8話/Running through
「エドワルドさん!どうされたんですか!」
息を切らして飛び込んできた男にアスクが駆け寄る。開け放たれた入口から外を見ると、もう夕日もかなりの部分が山影に飲み込まれ、暗くなりはじめていた。夜が来る。勇人は急いで礼拝堂のランプに灯を灯した。
「じっ、実は、うちのエリィが……!」
エリィ。エリィ・リダ。
苗字が表すとおり、このリダ村に住む少女だ。今駆け込んできたエドワルドの娘で、この間9歳になったばかり。幼いながらに病弱な母を助けて家の世話をし、その笑顔で働きづめの父を支えている。小柄で大人しく非常に素直な娘だが、実は年齢不相応と思えるほど算術に長けた、とても賢い勇人の生徒である。
「エリィがどうしました!?」
「エリィが……エリィが、ミュルクの森に行ったきり戻らないんです!もう、日が沈むのに……っ!」
「ミュルクだと……」
呟いたのはコミンズ翁だ。ミュルクの森は、リダ村から東の方向に進んだところにある。だいたい歩いて2時間弱だろうか。
「それはいけませんね……。日が沈むと危険です」
また、一部では黒の森と呼ばれることもある。木の実や山菜などが豊富な実りのある森なのだが、背の高い木々が生い茂っているせいで昼間でも薄暗い。うっかり採集に夢中になって奥の方まで入ってしまうと日暮れに気付けずあっという間に真っ暗闇の中に取り残されてしまう。周囲を見渡してもどこまでもどこまでも黒一色が広がっているばかり……これが黒の森の由来だ。
さらに、夜の森には言うまでもなく凶暴な野生動物たちが跋扈している。このあたりはモンスターこそ出ないものの、肉食の狼や熊の生息地である。迷い込んだ人間などひとたまりもない。
勇人も村民の手伝いのため数回足を踏み入れたことがあるが、その際同伴したおばちゃんたちに耳にタコができるほど言い聞かせられた。
「まだわずかですが太陽が残っています。ビルケさんとルードさん、ミリアンさんに馬を出してもらって捜索しましょう」
「それが……連中、今日は町に……!」
「なんと……」
アスクが名前を挙げた3人は、この農村においては珍しい狩人の家系である。朝早くから馬で村を出て行き、夕方近くに獲物をぶら下げて帰ってくる。彼らならば馬を駆っての捜索もお手の物だったろうが、間の悪いことに、今日は州都に獲物を売りに行っていてまだ帰らないらしい。
彼らの協力が得られない、となると、今村には年寄りの農耕馬か牛しかいない。騎乗できないことはないが、風の如く駆けさせることは難しいだろう。とはいえエリィが帰路についていることも考えて、仕事から帰っている村の大人たちには村の周辺と森までの道の捜索を頼んだ。
他に手段は…と考えて、ひとつ案が浮かんだ。アスクも同じことを考えたらしく、二人でひとところを見つめる。
「事が事だ…仕方あるめえ」
「ありがとうございます、コミンズさん!」
そう、それは、コミンズの乗って来た馬車の馬を借りることはできないだろうか、ということだった。持ち主はあっさりと了承したあと続けた。
「しかし俺の馬は足こそ強えが、鞍なんぞつけちゃいねえぞ。俺も裸馬にゃあ流石に乗れん」
「村中探せば多分ひとつくらい……!」
エドワルドが希望を口にする。しかし、そんなあるかどうかわからないものを探すために村中を探すような時間があるのか。日没は、すぐそこまで迫っている。未だ、捜索隊の大人たちからエリィを見つけたという報告はなかった。
もう打つ手はないのか……とその場の空気がだんだん冷えていく中。
「俺が乗って森を探してきます」
口を開いたのは、一番馬と縁のなさそうに見えた勇人だった。
「……乗ったこと、ありますから」
* * * * *
「コミンズさん、この子の名前はなんて言うんです?」
「グラニだ」
「そっか、グラニ号、よろしく頼むぞ」
「いや、グラニだっつの」
コミンズ翁のぼやきを無視して、ゆっくりとグラニに近づき、穏やかな声で挨拶をした。勇人の知る馬は基本的に臆病である。またプライドもあり、挨拶もしない見知らぬ人間を乗せてくれはしない。ゆっくりと手を差し出し、匂いを確めさせる。
「ユート、馬に慣れてますね」
「ですね」
アスクとコミンズ翁、そしてエドワルドが勇人とグラニを少し離れた場所から見つめている。勇人がリダ村に来てというもの、キャラバンの連れた馬はもちろん村の農耕馬とすら触れ合っているところを見たことがなかったからだ。
一方勇人はというと、グラニとの挨拶を済ませたようで、3人の方を振り返った。
「じゃ、行ってきます」
左手で手綱とタテガミをつかみ、右手を背骨の向こう側に掛け、跳びあがる。そのまますぐに馬の背に引っ掛けた肘を使ってよじ登った。跨り、腰を落ち着ける。先ほどの挨拶で勇人に慣れてくれたのか、それなりにスムーズに乗ることができた。エリィのために力を貸して欲しい、とお願いしたのが伝わったのだろう。
「この子、賢い良い馬ですね」
「そうだ。だからケガとかさせたら承知しねえぞ!」
「わかりました。では」
「エリィを頼んだ、ユート!」
エドワルドの必死の懇願に小さく頷いてから、グラニにゴーの合図をして、勇人たちは駆け出した。それを見送るまもなく、村に残った3人の男たちはそれぞれに動き出したのだった。
* * * * *
懐かしいな。
グラニを走らせながら、馬上で勇人は郷愁の念に駆られていた。こうやって馬に乗るのも久しぶりである。
実家は地元でも有数の大農園だった。勇人が生まれてまもなく、有機農法に手を出すだかなんだか言って、父が馬を買ったのだ。どういう仕組みで有機農法に馬が役立つかは幼かった勇人にはわからなかったが、それからというもの都合の良い遊び相手となったことには違いない。自由に乗れるようになってからは、学校から帰ると馬に跨り、家の仕事を手伝いもせずシラカバ林なんかを駆け回っては怒られた。
農家になるなんてまっぴらごめんと実家を飛び出してから12年、大学生の頃は年に数回帰っては馬と遊んでいたが……今頃あいつはどうしているだろうか。立派な体躯のグラニとは違って、ずんぐりむっくりした道産子の愛馬。
勇人がぼんやりしているのがわかったのだろう、グラニが少しスピードを落とした。馬体をしっかり挟み込んでいる足に少し不満気な感覚が伝わってくる。
「って、んだこと考えてる場合でねーな。わりぃかった。うし、グラニ号、エリィんとこまで急ぐべ!」
* * * * *
勇人とグラニの道程は、今のところ順調だった。まもなく村と森を続く道の半分に差し掛かろうというところだ。このままうまく進むことができれば、ミュルクの森まではおそらくあと15分も掛からずに着くだろう。といったところで、道の先に、農耕馬に跨った捜索隊の村人を見つけた。手綱を数回引いてスピードを落とす。
「エリィはいましたか!?」
「!……ユートか!お前馬なんて……いや、エリィはまだ見つかってねえ。まだ森の方にいるんだろう」
「わかりました。俺は森までまっすぐ行きます!」
「わかった!じゃあこっちは周りも見ながら進む!」
「お願いします!」
言葉を発すると同時に、重心を少し前に倒す。その意味を適切に読み取ったグラニは、馬上の勇人と共に滑らかに加速した。
もう間もなく、夜がやってくる。