三十五章 復讐の結末
二人がその場に立った時、歓声はなかった。
ただ立つその二人の姿は、まるで霊峰を覗く人々の様に、近い筈の距離さえも遠くに見せる。これから始まる戦いが、人知の及ばぬ物だと分かっていた筈の観客は、それでも果てに見える二人の姿に、現実がはたしてあるのかそんな詮無き事を考えてしまう。
向かい合う二人の名前を呼ぶ進行役は、はっきり言って災難と言うしかないだろう。それでも役割を果たそうと彼らは声を上げた。
アイシャ=エイジア=クラウヴォルフ(愛される偉大なる狼の至宝)
偉大なる英雄の血統、そして帝国との融和の象徴である血族。その証明として声高に放たれるのは、もう一つの名前。
儀礼的なものではあるが、こう言う公的な場でありその大主任を略式で済ましてはいけない。御前試合の決勝でと言うこの最後の場では、戦いの当事者達に賞賛として名を広める権利が与えられる。そしてその場合には全ての名前を告げる必要があった。
今となっては滅んだ国の言葉ではあるが、進行役はその名を言う義務があったのだ。
アイシアス=エイジア=クラウヴォルフ(愛される灰色狼の宝)
以前にも語った事があるとは思うが、北方の人間との融和を試みた彼らの祖先は、あちら側の妻を娶ったりと、あらゆる手を使って敵意をそぐ努力をした。その中にあちら側の名前を使った交渉と言うのもあったのだ。
英雄の血統と言えど、毎回の様に剣聖クラスの剣士が産まれる訳ではない。優れてはいても、垣根を越えられないものが時代を重ねれば一人や二人は出てくる。そう言った者達の努力の結果だが、クラオヴォルフの名を持つ物には必ず帝国姓と呼ばれるあちら側の名前がある。
かの軍神が滅びた国の名を持つ事に観客は、少しの不快感を見せたが、彼らも知っている事だったのだろう。ただ少しだけ事で、彼女の名を聞いてそれ以上の歓声が浮き足立っているかの様に響いていた。
そしてもう一人のある意味では不快感の原因である存在の名が告げられる。だが流石に進行役はその名を口にする事を躊躇われた。
こういった儀礼の場で呼ぶのを躊躇ってもしまう様な名前なのだろう。だがここで呼ばないと言う選択肢は残念ながら彼らには存在しない。震える体を喉に変えて、死神の係累の名前を呼んだ。
センセイ=クラウノールズ・ニーイロス(我は宣言するここにニーイロスを超える貴族は存在しない)
騒然としただろう。本来クラウと言うのは王国にとって頂を意味する言葉だ。
貴族を意味するノールズの前にクラウをつける事は、それだけで我こそが貴族の頂点だと語るのと一緒の行為である。
それがかつて王国に弓引いた大反逆者ニーイロスの名で語られたのだ。これ程傲慢な名前があるだろうか、少なくともここに居た貴族たちは彼の存在を忘れて罵声を浴びせていた。
だが進行役はそれを聞きながら、もう一つの名を口にしなくてはならない。それを口に出来るだろうか、ただの侮辱か罵倒かどちらにせよ、彼らにアイシャを汚す度量があるのだろうか。
しかし彼は口を止める事をやめていた。穏やかに笑う母性の象徴は、たかが言葉で穢れたりはしないと証明しているようで、進行役は少しだけ心を落ち着かせて、王国貴族を罵倒する言葉を吐き出した。
セインセイズ=ニーイロス・クラウヴォルフ(我は宣言する、渡鴉の血統こそが我が血統であった灰色狼を打倒する物である)
それは観客達にとって認めたくない事実ではあっただろう。
これこそが彼らが怯えた死の象徴である男の正体なのだ。その名前の意味するところなど一つしかない、その男もまた誰もが知る灰色狼の血統である事の証明だ。
つまりだ、センセイと語った男は、セインセイズと名乗った男は、観客達にとっては認めたくない事実を宣言していた。よりにもよってだ彼らが崇拝し賛美するアイシアスと読まれ、アイシャと語られる存在の家族であるという証明でしかなかった。
偽名だなど叫ぶ物も居るが、確かにそれが事実であるかなんて誰一人分からない事だ。その二人を除いて、それが事実かどうかなど、ただ悪趣味な嫌がらせにも取れてしまう程度の名乗りにしかならない。
なぜならこの国で彼の事を認めようというものは居ない。ならばその名に価値はなく、そこに宣言だけがあればいい。貴族とはニーイロスであるべきだと、ニーイロスこそが貴族の規範であると言う。
ただそれはこの国の貴き者たちを認めない。ただ王の尊厳すらも価値がないと振り切る所業。なにより彼は宣言していた、名乗る時には好んでセインセイズを名乗っていた全てはここにある。
灰色狼を狩り殺す渡鴉、それが自分である。ただ一人残されたクラウヴォルフを殺すために自分があると言い放つ、その名の意味に気付いた者達は戦慄さえする。
それが貴族で無しと言われた当代のニーイロス男爵家の当主であるセインセイズの宣誓でもあった。
「それが兄さんの決意なんだね。全部知っていたけどちょっと辛いかな」
穏やかなまま彼女は言った。全てを知ってその顔をしている事に彼は不快感を隠せないが、握る剣に力を込めるだけで、対外的には変貌を感じ取れる者が居たかどうかは分からない。
それでも申し訳無さそうな表情に、彼は直ぐにでも剣を向けてやりたかった。
「ごめんね、私が馬鹿だったから兄さんをここまで追い詰めたんだよね」
「お前は、ここで、なんで」
よりにもよって彼女はここで彼に謝った。
誰より欲しくなかった呪いの言葉だけを確実に彼に突きつけるアイシャの姿は、ただの詫びの言葉であったとしても、彼の逆鱗を撫でるには十分であっただろう。
殺してやると言う口の動きに、ただ柔らかにアイシャは答えるだけだ。
「大丈夫だよ、私は兄さんを止めるだけだよ。絶対に約束するよ。だから」
――――――また一緒に暮らそうよ。
彼女の彼への呼び方が変わった。より親密な物言いに、そしてやり直そうと彼の命を認めるような言い方をする。口にするのは慈悲の篭った優しげな音、舌で舐めるような心を落ち着かせる響きは、液体染みた鬱陶しさを感じさせながら耳に残る。
軍神はとうとう完成を迎えていた。理不尽な死の象徴すら肯定する、生きている事に対する礼賛の具現がここにあった。
響く耳朶を鳴らす音の意味が彼には理解できなかった。
彼女は全身全霊を持って彼を認め続けた。この汚らわしい人殺しを認め尽しているのだ。生きていて良いよと、またやり直せるんだから、私と一緒に頑張っていこう。
