三十一章 軍神悲嘆
彼女は一体何が起きているのか分からなかった。
ただ押し寄せる不安を拭う為だけに、走り続けているだけなのだ。もしあの騎士が兄なら何もかもが回ってしまう。
そんな完成形の歯車を想像して、目に涙が自然にたまっていくのを止められない。あの殺意は止められない、理解はしていたけれど、王道の放った言葉が彼女に突き刺さり吐き出しそうになる嗚咽を隠す事が出来ない。
押し寄せる不安が彼女を潰そうと、胸を酷く痛ませ激痛となって泣き喚く。こんな焦燥を彼女が感じる事等、本来起こる筈の無い事態だ。だが一人の残骸が彼女を追い詰めている。
純粋無垢と言う罪を彼女に突きつけて、正しい事の罪を刻み付ける。人が生きているのなら、存在しているのならば被るべき罪業が、兄と言う存在となって具現化しているのだ。
知らないでは済まされない。ようやく軍神は人並みを手に入れ、その現実から逃げるように走り続けていた。彼女が向かうのは、この事態を正しく知っているであろう一人の人物であり、いまや正気を保っているのかすら分からない母親だけだ。
先生によって目を抉られ、眼球を軍神が復元させても、かろうじて人の姿を把握できる程度までにしか回復できなかった母は、何かに酷く脅え続けていた。
逃げてと何度も繰り返す様は、娘としても辛いものであったが、ようやく何から逃げたらいいのかを彼女は理解していた。
兄だ。あの過去の象徴、全て終わった事だけで作り上げられてしまった残骸。過去とは全てが終わった者達の象徴だ、それは万物平等に起こるもの最大表現でもある。
人はそれをきっと死と呼ぶのだ。ただ当たり前に起きる事、人間なら誰しも知りながら気付けば目を逸らすそんな代物だ。
人は死ぬ。絶対に、確実に、徹底的に、生き続ける事など出来ない。
人間は確実に死ぬのだ。呼吸をしても死ぬ、人を助けても死ぬ、全ての人間を救っても自分共々全員死ぬ、きっと愛を交し合った時ですら死ぬ、笑顔で笑っていても死ぬ、悲嘆に上げ着続けても死ぬ、一家の団欒の時でも死ぬ、当たり前の事実のように人は死ぬ。
死ぬために人は生まれてきたと言ってもさして差支えが無い。人は日常の風景の中で当たり前に死ぬ、それは決まっている事で、誰もが自覚しながら目をそらす事だ。
しかしセンセイはそれを見せ付ける。お前は死ぬのだと、ただ呼吸するようにそれを刻み込み、死からの逃避を許さない。何もしていなくてもいつか起きる事を再認識させる。
二人の母は、時代を渡り生きてきた魔女だ。死を奇異し、自身の肉体の劣化さえも超越した存在だからこそ、死に最も離れていたはずだった。だが現実は甘くない、彼女の息子はただ殺さなかっただけに過ぎない。
体を惨殺し、心までもを切り開いたのは、きっと彼女に見せてしまったのだろう。センセイと言う男が抱えてしまった本質を、過去のみに執着した残骸の本性を、実像と言う虚飾を引き剥がした後に残る彼の姿を彼女は感じ取ってしまった。
あの存在には死しかないと、同時にお前は死ぬと母に刻み付けてしまった。
生きて人類の先を見たいと望んだ魔女にとって、過去は何よりも恐ろしいものだった。這いよる様に彼女を縛ったセンセイの悪意は、消え去る事すらない恐怖となって母の心を刻み尽くした。
まともに会話さえ出来ないそんな状態の母に彼女は問いただそうとする。兄の事を、発狂しかねない存在について聞こうと考えているのだ。少し考えれば分かりそうなものだが、彼女の生い立ちがその様な心の機微を読み取れるような当たり前の思考を許さない。
がたんと扉を激しく開けた彼女は、その音に半狂乱に悲鳴を上げる母に走りよった。
「お母様、アイシャは聞かなければならない事があります」
狂わんばかりの悲鳴を上げた筈の母は、ただ彼女の一言に制止した。
それはアイシャ自身も何事だと驚く変貌振りではあったが、ある意味では正しい。息子の恐怖を、それを同格か上回る彼女が来れば恐怖も薄れるだろう。
だが彼女からすれば、ちょっとした異常事態ではある為、一瞬母が気絶でもしたんじゃないかと考えたようだが、そういった事も無くぼんやりとしたまま娘を見ていた。
