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三十六章 届いた切っ先

 ふと、彼は人生を振り返った。

 ろくでもない人生だったと思う。何もかもを奪い去るだけ奪い去った人生だ、それが自分の所為なのか、妹の所為なのかも分らない。だが結果は彼の回りに誰もいないという結論だけだった。

 酷く遅く動く世界の中で、彼の目の前を通り過ぎる一振りの山岳を視界に納めながら、一歩二歩と踏み込む、目の前に溢れ出す見えない風の蹂躙を遮る為に、ただ剣の前に突き出し、削岩機のように貫きながら彼はその場を駆った。

 あれであるのならここから対処できる筈だと、どこかで抱いた心さえも振り切り、自分が持ちうる全てを持って彼女を貫いた。場所はどこでも良かった、ただ自分が彼女を上回るそれしか彼は考えていない。それ以外考える必要すらなかった。


 でてくる全てを飲み込み、自分が存在しうる全ての可能性を吐き出しながら、突き進んだ結果は、酷く柔らかい感触でただ自分が何かを貫いた確信を持ったままその剣を捻る。

 容易くなど再生はさせない、自分の全てが劣る筈無いと意地を張った男だ。その結果を無駄にする事など考えてもいなかった。

 病捻りそう呼ばれた王道の技であり、魔剣の技、その二つを飲み込んで作り上げた彼の剣は、彼女の腹を貫き傷を固定した。


 それがセンセイとアイシャ、二人の家族の戦いの結末である。

 その中で彼は思い返し続けた。終わったと、何故か嘆き始める軍神は心さえ折られたように相打ちすら狙わずに慙愧に耐えない声を上げている。

 ただそんな絶望的な隙を彼が見逃す筈も無い、この程度の傷容易く再生できる筈のアイシャはもはや戦う気力すら起こさない存在へと成り果てていた。自分の剣が一体なにを成し遂げたかなど彼にはわからない。


 彼はまた一人自分の弟を殺した。そんなことに彼が気付く筈も無い。

 ただひざを地面について、返してと泣き叫ぶ彼の敵の首を切り落す為に、剣を構えるだけだ。センセイはこれで自分の全てがようやく終わると思った。

 瞬き一つして剣を振り下ろす、その瞬きの間に彼はこの中に走馬灯を見る。そして振り下ろすべき剣から震えが走った、そして剣が地面に突き刺さる。


 そして彼はとうとう理解してしまう。自分の本当の意味での本性を、復讐で塗り固めたて隠れたどうしようもない彼の末路を終には理解してしまう。


 その時奇形にすら思えるほどに歪んだ彼の顔を誰が見ただろうか。

 鉄の転がる音が響き、それが酷く悲しく泣いている様にすら思えた。何が起きたのだと王道と無双はじっと彼を見る、お前の願いはそこで叶う筈だと言うのに、何故剣を落したのだと。

 いくら病捻りで腹を貫いても、転化した人間が死なないのはもはや彼が実証済みだ。実体験している男が、止めを刺さない筈が無い。これ程容易くあの軍神を殺せる機会は二度と訪れない。

 奇跡とも言うべき機会を彼は捨てた。いや捨てるしかなかった、これからを考えた男は、妹を殺した後の事を考えた彼は、捨てるしかなかった。


「嘘だろ、何で俺は、分ってたくせに今更なんで」


 呟いた言葉に全てが込められていた。

 彼の後悔は全てその言葉に存在している。だがこれはようやく始まっただけの事だ。人殺しの末路と言うの物が、彼はただ心に常に汚濁を抱えていた。それは嫉妬だったのか羨望だったのか、それとも後悔だったのか、どれも当てはまるだろうが、正解は無いだろう。

 ただその全てを一人の人間に向けてきた。そうする事で彼は自分を保っていた、。


 王道は思っていた、その男が人殺しの枷を外した時どうなるのだと、それを彼がようやく理解しただけの事だ。彼は人殺しだ、殺す事でしか人に何かを与えられないどうしようもない存在。

 彼女が生を表すのなら、彼は死を、対等とはそういうことだ。彼は軍神と存在を同じくする化け物に成り果てた。そしてその格付けにまで勝利と言う徒花を掲げた。

 この後の彼が何をするか、もし軍神を殺すのならその男は、殺すだろう、誰も彼もを、男の溜め込んだ復讐心が、ただ一人の眩く人を殺したところで収まる筈が無い。彼の復讐心が嘘偽りが無いのなら。