その言葉の響き全てが、彼が望まぬ物であったとしても、彼女は肯定しつくした。
「ね、どうかな。兄さんの為に家だって用意するよ、家族で一緒に暮らそう。絶対に幸せになるから、それでニーイロスの領地をまた兄さんが繁栄させれば良いよ」
声が出る事はない。ただ吐き出したい想いも、願いも、決意も、全て彼女が口にする言葉が押し込めていく。
ただ開いた口からの音に価値はなく、彼の全存在と人生に対する侮辱をアイシャは口にしていた。
素晴らしい事なのかもしれない、彼女の言っている事は、全て彼の事を考えてアイシャが出した提案だ。
「ね、三人でまた家族をやり直そうよ」
それでも内に篭る彼の激情がわかるだろうか、確かに彼女の言葉は素晴らしい。ここまで他人の人生を罵倒できるのであれば、芸術と言っても良いだろう。
その全ての言動が彼の怒りの引き金になっていく。それに気付いているのか、気付いていないのか、きっと後者なのだろうがあまりにも酷い。まだ覇王が死んだことにすら気付いていないからこそ、その言葉を受け入れる事が出来たセンセイは歩き出す。
良かった、一瞬そう思った。彼は随分と穏やかな表情をしていた。
「よかった」
呟くように、何より嬉しそうに笑っていた。
彼は嬉しかった。彼女がこんな事を言ってくれるなんて思わなかったから、この時だけ彼は本当にアイシャが妹で本当に良かったと思っていた。
これ程感謝した事があるだろうかと、実は自分は忘れていたのではないかとすら思う核心。
「忘れていたんだ」
そうだ、そうだと、二度ほど口にする。
彼はきっと忘れていた。自分が何故ここに居るのかをきっと、神童のおかげで随分と余計な物が増えた。それが心地よいと思ってしまったから、きっと彼は忘れていたのだろう。
良かった、本当に良かったと、自分はなんて素晴らしい妹を自分は持ってしまったのか。感謝してしまう、こんな思いは彼にとっては初めてだっただろう。
この体に溢れるような衝動を忘れていたなんて、センセイと言う男はなんと愚かだったのか。胸を掻き毟って抉り出しても足りない、自分はこれを抱え続けていたのだ。
あどけなく彼を見る純粋無垢を見えもしない目で見て、センセイは真っ直ぐと歩いていく。感謝する素晴らしい妹よと彼は何度も心で叫んだ。
忘れてしまっていた、大切な事だったのに、自分はこれだけで良かったのだと再認識させられた。
思い出した、彼はようやく目の前の存在を認識して、思い出せた。
「お前を殺す理由を」
どういう原理か、まるで剣だけが宙を浮いたように、コマ送りの映像が視界に写る。いまだ笑顔の彼女の首を斬り落とす為に剣は動いた。
しかしそれが彼女を殺す絶技になる筈もない。ただ一歩後ろに下がるだけで、剣は彼女の首を切り落す事もなく通過する。だがここに到った剣士が、ただの切断を放つとは考えられない。
切り裂かれた剣の跡が、真空の剣になって停滞していた。
針が刺す様な痛みに、彼女は顔を顰める。確実に避けた筈の剣は、それだけではない効果を発揮していたと理解するまでに、一度思考を巡る必要があった。
観客達の声が驚愕によって響くまで、一度の間が空いて空気が騒いでいた。その音に感覚を狂わされそうに成るセンセイは、二つ目の太刀を出す事もなく警戒によって攻撃の手を失う。
軍神が傷付けられた。その様な事実に観客は戸惑いを隠せなかっただろう。
アイシャも完全に避けたと思っていた為に、目を丸くして驚いていたが、さすがと頷いてみせる。彼女の感覚では、この程度の事を兄が出来ない訳がないのは知っていただろう。
ただそれでも彼は彼女の予想の一つ上を行っただけの事。やっぱりそうだと、何度も何度もアイシャは頷いた。
これがきっと彼女の敵になれる存在。戦いになってしまう存在なのだ。
「流石、兄さん。二手三手じゃなかったね、今まで手加減してたのかな」
首筋のに滲んだ血を親指で拭うと、彼女もまた剣を抜いた。魔法は使えないだろう、振動詠唱を試みたとしても、目の前の剣士ならその魔法の構成ごと剣を振り切る。構成を考える手間が無駄になる事ぐらい彼女は今の一太刀で理解する。
「どちらにしても、手加減をしちゃいけないのは分かったけど。これは殺さないのは骨だよ、流石兄さんだ」
「まだ、お前はそんな事を俺に言うのか」
「一生言うよ、私はそうやってみんな仲良くできるって信じてるんだから」
ただそれだけで巌の如き威圧感を放つ彼女は、これが軍神であると言うかのように、今まで自分が使い続けてきた剣を構える。この二人の剣の型はどうあっても剣聖の系譜になる、なぜならそれが彼らの剣の始まりだからだ。
二人はぶら下げるように剣を持つ、鏡が在るかのように相対する二人の姿に、呼吸を止めるように観客達は食い入るように目に収めていた。
「無理だ。絶対に」
「可能だよ。絶対に」
今だ剣を構えたままの二人は、読み合いをしているわけではない。
ここまで到った彼らは、単純にどちらが先に踏み込むかだけを警戒しているだけだ。いつもであるなら、先を取るのはセンセイの筈だが、今回ばかりはそうは行かない。
彼の剣は彼女より早いが、彼女の方が速い。何より彼女の膂力はもはやこの御前試合のどの英傑よりも上を行く。ただ無遠慮に鍔競り合いに持ち込めば、彼の剣ごと圧し折られて両断されるのがオチだ。
しかし彼女もまた、兄の剣の鋭さを知っている。彼であるならば、まともに剣をぶつけ合っては、己の剣が斬りおとされると言う核心があった。両方が武器破壊の術を持っているが故に、どうしても警戒が必要なのだ。
しかしここに彼の知らない彼女がある。私はもっと強くなったのと、二人分の意思を重ねて彼女は剣の瀑布を振り下ろす。立った一歩で踏み込めば相手の刃の圏内、少しずつにじり寄ってきた二人の緊張の限界線を超えた時、先に動いたのは軍神。
上段より音の速さすらも無視する破壊を彼女は振りまこうとした。それはまさに瀑布というしかなかっただろう。氾濫する川の流れのように、線である筈の剣が塊となって振り下ろされる。
回避など不可能だ、彼女が振り落としたのは、もはや闘技場に存在した空気と言う名の物質の圧殺。ただその力と剣速を持って、彼女は気体を引っこ抜いたのだ。その補填作業であろう空気の移動が彼の移動を阻む。