「ああ、アイシャじゃないか。どうしたんだい、聞きたいことって」
「え、あのです、あれです」
気味の悪いぐらいの変貌振りに、アイシャ自身どういっていいのか言葉がうまくでないようで、あれですなどあまり要領の得ない会話をしている。
あまりにも病的な変化に彼女は、ゾッとしてしまう。これが人の精神状況なのかと、だが自分が作用しているのかも知れないなどと普通は発想できない。と言うより自分が人間である限り、自分の都合のいいよう人間が動くと言う発想が出来る人間はただの頭の病気か、思考が破滅しているだけだ。
ある意味では一般的な感性も持っているアンバランスな彼女は、そんな状況について生けていない。それでも頭の中にある疑問を必死になって探し出す。
「あのです。お兄様は何故なんな風に」
そうしてでてきたのは直接的な言葉だった。母は兄と言う言葉を聞いた瞬間顔を青くさせるが、首を必死に振り自身の正気を保とうと必死なそぶりを見せている。
だがその恐怖を必死に拭おうとしているのか、それとも別の要因なのか、ぎこちなくではあるがゆっくりと笑みを作り上げた。
「最高傑作だよ。私が作れる限りの最悪だね、あれを作る方法は考え付かない。偶然だがまさか極端の存在が二人もいるとは、素晴らしい話だよ」
喜悦に歪んでゆく表情に、母の本性を見た気がしたアイシャは、ぞくりとした感情を吐き出すことも出来ずに怯えている筈なのに嬉しそうに語って見せた。ある程度の心の安定をアイシャがしているからであろうが、ゆっくりと歪んでいく表情は随分と自慢げすらある。
「流石は剣聖だというべきだよね。何しろあの馬鹿夫がいなければ、あれは出来なかったんだ。素晴らしい屑だったが、私の望む物はあいつが全部用意してくれた」
「何を言ってるのお母様、アイシャは何を言っているのか分からないよ」
「おや、何を言っているんだいアイシャ。我が息子があれ程、破滅した理由の一人だろう。何を今更分かりきった事を言っているんだい」
吐き気がしてしまう。母の言う言葉は間違いなく彼女の心を抉っていた。
何よりも何故そんなことも知らないのと、不思議そうに言う母の姿は、そもそも彼女が気付いていない等とは考えていなかった。
だが彼女が驚く瞳を見て、そうかと呟いた。
「本当に知らないんだ。なんて滑稽だ、全部息子に持っていかれたか。
穢れない白とはそういう事か、だからあれは、あんなふうに破滅したのか。なるほど、次を作る機会の為に忘れてはいけないな」
「何を言っているお母様、私がお兄様に何かしたみたいに」
「何言っているんだい、生まれてからずっとじゃないか。ずっと、ずっと、息子の全てを奪ってきたじゃないか。私だって君が生まれてから、あの子を息子と見た事なんて一度も無い、それが我が領内ではいつもの様に起きていたじゃないか」
不思議な事ばかり言う娘だと思いながらも、彼女にとっては当然の事だった。
使い物にならない息子の名前すら覚えられない母。だが同時に何よりも状況を知っている存在でもあった。
娘の作用を実験動物扱いして見ていたような女だ、次の為にその様な事に対する作用の研究にも余念が無い。
「それでも本来ならそのまま諦めるものだけど、私の夫が素晴らしい事をしてくれたんだよ。いやあれは私の提案でもあったのかな、性能の把握をしたかったしね。
ちょうど評判で彼の名声が聞こえ始めた頃だったかな。夫と私がちょっとだけ、王に進言したのさ、この貴族が蛮族と連絡を取っていますと、そうさあの大反逆者ノンノールズ・ニーイロス家をちなみに事実無根で、報告したんだよ。その時についでに魔女の技術を使って、ちょっとだけ王様を操ったけど、仕方ないよね。どうしても必要だったんだ、それなりの腕を持って使える敵がさ」
王国未曾有の反乱 ニーイロス動乱、軍神の判断により神速をもってニーイロス家の領地に侵攻し解決したとされる王国史上に残る反逆事件。領民すらもニーイロスに連なるものが殺したため、ニーイロス大虐殺と言われ恐れられた彼女の初陣。
彼女にとっても忘れられない自分の失敗と人の破滅を見た初めての時。
