二度と戻らないもの
耳元から聞こえてくる単調な電子音に、眠りの海に沈んでいた意識が浮上する。
瞼を開くと、窓を隠す障子ごしに、部屋へ朝の光が挿しこんでいた。
「……電話?」
まだ半分眠った状態で、携帯をとり、発信者も確認せずに耳にあてる。
「もしもし……」
『おう、朔か……って、随分眠そうだな。まさか寝てたのか? もう結構な時間だぞ』
聞こえてきたのは、良く知る人の声だった。
この人が電話なんて、珍しい事もあるもんだ。
「あー……昨日、遅かったし、疲れてたし……この部隊、起床時間とか決められてないし」
『そりゃ羨ましいねえ』
「そういうわけで……あと一時間は寝るんで」
『ああ、待て待て! お前、後見人の扱いがなってねぇぞ』
通話を切ろうとする俺に、少し慌てた仙堂さんの声が届いた。
『どうだよ、そっちの調子は。もう馴染んだか?』
「あー……」
なるほど、心配してくれたのか。
「……まあ、それなりですかね」
『なんだそりゃ』
適当に誤魔化した返答に、仙堂さんが苦笑を漏らす。
『ま、嫌んなったら愚痴くらい聞いてやっから、遠慮なく連絡してくれや』
「その時はさっさとこの仕事止めますよ」
『おう、まあそれでも構いやしねぇよ。お前の人生だ、お前の好きにしな』
「……言われなくても」
どこか投げやりで、けれどしっかりと気遣いを感じる言葉は、仙堂さんの人柄をよく示していた。
前に、顔を付き合わせないで会話するなんて気持ち悪い、とか言ってたくせに、こうして電話をくれるくらいだ。
とんだお人よしなんだよな、この人は。
『とりあえず、いつも通りで安心したわ。まあ、そこそこ頑張れや。そんなとこで無理して、潰れるのも馬鹿らしいだろ? お前さんにはしたい事もあるみたいだし、な』
「……」
あの人の恩義に報いたい。
その話を、仙堂さんにした覚えはない。
だというのに、全てを見透かしたかのように告げられ、俺は一瞬、言葉を詰まらせた。
なんだかんだで油断のならない人だ。
「言われるまでもなく、もし何か危ないことになりそうなら、そそくさ逃げますよ」
『そうだな、そうしろ。お前まで巻き込まれて死ぬこたぁねえわ』
「ええ……ん?」
待て。
お前まで、って言ったか?
「ちょっと待った、仙堂さん。それって……この部隊で死んだ人間がいるって事ですか?」
『あ? そりゃお前……言わなかったっけか?』
「それは……聞いた、かもしれない。前に話したときは、話半分で聞いてたんで」
『おいおい、ちゃんと覚えとけよ』
呆れ声が帰って来て、脳裏に面倒くさそうに頭を掻く仙堂さんの姿が思い浮かんだ。
『ま、詳しくは俺も知らんがな。実力がある連中ってのは、それだけ危険に直面しやすいんだろうな。こりゃ機密だが、この間の第三次大規模飽和流出だがな、双界庁の魂装者は市街地に配置されたろ?』
随分と軽々しく機密について触れるんだな……。
「ああ、それが?」
『じゃあ廃棄区域には一体誰が配置されたんだ? あんだけサワリが出現しやすい地域だ。大規模飽和流出じゃ、どれくらいのサワリが出たんだろうな』
「……」
そこまで言われれば、いくら鈍くたって分かる。
「第一特務か」
なんたって第二次を一人でとめたっていう『魔王』が隊長を務めた部隊だ。
それくらい任されてて、不思議じゃない。
『まあ、そういうこった。そこでな、一人死んだって噂だ。確か第一等級の……天道博士の子供って聞いたな』
「は? いやいや、それなら生きてるだろ。情報違いか?」
『ん? ああ……それも聞いてないのか』
「なにが?」
電話越しに、どことなく、仙堂さんの気後れする気配が伝わってくる。
『兄妹だったんだよ。兄一人、妹一人のな』
† † †
遅めの朝食を摂り終えた俺は、居間で茶を飲みながら、庭で洗濯物を干している紡のことをぼんやりと見ていた。
兄妹……か。
さきほど仙堂さんから聞いたばかりの話を思い返し、少し憂鬱な気分になる。
「……さっきから、なにを……じっと、天道紡を、見ているの?」
「…………いつから俺の後ろに立ってたんだ、遠季」
本気で気付いてなくて、いきなり声が聞こえて少しだけ肩が跳ねてしまった。
周囲を無駄に威圧することもあれば、こうして気配を完全に消したり……心臓に悪い奴だな。
「約三分前」
「そんなにか」
呆れて溜息がこぼれた。
カップラーメンが作れるぞ。
「……そういえばお前、全員のことを苗字で呼ぶくせに、紡の事だけはフルネームで呼ぶよな」
「……」
俺としては遠回しに聞いたつもりだったが、遠季は目を細めると、庭の方へ歩き出した。
「天道紡」
「あ、はい。どうかしましたか、遠季さん」
「仕事。本庁に、資料……取りに行って。私の……名前を伝えれば、あとは……受け取るだけ」
「え?」
いきなりの命令に、紡も驚きに目を丸くしていた。
しかし、すぐに気を取り直し、笑顔で頷いた。
「分かりました。それでは洗濯物を干し終えたら、すぐに……」
「急ぎ。残りは……戦火が、やる」
勝手に仕事を振られたぞ。
「あ、そうですか……?」
「……まあ、そういうこと、らしいな」
いきなりこんな事を言いだすなんて、どうやら遠季には、俺がなにを気にしているか分かっているらしい。
そして、わざわざ紡に席を外させようとする辺り、何かを話そうとしているのだろう。
……コミュ障のくせに、なんでそんなに気が利くんだ?