一瞬にして人を肉屑に変える剣と言うより押し潰す破壊、それは大気による圧殺。だが彼女の剣の速度が最高到達点を待たずして、彼が軌道を逸らした。身を浮かされそうな風が渦巻く中で、ただ剣を受けるだけでも体を押し潰されるかもしれないその一太刀の側面に剣を合わせて、神童に行なった回避を彼はやってのける。
そして肉は潰れた。センセイの所為ではあるが、観客達に向けて放たれた軍神の剣は、闘技場の半分を押し潰しても足りず、市街地にまで被害を出しながら破壊を表現して見せた。
そんな破壊の跡を彼は気にする事も出来ずに宙に飛ばされる。真空状態となった空間の補填によって激しい風が巻き起こり大地より容易く彼は引き剥がされる。
絶好の反撃の機会だったというのに、ただ一人涼しげに巻き起こる暴風によって宙に浮く人々を見ていた彼女は感情もし目指す視線を一人に向けて、ただセンセイだけを見ていた。
魔法の使えない彼は抵抗する事も出来ずに宙に巻き上げられる。これで高高度からの地面に叩き付けられる事が確定するが、それ以上の問題がある。空中の様な回避すら出来ない状況で次の軍神の攻撃を受ければ、本当に命など吹き飛ばされる。これを好機と捉えない剣士などいない、不用意に大地から剥がれるなどと言うのは、自分の行動の制限をする愚考だ。
身動きの出来ない宙に身を晒す馬鹿を、それを木偶人形と言わない剣士は居ないだろう。まして彼は身長の十倍以上は吹き上げられたのだ。落下までの数秒、この間に軍神であるなら致命的な攻撃を何度繰り返せるか、考える必要も無い何度でもだ。
そしてなにより致命的なのは彼が盲目と言うことだろう。三半規管すら揺さぶられ、もはや上下の感覚すら彼にはない。ただ落ちている下を理解する事すら不可能に近い状況であった。そこに軍神は剣を抜いて己の全てを持って殺戮を開始した。
軌跡再現、本来であるなら兄である彼にしか使えない筈の過去の再現を彼女は行ないながら渾身の一振りを振るう。先ほどの様な荒々しい攻撃ではなく、鋭さに重きを置いた剣を彼に向けて切り裂かれた。
表切上に振り抜かれる剣は、もはや形容しがたい剣の軌跡を描く。剣の切っ先から始まる彼女の一太刀、それは衝撃刃としか言いようない切断の跡を、闘技場を切り裂きながら宙をを駆ける。かつて彼女が観客を避けて闘技場を切り裂いた事があったが、この時ばかりは彼の事しか考えていないのだろう。
と言うよりも隙を見せれば殺されると断言できる何かが、センセイには存在していた。その感覚に従って、なによりそれも仕方ないという妥協を胸に抱いて、観客を膾にしながら蹂躙を開始した剣は、センセイの体なんて容易く切り裂く事が出来るだろう。最もただ鉄の剣で切り裂いた所でその結果は変わらない。
人を殺すには過分すぎる攻撃を彼女は幾重にも重ねて、まだ足りないと剣を鞘に収めて振動を響かせた。羅列するように響く、始原十八種の共鳴、それは魔女の血より受け継がれた十八の言葉。それが魔女が簒奪したとされる十八の神権である。
神に股を開き、悪魔の股を開いて、知見の限りを略奪した始原の魔女。大淫売ハルケキの権能十八種、それは歩みであり、前進であり無知であり、後退であり、撤退であり逃避である。
そしての統括は二重螺旋である。ただしそこの停滞だけは存在しない。ただ歩みをと望まれた魔女の結晶である至言であり始原の言葉。彼女はその韻律を世界刻むために鍔鳴りの音によって代行する。本来は詠唱と言う過程を省き、複数の詠唱を同時にこなす為の覇王の絶技である振動詠唱だが、彼女は兄を止めるにはそれでは足りない事を理解している。
振動を略奪する、無理矢理に鳴らした音を子守唄の様に反響させ、魔法の処理を重ねた。本来であるなら彼女であったとしても詠唱を重ねるなど言う行為は出来ない。この世界の魔法はありとあらゆる意味で不完全だ。
詠唱一つにつき一つの魔法と言う原則は変えられない。振動詠唱のような特殊な詠唱であってもそれは同じだ、振動一つにつき魔法は一つであり複合魔法などと呼ばれる魔法は、使用者の意思と感覚、そして魔力の使用量が完全に同一でなければ暴走する。
そんな魔法の成功例は、髪を全て剃り、頭に直接刺青のような刻印を付けで同調させる。くらいならましだ、脳を二つ一つの存在に移植し、さらには口を二つ用意しての人体改造。だがそういった成功例ですら、使用者は全て死亡している始末。
それほどに制御が難しく、前提条件が全て人間を二人以上用意し、それを融合させるところから始めなくてはいけない。魔法を重ねると言う事は、暴走か使い手の師によって帰結する代物なのだ。
だが二人で一人の彼女は、それを踏み越える事が容易かった。
二人いて完全である彼女は、その完全と言う状況を十全に使い切る。彼らに同調の刻印など不要だ。たとえそれが魔女の至宝である十八種の権限であっても変わらない。
同じ権限を複合させる事によって異様な変化を見せる魔女の至宝は、彼女の背に一つの木となって具現化する。
神権代行等と呼ばれる魔女の秘奥の一つであり。魔女の始祖であるハルケキが得たとされる秘法であり、人なしえぬ技術であったオークの賢者の神授権限代行の執行権限を得る事が出来る。始原十八種の完成行使、本来人がなしえる事の出来ない存在し得ない筈の神話。
世界を支えている木に居つくヤドリギの王。それは人間や動物といった生命たちの象徴と言われ、本来は森で生涯を生きる魔女にとっては、神木崇拝こそが根源であるのだろう。
だが神話を呼び起こしたところで、かの権能は生命礼賛であり生命の祝福だ。
地面に根を張り急激な速度で巨大化する神は、ただ闘技場を破壊しながら形を作ろうとする。しかし戦闘の術の無い神を召喚したところで変わるわけも無い、ただ彼女はかの存在が欲しかっただけだ。
ただ巨大化する神に手を添えると彼女は、神話を再現する。ヤドリギには兄殺しの権限を備えた呪いが存在していた。それは奇しくも彼女が代行権を振りかざす理由となり、誰もが知る神話の一説を信じるからこそ引き出された神のもう一つの顔であった。
パルテナと呼ばれるそのヤドリギの王は、世界を支える木である兄を寄生し腐らさせていく運命を与えられ、滅びた世界を作り上げると言う側面もある。彼女はその権能を欲しがった。
神の権限を操る為に彼女は、槍を作り上げる。代行魔法とでも言えば良いのだろうか。
