番外編 2015正月
あけましておめでとうございます。正月番外編です。
朝とは言えど未だ薄暗く、吐く息は仄白い。学生時代から愛用しているコートのポケットに手を突っ込み早足で歩く。真冬に適した上着はこの一着しか持っていないのだ。
新年の早朝は普段よりも道を行く人が少しばかり多かった。初日の出に初詣に初売りにと、『初』の目白押しで世の人々もスケジュールが詰まっているのだろう。駅へ向かう人のゆるい流れに逆行しながら、新しい年への期待からかただ単に寒いからか、淡く上気した頬をすれ違い様にいくつも見た。
少し駅から離れたところにある、人がまばらな商店街の角を曲がれば、そこはしんとした住宅地の小径だ。もう随分と明るくなりつつあった。少し足を止めて、だいぶ明らんできた東の空を薄目で見る。丁度、朝日がほんの少しだけ頭を覗かせたところだった。ここ数年、初日の出といえばいつもこんな感じで、情緒もくそもなくやって来る。ゆっくりとその全貌を露にしていく太陽は、徹夜明けの体には痛いほど眩しい。なんとなく手を合わせて会釈程度に頭を下げた。今年もよろしく照らしてくれよ、ただし早朝にはほどほどに。
欠伸が出た。帰路を少しだけ急ぐことにする。
「ただいま、っと」
4畳半プラス台所半畳、風呂なし、最寄り駅まで徒歩10分、築35年、家賃2万3千円。洗濯物の乾かない北向き。昭和からやってきたようなボロのアパートだが、それでも自分の城であることに変わりはない。
鍵の束をドアに貼り付いたフックに引っ掛け、その辺に転がっているハンガーを拾ってコートを鴨居に吊り下げた。狭いからと極力家具を置かないようにしている部屋には、コートハンガーなどというものはもちろんない。面倒くさいが服も着替える。脱ぎっぱなしで布団に散乱するジャージは高校のものだ。ズボンの裾からは踝が見え隠れするし、ウエストはゴムが伸びてきたのかそれとも痩せたのか少し緩いが、部屋着兼寝間着としては十分にその役目を果たしている。脱いだ仕事着はくるくると丸めてベランダの洗濯機に放り込んだ。祖母のお古を譲って貰ったもので、現役の二槽式である。
「しかし寒い部屋だづ……」
もちろんエアコンなどない。これまた祖母から貰った半纏を着込み、電気ポットで水道水を沸かす。インスタントコーヒーをマグカップにさらさらと入れて待機。その間に、電気コンロのスイッチを押す。勘違いを生まないように書き添えておくが、IHクッキングヒーターなどというものが床がフローリングであることが大きな奇跡のようなこの部屋に存在するわけはない。電熱線で暖めるタイプの非常に熱効率の悪そうなコンロだ。まあこれはこれで缶詰を直接暖めたりするときには便利だが、その情報は蛇足に違いない。上に乗った両手鍋の中身は、大根と人参、申し訳程度の鶏肉の切れ端を突っ込んでめんつゆのみで味つけした汁だ。そこに特売で買った切り餅をふたつ放り込んでおく。いやみっつにしておこう。簡単雑煮とでも呼べそうなこの適当な汁物は、実家ではつゆもちと言って毎年正月に食べたものだ。おそらく母はもう少し手間を掛けて作っていたのだろうが。
そうこうしているうちにポットからはぼこぼこと沸き上がる音が聞こえてくる。去年、いや一昨年の誕生日に貰った電気ポットはこの部屋において唯一の最新式家電だ。すぐにコーヒーやカップ麺が作れるようになったので、非常に重宝している。
「あー、あったけ」
ここ最近、ひとり言が増えた気がする。
マグカップを両手で抱えたまま、狭い部屋を横断して昨年から敷いたままの布団へと腰を下ろす。もうひと口コーヒーを啜ってカップを床に置き、ごちゃごちゃと物の乗ったローテーブルに手を伸ばしてタバコの箱とライターを探り出す。残り本数が少し心許ないのが気になるが、まあひとまずどうでもいいかとくわえて火をつけた。煙初め、などとくだらないことを思いながら同じくローテーブルに乗ったパソコンを立ち上げると、いくつかのアイコンがポップした。メールやSNSで新年の挨拶が来ていたらしい。ふと携帯電話も確認しようとしたが、とうに充電が切れていた。最近バッテリの保ちが異常に悪い。買い替え時かもしれない。
