遠い思い出
ひとまず着替えた俺は、痛む身体を引きずるように居間へと移動した。
間もなく、荒い足取りで八束がやってくる。
その頬はこころなしか、まだ赤みが残っているように見えた。
「おとなしく待っているとはいい度胸じゃない」
瞬時に八束の背中に血錆の翼が一枚展開され、大鎌が引き抜かれる。
「いきなり武器を抜くな」
俺はちゃぶ台で頬杖をついて、深い溜息をこぼした。
「ほら、茶を用意してやったから、落ち着けよ」
自分のものとは別に湯呑みを置いて、急須から緑茶を注ぐ。
そんな俺を睨みつけていた八束の魂装が霧散した。
ひとまず、考えなしに暴れ回る、ということはないようで一安心だ。
「……」
隠そうともしない、あからさまな舌打ちをして、八束は乱暴に座り込むと湯呑みを一気に傾けた。
「……あ、っつ!?」
「淹れたての茶を一気飲みって、何を考えてるんだ」
呆れつつ、二杯目のお茶を注いでやる。
「……」
「なんで睨むんだよ。お前が舌を火傷したのはお前の責任だ」
「うるさい」
吐き捨てるように言って、八束は二杯目のお茶も一気に飲み干してしまった。
「……お前な」
「ふん……」
なにがしたいんだこいつは。
三杯目を注ごうとしたが、急須の中は空になっていた。
流石に、これ以上世話をする気にもなれなくて、俺は自分の茶に口を付けた。
適当にいれたが、茶葉がいいのか、けっこう美味い。
「それで、わざわざお茶なんて淹れて、私になにか用でもあるの、変態」
「変態じゃない」
「黙れ性犯罪者」
「……」
こいつは言葉のキャッチボールが出来ないのだろうか。
これもコミュ障の一つの形かと、まだ溜め息をこぼした。
「溜め息ばかりで鬱陶しいわね」
「誰のせいだと思ってるんだ」
「知った事じゃないわ」
どうして女ってのはこんなにも人の話を聞けないやつが多いんだろう。
本当に同じ人間なのか疑わしくなる。
「……というか、まだ謝罪を聞いていないんだけど」
「ん?」
「あんたがなにをしでかしたのか、もう忘れたの? 変態なだけじゃなく、記憶力まで皆無?」
本気で人を馬鹿にしたような目をして鼻を鳴らす八束に、流石に苛立ちが芽生える。
だが、ここで俺が何か言い返しても、さっきの二の舞になりかねない。
自分を宥めるように、溜め息を吐き出す。
すると、八束が不愉快そうに眉を寄せたが、知った事か。
「はあ……悪かった、謝るよ。すみませんでした……これでいいか?」
「喧嘩を売ってるの?」
「なんでそうなるんだ」
お望みどおりにしてやったっていうのに、そんなのは理不尽だろう。
「……死ねばいいのに」
「そればっかりだな」
いくら、そういう魂装を担ってるからって、普段の言動まで偏らせることないだろうと思うんだが……。
……昔の事を思い返すと、俺も人の事は言えないか?
「ところで、一つ聞きたいんだけどいいか?」
「なによ?」
「お前って変わりたい?」
「はあ?」
俺の問いかけに帰されたのは、心の底からの、こいつは何を言っているんだ、という疑問の表情だった。
「あんたが言いたい事、まるで分からないけど……変わりたいかって? 別に?」
「だよな」
分かり切っていた答えに納得し、一人頷く。
そんな俺にそそがれるのは、八束の訝しげな視線だった。
「なんなのよ?」
「気にするな。お前に関わらなくていいという再確認だ」
「はあ?」
徐々に、八束の声に苛立ちが混じり始めた。
どんだけ気が短いんだよ。
「それじゃあ俺の用は済んだから」
やはり分不相応なことはすべきでない。
そもそもこんな凶暴女に自分から関わりにいくなんて、正気の沙汰じゃない。
「それじゃあ俺はもう寝る」
「ちょっと待ちなさい!」
立ち上がり、居間を後にしようとした所で、八束の鋭い声に呼び止められた。
「なんだよ?」
「……あんたの魂は、なんのために燃えているの?」
「それは……」
飾り気のない、いきなり核心をつくような問いかけに、思わず言葉を詰まらせた。
答えない、という選択肢も当然あった。
むしろ、魂装者にそういうことを聞く事の方がマナー違反だ。
魂装者の魂の在り方、力の根源にあるものは、その人の全てと言っても過言ではない。
