貌のない女
そこは、それなりに大きな街だった。
その街の中央広場。
中央広場のベンチ ―その街は裕福さを象徴するかのように広場にベンチが据え置かれていた― に老婆が一人座っていた。
活気がなかった。
街は裕福さなど、まるで感じさせはしなかった。
なぜか。
隣の街と紛争中だからだ。
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彼女はこの街の生まれではない。
若い頃、結婚を機に夫が街で一旗揚げようと、夫婦揃って移り住んできたのだ。
決して楽な暮らしではなかった。
むしろ苦しかった。辛かった。
でもそれは、実家で親兄弟と暮らしていた頃と何も変わらなかった。
だから特に不満はなかった。
休みのない暮らしだった。
いつもいつも忙しくて。
朝から晩まで働いた。
不満はなかった。
時々夫から、“お前は感情のない、つまらない女だ”と文句を言われることがあった。
自覚はあった。
子供の頃から言われていた。
親兄弟、近所のおじさんおばさん。
そういえば友人たちが遊んでくれなくなったのはいつからだったろうか。
そんなこと言われてもよく分からない。
だから気にしないことにしただけ。
特に不満はなかった。
そんな暮らしの中で、子供を産み、育てた。
その子供が育ち、成人して夫の後を継いだ。
その頃から時々暇ができるようになった。
夫と二人で、暇になることがあった。
そんな折り。
普段無口な夫が、彼女を褒めてくれた。
不平不満を決して口にせず、常に自分に尽くしてくれた。
お前は、良い女房だったと。
自分は幸せ者だったと。
そう言われて。
彼女は初めて考えた。
自分は幸せだったのだろうか、と。
確かに不満はなかった。
けれど、じゃあ、満足していたかと問われれば。
分からない。
としか、答えられなかった。
幸せってなんだろう。
満足って、どういうことだろう。
そんな疑問が彼女の中で渦巻いた。
必死に考える。
確かに不満はなかった。
それは何故だろう。
いつだって、
忙しかった。
辛かった。
苦しかった。
でも不満はなかった。
なら、不満に感じたことは、あっただろうか。
あった。
子供の頃だ。
満足に食事もできなかったことが続いた日々があった。
あれは不満だった。
あれが不満だった。
いっそ死にたいと思った。
本気で死ぬと思った。
なぜ食事ができなかった?
両親に仕事がなかったからだ。
仕事がないから稼げない。
だから食事ができなかったのだ。
ああ。
そうか。
わかった。
確かに、
忙しかった。
辛かった。
苦しかった。
でも、仕事がなくて食事ができないことの方がよほど、
―そう、自分の表情を失うほどに―
不幸なことだったのだ。
ならば、きっと私は幸せなのだろう。
満足しているのだろう。
妻にひもじい思いをさせなかった夫は、きっと良い旦那だったのだろう。
自分は幸せ者だったのだろう。
「ありがとうございます。私も幸せ者でした」
「こちらこそ、何度でも言うよ。ありがとう」
また一つ彼女は知った。
なんの屈託もなく「ありがとう」と言える人は。
幸せで、満足している人なのだ。
そんな夫が昨年亡くなった。
夫は息を引き取る最後まで、彼女に向かって「ありがとう」と言った。
だから、きっと満足して逝ったのだろう。
彼女は泣かなかった。
変わらず表情が無かった。
当然かもしれない。
夫は満足して逝った。
ならば悲しいと思う必要を感じない。
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その後、しばらくして息子は結婚した。
今では子供が二人いる。
二人ともやんちゃな盛りだ。
毎日が賑やかになった。
でも、彼女に表情はなかった。
先日息子が、最近余裕ができてきたから、
家族で出かけたいと言い出した。
行先は隣の街だという。
隣と言っても“街”だ。
移動するのに、馬車でも一週間は掛かる。
彼女は断った。
自分はもう歳だし、足手まといになるからと。
すると嫁がそっと教えてくれた。
お義父さんに孝行できなかったことを後悔しているのよ、と。
ならば、なおさら行くことはできないと思った。
自分だけ孝行されたら、死んだあとで夫に叱られてしまうから。
結局、息子夫婦と孫たちで隣の街へ出かけて行った。
なんとかのお祭りに合わせたのだという。
独りになって一週間経った。
その頃、不穏な噂が流れた。
隣街と紛争が起こるという噂だ。
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紛争が起きた。
噂通りだ。
隣街との街道は封鎖されて誰も通れないという。
また、街道以外で領境を越えた場合、
発見され次第、問答無用で殺されてしまうという話だった。
紛争が起きて数日後。
近所の若夫婦が隣街から帰ってきた。
祭りを見に、息子たちと同じ馬車で向かった夫婦だ。
「危ないところだった!あと半日帰るのが遅かったら帰って来れなかった!」
「祭り見物に来ていた余所者は、全員収容所に監禁されたはずだ」
彼女に表情はない。
しかし目の前が真っ暗になった。
彼女の記憶が確かなら。
息子家族が帰ってくるのは彼らの翌日のはずだった。
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以来、彼女は中央広場のベンチに座る日々だ。
