三十三章 救いの生贄
人を救うものが、人に救われる事があるのだろうか。
それがどうあれこう言うべきなのであろう。ある訳が無いと言うしか、言葉を持ち合わせていない。
そもそも人が人を救う事が奇跡の所業だ。人を救う救世主と言う存在は、ただ人にとって都合が言い存在であり、人がそんな存在を救うなどと言う発想をする事自体出来ないだろう。
その暫定的証明が、聖女などと呼ばれたり、軍神などと呼ばれたりする。人にとっての都合のいい存在である彼女だ。
私の子供を助けてくださいと泣きながら叫んだ彼女。しかしだ、誰一人彼女を救う術を持たない。なぜなら彼女が子供をはらむと言うこと事態が、誰かが彼女を汚した証明になる。
であるのなら、彼女を汚さない事を優先するこの世界の論理は何をするかなど決まっていた。目を塞ぎ耳を塞ぎ、子供の正体を断絶するのだ。
その夜に泣きながら彼女は救いを求めたが誰一人、救ってくれることは無かった。
それどころか誰も彼もが逃げる様に彼女の周りに来る事すらない。酷い悪夢だろう、都合のいい存在、軍神と呼ばれた彼女は崇拝される。しかしその汚れた筈の部分は人の目に当たる事はない。
彼女の本質は人間であると言うのに、その悪夢人に受け入れられるのだろうか。
ひとえに彼女を汚さないと言うただそれだけの呪いが、彼女の降りかかる。かつて一人の男の注いだ汚濁ではない。自分が穢れない存在であると人に認識させる論理が、初めて彼女に牙を剥いた。
股から血を流しながら助けてと願う。痛む下腹部を抑えながら人を探すが、誰一人彼女の前に現れない。遂には心が折れた彼女は、廊下に突っ伏した。
母を殺して、自分は子供さえ失う。嫌だ、嫌に決まっている、そんな孤独に耐え切れるほど彼女の精神は成熟していない。
涙を流して、誰か助けてと必死に願った。彼女を救える人は居ないと言うのに、それでも救いを望む、その結末は自分を自分で救うと言う結論だけだというのに、その願いを受け入れてくれるものを必死に願った。
それは彼女の心を壊す行為だ。今から失われようとしている命に、必死の救いを壊れるの彼女でなくてはならない。その為だけに彼女は作り上げられてきた、そしてセンセイは壊され続けてきた。
純粋無垢であり続ける代償は、今まで全て払われてきた。
だからこそ彼女は穢れてはいけない。汚されてはいけない。救世主のあり方でありそれが神の存在の形だ。
「なんで、何でこんな事に、なんで。皆がいれば良かっただけなのに」
彼女の悲痛な悲鳴は響くが、誰にも届かない。自分の子供にだって届くことはないだろう。知らないで居た彼女は、それこそが罪である事を知らない。
純粋無垢、それこそが彼女の呪いだ。知らないでい続けるという、彼女が彼女である限り逃れることの出来な呪縛。だがそれは別に彼女に対して全てプラスに働くわけではない。
その一つがセンセイ、そして今の状況だ。
彼女はそんなことはどうでもいいだろう。今は救ってくれと願うことが彼女の全てだ。それを成し遂げる事が出来るものが存在せず。
そして誰もが彼女の目に触れることは無い。穢れた彼女を見る事など人が出来る訳が無い。
「誰でもいいから。救ってよ、私の赤ちゃん、お願いだから。誰でもいいから助けて」
響くのに、声はどこまでも届いているのに、彼女の声は伝わらない。
皹の割れていく心、穢れ始めている少女の感情を世界はどうやっても接ぎ直すだろう。そして人々はそれを受け入れて、当たり前のように賛辞を送る。
ただ一度でもその現実に気付いた彼女は違う。恐怖に顔を引き攣らせて泣き喚く、たった一度そのずれに気付いた時、人が恐ろしくなる。ただ自分に救いを求める化け物たち、救済を押し付ける信者達。
大なり小なり人にはある事だが、その度を越えたとき、人類全てが醜悪に見える事だろう。
その時彼女は人をどの様な目で見るのだろうか。それだけはまだ誰にも分かりは無しない。だが恐怖以外の感情は浮かばないのではないだろうか、何しろ生きている限り知らずに救済を求めるような理不尽だ。
そして自分を人としてみない存在、こんな扱いをする存在が自分の視界に居ること自体考えたくもない。
自分を人間扱いしないような存在の前に居る事等耐え切れるわけが無い。
酷い悪夢だ。目も眩む様な残酷な話、その現実が今だ。人は見ない彼女の汚れたところなど、そして汚れないようにと最善を尽くす。
これが彼女と言う存在の全てだ。だが彼女はそれを認めない、認めてしまえば彼女の全てが台無しにされる。
彼女もまた、兄と同じくそういう存在である。嫌われるかで嫌われて恐怖を抱かれた剣神、穢れ無き美しい救済の証左としての軍神、どちらも人として扱われないという事に関しては同じだ。