ただ槍のような体裁を彼女は神で整えると、詠唱を行使し兄殺しの槍を放つ。神と言う存在そのものを、一つの魔法として操るなどと言う非常識な魔法は、九つの加速機構である十八種の邁進にして前進の権限である天輪が具現化し、槍はその輪を貫きながら速度を上げてセンセイへと放たれた。
少しでも魔法と言うものを知っている者が見ればそれは、もはや一つ世界の違う魔法。根底が魔女の系統であるからと言うだけじゃない。神の形を変えるという行為自体が、神以上の上位権限を持って振りかざす物だ。
ならばアレは神ではない何かか、神を堕した者か、見ただけでアレは神だと誰もが断じる事が出来た。なら軍神はどこまでの力があるのだと、戦慄する事が出来ただろう。これが軍神なのだと民衆達は狂喜していた。
ただ戦闘の余波だけで、観客を虐殺した彼女に対して非難の言葉など出る事もなく。
人々は全てが魅入られていた。神すらも行使した軍神という存在を、もはや彼女はただ存在するだけで全能の神と成ったとすら思われるだろう。
しかし彼女が対等だと言った彼はならどうなるのだ。必殺ばかりを重ねて用意していた軍神の暴威は、兄殺しの槍によって結末するが、悪意は消えない、死は続く、ならこの程度で剣神が死ぬ理由などは存在しない。
彼女の攻撃によって彼の姿は消えてはいたが、その程度で彼女が彼を見逃す筈が無い。何より神権の代行は、もはやただの確定事象を操る物だ。兄を殺すというためだけに動くパルテナの槍は、彼を貫き殺す為に九つの神権と共に物理現象にまで侵食しながら段階を経て加速する。
最初の一つはただ速度を、次は二度と後ろに下がらない決意を、そして次に止めるものたちを振り切って、それでも足掻く上位の者たちを貫いて、ただ真っ直ぐに目的を目指して。これは全て前へと向かうだけの、ただの邁進者の代行権。
その全ての願いが前へと願う存在たちの生命賛歌。だがまだ歩むもの達には先がある、これより四つの前進者達の権限は、全ての剣に抗う為に、絶望の山河を抜ける為に、嵐吹き荒れる空の嘆きを貫く為にと三つ権限を貫いた。
そして最後の権限はなんてことは無い。単純で最も大切な事だ、ただ真っ直ぐと前にと走り出す為の一歩を、踏み出すための始まりを意味している。その純粋な願いを貫いた、邁進者の叫びは甲高く喜びに満ちていた。
だが、だがだ、それでも前進者達の望みは砕かれる。埃舞う場所へ放たれた槍は、そこから現れた剣の切っ先に突き立てられる。それは地面に突き立てられる屍達の悲鳴、ここでは終われぬと叫びながら散って消え行く、前進できなかった者達の意思。
歩けぬと分かっていようとも歩こうとして倒れて朽ちて行った死体達。その全てを引き連れる為に殺し尽くした剣の神。その剣は前進者達を朽ちた死体へと変え行く葬列だろう。
喜びなど許さないと、傷すらなく剣神は葬列を歩いていた。今だ宙にいるというのにいかなる事態だと、流石の軍神も目を向いている様だが、タネが割れれば容易い。ただ軌跡再現の上を歩いているだけだ。
刃の通った跡ではなく、側面を足場にして歩いている。だがどう考えてもそんな事を容易く行なえるわけが無い。ただ感覚だけで操っているセンセイの状況は、一歩間違えれば自分の足を切り落す所業だ。しかしそれをを行なえずして彼が剣神等と呼ばれる訳も無い。
しかしそれ以上に彼の表情は精彩に欠けていた。見ているだけで動揺しているのが見て取れるほどに彼は随分と追い詰められているようであった。
だが当然と言えば当然の話だ。あの猛撃を受けて、精神の消費をしないのはただの人形だけ、だが震えるように紡がれた彼の言葉はその様な者を意味していなかった。
「何でお前が殺すんだ。それは俺の役目だろう、何でお前は今人を殺したんだ。出す必要もないような無駄な事で」
それを彼が言う資格がないのは、百も承知であったが、それでも言わなくてはいけなかった。彼と彼女は対極である筈なのに、容易く彼女は人を殺している。そんな状況にただ犬の様にちょこんと小首を傾げるだけだった。
それがどうしたのと彼に告げるような態度、認めていた筈だ、大切な物だと消えてはいけないたった一つの―――――だが、純粋無垢とはそういうものだ。
命を全て平等に見るとするなら、全ての命は平等に無価値である。
罪悪感の欠片も無い、なぜなら全ての生命はどういう理由があれ生きる為には殺す。いき続ける限り、どうあっても人は虐殺者の事実を突きつけられる。その営みを命を平等に扱うのなら否定できる筈が無い。
命が平等に消え行く物なら、生も死もそこに差など何一つなく、ただ当たり前のことと言う事実しか存在しない。人がそこで生きていようと、死のうと、命を平等に見るという事は感知せず監視せず管理しない。その命全てを認めるのなら、命全てに無関心であるべきなのだ。
アイシャはそうなった。純粋無垢とはそういう物だ、知らずただ無知で、命全てに価値を抱いてはいけない。孤独を埋めた彼女は、ようやくそうなった。それが軍神、それこそが汚れなき存在と言う代物なのだ。
彼さえ勘違いしていた彼女の正体、全ての命を礼賛するアイシャと言う存在の根底。それは全ての命に対して価値を持たないと言う帰結なのだ。
「仕方ないんじゃないかな、こう言う事もあると思うよ。それに」
「仕方ないだと、お前がそんな風に成り下がるのか。なら俺は一体、一体誰を」
分からないかなと、彼女は彼に指を刺す。
告げる言葉が音を出さずに彼に響いた気がした。その時の歪みに歪んだ彼の表情は、もはや悲劇を通り越して喜劇の分類だっただろう。
「憎めば」
糾弾するように叫びだそうとした彼の声を阻むように、彼女は声を重ねる。
「兄さんとやってる事に何の代わりがあるの」
一度として揺らがぬ事実、彼と言う男が変えられない、たった一つの欠陥と言ってもいいだろう。その男は人殺しだ、殺戮者だ、殺して殺した先にしか何一つ手に入れられないと信じる命の簒奪者。
そんな事は彼が一番知っている。この世で一番嫌いな存在を自分と上げ、この世で一番殺したい存在を自分と言う男は、そんな事実は知っていた。言われるまでも無い、だから彼女の言葉に何一つ返せない。
口にすら出せない。誰より自分を呪った男は、ただの一言に心を折られつつあった。