「え、え、お母様それじゃあ、私は私はお兄様を何の咎も無く」
「いや咎はないけど理由ならあるよ。あるのは我が夫の類稀なる先を見通す嗅覚さ。たった一人だけあの息子の悪意を見出していた、流石は剣聖なんていわれるだけはあるよ。
多分だけどいつかアイシャに剣を向けると本気で思っていたんだろう。だから彼の評判が良くなるたびに、警戒していたのさ。それを私がちょっと唆しただけなんだよ」
母の言葉は彼女の耳に正しく入ってきたのか分からなかった。
言っている事の全てが、ただ自分の実戦経験の為に兄をあてがったと言っているようにしか聞こえない。
そんな事はありえないと彼女は思うだろう。私達は家族なんだからそんな事はありえないって、彼女は信じているのだ。
なのに現実は狂っていた。何もかもが正気じゃ無いと、彼女だって分かるだろう。
自分はこんな狂人を母としていたのかと、これなら兄だってこうしてしまうと、嫌でも理解させられる。
自然に剣に伸びた手が、彼女の判断を待つ。母にはその姿は見えていないだろうが、無意識で延ばされた自分の手に、母がどう言う物であるか理解してしまいそうになる。あれは唾棄するべき存在だ、人でなく人でなし。
「私は魔女だからね。人の可能性を見たいんだ、その完璧な象徴が一つが君だ、そしてもう一つが息子、私の腹から二つの珠玉が生まれたんだ。それを練磨する事に何の躊躇いがあるだろう」
「私は別に、そんなものに」
「君は生まれながらに完璧だったじゃないか。少しでも欠陥があればよかったんだよ、そうすればただの次の魔女になってもらえたのに、完璧すぎるから人には身に余るから、完璧の代償を払わなくちゃいけなかった」
平等と言う言葉はこういうときに使うのさと笑う。
人の身に余る完璧を人の身でなすなら、代償を誰にか払わせればいい。それが魔女としての彼女の結論だった。
「とは言え、予想外だった。あれがあんなふうに成るのは、人はああなれるなんて思わなかった。だから私は恐い、あれほど恐ろしい者なんてそうはいない。
今は落ち着いてるけれどきっとまた壊れてしまう。だってあれは無理だ、あれだけは無理だ、私とあいつと君が生み出してしまった化け物は、もう止まらないんだろう」
「私はそんなことしたくない。何でお母様は、人の事を考えていないの」
「はは、そりゃ君と同じ理由だ。君ほどの才覚があれば、気付けても不思議ではないのに、あの程度の男の策に乗せられた。気付いていたんだろう本当は、ただ人の所為にしただけなんだろう。
そうでなければあんな物は作れないよ。無意識では自覚していたのさ君は、あの化け物の危険性を、命の簒奪者たる我が息子の本質を、だからあの凡愚如きに騙された」
これは所詮母の推論に過ぎない。だが彼女は口を開く事が出来なかった。
なぜなら自分は本当に気付かなかったのかと、思案した時に、気付ける要因など湧き出る水のように当たり前に存在した。
目を逸らしていただけ、優しい兄と盲目的な愛を信じた妹、そんなもの存在しない証明などいくらでも出来るというのに、彼女はその絆を信じ続けたかった。
だから彼女の感情は母の言葉に対しての否定しかない。
そんな事は無いと、大きな声を上げて首を振る。それが彼女の意思でもある、くらむ心の立ち位置に、必死に立ち上がる意思を彼女は込めているのだろう。
それでも伝わらない。届かない。
そんな状況でも自分はそんな事は知らないと、拒絶を持って証明するしかない。今はきっと届かないだろう言葉を未来に彼女は繋げる為に、ただ否定する。
たとえ無理であったとしても、彼女は純粋無垢を貫き続けるしかなかった。
「わたしは知らないよ」
「は、あはは、はは、凄いな。よくその言葉が出せる。私には無理だ、知らないなんて言えない。そんな恐ろしい言葉、口になんて出来ない」
どこか凍りついた母の顔を彼女はどう思っただろう。
娘の言葉は、本当に偽りない物の様に響いた。そしてそれが酷く気持ち悪く響いていた。彼女は未来を信じた、いつか兄は変わってくれると、きっと仲良くなれると疑っていなかった。