 軍神に対して関わった全ての存在を殺すまで止まらない。王道を殺すだろう、無双を殺すだろう、王を殺すだろう、きっと国を殺すだろう、人を殺して、生命を殺して、きっといつかは星を殺して自分を殺す。

 アイシャがそうなら、彼はこうなのだ。復讐すらも彼にとっては枷でしかなかった。その走馬灯が見せた悪夢を否定できない彼は、恐怖から剣を滑らせた。そこで彼はようやく理解してしまうだろう。


 何故アイシャに対して必要以上に怯えていたか。自分がそうである事を知っていたからだ、自分がどういうものかようやく認識した。知ってしまえば全てが結論を実証する行為に変わる。

 剣聖が自分を必要以上に殺そうとした理由も、あの異常なまでの先を見通すことの天才は、本能で理解してしまっていたのだろう。その汚濁が必ず軍神に届く事を、その溢れ出すセンセイと言う名の存在の死臭を誰よりも嗅ぎ分けてしまった。


 意識的には否定しても、本能的に嗅ぎ取っていた。だからこそ、娘を守るために最も確実な方法で、センセイを殺そうとしていたのだ。ある意味で剣聖は誰よりもセンセイを認めていたのだろう、だから必要以上に彼を消そうとした。

 何よりもアイシャを見ていた剣聖は、きっと無意識に認めてしまっていた。

 あの男は必ず軍神に届くと、その前に消すという事しか考え付かなかったのだ。

 ならばこの悲劇の始まりは一体誰になるのだろうか、アイシャか、剣聖か、それともセンセイか、誰もがきっと間違えているのだ始まりを、だから全てを間違えた。


 そしてきっと誰もが間違った結果で、一人だけ正解を引けたのが、彼だったのだろう。

 間違えると決めた、違えると叫んだ、その男は後悔を重ねながら、絶望の一線を踏み越える事が出来なかった。

 それがどれだけ彼が望まない事だったとしても、センセイは最後の一歩を踏みとどまる事が出来た。どれだけ殺したいと願っただろう、絶望に泣き叫んだ事だってあった、自信の弱さに悲鳴を上げた、後悔ばかりが背中に伸し掛かって心に亀裂が何度走っただろうか。


 間違えると彼は言った。きっと彼は誰よりも間違えたのだ。

 だから彼はその間違いを続けなくてはいけない。それはきっと彼が望めない悪夢、なぜなら彼は復讐を遂げる事が出来ない。唯一ここまで自分を保ち続けたその願いさえも、彼は諦めなくてはいけない。


 吐いた唾を飲み込むことなど誰も出来ない。それと同じだ、彼はそのまま後悔を重ねなくてはいけない。絶望を積み上げる積み木の様に、ただ指で少し押すだけで壊れる心の弱さだろう。

 こんな事があるだろうか、彼が自分の決意を続ける為には、ここでアイシャを殺してはいけない。そして願いをかなえるためには彼女を殺さなくてはいけない。だがその時、きっと彼はその決意すら裏切る事になる。

 それはつまり、自分がアイシャと同じ存在であると認める事だ。きっと呪われているのだろう、彼はようやく到達した頂に絶望する。願いを遂げるか決意を貫くか、その分量を量ったとき、彼はもう人を殺せなかった。


 膝から崩れる様に地面に突っ伏す。願いが叶うと言うのに、彼にそれをかなえる術が無い。そんな事があるのかと悲鳴を上げたくなった。

 認めたくなかったけれど、センセイはそれを認めるしかなかった。それが彼の復讐の終わり、もう嫌だと絶望に屈服する事しか出来なかった。過去の絶望も犠牲も全てが彼を押し潰そうとしている。


 復讐と言う支える柱を無くした彼の心は、既に空白に近い。

 