まだまだ台所の汁は暖まらない。時間つぶしに作業でもすることに決めて、 アプリケーションを立ち上げた。昨年最後にスタジオで録音した音源のミキシングだ。まだ何も手を付けていない。ヘッドホンをつけ、並んだ波形とにらめっこしながら少しずつ作業していく。少し再生しては止め、ノイズを取り、また再生し、止め、手を入れ、再生し、の繰り返し。徹夜明けの頭がだんだんぼうっとしてくる。瞼が落ちそうになってハッと気づく、頭がぐらつきかけてビクッとなる、そんなことを何度か経験して、これはそろそろまずいと感じる。
さっさとつゆもち、暖まらないかなあ……。
* * * * *
「……ろって!おーい!」
後頭部で軽い音と衝撃。
「……いたい……」
「やっとお目覚めかこのおバカ」
「んー……?」
「コンロに鍋かけっぱなしで寝るんじゃありません!」
後ろから聞き覚えのある声がした。どうやら作業をしながら寝てしまったらしい。先ほどの衝撃でテーブルに額をぶつけた。
「ごめんカーチャン……」
「誰がカーチャンだボケ」
もう一度後頭部を引っ叩かれた。また額をテーブルにぶつけた。さっきより強く叩かれて、ゴン、と鈍い音がした。
「うん、ごめんアキラ。おはよ」
「はい、おはよう。火、止めといたから」
「ありがと」
少しだけ痛む額をさすりながらゆっくりと顔を上げる。予想していた通りのメガネがそこにいた。なかなか整った顔だと各所で評判だが、こう毎日見ていると全くそんな風には思えない。ただの口うるさくておせっかい焼きのメガネである。まあ、今回はそれであわや鍋の空焚きというピンチから助けられたので口にはしない。
「あ、ユートさん起きたっすか?」
「あけおめ」
玄関から続く台所のほうから、ひょこひょこと見知った顔が飛び出してきた。彼らとは一昨日のスタジオぶりだ。
「……あけましておめでとう。ミヤ、ミズキ。あ、あとアキラも」
「付け足すように言うんじゃねえ。……あけましておめでとう、勇人」
「あけましておめでとうございますっす!」
「ことよろ」
「今年もよろしくー。……でもなんでみんなしていんの?」
はて、と首を捻る。アキラだけならばまあ新年早々いつものおせっかいを焼きに来たかと思わないでもないが、フルメンバーである。
「……お前が言い出したんだろうが。元旦に初詣行こうって」
「あー、そいえばそんなこと言ったかも」
「コノヤロウ……!」
「それからユートさんなんも言わないんで気を揉んだアキラさんが……」
「アキラが?」
「早い時間の方がいいだろうから8時に新宿待ち合わせって昨日決めたんすけど。ライン見てないっすか?」
ぷいっと横を向いてしまったアキラの代わりにミヤが事の次第を説明してくれた。そういうことか。これはどう考えても勇人が悪い事案だ。素直に頭を下げる。
「ごめん、昨日バイト中に充電切れちゃって……」
「そんなとこだろうと思ってたよ。充電しろよ。ていうかいい加減買い替えろ」
「で、15分になっても来る気配も連絡もないんで、来ちゃったってわけっす」
「なるほど。悪かった」
「ま、お前んち電車1本だからいいけど」
「いやあほんと便利なとこに住んでますよねえ」
「ボロいけどな」
「いいからさっさと出かける支度しなさい」
「はーいカーチャン」
「だから誰がカーチャンだ」
立ち上がり、すっかり冷めてしまったコーヒーのマグカップをテーブルの上へ押し上げる。着替えようとして、ふとそういえば部屋の中に一応女性がいたことを思い出す。
「……あれ、ミズキは?」
「ええと、さっきその辺に……」
ミヤが台所の方を振り返る。見ると、確かに長い黒髪が若干見え隠れしている。なんでそんなところにいつまでもいるのだろうか。玄関からすぐの台所は寒いはずだ。
「ミズキー、着替えるけど……ってお前!なにやってだポンチデコ!」
「モチが溶けている」
「そだこと聞いてんでねえ!」
「……空腹だった」
餅を咀嚼していたのだろう、少しの間があってからミズキが返事を寄越した。全く悪びれていない顔つきだ。その証拠にいまも溶けた餅らしき物体を啜っている。