紫峰のように自ら誇らしげに語る者もいれば、正反対の者だっている。
「……」
だが、俺は八束の問い掛けを軽々しく振り払うことは出来なかった。
それがなぜか、自分でもわからない。
あるいは……答えることで何かが変わるのかも知れないと、想っているのかもしれない。
「……昔は、全てを焼き尽くす炎になりたかった」
目を瞑れば、瞼の裏に紅蓮の業火が浮かびあがる。
しかし、すぐに灼熱は、あの人の手で切り払われた。
「でも今は……大切な人の為に、帰り道を示す灯でありたい」
そして未来では、あの人を守る熱になりたい。
恩返しをしたいという気持ちと、尊敬の念は尽きる事がない。
それこそ、俺の魂の形なのだ。
「……ぬるいわね」
ぽつりと、八束は呟く。
失望がありありと浮かんだ声に、俺は苦笑する。
「何を期待してたのか知らないが……勝手に期待して失望するなよ」
溜め息をつくのも、何回目か分からない。
俺は今度こそ今を出ようと、襖に手をかけた。
「あんたなんかが私と同等? そんなわけない、虫唾が走るわ」
「は……それなら、さっさと第一等級になればいいんじゃないか?」
適当な言葉を残し、俺は廊下に出ると、後ろでに襖を閉じた。
† † †
部屋に戻った俺は、窓の外に浮かぶ欠けた月をぼんやりと見上げていた。
「……」
気付けば壁に立てかけてあったソレに手を伸ばしている。
確かな重みを感じながら、鞘袋から抜き放つのは、鞘に納められた一本の刀だ。
柄に手をかけるが、刃を抜き放ちはしない。
「――ぬるい、か」
否定はしない。
俺の願いは、想いは、魂は……きっとこの部隊にいる誰よりも些細なものだ。
「けどまあ……ぬるいはぬるいなりに、頑張らせてもらうさ」
小さなもので満足することの、なにが悪い。
どいつもこいつも金銀財宝、不老長寿に未知の世界……そういった大きすぎる何かを求め過ぎなんだよ。
掌の中にあるビー玉一つでも、それがその人にとって至上の輝きであるのなら十分じゃないか。
本当にすぐ傍になるかけがえのないものを守ることに、価値がないとは言わせない。
俺は、そういうものを手放さない力が欲しいんだ。
「……受け取ったものを返すことくらいしか、俺には出来ないからな」
口元に自然と浮かんだ笑みは、純粋なものか、あるいは自嘲まじりだったのか。
こういう時は、自分の部屋に鏡の類を置いてなくてよかったと、そう思う。
自分で、自分を見ることは……少しだけ恐ろしいから。
† † †
大規模飽和流出が謎の収束を見せてから、俺が目を覚ましたのは三か月後のことだった。
見慣れない白い天上と、清潔なベッドシーツの感触、鼻を突く食毒薬くさい空気……それに混じる、桜の香り。
当時の季節は冬だというのに、その人の周りには、小春日和のような穏やかな雰囲気が流れていた。
いつからいたのか……俺の病室で小難しい学術書を読んでいた彼女は俺が目を覚ましたと気付くなり、邪気のない笑顔を浮かべた。
きっと見る人を幸せにするような、素敵な笑顔だったのだろう。
だがその時の俺には……笑顔が灰色にくすんで見えた。
どうして目覚めてしまったのだろう。
俺が最初に思ったことは、それだった。
思って……口にもした。
その瞬間、頬が熱くなり、首は軽く筋を痛めるほど捻れた。
遅れて、口の中に広がる鉄の味が、俺になにが起きたのかを教えてくれた。
あの人は、俺の事を思い切り殴ったのだ。
いや、思い切りではなかったのだろうが、それでも子供に対して振るうには過ぎた力なのは間違いなかった。
そして、当の本人はぼろぼろと涙を流し、子供のようにしゃくりあげ、服の袖で目元を何度も拭っていた。
第一印象は、うららかな春の日差しを思わせる人。
第二印象は、陽の光を通して七色に煌めくシャボン玉のように安定しない人……だった。
母の、歳の離れた妹……それがあの人だった。
感情を抑えることなく、自分のしたいことを、自由にする。
そして……誰よりも強い人だった。
あの人から最初に言われた言葉と、最後に交わした言葉は、同じだ。
――死者を想うよりも、今傍にいる誰かを想って――。
昔は、分からなかった。
今は、分かったふりをしている。
未来では……。