湯煙暴行事件
夜遅く、女性陣が全員風呂に入り終え、眠った頃になって、ようやく俺は安心して大浴場に入る事が出来た。
「女所帯に男一人の肩身の狭さだな」
ため息交じりに呟いて、肩まで湯に浸かる。
広い湯船に入っているだけで、なんだか疲れが溶けていくようだった。
「……ああ、でもあの人と暮らしてた時は、こういう息苦しさはなかったっけ」
と言っても、親子ほど、とまでは言わずとも、一回りも年齢の差があったんだから、当然と言えば当然なのかもしれないが。
……こんな事面と向かって言った日には、殺されるな。
自称永遠の十八歳の姿を思い出し、苦笑をこぼした。
「確かに若作りは上手かったけど」
よく人に、お姉さんですか、とか言われて喜んでたっけ。
あの生活が、俺の心を変えたんだよな。
「……どうすべきかな」
八束の事を考える。
あいつは、昔の俺の延長線上だ。
そりゃ、仮に俺が復讐と憎悪に取りつかれたまま成長しても、そのままああはならないとは思うが、類似であることに違いはないだろう。
変われた俺は、変わってないあいつに、何かをすべきか?
少なくとも俺は、今の自分を嫌ってはいない。
痛めつけられ、強引に矯正された道かもしれないが、それでも、だ。
八束にも、そういう道があると、伝えるべきだろうか?
「……いや、馬鹿げているな」
失笑がこぼれる。
俺に、そんな器量があるものか。
あの人のようにはいかない。
同じように振る舞おうとすること自体、おこがましいというものだ。
「はあ……あの人、今頃なにやってんだろ」
俺の呟きは広い浴場に響き、湯口から溢れだす湯の穏やかな音の中に消えて行った。
目を瞑り、過去に想いを馳せながら、温もりに包まれる。
そうしていると、なんだかんだで疲れが溜まっていたのか、意識がふわりと遠のいた。
まずい、と思っても心地よさに縛られた身体は動こうとしない。
少しだけ、もう少しだけこのままで……。
まどろんでいると、不意に……ドアが開く音がした。
「……ん?」
「……あ?」
流石に瞼をあけて振り返ると、そこには……。
「あ、あ……」
先に言うのであれば、これは不幸な事故……あるいは相手側の過失であろうと俺は思う。
脱衣所に俺の脱いだ服があっただろうと言いたいが、今は悠長にそんなことを語っている暇はないだろう。
なにせ相手さんは既に、背中に血錆の翼を四枚全てと言わずとも、二枚広げているのだから。
……女が入ってる時には男子禁制の札があるのに、男が入ってる時に女子禁制の札がないのも問題だろう、よくよく考えれば。
俺は悪いのか?
いいや悪くないだろう。
頭の中で言い訳を繰り返しながらも、俺の瞳はしっかりと相手……八束の身体を見つめていた。
しっかりと鍛えているのだろう、決して筋肉質ではないが、引き締まった四肢。激しい戦いを繰り返してきたとは思えない白い肌。腰のあたりまで届くほどの艶やかな黒髪。そしてみるみる赤く染まって行く、整った顔立ち……。
重ねて言い訳をするなら、俺だって男だ。
目の前に女の裸があれば、そりゃ見るだろう。
俺は悪いのか?
いいや悪くないだろう。
ようやく、凍り付いていた時間が動き出した。
「し、死ね変態が……ッ!」
血錆の翼から放たれた大鎌が回転しながら俺に飛んできた。
「おま……っ!?」
殺す気か!?
咄嗟の反応で回避すれば、大鎌の刃が湯船の底に深々と突き刺さった。
当然、避ける為には俺も立ち上がる必要があり、それは湯船から出ると言うことでもある。
結果……俺は素っ裸で八束と向き合うことになった。
「――!?」
ついには人間の言葉すら忘れたのか、八束の口からは引きつった声が漏れた。
「よし、待て、落ち着け。話し合おう。その前に後ろを向け。俺も向く。そして冷静になって風呂を出るぞ。いいな?」
まるで猛獣に言い聞かせる様な気持ちで、一言一言をゆっくりはっきりと伝える。
「……ね」
ぽつりと、震える八束の唇が動いた。
「ん?」
「……死ね――黄泉比良の命、千を殺めも分かず――!」
「本気か!?」
呪いの言霊に呼応し、残り二枚の血錆の翼が展開されていくのを見て、風呂上りで温まっているはずの身体が寒気に包まれた。
「くっ……」
慌てて逃げようとする俺に、血錆の翼から小さな鉤爪のようなものが細いワイヤーを引いて無数に飛び出した。
「そんな事も出来たのかよ……!」
飛んでくるワイヤーフックを紙一重の所で避けて行く。
「く、そ……!」
前後左右の動きだけでは足りず、床を蹴り、壁を蹴り、三次元的な動きをとりつつ、置いてあった湯桶を掴み盾に使ったりもする。
盾にした湯桶が次々に木端微塵になるが、今はそんな事を気にしている余裕はない。
「少しは、落ちつけ……!」
「あんたが死ねばいいのよ!」
さらに、先程の倍近い数のワイヤーフックが打ち出された。
さながら、投網を投げかけられたかのようだ。
「い、いい加減に、しろよ!」
流石に避ける事は諦め、俺は炎を生み出すとワイヤーフックを端から焼き尽くしていく。
「死ね死ね死ね死ね殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す!」
怖ぇよ。
繰り返される呪詛に頬を引きつらせたその時……降りかかるワイヤーフックとは別に、密かに足元に放たれていた一本のワイヤーフックの存在に気付いた。
「しまっ……!」
反応は間に合わず、ワイヤーが足に巻き付いた。
引っ張られて、身体が後ろに倒れ込む。
受け身を取る暇もなく、後頭部が思いきり湯船の縁にぶつかった。
「!?」
壮絶な痛みと、目の前で閃光が弾けたかのような衝撃の後、ワイヤが巻き取られ、俺の身体が宙に浮かんだ。
「ま、待――!」
「死ね殺す滅べ壊れろ死ね死ね死ね死ねうぁああああああああああああああああ!」
俺の身体が地面に落ちる前に、血錆の翼の一枚が、まるで鈍器のように俺の腹を打ち据えた。
「が……!?」
内臓が潰されたのではないかと本気で疑うほどの一撃を受け、俺は浴室から脱衣所へと叩きこまれた。
正に叩き込まれたという表現がぴったりで、視界が上下逆のまま、壁に叩き付けられる。
そして、床に落ちた。
「死ね!」
最後にもう一度怨嗟を放ち、八束は真っ赤な顔で浴室のドアを勢いよく閉めた。
「……」
俺は床に転がりながら、全身を襲う痛みに顔を歪めた。
「あー……とりあえず、骨とか内臓とか、大丈夫……だよな?」
血は出てないし動かすのにも支障はない。
俺は起き上がる気力もなくて、両手で顔を覆った。
「……裸でなにやってんだ」
呻きながらも、脳裏にはきっちりさっきの光景が焼き付いていた。
「くそっ……しかし、なんだ」
性格はともかく。
性格はともかく、だ。
「……あいつの見てくれは、普通に好みのタイプだな」
ダメージのせいか、湯あたりのせいか、もうなにがなんだか分からないが、頭が痛かった。