崇拝であれ、忌諱であれ、人が神に抱く感情など人で無いという侮蔑に過ぎない。なにより都合のいい解釈をすればいいだけの事。崇拝対象に幻想を抱くなど人間なら猿の如くやってくれる。
与えられた情報のみで、勝手に妄想を拡散させるのは人の業と言えば業だ。
そしてその度を越えるとこうなるのだ。人の扱いなどされない、ただ助けてと祈りをかける存在がいることにすら誰も気付いていない。
どこまで神のような存在であろうとも、彼女はやはり人間なのだ。出来ない事などいくらでも存在する。周りは彼女を都合のいいように望んで、この二人を作り上げたことすら知らないだろう。
神の父や母が人である様に、彼女を生み出したのも結局の所は人なのだ。
それはあらゆる意味で通ずる。本来彼女は悪くない、ただ運が悪いだけだ。致命的にずれた二人の関係は、一人の男の無様な嫉妬であり愛情だった。
その愛情を利用し囁いた魔女の言葉が引き金になって、ひとりの絶望は誕生する。彼女の性質が問題なだけでたって、べつに二人の破綻に彼女の悪意など存在しない。
純粋無垢がそれを許さない。知らないという罪が彼女を滅ぼす。
彼女は一歩目を間違った。人に流される後悔を、今更知ったところで遅い。悪意と善意と同じ言葉だ。
自己満足の言い訳である二つの言葉は、対義語ですらない。ただの同意語だ。
痛む腹を支え名が空の序はそれを思う。みんな自分の為と言った、言ったのだ。
全て貴方の為にと、違う全部違った。彼女に与えられた美麗字句は、全部確かに自分のためだったのだろう。
彼女を汚さないと言う自己満足の虚飾を作り上げただの人間の善意と言う名の優しさだった。これがその結末だ、兄が死んだ時に彼女は父に体を開いた。その時でさえ、父はこう言ったのだ。
お前が忘れる為ならと、その結末は今だ。父の愛情の結果は孕み落ちた。
まるで彼女と引き離される事が運命だったように、蝕まれるように痛む体が、彼女の気持ちを代弁しているようですらあった。
恐い、恐いと、全てが無くなっていくように彼女から離れていく。
誰もが彼女を自己満足の純粋無垢の為に命を削る。誰一人として彼女を人間として扱うものはいない。
ならば彼女は一体、誰が人として扱ってくれるのだ。
いない、どこを見た所で存在しない。いる筈など無い、全てが自分の都合のいい偶像の為の代償として彼女を扱うのなら。
彼女は神で無くてはならず、彼女は人である事が許される筈も無い。
「助けて、助けてよ。私は、何も分からないのに」
きっと彼女はここで、自分が人では無いと突きつけられたような恐怖を感じた。
だからこの子も産まれないのではないかと、だから兄は自分を疎んで壊れた。そうだそう考えれば、などと思って歪んだ頬がどれほど歪だったか。
都合のいい言い訳が出来ただけだ。そんな思考にかぶりを振りながらも、兄に殺してもらえればと思った、そうすればこの事一緒に死ねるとも考える。
けれど彼女はそれも認めたくなかった。生れてくるこの命に祝福が無いなんて、そんな事が認められる存在ではない。どういう理由経緯があろうとも、彼女は命を礼賛する事に疑問を抱かない。
浮かんだ絶望への都合のいい逃避を彼女は諦めるしかなかった。
「けど、私は、私は守りたいのに、分からない。なんでいっぱい覚えてきたのに、浮かばないの」
その絶望を口にしても、彼女はこのままでは救えない。
所詮与えられてきただけの彼女は、応じられなければ何も出来ないとでも言うように、なに一つ頭に浮かぶことすらなかった。
彼女を支えてくれる筈の家族は、父を息子が、母を娘が、死体に変えてしまっている。きっとどちらかでも生きていたのなら、彼女の子供は救われたのではないか、弱気になっている彼女はその様な事を考えて涙を溜める。
「私はいっぱい頑張ったのに、願いは叶うのに、なんで何も私は、もう、どうして、大切なものばっかり消えてるの」
今考えれば全部が納得がいく。転化までしていた兄の精神状況も、自分がかけてきた無邪気と言う名の刃の意味も、きっと自分と言う人間は知らなさ過ぎるのだと。
「私は何も知らないから、何も知ろうとしなかったからこんな事になったの。そんなの、そんな事でだったら」
知識の使い方を全く知らない愚か者。力を使うこと言うことの意味を知らなかった存在。知らないと、聞いた事が無いと言い張れていた自分が深く刻まれる。なんておろかだったのだろうと、知る事を許されなかった彼女がようやく自ら動き知ろうとしていたのだ。
「守ってみせる、この子だけは私が守ってみせる。絶対に死なせたりなんかしない」
それは純粋無垢の呪いを弾き返せるかと言えば不可能だろう。
産まれもって彼女はそうなる様な存在だ。人がじゃない、だが知ろうとする事に罪は無い。そっと腹に手をやる、彼女の決意はなんと素晴らしい事だろう。