純粋無垢よ。これが純粋無駄と、疑わなかったのだ彼女は、自分が本当に仲良くできると、信じていた。人の全てを信じる彼女だからこそ、何時かが来ると夢想してしまっているのだろうか。
母はある意味では息子よりも、悪質な本質を感じてしまう。自分が生み出した者が、どういった存在になるのかようやく目にしたと言うのが正しいだろうか。生命礼賛の意味を理解してしまったのだろう。
「そんな人でなしな言葉は、私には口に出来ない」
震えるように先の言葉に合わせて吐き出された言葉に、アイシャは何を言っているのと不思議に思えた。母は怯えていた、自分を見て、その言動を聞いて、兄と同じように恐怖を顔に浮かばせた。
青い顔をしたままの母に、心配するように近寄ってみるが、怯えるように彼女から離れる。さも常識人ぶって語る母の姿も異常事態だが、そう彼女が口にするほどには、アイシャから発せられた言葉もまた異質であった。
「知らないなんて狂う訳だ。あれがここまで破滅するわけだ。これがあれを作る方法か、無理だよなこれは、自分の行なった事を本気で知らないと言い張るなんて」
「お母様、何を言っているの。だって本当に知らないよ私は、みんな教えてくれなかったじゃない。知らなくていいって、調べようとしたってそうやってみんなが邪魔したじゃない。私が壊した人が知りたかったから、調べようとした時も、みんなが調べさせてくれなかった、お兄様がいる事なんて誰も教えてくれなかった。都合の悪いことは全部、全部、みんなが隠したじゃない。
それに皆がこぞってお兄様をあんな風にしたのに、なんで、何で教えてくれなかったの」
彼女はそれに対して糾弾の声を上げる。彼女は知らされなかった、知らなかった、知ろうとする事すら出来なかった。
ただ一人の人間を汚さないようにと、全ての人が彼女に与えた慈悲であり、罪でもある。だがそれが人を壊すほどに追い詰めた、その結末を彼女は知らないと言うしかないのだ。
彼のような劣悪が出来てしまった責任を、知らず知らずにはは彼女に押し付けた。自分のような存在があれを作る事が出来るわけが無いと逃げていた。
その事を突きつけられる母は、体を振るわせ始める。もう限界なのだろう、二度ほど得ずいてその場に吐瀉物を吐いてしまう。随分と鼻を突く匂いに、アイシャは顔を背ける。
そこに糞尿が入り混じり酷い匂いがその場に立ち込めた。今まで平然としていた母の姿はそこには無く、ただ顔を蒼白とさせながら震える様に違うと声だけを響かせていた。
「違う、違うよ。私はただ君を完成させたくて、あんな物は作るつもりなんて、傑作だけどあんな物は」
「私を完成って、私が、私がなんでなん、望んでないのにそんな事」
「無理だ無理だよ、君は勝手に完成に向かっていくんだ。みんな君の完成を願っていたからあれが出来たんだ。無理だ、絶対に、あの化け者が生まれなかったら君は完成しないなによりみんなが君を完成に持って行く」
君はそういう存在じゃないかと彼女は喚く。
アイシャは望まない事を平然と言う母に対して、私はそんなことなんて無いと否定を繰り返していた。
望まない事を成し遂げたところで、出来るのは空洞だけ。これより未来に王道の行った言葉が浮かぶ。人々全てが望んだ彼女の完成は、その当人が望んでいない事だ。その代償として支払う存在、それが人々全てが望まないものセンセイだった。
「どうしろって言うんだ。君は素晴らしい、この世界で最も綺麗な存在だ。汚しちゃいけない、綺麗であり続けなくてはいけない、誰もが君に対してそう望む。美しく生きていけるなんて素晴らしい限りじゃないか」
アイシャの肩を掴み攻め立てるように揺さぶり叫ぶ。
素晴らしい完成品、私の最高傑作、そんな言葉が彼女に向かって何度も吐き出されるがそれに対して、彼女が口にする言葉など何一つなかった。
完成品、素晴らしい存在、傑作、それは賞賛ではない。人はそれを罵声と言うのだ
人を人と思わない行為。まさにそれに順ずる妄言の粋を尽くした罵倒は、少なくとも母親が娘に対して掛ける言葉ではまず無い。それをただ何も言わずに聞いている彼女は、ただ一粒の涙を流して筋を作った。