「こんなのが、これが、じゃあ俺は何のために、何のために」


 放たれる慟哭が誰にも届く事無く消え失せる。

 それでも彼は言葉にするしかなかった。叫ぶように彼は言う、もう嫌だ助けてくれと、誰が殺してくれと、ただ彼にはそれが出来ない。

 死に逃げる事を彼は許さない、この絶望を抱えて生きる。それがセンセイと言う男の末路なのだろう、その末路を受け入れることしか出来ない。


「俺の負けだ。殺せ無いならそれでいい」


 喘ぎ声のような嗚咽が一つ響いて消える。そして彼は立ち上がるしかなかった。

 全てを失ったようにただ風にすら煽られながら彼は歩く。きっとここにいればアイシャを彼は殺してしまう、どれだけ決意を重ねてもセンセイの復讐心には偽りは無い。

 ただ耐えているだけなのだ、心が裂けるような痛みに抗って、復讐を彼は捨てようとしていた。


 アイシャもセンセイも、どちらもが全てを失った。ただ彼は故郷に向けて歩き出す、彼にとっての唯一の場所に、いつか死ぬとしても彼は死ぬならあそこが良かった。復讐が遂げられなかった謝罪をするために、自分の八つ当たりの顛末を次げる事が、センセイにとって唯一残された生き甲斐だった。

 消えるように彼は歩き出す。そこに対比のように残されるアイシャ、まだ立ち上がることも出来ずに、消えていく兄を探して自分の前から消えて行く事に怯える様に待ってと叫んでいた。


 彼女の孤独を埋められるたった最後の一人、それがセンセイだった。だから待ってと願う、だがそれを彼が聞き届けるわけも無い、ただ消えるように歩き続ける。

 ただ座ったまま立ち上がることも出来ずに、センセイを呼び止めるアイシャは、目に涙をためながら必死に叫んでいた。


 届かない自分の声にもどかしさを感じているかもしれないが、彼女は立てない。もはや彼と彼女の格付けは終了していた。軍神は剣神に劣るという事を、立ち上がって彼に向かえば殺される事を理解していたのだろう。

 センセイは確かにアイシャを超えただろう。だが願いを果たすことは出来なかった、それならば何も変わらない。今まで通りの敗北者で裏切り者で人殺しだ。何もかもを失って、残った体も随分と痛めつけ続けた。


 何時しか頬から冷たい何かが流れていたが、彼はそれが何か分らない。これまでの人生は全て無駄だった、重ねた犠牲は無駄だった。自分はなんと罪深く汚らわしい存在だろうと、何より卑怯者なのだろうと嘆く。

 この後悔は消えないだろう。彼自身が消すつもりも無いに決まっているが、そしてそれはいつか彼を殺す剣となるだろう。これより先の彼の未来に光なんて無い、ただ自分が重ねた全てに押し潰される絶望しかまっていない。


 王都御前試合の顛末、それは剣神の敗北だ。彼が目的を成し遂げられないのであれば、センセイ自身が勝利を認めないだろう。彼はそういう男だからこそここまで来れたのだ。

 その結末に無双は歯噛みする。こんな結末があっていいのかと、だが彼を止める言葉を彼女は持たなかった。無双に出来ることなんて、必死に待ってと叫び続ける軍神を睨みつける事ぐらい。

 何故お前みたいな存在が、センセイと対等なのだと、呪う様な禍々しさを持って彼女に憎悪を向ける。だがそれを制したのは王道だった、彼女は涙さえ流しそうになりながら、それすら耐えて無双を止めた。


「王道、なんで」

「あいつの決意をお前が汚すな。何よりあいつが望んだ結末を捨ててまで、剣神は軍神を生かしたのだ。最後に会った時ですら、殺すと言い張っていた男の決意だぞ、傍観者が汚す物ではない」

「あれを、あの男の決意を台無しにしている軍神にそれすら許されないのか僕は」


 王道は首肯する。当事者同士の結末だ、彼女は何も言えない。

 だがそれをきっと彼女は生涯後悔する事になる。闘技場から消えていくセンセイの姿を見ながら、彼女はこれで言いと頷いて見せる。無双はそれを認めたくない、きっと彼が絶望で苦しむと理解しているから。