その素晴らしささえも純粋無垢の代償になるのだろうが、それは彼女はそうなりあがる存在だから仕方ない。
「回復系の魔法じゃきっと死んじゃう。もっ違う何かだ、この子が力を得るようなそんな方法、あるはずなんだ。私は知ってるんだから、絶対に何か」
叫ぶように知識を巡らせる。子ども自身の生命力を上げるようなそんな方法、彼女は生きててさえくれればそれでいいと考えた。死ななければ自分がもっと先の可能性を用意して上げられると、ただいまは死なないでと願うだけだ。
母が子供の生を願わないわけが無い。ただ生きていてと彼女は願うだけだ。そのために彼女はどんな事でもするつもりだった。
「必要なら腕だって私の体だって、お兄様だって目的の為に腕だって切り落したんだ。私だってどんな事でも、どんな、こと」
ただ一人の子供のために全てを使い尽くそうと決めた聖母は、一つの可能性に行き着く。
それは奇しくも死の化身であるセンセイから閃く。その事に彼女は少しの恐怖を感じてしまったが、もうそれしかなかった。
残された幽かな糸を手繰り寄せるには、もうそれ以外に存在しない。
「転化なら、けど危険性が、時間は、それしか」
彼女は呟くように可能性を上げていく、当然のように転化の代償を彼女は知っている。二度と魔法が使えないだけじゃない、絶対的な寿命が縮む。だが本質的な問題はそこではない転化の施術は、自分の魔力循環を意図的に弄る事による物だ。
本来ならさほど難しくは無い代物なのだが、だがその転化が出来るほどに胎児が魔力の循環させているか、またその反動で死なないか。
本来は自分が自分にする調律のような物なので、他人に対して行なう代物ではない。果たして彼女がそれを完璧に行う事が出来るのか。
様々な、可能性を上げても可能性は七割前後、万全を期すなら時間をかける必要があるが、その様な時間は無い。ここで選ぶしかないのだ、そして彼女はそれに全てを賭けるしかなかった。
「助けて見せるからお母さんが、絶対に死なせないから」
優しげな声をかけて一度魔力の循環を彼女把握する為に目を閉じた。
それで分かった事など、たいした事ではなかったが、それでも彼女にとっては朗報だったと言っていいだろう。
胎児の間は母親と魔力の循環を子供は同一であった。それはきっとへその緒を通して、子供と母親が繋がっている為、循環に対して齟齬を与えない為の生命の進化の形なのだろう。これなら大丈夫と彼女はほっとした表情をする。
これできっと子供が助けられると、そんな事を本気で考えていた。転化の施術はさほど時間を要さない、ただ最善を果たすために普段なら使わない陣を形成する。本来であるのなら魔法の初心者の補助用の代物なのだが、これを使うことにより魔法の精度を上げる事が出来る為、精密作業をする魔法使いなどは好んで使用している。
彼女も転化の精度を上げる為に陣を形成した。魔力の流れの増幅や自身の魔力の子供に対する分配や、転化に伴う付加の分散と言った、様々な意図を持たせた陣は、淡い光と共に完成しようやく彼女は施術を行なった。
その結論語ってみようか。彼女は喜んで跳ね回った、救えたと言う言葉を何度も口にしながら跳ねていた。確かに子供は死ななかった、死ねなかった。
だが生涯彼女は子供を埋めない体になった。それの方が好都合な存在はいただろう。そして子供は二度と生まれなくなった。
「これでずっとお母さんと一緒だからねセインセイズ」
ただ優しく兄の名前を読んだ彼女は、子供を転化させた。それは良かった、確かに子供は救えただろう。だが同じ魔力の循環をしている上、へその緒で繋がった母子は同化してしまった。
それは寄生と言っても良いかも知れない。
転化の結果は母子の同化、二度と子供が生まれない変わりに引き離されることも無い。子供を救った母は満面の笑みだった。彼女は救われた、確かに子供を救ったのだ。
その大切な子供に彼女は名前をつけた。もう兄とすら呼べない死神であるセンセイの名前を、つけてこれからずっと家族をはじめようと笑っていた。
「絶対にあの人を倒して、みんな幸せにするからねお母さんが、それがきっと一番正しいことだもん」
夢は叶える事が出来る。願いはきっと届く。
それを知っている彼女は現在を喜んだ。未来を作れたと感謝した。一人を除く人類が望む形で、彼女は穢されなかった。
二度と生まれず成長しない子供、その子供の力を使うことの出来る軍神。転化しているのは子供だと言うの代償も無く転化の力だけを手にした。二人で一つとなった母子は、ようやく完成を向かえたのだ。
「お母さんは頑張るから、辛いことだけど。セインセイズを殺されるなんて認められないもん。私はあの人を絶対倒すよ」
人々の笑顔が世界に浮かぶ。ここに純粋無垢の呪いは成就した。