心臓すら抉りだすような彼女の物言いは、どれだけ必死に押さえていても自身の心を折るには足りる。彼にとってアイシャと同じなどと言うのはただの罵倒ではない、憤死してもおかしくないそういう類の代物だ。
だがそれ以上に彼は心が折れそうになる。折角虚勢で固めた意地とハッタリが、こんなところで台無しにされてしまいそうになるほど、彼の心は随分と軋んでいた。
それでも彼は折れない、亀裂が入る事など随分となれたものだ。
そんな日常風景に、何度も締め付けられても、センセイは歩みを止められない。ただ真っ直ぐに後ろに前進をし続ける。
今更彼と言う人間がどの様な釈明をしたところで、誰一人受けて入れてくれるもがいる訳も無い。それが呪いと言う代物だ、純粋無垢を作るための代償全てを突き立てられた男は、声を震わせながら地面にただ剣を突き立てる。
死者たちの悲鳴を聞きながらも、この随分と暗い世界に負けぬと剣を杖にしながら姿勢を戻そうとしている。体に先ほど打ち上げられたセンセイは未だ足元がふら付くぐらいのダメージを体に蓄積させている。
それよりも辛かった心の皹、慣れていなければ壊れいたかもしれない。決意した言葉があったから動けただけだ。違えてやる、アイシャが正しいのなら間違えてやると彼は決めていた。彼女は命を平等に扱うというのなら、それが無価値と言う扱いであるなら。
彼は命に価値があると言い張らなくてはいけない。心に亀裂が走る、今まで以上に激しい傷みが彼の心を抉り続けていた。それを自覚するという事はつまりは、命全てに価値があると言い張るというのなら。
今まで繰り返してきた己の所業は一体なんなのだと、ただ意味も無く目的の為だけに人を殺し続けた自分は、ただの殺戮者である自分は言ったいどうすればいいのだと呻く。何よりそれを行なうのなら、自分は目の前の存在の命すらも認めなくてはならないという事になる。
嫌だと心が悲鳴を上げる。だが彼の決意はそういう物だ。
逃げられる物ではない、なによりそう思いながら人を殺すなどと言う狂気を彼は耐え切れるのか、握っていた剣が手から離れそうになる。
それでもセンセイはアイシャの思想を違える。認めてしまおうと決意した、目に涙があふれそうになる、それを認める事できっと自分は何もかもが終ってしまうと思ったのだ。今までの全てを台無しにする決意を彼はしなくてはいけない。
それでも自分に涙と言う逃避を行なうつもりは無かった。泣く等と言うのは、逃避行動に過ぎない、極端なストレスから自分を落ち着かせるための行為に過ぎない。ならば泣く訳にはいかない。
そんな無様を彼は肯定しない。否定を繰り返し続けるだろう。
もう自分にそんな物は必要ないと、きっと彼は断言してみせる。流すなら血の涙だけで十二分、ただ歩いていく為の言葉を彼は積み重ねた。
「そうだろうな」
だから肯定する。彼女の言った言葉を、そこにどんな思いがあったとしてもセンセイの言葉が自分に対する肯定であった事に彼女は笑顔を作った。
ようやく分かってくれたんだと、これで戦わずに済む。そんな風に彼女は思っていたかもしれない。だが男は止まれない、命に価値があると認めて、大切だと知っていたのにそれを無感情に殺す事しか出来なかったセンセイは、そこに感情を持ってこなくてはいけない。
「そうだろうな」
ただ作業のように人を殺すことでごまかしてきた感情を彼は自覚しなくてはいけない。
嫌だと心ががなりたてる。それが心臓に反響して酷く激しい鼓動を鳴らし、体の中に楽器でも入れたような激しい感覚に、避けるような声を上げて地面に剣を叩きつけた。
手の先より伝わる大地の手応えに、ただ静かな泣き声のような息を一つ吐く。その声は酷く静かに響いた鈴の音色のようだった。
「お前がきっと正しいだろうよアイシアス」
「そうだよ、私と兄さんは同じなんだよ。やっと分かってくれたね」
「絶対に認めないけどな。俺はお前とは違う」
それは完全に彼女の虚をついた踏み込みだっただろう。
絶望的過ぎるほどの感情を飲み込んで、彼はアイシャを殺すために今までの全てを超えた踏み込みを行なった。ただ地面が滑るように、彼の体は彼女の懐近くまで体を寄せた。
逆風が吹く、股下から抜けて吹き上げるように放たれた彼の一線は、アイシャの体を両断する筈だったが、軍神はそれをただの身体能力だけで避けてくる。
逃がさないとまるで予見していたかのように彼女が下がる場所に、軌跡再現を放っていたのか、アイシャの背中に痛みより先に冷たい風が吹いた。彼女が経験した事の無い痛みに一瞬、行動が止まる。
戦いですら傷を負わなかった軍神は、初めて剣の痛みを経験した。だがそれは剣を扱う物なら、まして戦場に出たのなら、一度は経験してもおかしくない代物だ。本来なら致命傷でもない痛みに、アイシャは過剰の反応を示した。
それが彼の剣を避けると言う時間すら与えない明確な隙であった事を彼女は気付いただろうか。もはや彼女はあの程度の傷が致命傷になるわけがない、それに反応してしまう事の無知さ加減などきっと彼女は知らない。
致命的とすら言える失態だが彼女はそれでも大丈夫と判断してしまった。
兄はかたわの剣士だ、全力で振り切ったであろう剣を容易く制動が出来るわけないと感じてしまった。ある意味では合理的な判断だ、自分の失態を理解しながら物理現象に縛られる限りそれは無いと彼女は信じてしまった。
しかしだ次の瞬間彼女の胸に風が吹いた。冷たい筈なのに酷く体を燃やすその熱さに彼女は身を捩る。流石にこれ以上の失態は彼女も出来ない、歯を砕かんばかりにかみ締め、ただ力任せに剣を振り下ろして次の攻撃を止める。
その一撃が大地を割り、彼女を中心に潰れる様に大地が沈下した。センセイが何をしたかよほど体に負担をかける荒業をしなければあんな事出来るわけが無い。だがあのまま止まっていれば、間違いなく次の一手で彼女の命は刈り取られていた。
観客達は彼に切り裂かれてあらわになった白い肌は、鮮烈な赤が染まるが、誰一人そこに扇情的な感情など抱けず。剣神と呼ばれた男の戦いの息を飲んだ。彼らからなら見る事が出来ただろう。
彼が放った股下からの逆風は、頂点に達した時、突如として止まり振り下ろされた。それは先ほど彼が空中を歩いた応用だ。軌跡の側面に剣を当てて無理矢理に剣を止めて、振り下ろしたのだ。