 本当の勝者が敗北者となっている事実を認めたくなど無い。


「あれじゃ、あれじゃあさ、あれじゃあ」

「あいつの過去を知らないだろう。知っている私ですら納得がいかない、そんな全てを諦めると決意した男を汚すな、次は無いぞ無双、流石に不快だ」


 王道は知っていて彼女は知らない場所。それをきっと王道は語らないだろう。

 普段ならここまでの怒りを見せる事は無い王道の姿に、自分がどれだけ無粋な事を言ったか理解するが、納得が出来るものでは無いだろう。

 だが王道すらも耐えている。認めるしかないのだ、彼の心情の全てを、そしてそうであるのなら王都御前試合の勝者は軍神であるとしか言え無いだろう。


 戦いの勝者が例え剣神であったとしても、その結末を語るのであればそうと言うしか無い。なにせその勝者が敗北を認めたのだ、そこに無粋を用意する事なんて誰も出来ない。どれだけ納得がいかなくても、それが結末だ。

 止める手立てもなく、その場所から消えつつあるセンセイを二人は見ながら、彼を哀れな存在と見ることしか出来なかった。


 きっと彼女はたちには見えなかっただろう、頬の雫はどれだけの後悔を彼が背負う事になるのか証明していただろうが、きっと誰にも伝えられなかった。だがそれでいいのだろう、自分以外に彼は後悔を背負わせる事などを良しとしない。

 その決意のままに彼は歩いていく。そうでなくてはきっと、自分の名にすら胸を張って生きる事は出来なかっただろう。


 間違えるのだと必死になって叫んだ、その決意が彼の心を殺すだろう。

 それでも誰もが間違えていたからこそ、センセイは正解を手にしている。間違え続けて、それだけはきっと間違えていない正解だったのだ。


 だから彼は足掻くのだ、そうやってその絶望を背負い続けて苦しむ為に。 


 それでもその終わりは随分と早かった。彼は姿を消そうと軍神が破壊した場所を歩いていた。そして歩みが止まったのは、さっぱりと消えた闘技場の一部、そこに差し掛かったときだっただろう。

 彼が膝を着き血を吐き出したのは、一体何が起きたのだと同様のあまり一瞬時間が停止する。その中で動けた物など王道ぐらいだっただろう、何度間違えても彼女は真っ直ぐと歩む、その部分に偽りなど無い。

 その心情を貫く様に膝を着いた彼の前に最初に現れたのは彼女だった。


 どうしたと声をかけ様とした時、王道はただ目を疑う。

 彼に抱き付いたと思うほどに密着している四歳ぐらいの少女がそこにはいた。ただ手に持った短刀がセンセイの胸深くに突き刺さって、二人の体を真っ赤に染めている以外は、酷く自然な兄妹の様にすら思える仲睦まじさだ。

 だがそれを見た時、王道が驚いたのはそこじゃない。その深く突き刺された、短刀はセンセイの心臓を貫いていた。


「お母さんを帰して」


 彼女はそう叫んでいる。その少女は母の復讐をしたのだ。

 罵倒を繰り返す、人殺しと彼に何度も何度も繰り返す。その言葉を聞いて彼は酷く穏やかな顔をしていた。

 そうだったと自分は人殺しなのだ。こうやって恨まれる事ぐらい知ってい筈だ、自分が復讐者だったのだ、そのために重ねた犠牲がいつか自分に降りかかってくれる事を望んでいた筈なのにと、そんな事すら彼は忘れていた。


 涙を流しながら自分を殺してくれる少女の頬を撫でた。


「ごめんな、ごめん、いっぱいみんなを傷付けてたんだもんな。僕はそうやって君のお母さんを殺したんだよな。そんなこと知っていたのに、そうやって傷付けてきたのに、誰よりその辛さを知ってたのに」


 いつの間にか彼の口調は昔の彼に戻っていた。

 その中で、消えていく自分の意識を感じながら、奪った物を返せと彼を糾弾し続ける。それが彼の末路だった、なんて相応しいのだろうと死ぬ間際でありながら彼は思う。

 こんな幸せな死に方が出来るなんて思っても居なかった。そんな救われ方をするなんて彼は嫌だったけれど、これ程人殺しにとって相応しい死に方は無いだろう。復讐されて死ぬなんて、らしいにも程がある。


 だがその呪いは輪廻する事を誰よりも彼は知っていた。復讐は彼の特権では無い、目の前の幼女の特権ですらない、誰でも出来る権限だ。肉親を殺される、そんな光景にいきり立たない存在は少ない。