鈍い音が響く、銀色の筋が彼女の腰から放たれ母の腹へと突き刺さった。痛みすら感じないまま、必死に娘に対して賞賛と言う罵声を浴びせようやく違和感の立った腹を見て悲鳴を上げた。
「ごめんなさいお母様、けどもう止めないと、お母様はそうやって人をまた殺すんだよね。それは止めないと、私の犠牲者を増やそうなんて考えちゃいけないんだ」
「母を殺す、いやこの世の敵を生み出した悪い魔女を殺すのか。完成してきている、素晴らしい、これでいいんだ、私は二つの傑作を生み出したこれほど素晴らしい人生」
しかしそこで言葉はとまる。心臓に向かって切り上げられた剣の残滓は、母の内臓を彼女にこぼしながら酷い匂いになった部屋に、美しいとは言い難いままに彼女を汚した。
もはや母を救えないと感じていただろう彼女は、したくなかった行為を決意しなくてはならなかった。彼女にとって家族を手にかけるなど、しては成らない行為だったと言うのに、だが彼女はこれである意味では完成を迎えたのだろう。
もはや兄を殺すことに対する経験は出来たのだ。溢れかえる異臭、だが彼女はそんな事を考えてなど居られなかっただろう。
母を殺すことで決意するしかなかった。兄を殺す、そうしなければ人が殺される。彼女はそれを認めてはいけない。幸せな結末を必死に探ろうとしても、分かった事など兄を壊したのは自分で、それを先導したのは両親、全部兄は被害者であったと言うことだけ。
それでも殺そうと言うのだ。嫌になってくる、それを成し遂げようと決意した自分も、そんな決意をさせる世界も、何もかもが嫌になっていた。
「嫌だよ、みんな幸せになればいいのに何でこんな事になってるの。笑顔でいられれば、私はそれだけしか望んでないのに、お母様まで殺して私は、私は何で」
助けてくださいと、彼女は叫びたかった。
けれど彼女は抗わなくてはいけない。家族が死んでもまだ一人大切な存在が居るから、そうして自分の腹をさすって、酷い痛みを下腹部に感じて悲鳴を上げそうになる。その痛みに驚いて自分は漏らしたのではないかと思うほどの湿り気が下着を伝っていた。
それは上着にすら滲む、何気なくそれを触った時、彼女は声を上げる事が出来なかった。
随分とどす黒い血が彼女の手についていたのだ。理解してしまう、ぞっとする悲鳴を上げたくても、大切な最後すらも彼女は失いつつあったのだ。
「いや、いやだ、いやだ。こんな事いや、いやだから。酷いよこんなの酷い」
しかしそれを止める手立ては彼女には無い。
「助けて、誰が誰か助けて」
救う立場の人間が人から救われるわけもない。人々が彼女に押し付けた願いは、誰一人彼女を救う為には存在していない。自分達を救ってくれる存在を彼女に押し付けただけに過ぎないのだから。
やだ、やだと、彼女は救いを求める。不用意に魔法でどうにかしようとすれば、それだけで殺してしまうだろう。魔法は万能ではない、それはこの世界では当たり前のことで、母以上の使い手である彼女は、自覚してしまっていた。
「私じゃ助けられないから。お願いだから助けてください、誰か、お願いだから」
自分では救えない。人の技術を全て使えてもなお、彼女は大切な一つを救う事が出来ない。自分を救ってくれる存在を、生きる足がかりですら、消え去っていく。
何も残っていない。彼女は何も最初から手に入れていないのだから当然だ。ただ押し付けるように渡されただけ、だがそんな彼女に奪われた存在は、今の彼女であってもきっと剣を向ける。
明日、空っぽな存在同士が剣を向ける。そこに救いなんてものは無いだろう。
もはや彼女は自分の大切なものすら見失っていた。突きつけられた事実も全て、彼女を生存させる方向には動いていない。
「この子を助けて、誰か誰でもいいからお願いだから、私の赤ちゃんを助けてよぉ」
大切な胎の温かみですら、今は極寒の中にあるその冷たさが、ただ彼女が一人であると刻み付けていた。
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