「あらお腹空いてたのねえ……なら仕方ねえわけがあっかま!」
「ああああ、ユートさん落ち着いて……」
「これが落ち着いていられるか!」
「こっちはつゆもちを食われてるんだ!」
「アキラさん何嬉々として……!」
「悪かった。鍋とお椀洗っとく」
またつゆもちを飲み下してからミズキが言った。食欲は罪悪感を大きく上回るらしい。というか鍋ごと空にしたのかこの女は。新年から侮れない食欲と胃袋を見せつけてくれる。
「くっそお、俺のつゆもち……!」
「マモレナカッタ……」
「スーパーの年末特売で買った最後の食料だったのに……」
「ノゾミガタタレター」
「うっつぁし!」
「痛え!」
「アキラさーん!」
妙に鬱陶しい合いの手を入れてくるアキラを小突き、もうそれでつゆもちの禍根は手打ちにすることにした。つゆもち、君のことは忘れないよ。
「……着替える」
「わたしのことは気にせず。どうぞ」
洗い物をしながらこちらも見ずにミズキが言う。つゆもちの仇め。本人が気にするなと言うなら、ということでジャージを脱いでさっさと着替えてしまうことにした。洗った後その辺に放り出してあるジーンズを履き、ベランダに手を伸ばして干しっぱなしのTシャツを着る。冷たいが、幸い乾いていた。
「お前半裸でベランダ出んなよな」
「どうせ誰も気にしちゃいねーよ」
「お前には若者らしい羞恥心が欠如している。と忠告する。盗撮されて晒されても知らんぞ」
「そんな暇人いるか」
アキラとくだらないおしゃべりをしながら手を動かして、一応外に出られる服装になった。最後に鴨居に引っ掛けてあるコートを着て、念のためマフラーを巻き、出かける準備を整える。ミズキの方も洗った鍋とお椀を拭き、片付けたようだ。
「よし、行くべ」
「うむ」
「はいっす!」
「あーあーもう10時近いじゃねーか」
腕時計を見ながらアキラが呆れたような声で呟いた。玄関口のミズキから順にぞろぞろと部屋を後にする。鍵もちゃんと確かめた。
「初詣終わったら飯だな」
「いいっすねー!」
「食べ放題」
「元旦の真っ昼間から食べ放題やってんのかよ。ってかお前さっき餅食ったら?」
「全然食べられる」
「おそろしい子!」
「アキラさん楽しそうっすねー」
すっかり日の昇った住宅街を四人連れ立ってぶらぶら歩く。この辺りでは普段見かけないような子どもがはしゃぎながら走ったりしている様子は、正月ならではのものだろう。きっと、みんな幸せな新年を迎えているのだ。
「俺ぁなんでもいいよ、酒さえ飲めりゃー」
「出た!ゴミみたいな酒飲みの台詞!」
「ゴミみたいなとはなんだ坊ちゃんよ」
「まあ酒飲んでるときのお前は間違いなくゴミクズだがな」
「ダメな大人の典型」
「ひどくない?ねえひどくない?」
「残念だが当然だな」
うんうんと腕を組んだアキラがしたり顔で頷いている。
「ぐぬぬぬ……くっそ、こうなったら居酒屋に決定です!もう怒りました!」
「おこ?」
「おこです!」
「激おこっすか?」
「ぷんぷん丸です!アキラお母さんのおごりです!決定事項です!」
別に大して怒ってはいないが、わざとらしく眉間に皺を寄せてアキラに指を突きつけてやる。
「はあ!?お前何言って」
「わーい!やったー!」
「ごちそうさま」
「お前らまで!」
少し慌てた表情のアキラを見て、つい吹き出しそうになる。眉間の皺も固定しておくのが難しくなり、結局やめてもういいやと感情の欲求のまま笑った。3人がこちらを見て、伝染ったのかそれぞれ笑い出す。
「ま、正月くらいいっか。昼酒しても」
「飲む」
「飲みましょ!」
そうしてまた四人でくだらない会話をしながら歩き出す。飲み代の半分は出そう、なんて考えながら。
来年も、再来年も、またその次の年も、その次も、こうやってばかみたいに笑いながら過ごせるよう願う、賽銭代わりの対価としてなら安いものだろうから。
およみいただきありがとうございます。
正月といってるのに初詣も行かなければ晴れ着も着ない番外編……
よろしければ一緒に投稿したクリスマス編もご覧ください。
今年もよろしくお願いいたします。
2019/06/28 改稿