「分かりました。それではお願いいたします」
「ああ」
「それと、女性の皆様の下着などは別にしてありますので」
「……ああ」
それ、念押しする必要あったか?
別に気にしちゃいない。
……わざわざ言われると、なにか警戒されてるんじゃないかと勘繰ってしまう。
まあ、隊で唯一の男なんだし、しょうがないのかもしれないな。
……俺の前にいた男も、こんな思いをしたのだろうか。
「それでは、行ってまいります」
「よろ、しく……」
紡が去ったのを確認して、遠季はちゃぶ台を挟んで俺の向かい側腰を下ろした。
「……天道 啓」
「え?」
「天道紡の兄。第一等級魂装者。魂装の系統は、防御。第三次、大規模飽和流出……廃棄区域防衛戦……殉職」
次々に、天道啓という人物の情報が開示されていく。
「……それは、俺に言っていいのか?」
「別に、構わない……」
それならわざわざ紡を追い払うことなんてなかったんじゃないのか?
それとも……こんな話ですら聞かせられないほど、紡にとって兄の存在は大きなものだったとでも?
……普段の態度だけ見ていれば、紡がなにか重いものを抱え込んでいるなんて、想像も出来ないけれど。
だが……そういえば、そうだな。
本来、魂や想いなんてものは、胸に秘め、明かすものではないのだ。
「紡は大丈夫なのか?」
「……質問の意図を、もっと、明確に……説明して、ほしい」
「いや、普通に……傷ついていないのかとか。心はもつのか……ってことだよ」
「紡も、第一等級。強い、魂の持ち主……」
遠季が何を言いたいのかは分かる。
魂が強いということは、それだけ砕けにくいということ。
いいや、逆か。
想いも心も強いから、魂が強くなるのだ。
「そうか」
「……でも」
白髪から微かに見えた遠季の瞳は、微かに伏せられていた。
「その強さが、どんな……どういう、強さか……それは、私にも、分からない……。折れない……砕けない……ただそれだけ。曲がらない……貫く……いいことばかりじゃ、ない」
「なにが言いたいんだよ」
「……すぐに、分かる」
微かな笑みが、遠季の口元に浮かぶ。
……こいつの笑顔を見ると、どうしてこんなにも、嫌な予感がするのだろう。
まるで、これから起こる不吉を祝福するような……そんな笑みに思えてくる。
「失った物を、探す機会は……誰にあっても、いいと……そう、思わない?」
「なんだよ、いきなり。その話って今すべきことか?」
それとも……何か暗示しているのか?
「……黄泉の王はまだ腐り切っていない。このまま傍観し続けるの……『黄泉軍』」
「だから、なんなんだよ、それは」
問うが、遠季は答えることなく、笑みを浮かべたまま立ち上がる、踵を返した。
「ああ、そうだ……」
居間を出て行く寸前で立ち止まり、肩越しに俺を振り返る。
「……洗濯物……下着は無くても、普通の衣類は、入ってるから……匂いとか、嗅ぐのは……駄目」
「するか!」
俺の怒声に、もう一度笑みをこぼし、今度こそ遠季は居間を出て行った。
「……くそっ」
俺は苛立たしげに吐き捨て、茶を飲み干すと、洗濯物を干す為に庭へと出た。
当然、変な事なんてしなかった。
嘘じゃないぞ。
† † †
朔と真央の会話を聞いている者が、一人いた。
「天道の兄が、死んでいる?」
千華は廊下に立ち、障子越しに紡の兄に関する話を聞き、僅かに混乱していた。
わざと盗み聞きしたわけではなく、ただ居間に入ろうとしたタイミングで、偶然二人が話し始めてしまったのだ。
「……」
立ちつくしていると、襖が開き、目の前に真央が姿を現した。
「っ!」
息を飲み、気まずさから視線をそらす千華だったが、真央は彼女のことをさして気にとめた様子もなく、後ろ手に襖を閉めると、横をすれ違って歩きだした。
まるで、最初からいることなど分かっていた、とでもいうように。
「……あなたは……失ったものを、取り戻したいと願う?」
去り際に、微かな声で真央は千華へと投げかけた。
「……」
千華が振り返った時、そこにはもう誰の姿も無く、二階へ上っていく足音だけが聞こえた。
「失ったものを、取り戻す……?」
そう聞いて、千華が真っ先に思い浮かべたのは十年前のことだった。
もう戻らない己の半身である自らの姉が死んだ時、自分の中で致命的な何かが決壊した瞬間を。
「そんなの、考えるまでもない」
千華の声は、これまでにないほど、冷え切っていた。
「――失ったものは戻らない。そんな無駄なことを考えるより、復讐を。殺戮を。この怒りの果てるまであらゆるものを破壊し続ける」
千華の口元には、凄絶な裂けるような笑みが浮かんでいた。