それなら腕にかかる負担は幾分か低減できるだろう。だがこの手の技は二度とは使えない、所詮こういう類の技は邪道だ。警戒されては使える物ではない。精神の隙間にある在り得ないと言う部分に踏み込む技である以上、仕留める事が出来ないならそれでおしまい。
アイシャはそれほどに御しやすい相手である筈が無い。
「認めない、俺はお前を認めない。お前が正しいなら間違ってやる、お前が完全なら俺は不完全でいい、お前が命をそう扱うのなら、俺は命に価値があると言い張ってやる」
「兄さんそれは、辛いよ。人殺しの兄さんがする事じゃないと思うけど」
「黙れ、俺は間違える。今迄だって間違ってきた、大切な物だけを全て殺してきた。なら俺はこれらも間違ってやる、違え続けてやる。間違えるのが俺の人生だ、正しいことの全てを間違えてやる」
自分が命に価値があると言いながら殺す様な矛盾を貫いてみせる。
そう宣言した男の言葉に、ただ拍手した。軍神はただその決意に感動すら覚え、剣を戻してまで手を重ねて音を響かせる。
彼の言ったことは全て無茶だ。意味がないし価値が無い。
矛盾を重ねに重ねた所で、矛盾の枠から逃れられるわけが無い。その負担は全て自分にかかってくる、いつか根元から折れて倒れてしまう腐った木と一緒だ。
それをやり通すと言う彼の姿に嘘偽りを感じさせなかった。。それが彼の美点であり汚点なのだろう。愚直と言うのは、目の前のような意地っ張りの事を言うのだと、どうあっても人々の心にそう刻まれる。
「それなのに私を殺そうと言うんだ。矛盾してるよ」
「人生は矛盾ばかりだ。お前はその程度のことも知らないのか、その程度の事も知らないでしたり顔で人を殺したのか。全てを知る事が出来る癖に、なんでも一人でこなせるくせに、そうやって自分は知らないと逃げるお前なんかが」
「そんな事無いよ。私一人じゃ出来ない事だっていっぱい」
知らない事ばかりなのにと、目を伏せるように言う。
母を殺して、必死になって命を守ろうとした彼女の姿は、いつの間にか消えていた。大切なものと孤独を踏み越えて、彼女は確かに生命礼賛の象徴になっただろう、全ての命を愛しむ神になった。
だが愛が無限なら価値は無い。それは無いのと一緒だ。
その言葉自体が限定的だと言うのに、愛をばら撒けば無価値に成るのは当たり前のこと、汎用性のある愛情は愛情ではなく、ただの八方美人と何が違う。
彼はその事を糾弾していた。お前の愛はただの無価値だと、だが彼女にだって守りたいものはある、大切な子供がいるのだ。
彼女は二人でようやく一人になれた。それほどに不完全だった少女は、自分が一人じゃ何も出来ない事を知っている。だが彼にとって彼女は越えられない壁だった、届かない自分の全てを奪った相手だ。
だから出来ない事を彼は認めることは無いだろう。
どこまでも一方通行にしか二人はなり得ない。剣をゆっくりとまた構える、相対する鏡のような構え、終わりは始まるのだろうかと二度の戦いで優勢は剣神といえるかもしれない。
「言い訳なんか聞きたくない。命を平等に扱うなら、俺はお前の全てを殺すだけだ」
その言葉にはじけるように飛んだのはアイシャだった。
地面を深く蹴りこみ、大地に爆風のような跡を残す。速さと言うだけなら、センセイが彼女に及ぶことなどありえない。
ただ真っ直ぐ踏み込んだだけだというのに、一度の間すらなく破壊が横に振り抜かれるはずだったのに、剣は在らぬ方向にそれて観客席を切り刻む。それは巻き直しのようなもの、だがそこから絶好の筈の攻撃が振られることは無かった。
彼女の一撃はどうあっても人を吹き飛ばす。どれだけ攻撃をそらしたとしても、その後に付随する暴風が彼をその場に立たす事など許さない。それでも距離を殆ど時間をかけずに体制を戻すと、その暴風後と切り裂いて彼女に向かってくる彼も非常識すぎるだろう。
しかしアイシャは攻撃の手を緩めない。軌跡再現を操りながら、彼を圧殺するとしか言いよう無い攻撃を放ち続ける。その全てを剣一つで受け流しながら、距離を詰めてくるセンセイも随分と正気とは言いがたいが、既に手の感覚が彼には無くなっていた。
アイシャの攻撃は重い。そんな事はただ破壊を振りまく剣を見ていれば誰でも分かるだろう。そんな物を何度も受け流していた彼の手は感覚を失い、自分が剣を握っているのかすら分からなくなっていた。
少しずつではあるが間違いなく、彼の剣の精妙さは落ちていき、受け流すタイミングがずれ始めいていたのだ。それでも致命傷を避ける彼は異常だが、自分が詰みの状況に追い込まれているのは分っているのだろう。苦渋に満ちた表情がどうしても顔に浮かぶ。
「絶対にそれだけは止めるよ私は、兄さんを殺したって絶対に、私の全部を殺すなんてぜったに許せないから」
彼女の声が響いた。それと共に放たれたのは刺突、彼が万全であるならそれもそらすことなど容易かったかもしれないが、彼女の突きの間合いは付随する効果も含めれば長大だ。今までと同じ手段で彼女の攻撃を受け流したところで、彼の負けは目に見えている。
「それがどうした。お前が俺に全部を奪わせたんだろうが」
力が解放される一瞬の間、だがそれより先に彼女は手応えを感じた。
ただ剣に向かって走り突き刺さっていく兄の姿が、彼女の目の前に浮かぶ。ただ捨て身になって彼女の命だけを奪おうと剣を振り下ろした彼の姿は完全にその事自体を狙っていただろうこっとは明白だ。
しかしそれでも軍神が一手上回る。センセイが自分の命すら惜しまない事は明白、この手は読めていてもなんら不思議ではない。この男は自分の命を賭ける事に躊躇いなど持つはずが無い。
ならばと彼女は剣を無理矢理に引いた。彼は目が見えないのだ、いきなり無用に引かれたからだに体制を崩す。まして振りぬこうと剣を振りかざす一瞬にそれをやられては、前後不覚になってもおかしく無い。
アイシャはそのまま倒れてくる兄を抱き止めるように剣を捨てて懐に入る。そしてただの拳を彼の胸に叩き込んだ。
ただ力任せの一撃は彼を地面から浮き上がり水平に飛び壁に叩き付ける。その時にいくつかの骨が砕かれたのはその飛び方から分るだろうが、さらにアイシャはその一瞬の打突の間に彼に突き刺さっていた剣を掴んで彼の腹から引きずり出していた。
だからそれを人は先ほどの突きの破壊力によって、センセイが吹き飛ばされただけと感じたかもしれない。
