63話/その頃のリダ村(仮)-6
2015/12/3 誤字修正
「『勇者様』……!?」
「ええ。もし彼の御方が敗れたなら、わたしたちの命運は尽きたということでしょう。」
ライジアナの憧れてやまない、勇者様。その人が今現場で対処しているという。ライジアナは、この世に生きる人間のうち最も強い力が勇者様であると疑わなかった。その勇者様がもしも斃れるようなことがあったとしたら……夫人の言う通り、それならばきっと、アイドラから離れたここイツノミヤにいたとしても変わらない。早いか遅いか、それだけだ。
「ですから、落ち着いてくださいね。」
「……はい。申し訳ありませんでした。」
勇者様がいる、そのことで、ライジアナは冷静さを取り戻しつつあった。自分ながら恐ろしく早い切り替えだ。ライジアナは大きく息を吸い込み、深呼吸をした。
「連絡が来ました。北部限界付近に出現した魔物は大が1、小が5。うち小3は撃滅済み。念のため光魔法の使える3名は馬で急ぎ現地へ向かい勇者様の援護を。指揮はマルタに任せます。ニルスとエマは馬車にて住民の避難誘導と物資の補給を。残りは教会にて連絡を待ち、ここを守りなさい。護衛は冒険者ギルドへ要請済みです。」
そのとき、ちょうど執務室に籠っていた神父が顔を見せた。どうやら本部より連絡があったらしい。
「あの、神父様。わたしにも現地へ向かわせてください!」
「しかし……。」
「現地の地形案内でしたら、きっとお役に立ちます!」
渋る神父に対して、ライジアナはすかさず頭を下げる。すると、数瞬の逡巡を見せた後、神父は口を開いた。
「そうですね……貴女がいた方が現地での誘導もスムーズかもしれません。」
「じゃあ……!」
「ライジアナさん、……補給馬車へ。」
「はい!」
* * * * *
馬車に揺られ、どのくらいの時間がたっただろうか。
アイドラ村からイツノミヤまで、歩いてきた時間に比べればずっと短いはずだ。しかし、ライジアナには、途方もなく長い時間だったように感じられた。御者台に座ったニルス助祭が馬に鞭を入れ、できる限りの速力で進む馬車は、お世辞にも乗り心地が良いとは言えなかった。
「きっと、大丈夫よ。」
「ええ。」
「勇者様のこと、あなたも信じているでしょう?」
「ええ、もちろんです。」
「でしょう?だから、きっと大丈夫。あなたのご家族も、ご無事でいらっしゃるわ。」
「ええ…………。」
先ほどの威勢はどこへやら。馬車に揺られているうちに、事態の重さをやっと適切に受け止めたライジアナは、ずっと無言だった。それを見かねたエマが、励ましの言葉を掛けてくれるが、それすらもほとんど耳に入らない。彼女の言葉に、当たり障りなく返事をするのが精一杯だった。
もしも、勇者様の目を盗んで魔物が村へ向かっていたら。もしも、魔物がもっとたくさんいたら。ライジアナの脳裏には最悪の事態がいくつも浮かんでは消えていった。そもそも、勇者様の逸話こそ聞かされているが、一体、本当に伝説通りの人物なのだろうか。今までは天上の人、いや、存在すら夢物語のように思っていた相手だ。
「わたしたち、勇者様にお会いできるのでしょうか……。」
「!……きっと、できるわ。必ず勇者様のお姿を拝見しましょうね!」
それまでからくり人形のように同じ言葉を繰り返すばかりだったライジアナが発したその一言で、エマは安心したらしかった。
勇者様。……その希望は、確かにライジアナの胸にわずかな明かりを灯した。
* * * * *
「10年ぶりの魔物だっていうから少し期待していたんだけどね。」
「そんなこと言ってはダメよ?……無事なことに感謝しないと、ね?」
「ふふ、君にはいつも怒られてばかりだ。」
「あらあら。」
東の空にはもう朝日が顔を出し始めていた。そのわずかな光を背に、言葉を交わす。ひとりは背の高いスラリとしたシルエット。それより頭ひとつほど背の低いもうひとりは、肩ほどまでのウェーブがかかった髪を風になびかせていた。
不意にその背後から、怒号に近い、まるで人の言葉とは思えぬ声が響いた。突如、2人に注いでいた朝日が遮られる。
「……生き残りか。」
「ええ、そのようね。最後のひと仕事をしましょうか?」
「そうだな。」
細身の剣を肩に担ぎ上げ、背の高い方が跳躍した。背後に迫っていた魔物は、大きな爪でその影を切り裂こうとしている。しかし……振り上げられたその腕が降ろされる前に、人間の3倍はあろうかというその図体は体ごと崩れ落ちた。
「やっぱり……歯応えがないよ。」
「欲しがりさんね。」
