プロローグ/Run from the Y
2025/06/23更新
あなたは、勇者伝説というものを読んだことがあるだろうか。星の数ほど、とまではいかないが、いちいち数えるのが億劫なほどには世界の各地で生み出されているだろう。もしかしたらこの瞬間にも。
それは多くの少年たちが、ベッドの娯楽として親しんできた。どこかから現れ、信頼できる仲間と旅をして困難を乗り越え、最後には世界を救う勇者が、多くの子供たちが描いた通りの英雄であることは揺るぎない。少女たちが白馬の王子様と結ばれたいと夢見るように、少年たちは信じる、いつか世界を救う結末を。
朝にはきっと自らが勇者に選ばれているに違いない、と期待に胸を膨らませて床に就くのだ。
やがて子供たちは大人になり、この世界には勇者の入る余地はないと気づき始める。例えば、魔王率いる魔連邦との関係はすこぶる良好であったし、竜たちも極めて理知的で強い経済基盤を持ち、諍いなど起きそうにもなかった。辺境から出稼ぎに来ている獣人族も、話してみれば気の良い連中だとすぐにわかる。
吟遊詩人たちが弦楽に乗せて歌う、酒場での娯楽に形を変えた勇者の物語を聞きながら、かつての子供たちは酔い心地に思う。「勇者などよりも、代えがたきは平和だ。所詮、勇者なんて子供のための夢見物語だった」と。そして自身の成長に少し辟易として、注ぐ酒を明日への活力にするのだ。
それは、語り手たる詩人たちにとっても変わらない。流行り廃りのない、安定して人気を得られる謡曲として、守り神のように勇者は伝え歌われる。
しかし、それは決して単なるおとぎ話ではなかった。
それを知るものは、とうにいなくなっていた。あるいは、年かさの詩人たちは知っていただろうか。
最後の勇者が滅亡の運命を退けてから、千歳とも思える時が経とうとしていた。
* * * * *
【2014年1月東京】
めったに雪の降らない都会と言えど、1月の夜ともなると冷える。日が落ちて3時間ほどが経った現在、駅から少し離れているためか、帰宅を急ぐ勤め人たちや学生たちもそろそろまばらになってきた。
足元に開けておいたギターケースの中に無造作に散らばった貨幣を拾い集めて数え、祖母が古着で作ってくれた巾着袋に流し入れて行く。百円玉と十円玉、一円と五円玉の群れの中に、淡い金色に輝く五百円玉を見つけたときの感動は、初めておひねりをもらったときから変わることがない。
「新しい五百円玉って、ちっと金貨っぽくていいよなぁ」
青春の全てとプラスアルファを注ぎ込んだバンドが解散してほぼ半年。後生大事にしようと思ってくっつけてきた「バンドマン」という肩書きは、一夜にして霞のごとく消え去った。元メンバーたちはどうやらそれぞれに新たな進路を見つけて頑張っているらしい。
共にバンドを作った10年来の友人も、地元で家業を継いだという。彼が吐き捨てるように言った「俺らもう30だぞ」という言葉が耳にも胸にも痛い。不二勇人の記念すべき30歳の誕生日は来週に迫っていた。
ジャラジャラとうるさい小銭の中にカサついた千円札を見つけた。紙幣は良い。たくさんあっても重くないし、巾着袋で持ち運んでもうるさくない。なによりレートが高い。
バンドがなくなってからここ数ヶ月の間、一人でストリートに立っている。30歳を一つの区切りにするつもりだったが、リミットギリギリの今になって急におひねりの入りが良くなってきた。顔を覚えられてきたということだろうか。それとも、今月書いた新曲のウケがよかったか。
「まさか哀れみ……?」
身なりは最低限小ぎれいにしているつもりではあった。
なんにせよ、これでなんとか今晩は酒が飲める。もちろんバイト代だってそれなりに持ってはいるが、酒とタバコは音楽で、というのがマイルールであり、小さな矜持だった。
それに、今日は特別だった。
――ユート、生きてる?時間あったら、今晩、アフターアワーズ。
解散以来音沙汰がなかったミズキからメールが届いていた。変わらぬ様子を感じさせるそっけない文面に、アルバイトの休憩中こっそり笑った。
アフターアワーズは、勇人がミズキに初めて会ったジャズバーだ。
「おにーさぁん」
ミズキが出歩きそうな時間帯にはまだ少し早い。一度家に帰ってギターを置き、シャワーを浴びてこようかなどと考えながら、手早く、しかし丁寧にギターをケースに仕舞う。そのまま抱えて立ち上がったとき、背後から気さくな声に呼び止められて振り向いた。
「はーい、なんです、か……?」
真冬にも関わらず、全身の毛穴という毛穴から一気に汗がにじんだ気がする。
なんてことはない、スーツ姿の男がそこに立っていた。焦げ茶色に染めた髪に、フレームのないタイプのメガネ、年齢や体格は勇人とほぼ変わらないくらいで、身長で言えば170センチ前後と高くはない。しかし、メガネの奥の瞳が、そこらのサラリーマンにはとても見えなかった。
「この寒い中、景気良さそうっすねぇ」
「そ、そんなこと、ナイデスヨ……?」
「やだなあ、嘘つかなくてもいーじゃないですかぁ」
口調こそ気さくだが、目が全く笑っていない。鋭利な刃物のような印象を受ける。恐ろしいほどの冷たさ。実家近くの山で、凍り付いたスズメを見つけた真冬の日を思い出した。
「でねー、おにーさーん、ボク、聞きたいことがあるんすよぉ。……どちらさんの許可でそこで歌ってるっすか?」
簡潔に。スーツの男は、予想通り、いわゆる、怖い人に違いない、と思った。
「えっと、え、と、ええっとぉ…………さっ、さよなりゃーっ!!」
ギターケースと巾着袋をしっかりと抱え、一目散に駆け出した。怖い人にカネを巻き上げられるのも、殴られるのも嫌だ。逃げ切れるかわからないが、これ以外手はない。勇人は、動転したままに鬼ごっこをスタートさせた。
(神様、仏様、……天国のじさまぁ!どうか無事逃げのびさしてくんちぇえ!)
全力疾走などここ数年した覚えのない両脚にも願う、どうか縺れてくれるなよ。加えて腕もほとんど限界だ。抱えているギターケースが重い。格好つけてハードケースになんか入れるんじゃなかった。
次の角を左に曲がれば、人通りのある道に出る。そこまで行けば、その通りにある交番に駆け込めば。きっと、大丈夫。路上演奏でおまわりさんに怒られるかもしれないけれど。
明日からちゃんと、ちゃんと日頃の行いに気をつけますから。
「じさま……!」
助かる目途が立って気が抜けたのか、そもそも足がもう限界だったのか。
最後の左カーブを曲がるべく踏ん張った靴底が、滑った。そのまま慣性に抗うこともなく車道へ転がる。
ヘッドライトがまるでサーチライトのように勇人の全身を照らし出した。少し遅れて、タイヤのゴムとアスファルトが摩擦する嫌な音が響く。少しは速度が落ちたようだが、止まる気配はない。10年以上前に教わった車の制動距離だの空走距離だの、「車はすぐには止まれない」だのといったシャレにならない言葉が脳内でチカチカと点滅した。
轢かれる。
とっさにギターを引き寄せて、指を握りこんだ。
今夜アフターアワーズに行かなかったら、ミズキは怒るだろうか。