だがその攻防を目で捉えていた王道達は、どういう戦いだと震えすら感じていた。捨て身であろうとも、あのタイミングでそこまで彼の行動を読みきった軍神もそうだが、攻撃の為の本来なら隙にもなら無い一瞬を見切って踏み込んだ剣神も、どちらもが彼女達に敵わぬと言わしめる力を持っている。
しかしあの拳だけで内臓は破裂しているだろう、骨の幾つかは折れて砕けているだろう。何よりそれを再生させるとしても、もはや時間が足りない。致命傷であることは確定、それを完全に治す事が出来ても、最低でも二時間以上の時間を要する。
しかし軍神はそんな状況であって、止めを刺しには行かなかった。なぜと言う疑問があるかもしれない、だが彼女の腕に血が溢れる。先ほどの彼の剣が当たっていたのかと、センセイの剣の鋭さに戦慄すら抱くがこればかりは違う。
彼が砕いた剣の破片だ、彼はそれを口に含んで彼女の腕に向けて噴出しに過ぎない。叫んだ一瞬の内に破片を口にくわえて彼女に向けて放つ。本来なら目などを狙っていたのだろうが、とっさに攻撃を弱める為に攻撃の視点である腕を狙ったのだろう。
彼女が痛みに慣れていないのは今までの戦いで流石に見切っている。その一瞬で、さらには地面を蹴って後ろに下がり力を最大までそらして見せた。
そんな相手に不用意に止めを刺しに行くなんて彼女には考えられない。現に彼は血反吐を吐きながら立ち上がって彼女に向かっていく。甚大なるダメージを癒し切れないのは知っていても、どれだけ攻撃が鈍ったとしても。
「それで戦えるもうやめようよ」
「ふざけるな、俺はお前を殺すんだ。俺に家族を殺させたお前を、みんなを殺させたお前を、お前みたいな存在を俺は許さない。絶対に、殺すんだ、絶対に」
止まれない。彼は絶対に止まれなかった。
誰にも認められなかった人生だったわけじゃない。ただ認めた人たちを皆殺しにした人生だっただけだ。ただ汚れない存在を守る為なんてそんな理由で自分は全てを殺した。
これ以上そう言う絶望を彼は認める人生であってはいけない。だがから彼は間違える、何度だって間違えるのだ。
間違えて間違え続ける、視界が眩み足元は覚束無い。歩くことすらままなら無いというのに剣を突き立てて歩き続ける。戦えないのは明白だ、それでも彼は死ぬまで戦い続けるだろう。
アイシャと言う存在を認めないために、過去の犠牲を代償に彼はここに居るのだ。
ふら付きながら剣を構える、二度三度と足を踏み外しながら、目の前に存在する彼が認める事の出来ない命ある者を彼は殺めようとする。
「認めない、絶対に認めない。お前がして来た事の全てを俺は否定しつくす、お前が抱えている物の全部を認めない、全て間違えてる。全部が終わってる、何一つお前から生み出された物を俺は否定して、し尽くして、それでも命の価値を認めてやる。
俺に殺されると言う価値だけを認めてやる。それ以上の価値なんてやるか、お前だけはそうやって殺してやる」
たまっていた汚濁が溢れているだろう。
それでも彼は言う。絶対に全てを認めないと、お前の命の価値は俺に殺されることだけだと、強張ったような表情で突きつけられる悪意は、彼女の全てを否定していた。
だが彼女はそれを認められない。大切な存在が居る、守りたい存在が、彼女はそれを抱えて生きていくのだ。
この愛しき子供を腹に抱えたまま。
その子供の全てを認めず、兄はただ殺してやるという。それを彼女が認める事などあるわけが無かった。命を平等に扱う筈の彼女は、たった一つの命を平等に扱っていない。だがそれが彼女が人間である証明なのだろう。
ただ殺意に汚れた男は、剣をふらつきながら構える。必ず殺す事を決意しているから。
ただ慈愛に満ちた女は、それを許さぬと構える、絶対に守ると決めているから。
間合いに入っていく二人。一人は足元すらおぼついていないのだ。地面を汚す血の後は、彼のこれまでの歩みを教えているようで、悲劇的にすら思える。女はただ歩いているだけだ、誰かと一緒に支えられるように、それが彼女の生き方だった。
これで終わりになるきっと誰もがそう思った。既に全壊している闘技場の中で、何人の人が生きているのかすら分らないが、それでも誰もが思ったのだ。実際それはその通りである、これ以上剣神は戦えない。
だがこれ以上の殺意を持って彼は剣を振るうのは分っていた。
緊張が弾ける時を待っていた。心臓すら蝕む痛みを経てその時は始まる。
そしてその始まりはセンセイだった。ただ地面を蹴ってそのまま倒れるんじゃないかと思うほど後先を考えていない前進であった。それに対して彼女は正面から叩き潰す算段なのだろう不動のままだ。
しかしそれでも剣を振り下ろしたのは彼女が先だった。それに合わせるように彼はある軌跡を再現する。その衝撃は受けたアイシャ自身が驚くようなもので、武器破壊だけを狙ったような一撃は彼女の剣は一瞬だが止まる。
その一瞬で彼は一歩だけ後ろに下がった。そこに彼女の剣が振り下ろされるが、彼の顔先三寸を抜けていく。そしてさらにもう一度、彼女の剣に向けて無理矢理の溜めを作らせるために、同じ軌跡ぶつけた。
もはや嫌がらせとしか言えないその攻撃に、彼女は困ったような目をする。
何かの意図があるのだろうが彼女には読めないだろう。何しろ軌跡再現ばかりで彼は手に持った剣を振ろうとしていない。
そこに彼女はまた刺突を放つ、その軌跡は彼の心臓を目掛けた物だったはずだが、少しばかりずれてしまったのかセンセイの顔目掛けて放たれた。一体何が起きたのだと動揺しているようなそぶりだが、ここで彼の頭を貫けばそれで終わる筈だ。
だがそれを彼が許すわけが無い。ただ首を一つ動かすだけで避けてしまうが、同時に彼女の攻撃がその程度で終わる筈が無い。そのまま横に断頭の意思を込めた横薙ぎが払うように放たれようとした。
だが酷く鈍い金属音がその横薙ぎを止める。剣で止められたかと思ったが、彼女の感覚がそれを否だと否定していた。手応えの割りに随分と柔らかく受け止められたようなそんな不一致。少なくとも剣での所業ではない、判断したがそれは正解だ。
「え」
センセイは口で武器を受け止めていた。まだ彼女が武器を振るう前に一瞬で噛み付いたのだ、相当な力で噛み付いているのか口から血が滲み、唇は剣によって傷ついていた。このまま振り切れば確実にセンセイの首を引き千切れるだろう事を理解しながら、アイシャは彼から離れる。