 なら軍神もそうである、嫌だと声を上げた彼女は、彼を殺す幼女に向けて襲い掛かる。

 それが彼が抱えた汚濁、もはや軍神は軍神の権限すらも失い。人としての感情を荒れるように向けながら動き出す。


「お母さんは返せないんだ。僕はさ奪うことしか出来ないんだ、だからさ」


 後ろから迫る殺意を受けながら、彼は剣を振るう。手元にすら存在しない筈の剣を握り、軍神を切り払った。予測すら出来ない剣の軌跡によって彼女の足を切り落され、動きの制動すらも出来なくなった彼女は、目測を謝って地面を転がる。

 だがそれでも彼女の復讐は成立してしまう。その状況にありながら彼女は過去の剣を振るい幼女の四肢を切り裂いた。

 王道は糾弾する用の声を上げ、感情のままに軍神に襲い掛かろうする。彼女にとってそれは、どうあっても許せる光景ではなかった。

 しかしその中にあって、酷く冷たく彼女の意識を遮る声が響く。それが誰の小枝と思うほど冷たい声であったか、そして何よりどれだけ必死に響いただろうか。


「待て」


 本来なら即死する筈の彼の体は、転化の呪いか、必死に臓器を再生させようと抗っているのだろうまだ彼は死ねなかった。

 だがそれで始めて彼は救われたと思っただろう。達磨のようになった少女を抱きかかえると、軍神の前に彼は歩いていった。まだ意識がかろうじてある少女を彼女の前におくと、頭を下げた。


 その光景にどれほどの違和感があるだろう。絶対に有り得ない筈の光景、あまりの事に誰もが口を開けない。その中で一人今際の際に立ちながら、土下座をする男は必至だった。


「お願いです、この子を助けてください。俺のことはどうでもいいです、お願いですからこの子を助けてください。俺が殺したんです彼女の母親を、だからこうなるのは仕方ないんです。

 僕の所為なんです。僕が彼女に人殺しをさせてしまったんです。

 あなたしかこの子を助けられないんです。助けてください、足りないのなら僕の体を使っていいです、お願いですから」


 必死だった。自分の事なんてどうでもいい。

 ただセンセイはただ必死に自分を救ってくれた少女を助けて欲しいと願った。復讐の切っ先すらも切り落されて、呆然とするアイシャは、センセイの苦しみをようやく理解しただろう。


「お願いです。僕を殺してくれた人なんです、僕の為に死んじゃいけない人なんです。助けてくださいお願いだから」


 それでも何もかもが遅い。最後の彼の言葉を彼女はきっと忘れられない。

 親愛は無かった、それでも彼は人生の全てを曲げてまで、たった一度彼女の必死に願った。その言葉は何よりもきっと彼女に響いて、二度と伝わることは無い。


「お願いだから助けてくれアイシャ」


 それが彼の遺言だった。そのまま息絶えた彼は、もう二度と声を出すことは無い。

 その事を彼女は知ってしまった。その言葉、その意味、ようやく手に入れた彼の言葉の全てが露と消えるだけになるとしても、センセイは彼女を妹と認めて懇願したのだ。


 魔法を紡ぐ、そこに泣き声が混じっていた。だが彼女が使ったのは、兄の最後の言葉、それを詠唱に変えた。その言葉ならきっと成功するだろうと信じて、そして何より兄の体の全てを使って、自分が殺そうとした少女を彼女は助けるしかなかった。


 足りない部分を全てセンセイの体で補いながら、彼女は仇を助ける為に必死になった。

 それが遺言で、彼女に本来なら与えられる筈の無い言葉だった。その言葉をうそにしてしまえばきっと彼女は、本当に孤独になってしまうだろう。

 だからその願いを成就させる。そのためにアイシャは復讐を捨てるしかなかった。


 きっとそれがセンセイと言う男の最後の復讐であったとしても、彼女はやり遂げるしかなかった。そして彼の願いは成就し、王都御前試合は幕を閉じる。

 それから少しの時間が経った。そこには灰色の髪をした随分と綺麗な男が立っている、目を覚ました少女はその男を見て首を傾げた。


 誰と、だから男は当たり前のように自分の名前を言う。


「セインセイズ、それで君の名前は」


 そう言われては彼女も言うしかないが、自分の名前は簡単に言って良い物なのかと悩む。だが穏やかに笑いかける男に、自慢げに彼女は胸を張ってこう答えた。


「アイシアス」


 それは男が、まだ女であった時の名前と全く同じ名前であった。





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