魔王』である遠季が滅ぼしたのだろうが……。
そして――今、そんな最悪のサワリが四体、具現していた。
なぜ、すぐに第一等級だと判断できたか?
そんなのは、簡単な話だった。
第二等級など比べ物にならないほどの強大な魂の質量……それだけで、十分すぎるほどに分かってしまうのだ。
それに相対すべきではない、と。
† † †
空から降り注ぐ、大質量の魂の澱……それが形成される。
四本の腕を生やした巨人……それを認識した瞬間、俺は吹き飛ばされていた。
「――ッ!?」
何が起きたのかも分からないうちに、視界が回転し、全身に衝撃と激痛が襲いかかってくる。
俺の身体は巨人の拳に殴り飛ばされ、建物を貫通しながら、大きく吹き飛ばされていた。
そんな俺を、ビルを紙膜のように砕き退けながら、多腕の巨人が追ってきていた。
† † †
朔が吹き飛ばされ、巨人がその後を追っていくのを、他の面々は見送るしかなかった。
誰かを助ける余裕など、ありはしない。
「――これが」
七海の口元が引き攣る。
朱莉は震えそうになる剣の切っ先を、必死に抑えた。
一体は、細長い八面体からムカデのような触手が生えている。
一体は、宙を泳ぐ魚で、鱗の一枚一枚が剣のように鋭く尖り、ヒレからは幻想的な輝きが舞っている。
一体は、肉の塊に無数の口がついているような物体で、口の中には、さらに口……そしてその中にも口と、延々続いている。
三体の第一等級が放つ威圧感は、七海や朱莉の想像していたものより、ずっと並外れたものだった。
魂装者の等級とは、どの程度のサワリを倒せるか、主にそれを基準にして定められる。
第二等級の魂装者であれば、第二等級のサワリを倒せる。
だが、第一等級だけは異なっている。
それは、第一等級のサワリの出現例が少なすぎるということ……そして、第一等級の触りの力を誰もが計りかねているからだ。
第一等級と呼ばれるのに十の強さを必要とするのであれば、十のサワリも、百のサワリも同じ第一等級となる。
第一等級の意味合いとは、第二等級以上、という広義のものなのだ。
それを知っていながらも、七海と朱莉にとって、眼前のサワリは想像以上だった。
十や百なら想定はしていたが、千が出てきてしまった。
そんな気分に襲われる。
「はっ……クソ、がッ!」
七海はすぐに、臆することなく己の魂を振るった。
どんな敵に対しても、くじけることなどない。
どこまでも足掻き続けるからこそ、崩れ落ちた時が美しくなる。
だから、強くあろうとすることは、悲劇の最低条件なのだ。
茨が七海の素足に巻き付き、血を啜る。
痛みを代価に、願望が果たされる。
空に形成される、無数の氷の槍……それらが一斉に第一等級のサワリに降り注いだ。
「はぁあああああ!」
それに合わせるように、朱莉も聖剣を振るう。
勇者もまた、どんな強敵を前にしても折れることはない。
いつだって勇猛果敢に立ち向かう。
その想いに応えるように白銀の刃は輝き、膨大な光の奔流が刃となってサワリを滅ぼさんとする。
「な……!」
しかし……結果は望まざるものだった。
氷の槍は一つ残らず、ムカデのような触手に砕かれ、光の刃は怪魚のヒレからこぼれた光が受け止める。
そして、攻撃を受けたサワリは、それぞれ七海と朱莉へと、反撃に出る。
八角形が七海へ、怪魚が朱莉へと襲いかかり、先程、朔がそうされたように、彼女達をそれぞれ別の方向へと吹き飛ばし、追撃した。
残ったのは、真央と、口を蠢かせるサワリ、そして――。
「死ね」
いつの間にか修復させた大鎌の魂装を手に、サワリへと襲いかかったのは、千華だった。
大口の異形は、大鎌の回転刃を噛んで受け止める。
ぞろりを並んだ歯と、大鎌の刃の間で大量の火花が散った。
「殺す……殺すッ!」
千華は怯まない。
そんな感情、今の彼女には残っていなかった。
状況は理解できている。
理性まで失ったわけではない。
だが……それ以上に、抑えられないものがあるだけ。
どうしたって、届かないことへの怒りが、果たされない衝動が……千華を突き動かす。
殺したい。
壊したい。
崩したい。
理不尽なまでに蹂躙したい。
七海にも、朱莉にも、歯が立たなかった。
もどかしく、腹立たしくて、膨れ上がる殺意、降り積もる破壊の願望……それらを、目の前の敵に振るう。
そのことしか、今の千華にはなかった。
今度こそ殺すのだ。壊すのだ。
目の前のサワリも……天道紡という狂人さえも。
「あ、あぁあああああああああ!」
千華の想いが、魂をさならる高位へと押し上げる。
鋼を打ち鍛えるように、ぶつかる壁が、より千華に純度の高い破壊を求め、魂が応えた。
血錆の翼が甲高い悲鳴をあげる。
千華の全身を巡る魂が増大し、大鎌の刃は、さらに回転数を上げた。
大口に生えた歯の一つに、僅かな罅が入る。
次の瞬間、千華はその巨体を、まるで野球で球を打つかのように、思い切り吹き飛ばした。
ビルを倒しながら転がっていく肉塊を、翼をはばたかせ、すぐに追いかける。
その姿を見送って、一人きりになった真央は、白髪の隙間から空を見上げ、薄らと笑う。
「破壊の魂は、どんどん成熟している……いずれ『魔獣』に届く日も……そうすれば、私の魂についた傷も消えて……」
真央は自分の胸に手を当てて、少しだけ高鳴る鼓動を感じていた。
目的に、少しずつ近づいているのがわかる。
まるで少女が恋い焦がれるように……真央は、いずれ来るであろう瞬間を夢想し、熱のこもった息を吐き出す。
「ああ、早く……『黄泉軍』の魂を思い出して。私の憧れた……」
廃棄区域のいたるところから、破滅の音が聞こえてくる。
七海が、朱莉が、千華が……そして朔が、戦っているのだ。
その中でも、朔の消えた方向に視線を向ければ、何度か空高くまで火柱が立った。
その炎に、真央は目を細める。
「確かに、それなりに強い力を使っているようだけど……そんな力一つじゃ、無理」
真央は歩きだす。
戦いの気配など感じさせない、まるで近場に散歩にでも行くかのような気軽で、ゆっくりとした足取り。
「――今のままじゃ、偽りの第一等級にも、勝てない」
どこか楽しげに呟かれた忠告は、誰に届くでもなく、消えていった。




