55 神の料理
――ハヤトは急になにをしているかわからなくなった。
いや、正確にはなにをしているのか忘れていた。
試験の判定をすることを忘れ、会場にいるということを忘れ、ブラックアイスの料理を食べているということすら忘れたのかもしれない。
文字通り、我を忘れていたのだ。
ハヤトだけではない。会場は一斉にシンッとなっている。
この時、会場で我を忘れていなかったのはブラックアイスの料理を食べていなかった二人の対戦者とロウだけだっただろう。
オーベルンが不安そうに、ハヤトたち判定人に聞いた。
「貴公たち……大丈夫か? いったいどうしたというのだ?」
その瞬間、ハヤトとチキータとハリーは我に返った。
ハヤトはオーベルンを少し見てから、先ほど心配していたチキータの顔を見る。
チキータは泣いていた。
目から次々と涙の雫が零れ落ちている。
(チキータ。どうしたんだよ? なんで泣いてるんだよ?)
ハヤトはチキータに声をかけようとした。ところが……。
「ハヤト? どうしたの? なんで泣いているの?」
と、チキータから逆に聞かれてしまった。
ハヤトはそこで気がついたのだ。
自分も泣いていることに。
しかも後から後から出てくる涙を止めることができない。
「えっ? えっ? あっ? あれ? 俺、泣いてるのか……」
「あれ? え? 私も? どうしちゃったんだろう……?」
ハヤトはさらに気がつく。それは自分とチキータだけの現象ではなかったのだ。
ハリーもとめどなく涙を流していたし、観戦席の幹部たちも泣いていた。
どうしてこのような状況になっているのかわからない。
わからないが……こうなる前に自分がなにをしたのかは覚えていた。
ブラックアイスの料理を食べたらこうなった。
「なんだか……わからんけど……ぐすっ……食うぞ!」
「わ、私も……」
ハヤトは今度は覚悟して、チーズフォンデュを食べた。
先ほどはクリームシチューを口にしたのだが……涙が後から後から出てくるのはやはりチーズフォンデュでも一緒だった。
「……今度はなんとか我を忘れずに、味を意識することができたぜ。なるほど。すべての料理が牛乳の優しい味がする……」
シチューのホワイトソースは当然のこと、チーズフォンデュには普通は使われない牛乳の風味が強いカッテージチーズが混ぜてあるようだ。
そしてチーズに入れるパンも、イリース水牛の牛乳を加えて焼き上げたもののようだ。
様々な技巧が込められている料理のようではある。
ハヤトは料理人としてどんな料理も分析してしまう癖がついてしまっている。
しかし、ブラックアイスの料理は、分析どころか味を意識することすら……〝雑念〟として自然と忘れてしまったのだ。
「判定人でなかったら……心を無にして食べたいぜ……」
「ホント……」
実際に会場の幹部たちのほうからは、時折、鼻をすする音と、スプーンやフォークが食器にぶつかるカチャカチャという音しか聞こえてこなかった。
心を無にして食べていたのだろう。
ハリーも二口、三口と食べて、やっと運営側の判定人らしいことを少し言うことができた。
「これは……ともかく優しい……味ですね。それ以外にこの素晴らしい料理を表す言葉がない……」
ハヤトとチキータが無意識に深くうなずいた。
イリース水牛の牛乳を使った優しい味。それ以外に表現する言葉はなかった。
オーベルンが後ずさる。
「き、貴公たちは料理で泣いていたのか? 信じられん……」
ハヤトがクリームシチューとスプーンをオーベルンに差し出す。
「お前も食ってみろよ」
オーベルンがハリーのほうを見て目を合わせる。ハリーは涙目で頭を縦に振った。
「なら、いただこう」
オーベルンはハヤトからスプーンとクリームシチューの皿を取った。
結果は……同じだった。オーベルンはしきりに手を目に当てて涙をおさえようとするが、おさえきれていなかった。
「なるほど……私の料理とこの料理では……教会に入ったばかりの新米のシスターと聖母の違いがあるな。いや、そのような例えをすることすら……意義を見出せぬ……」
判定人たちが料理を食べ終わる。