「いけないことかい?」
左手で目にかかった髪をかき上げながら、背の高い方が言った。サラサラと流れるその黒っぽい髪は、日差しに透かされて茶色に輝いた。
「いいえ。」
相対する髪の長い方は微笑む。朝の風に揺らぐ毛先は深みのある緑色で、光の加減によっては淡いブルーにも見える。
「……なら、帰ろうか。」
「ええ、そうね。」
背の高い方が腰の鞘に剣を収めながら言って踵を返した。その後ろに髪の長い方が続く。
「そういえば、僕たちは今日はどこに帰るんだっけ?」
「あなた、知らずに歩いているの?」
髪の長い方が、堪えきれないといった風に噛み殺された笑いを漏らした。
「……いいんだよ、きみが知っているんだから。」
「ふふふ、そうね。今日は……アイドラ村、方角はあちらよ。」
ふてくされたように答える背の高い方に向かって、髪の長い方がついに堪えきれなくなった笑いを漏らしながら言い、指を差す。その向きは、背の高い方が向かおうとした方向とは全くの逆であった。
* * * * *
「お父さん、お母さん!師匠!ご無事でしたか!?」
「どうしたんだライジアナ!帰りは今日の夕方だったろうに!」
およそひと晩馬車に揺られ、故郷であるアイドラ村に辿り着いたのは夜も明けた、薄暗いが朝方といって間違いない頃だった。朝日は既にその貌を覗かせている。朝の早い農村の民たちならば、とっくに床から離れて顔を洗った時間だ。
ライジアナの両親や村の老神父もその例に漏れず、既に仕事を始めていた。彼らは皆、予定より随分早く戻って来たライジアナを、そして共にやって来た白装束のふたりを見て驚きを露わにしている。
ライジアナはそんな彼らに状況を手早く説明した。魔物が出た、という事件は通信機を持たないアイドラの面々に衝撃を与えるのに充分だった。にわかに慌て始めた彼らを落ち着かせるために声を張り上げたのは、他でもないライジアナだった。
「みんな!落ち着いて!大丈夫だから!」
「何が大丈夫なもんか!」
「魔物だぞ!俺たちなんかきっと食われちまう!」
「大丈夫!……勇者様が、戦ってくださっているから!だから……!」
しかし、不測の事態に我を失いつつある村民たちには、ライジアナだけでなく、エマやニルスの声も届かない。このままでは避難誘導や補給支援どころではない。
「みんな、わたしの話を聞いて……!」
なんとか話を聞いてもらおうと今一度ライジアナが口を開いた、そのとき。
「おや、随分可憐なお嬢さんだね。どうかな、レディ。これから僕とお茶でも?」
「……へ?」
誰もいなかったはずの真後ろから急に声を掛けられた。急いで振り返ると、そこには、スラリとした長身の、見覚えのない人物が佇んでいる。ライジアナは、黒い髪というものをこのとき初めて目にした。しかし、光が当たると黒いはずのそれは茶色に色づいて見える。不思議な色だと思った。
「えっと……?」
「ダメよ。女の子を困らせちゃ。」
唐突に現れたその人にライジアナが戸惑っていると、その後ろから声がかけられた。姿は見えないが、艶のある女性の声だ。
「妬いてくれるの?」
その声に応えながらも、黒髪の人は、ライジアナを見つめたままでいたずらっぽく微笑んでみせた。その瞳は髪色とよく似た、黒っぽく、少しだけ茶の混じった珍しい色だ。
その人の後ろから、ややウェーブがかった緑色の髪を揺らして、女性が現れる。
「おふざけもいい加減になさいね、イサナ。」
「そんな言い方は心外だな。」
ライジアナの前で戯れのように言い合いを始めたふたりから目線を逸らし、隣にいるエマへ目配せをする。彼女ならば、この正体不明なふたりを見知っているのではないかと考えたためだ。しかし、その結果は芳しくなく、エマは首を横に振るばかりだった。
「あ、あの……あなた方は一体……?」
「ああ、自己紹介がまだだったね……僕はイサナ。イサナ・テンノージ。こっちがリディー。」
「イ、イサナ様!?」
隣のエマがいきなり素っ頓狂な声を上げる。どうしたことかと彼女の顔を覗き込むと、その小さな口はぱくぱくと驚きを露わにしていた。
「勇者様……。」
「ええ!?」
* * * * *
これが、ライジアナの、2度目の『人生を変える出会い』だということは間違いがない。ライジアナは、未だに夢に見る。
このときの、朝日を受けて煌めく黒髪。小ざっぱりとしていながらバランスの取れた端正な顔立ち。切れ長の目じり、その内側の黒曜石のようでいて茶味がかった瞳。
もしもこのとき出会わなければ。
お読みいただきありがとうございます。




