57話/その夕刻
だいぶ間が空いてしまいました。
先生に大きな問題があるように思えた桜文塾ではあったが、半信半疑ながら午後に訪ねると、思いの外一般的な塾の様相を呈していた。
朝には追い返された扉をくぐると、そこはぶち抜きのワンルームとなっており、思いの外広いスペースが用意されていた。元の間取りの壁を取り去っているようだ。部屋には、脚が短い長机がいくつか用意されている。それぞれ規格が違うようで、サイズはだいたいそろっているが、よく見ればまちまちだ。天板や脚の傷もひどい。おそらく、それぞれ中古で別々に買い求めたのだろう。
椅子はない。床に直接座る、書道教室のようなスタイルらしい。
午前は寝かせろ、という講師サクラの言葉通りこの塾は午後から始まる。昼食を済ませてやってきた教室には、少年少女から中年、そして老人といえるような年齢まで、10人ほどの生徒らしき人たちが集っていた。長机の前に並んで座る彼らの端に座る。
すると、教室の主宰であり講師のサクラさんが姿を表した。
もちろん化粧はしていない。夜の店で見た姿とは全くの別人である。男性にしては少し伸びた長髪を首の後ろでくくり、さっぱりとした装いだった。
昨晩、そして朝に顔を合わせた人物とは全く結び付かない。
かくして始まった授業はというと。
習熟度の違う生徒たちそれぞれに合わせて課題を出し、個別にその採点や質問を受け付けるスタイルを主として、更にサクラさんが生徒たちの進捗状況を定期的に見てアドバイスを与えている。小学生の頃通っていた、「いっくもん」のCMソングでお馴染みの学習塾を思わせる。またひとり、生徒が手を挙げた。趣味で古典の詩を読んでいるご隠居さんのようだ。
そして勇人はというと、初回生が決まって行うという習熟度判定テストを解いている真っ最中だった。
(……わっかんね)
問題の写された茶色っぽい紙を前にして約15分。はじめのほうの数問のみを解いて早々に音を上げた勇人は、他の生徒たちに習って手を挙げた。それを見たサクラ先生がこちらへ音も立てず、しかし速やかに向かってくる。その動きならば、センター試験の試験管でも務まるだろう。
彼(今の見た目ではこちらの方が適切だ)は答案を回収し、教室前方に設置された教卓のような大きめの机で採点をしている。答えを数問しか書き込んでいないテスト用紙の採点はあっという間に終了し、すぐに返却された。惨憺たる赤点の様相を呈した答案である。サクラさんは一緒に課題の用紙を持ってきてくれた。これに取り組むように、ということだろう。ざっと眺めると、なんとなくわかる単語がいくつかある。更に、注釈がつけられて単語の意味を説明する文が、元の世界で言うところのローマ字のような音だけの表記で記されていた。おそらくだが、話せても読み書きはできないという場合の多いこの世界においては、この方法がメジャーなのだろう。
勇人も幸いにしてこちらの言葉を話すことができ、リダ村で子どもたちと一緒に少しだけ文字を習った成果によって音でならば文字を読める。
注釈を追い、文の意味を追う。大学生時代には同じような要領で苦手ながらも外国語の文献を読んでいたためか比較的馴染みやすい課題だった。不安要素だった文法も、最初のうちこそサクラさんを呼んでいちいち尋ねていたが、少し読み進めるうちにどうもドイツ語に近いようだと思い当たる。第二外国語の講義で苦しめられた憶えのあるその言語体系に照らし合わせ、単語の意味は注釈を頼りにしてしばらく読み進めると、だんだんと課題文の内容が理解できてきた。
「これって……」
「あら、気づいた?」
ピッタリの課題でしょ、とでも言いたげにサクラさんが目配せを寄越す。確かに勇人も知っている物語で、取っ付きやすい適切な内容だと思える。
勇人に渡された課題文、それは、昨晩披露した餃子の勇者を主役に据えたおとぎ話であった。
* * * * *
「とまあ、こんな顛末でサクラさんとこに通うことになったんすよ」
「ほお、それで……」
桜文塾の授業時間は、主宰であるサクラさんの都合によるものか、真上に来た太陽が少し傾き始めた頃から始まり、空が赤らみ始める少し前に終わるという。その間、生徒の出入りは自由だ。今日に限って見れば、自分で定めた分量の課題だけこなしてさっさと帰る青年もいれば、ゆっくりと文章を味わいながら満足いくまで読み解くお年寄りもいて、仲良しグループで午後の間ずっとひとつの課題に取り組んでいる子供たちもいた。どうやらかなり自由な塾風らしい。
「仲睦まじく同伴出勤ってわけだ」
「どうしてそうなった!」
「やだ、照れなくてもいいじゃないの」
とまあ、昨晩に続いて餃子ストリートへ顔を出した勇人はそんなことを当面の雇い主であるウィリホに世間話よろしくぼちぼちと報告していた。開店準備をしながら聞いていた彼の反応は勇人にとって穏やかではない。この平和的かつ当たり障りのない1日の出来事を話したはずなのに、なぜそんな色々と差し障りのありそうな単語が飛び出すのか。おそらく作業をしながら聞いていたせいで勘違いしたに違いない、ということにしておこう。
「サクラさんも悪ノリしないで!」
「あらあら恥ずかしがり屋さんね」
「やめて!まじで!」
確かに勇人とサクラさんは連れ立ってウィリホの屋台へやって来ていた。しかしそれは、今日もこの店でパフォーマンスをする予定の勇人と、サクラさんの出勤時刻がちょうど同じくらいだったから、つまりたまたまに他ならない。サクラさんの夜の職場はこの繁華街の至近、言ってしまえばちょうど裏道にある。
塾の生徒たちが帰り支度を始める頃のことである。課題の物語が佳境に差し掛かり、いいところではあるがそろそろ自分もお暇しようかと思っていたタイミングでそのことをサクラさんから聞かされた勇人は、どうせ向かう方向が同じなら、ギリギリまで課題に取り組んだ後に道中で解説を聞きながら行った方が効率的だろうと、与えられた問題の続きを解きながら彼が彼女へ変身するのを待っていたのだ。サクラさんもウィリホの作る餃子を久しぶりに食べたいとのことだったので、お互い丁度良かったと言える。
ちなみに、出勤前のサクラさんは、客からの要望に応えるためウィリホが少量仕込むことにしているというニンニク抜きの野菜餃子を注文したようだ。
勇人としてはやはり餃子にはニンニクは欠かせない要素だが、確かに元の世界でもニンニク抜きのものは女性を中心に人気があった。この世界でも同じような感じなのだろう。ニンニク抜きは一定の注文が見込めるらしい。
「さあて、今日もそろそろ始めるぞ」
夕餉時に差し掛かり、人通りが増え始めた餃子ストリート。宣言と共に、ウィリホが立て看板を通りに面するように設置する。これが開店の合図だ。昨日勇人のパフォーマンスにより客が集まり、味の良さと勇者直伝レシピの正統性が知られ始めたとはいえ、もちろんそれだけでは客は寄ってこない。昨日に引き続いて大きな売り上げを求めるためには呼び込みが必要だ。店の宣伝の為に給金をもらう契約の勇人にとってはここからが仕事始めである。
眼前を通り過ぎようとしている家族連れに向けて、勇人はアルバイト時代に鍛えた呼び込みの声を張り上げた。
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