凄絶な鬼気もそうだが、彼にはまだ剣が残っていた。あのままでいれば相打ちに持っていかれるのは明白だ。同時に彼の気迫に恐れたというのも事実だろう、それぐらいの事をやってのける男だと思わせればそれだけ心理戦では優位に立てる。
だが彼の歩みは止まらない。それに追い立てられるように軍神は更なる攻撃に踏み切るが。それを迎え撃つようにようやく彼は剣を振るった、生涯が終わるその一瞬まで彼は歩みをやめないだろう。
彼の本質は必死に歩く人だ。だが同時に後ろに歩く人でもある、そうやって道を間違え続けた先に、彼の人生の解があってもおかしくない。彼は引き連れる、これより先の過去も、これより前の過去も、今現在の過去も、ただそれを合わせて重ねて後悔の剣を作り上げる。
軍神と真っ向から立ち向かう為の剣を彼は練磨し続けた。己の罪の全てを引き連れるために、そしてこの状況において彼は開眼する。それをきっと人は剣の根源などと呼ぶのだろう。全ての己の罪を引き連れる技を軌跡再現と呼ぶ、そしてこれはそれをさらに昇華させただ今までの人生の後悔を剣に変える。
殺した、いっぱい殺したのだ。大切な物ばかりを、そして尊敬する人々を、義務で自分でも理解できない行動で、ただ純粋な力比べで。彼はそうやって人を殺し続けた。
そして妹に負けたくないと、必死に剣を振り続けた。そして復讐の為にと剣をとって振るい続けた。ここにその絶望が一つの形を迎える。
絶望が一つ増えるたびに、その強さを増した剣神と呼ばれた男は、その抱えてきた全ての感情を剣に変えた。届いてくれと願う、彼の人生の輝きは今までの人生がきっと劣らぬ物だと言い張る為の証明。
甲高く響けと願う、これが今までの結末であり人生。
剣戟 罪業合一 、これより彼の剣術は後にも先にも存在しない。たった一つ彼が編み出し作り上げた彼の全てだ。その剣は彼のこれまでを作り上げる、全ては人殺しの術の結晶、過去から一切の振り続けた自分の剣の集合。
ただそれを今の剣の一点に合わせるだけ、彼の過去が軍神に劣らぬと証明する為の人生の終端の証明。その剣は証明できる、これまでが間違っていた事を、これまでが正しいわけがなかった事を、その成果を彼は振りぬいた。
間違っている、自分は全てを間違えたと言い張る為に、全ての命に価値があるからこそ自分は殺した殺戮者だと宣言する為に、過去の涙さえも剣に変えて、殺した人々の顔の全てを思い出しながら、人生は剣となって駆け抜けた。
それでもその結果は激しい音を立てながらの相打ち。しかも弾き飛ばされる二つの剣は若干だが軍神が上だった。それ自体が彼の人生を侮辱する様な行為であったが、彼の人生の全ての打ち込みを軍神はただ一振りにて上回った。
全身をとして振るわれた剣を弾かれたセンセイは、体幹を崩して体をふら付かせている。
だが軍神はそんな状態を逃す筈が無い。まさか自身の限界を持って振り切った一太刀がセンセイの剣と相打ちになるとは思っていなかった。
彼女はその動揺を踏み越えて、その絶対的な隙を逃さない。ただ大切な存在を守るために、ここで兄を殺しても守る。そして生きていたのなら一緒に家族をやり直すと決めていた。
体がふら付き、一瞬彼は軍神を見失う。だがそれでもまた剣を振るえる体勢に持っていた彼も凄まじい物があるだろう。だが淀んだ体勢から、先程の絶技は出せるはずが無い。あれは万全を期して出せるそういう類の技術だ。
ただその二人の剣は最後の結末を迎え為に疾駆し重なり合う。
後の未来にも存在しないだろうとされた唯一無二の英雄達によって紡がれた殺し合いである。王都御前試合、その壊滅的な被害もさることながら、勝敗が知られていないことでも有名な最後の戦い。別名を終わらぬ戦いとされたその結末は、やはりと言うものだったのかもしれない。
二人の最後の交差はそれで終わりで、これこそが彼と彼女の戦いの結末だ。剣は終わる、ただ二つの剣が翻り、敗者の体から勝者の剣が突き出されて捻られた。武器の重なる音すらしない静かな結末、ただその結末を見た物達は目を驚愕するだけだった。
どこかでこの戦いが終わらないと勘違いしていたのかもしれない。だがそれは終わる、当たり前の話だが、始まった事が終わらないなんて事は無い。台無しかもしれない、納得かもしれない。
だが二人の剣士にはただ喪失感があっただけだ。こんな終わりが最強の結末かと、神話の再現すらも行ったこの戦い。残った物など何もなかった気がしたて、どこかあっけないその戦いの終わりを見て、ただ彼女達は静かに俯いた。
戦いの終わりの音が響く、ただ崩壊した中に人々がうめき声を上げながら。ありとあらゆる物が軍神によって切り裂かれ、廃墟となった場所。後に剣神の祭儀場と呼ばれる英雄達の墓標で歴史に埋もれたその戦いの結末は当然のように存在した。
終わったその光景はまるで一枚絵のように見えた。ただ沈黙だけが存在して、勝者と敗者が別れて、何もかもが終わったというだけの事。
片方が空振りするなどと言う事など誰も予想していなかった。
だが納得するしか無いだろう。それが結末だ、その隙を目掛けて剣は放たれた。敗者はそれを見た事があると震えた、たった一度だけ怯えたその術と使い手の事を思い出す。
時差剣戟、そう呼ばれた技だ。そして使い手をヒルメスカと言った。
昨日と言う日にこの戦いに赴いた二人を戦慄させたもう一つの剣。しかしそんな技だからこそ敗者と勝者が別れた。
哀れな敗者はただ叫びだす、こんなの認めないと、こんな事があって良い筈が無いと、しかしそれは全てが終わってしまった結末。
この場所でセンセイと言う男の人生が終わるだけの話だ。
ここに彼は復讐を貫いた人生は終わる。ただ全てが終わり、過去のも未来も何もかもが抜け落ちた。そんな兄と妹の戦いの結末は、なんてことは無い軍神は剣神に敗北した。
ただそれだけの事、ここに復讐に到る男の物語はようやく結末を迎えた。
執筆BGM
amazarashi ナガルナガル ラブソング アポロジー
ムック 謡声
スキャットマンジョン Everybody Jam!
志方あきこ ロマの娘 埋火 迷夢 サクリファイス ラジヲ予報
奥井亜紀 なくもんか 夢の帆船 つよくなりたい
SURFACE 線