隣街から帰ってきた息子家族を一番に見つけられるはずの場所だから。
朝になるとやって来て、
お昼になると持参した弁当を食べて、
夕方になると買い物をしながら帰っていく。
あれ以来、何の情報もなく、何の噂も聞かない。
彼女にできることは、ただベンチに座って息子家族が帰ってくるのを待つことだけだった。
表情のない彼女の焦燥は誰にも伝わらぬまま、日々だけを重ねていた。
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その日は変化があった。
兵士数人が騎馬姿で駆けていた。
よほど急いでいるのか、人が歩いていようがお構いなしだ。
運悪く、その道を老婆が歩いていた。
みんな慌てて端へ逃げて行くが、老婆は足腰が悪く逃げ遅れてしまった。
誰もがぶつかると思った。
騎馬が駆け抜けて行った後、恐る恐る老婆のいた場所を皆が確認する。
だが、そこには誰もいなかった。
誰もが夢を見ていたのかと思っていた。
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少年が老婆を抱えて歩いていた。
「危なかったなー、住人を轢いてもお構いなしとか、兵士の風上にも置けねーな」
「ほんとだね~。あの人たちきらーい」
老婆は表情のない顔で驚いていた。
少年の姿しか見えないのに、若い女の声が聞こえる。
しかも少年の言葉に合の手を打っている。
「うん?婆ちゃん気が付いたか」
「ねえねえ、お婆ちゃん。どこか行きたいところある~?」
突然、彼女の目の前に妖精が現れた。
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「本当に家まで送らなくていいのか?」
「ここでなにするの~?」
少年に中央広場に行って欲しいと伝えると、二人にそんなことを言われた。
仕方ないので事情を伝えたところ、
「この騒ついた空気は紛争かぁ。なんだかなー」
「なんで、すぐ喧嘩するのかな~」
「きっと切欠なんて大したことじゃないんだろうな、馬鹿らしい」
「巻き込まれた人はたまらないよね~」
「おばあちゃん、心配だね~」
「そうだな。まぁでも、すぐ終わると思うぜ、婆ちゃん」
「…お祈りするの~?」
「ああ」
そんな会話を交わすと、少年は徐にお辞儀を二度繰り返した。
“パンッパンッ”
そして二度手を叩くと手を合わせたまま、三度お辞儀をしたのだった。
「かしこみかしこみ、もうまおす~」
「よかったね~、お婆ちゃん。もうダイジョブだよ~」
何が大丈夫なのか全く理解できなかったが、
幼い頃、妖精は誠実な人に懐くと聞いたことがある。
なら、なにかそう言うだけの理由があったのだろう。
無表情のまま呆けていたからか、
気づくと二人は手を振りながら去って行った。
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数日後、息子家族が帰ってきた。
少しやつれてはいたが、元気そうだった。
彼女は表情のないまま出迎えた。
もちろん中央広場だ。
息子家族だけではない。
隣街で収容されていた人々がみんな帰ってきたのだ。
紛争が終わったのだった。
あの二人 ―少年と妖精― が言った通りだった。
街に活気が戻っていた。
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みんな揃って家へと帰る最中、息子が隣街であったことを語った。
「扱いは雑で、食事は適当。出れる日がくるなんて全く信じられなかったよ」
「とにかく見張りの機嫌を損ねないよう、大人しくしていることしかできなかった」
無表情のまま、そんな会話を聞いていると、
孫二人に袖を引かれた。
彼女が見ると、孫は、小声でそっとこう言った。
「あのね、あのね、お婆ちゃん。牢屋で妖精さんを見たんだー」
「きっと、あの妖精さんが助けてくれたんだよ」
「「ねー」」
驚いた。
自分の顔が、
肌がピクリと動いた気がした。
「子供たちは、こんなこと言うんだけどね。他の誰も見てないんだ」
「夢でも見ていたのかしらねぇ。大人たちは生きた心地がしなかったというのに」
息子夫婦が言う。
どうやら子供の話が聞こえていたようだ。
「子供は気楽なもんだよなぁ。いや、大物の片鱗か?」
ははは、と笑いながら息子が母へと顔を向ける。
すると…
“パンッパンッ”
彼女は手を合わせて、深く深くお辞儀をしていた。
「…ありがとう」
その声は、誰にも届かなかったけれど、
彼女の脳裏に、あの二人の笑顔が見えた気がした。
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息子は驚いていた。
母を見て驚いていた。
見たことのない動作をしていた母を見て驚いていた。
その動作をする母に驚いたのではない。
母が…
笑っていた。
いつも無表情な母が、笑っていたのだ。
うっすらと。
本当に、うっすらとだが。
確かに笑っていたのだ。
「あー!お婆ちゃん笑ってるー!」
「初めて見たー!」
子供たちも笑っていた。
釣られて息子も笑い出した。
嫁は、そんな家族を笑顔で眺めている。
…それ以来、
その老婆の家には笑顔が絶えなかった。
~閑話 貌のない女 完~