オーベルンが清々しい笑顔で言った。
「私の料理から聞くのは時間の無駄になるだろう。ブラックアイス……殿に投票する者から確認するといい」
「では、Bリーグ第六試合、ブラックアイスの料理が上とする者は?」
ハヤト、ハリーそしてチキータ。全員がブラックアイスに投票する。
こうしてAリーグとBリーグの第六試合は終わった。
――Aリーグ第六試合勝者 ロウ
――Bリーグ第六試合勝者 ブラックアイス
◆◆◆
会場を出たハヤトとチキータは自然と一緒に歩いていた。
ひょっとしたら、チキータはもう自分の借家に来ないのではないかとハヤトは思っていたが、そんなこともないようで安心した。
他にもほっとしたことがある。
「あのさ……」
「ん? なーに、ハヤト」
「俺……ひょっとしたらさ。チキータが料理の味とは関係ない判決をしちゃうんじゃないかと思ってさ……ごめん」
チキータは笑ってそれには答えず、試験で食べた料理について語っただけだった。
「誰の料理も凄く美味しかったけど、あの子の料理は別格だったね」
「だな。これまでもアイツの料理の技術は凄かったけど……今日の料理は技術がどうとか、食材がどうとか、そういうことを超越していたな」
「本当にね。私、なんだかモヤモヤしていたのが馬鹿馬鹿しくなっちゃった」
帰宅するために歩いていたチキータが歩を止める。
それに気がついてハヤトも止まった。
「どうした? 急に立ち止まって?」
「ユミちゃんがいないところで言ったほうがいいかなと思って。どうせ後でわかっちゃうだろうけどね」
ハヤトはチキータの言っていることがよくわからない。
チキータがハヤトをまっすぐに見つめる。
「ブラックアイスの料理は凄いね。私じゃ勝てないと思う……」
「いや……そんなこと……」
ハヤトは否定をしようとするが、別にチキータだからということでなく、今のブラックアイスに勝つのは誰であろうと難しそうだった。
「ふふふ。無理に繕わなくていいよ。だから私はもう勝つことは考えない」
「え?」
「私は本当に、次の戦いではただハヤトのためだけに料理を作るよ」
◆◆◆
ハリーは何気なく、料理人ギルド本部を見回り、最後に闘厨場へと足を運んだ。
すると他に誰もいなくなったスタジアムの観戦席に、赤髪オールバックの男がぽつんと座っていた。
「ビッテンさん?」
「よう……」
ビッテンの目も赤くなっていた。
「ずっとここにいたんですか?」
「ああ……」
「凄い料理でしたね」
「俺やお前の料理よりも上だったな」
ハリーは驚いた。ビッテンが自分の料理よりもあの少女の料理のほうが上と認めたのだ。
「あの少女の見せた料理技術は、今までの試験でも他の受験生と比べて抜きん出ていた。だが……今日の料理はそんな次元じゃない」
ハリーも同意せざるを得ない。だが……。
「ビッテンさんがそこまでおっしゃるとは……」
「俺は確かに強引かもしれないが、それも料理とバーン世界を思ってのことだ」
「存じていますよ」
ハリーもそれは信じている。
「料理の神はどうして俺に降りずに、裏ギルドの料理人に降りたのか? なぜ裏ギルドの料理人に……」
ハリーは微笑んでいた。それにビッテンは腹を立てたようだ。
「わかっているのか? 裏ギルドから創世神に料理を捧げられるほどの料理人が出たんだぞ?」
「もし彼女が悪しき料理人ならば……」
座り込んだビッテンが側に立つハリーの顔を見上げる。
それほどハリーの声は力強かった。
「あれほどの料理は作れないはず。料理はつまるところ思いやりですから」
裏ギルドの料理人から超絶料理人が出てしまった状況で、呑気なことを言うハリーに、ビッテンは一瞬呆けてしまった。
「フフフ。ハハハ!」
「なにか可笑しかったですか?」
確かに呑気で単純だが、言っていることはやはり料理の真理だと思う。
それがビッテンには、なにか可笑しくて仕方なかったのだ。
いつも読んでいただいてありがとうございます。
感想、レビュー、評価、ブックマークはとても励みになります。
今日も12:00に更新したいと思っています!