三章 前夜もう一つの決意
お兄様に会ってきましたと、アイシャは楽しげに父に向かって答えた。
その時に薄らぼんやりと浮かんだ、父の憤怒を彼女は見逃したようだが、彼女はその詳細を楽しげに父親に告げる。
剣聖の前でまるで伽の歌でもささやく様に、まるで男を試しているとすら感じる言葉を紡いで、男の心を掻き毟る。お兄様が意地悪だったとか、私に会いたくて来たとか、そんな聞きたくも無い言葉を聴かされて、内にわく感情が嫉妬以外であるはずもなかった。
本当なら娘の口から、他の男の言葉すら聴きたくない父親は、自分の浅ましさの責任を息子に押し付けながら、必死に表情に悪意を見せない。
自分の悪ですら、彼女を汚したくないと必死なのだろう。
すでに娘と関係すら持った男が、いまさら何を汚さないと言うのか、追及してやりたいところだが、彼にとっては当然の事に過ぎない。
ただ羨ましいのだ。無償の優しさを受け取る男も、ただ純粋無垢な愛情を与えられる男も、全部が自分だけでいいのだと彼は思ってる。
これが五十を超えた男の思考かと、自身の姿を酷く無様に思いながら、自身の考えを捨て去ることは永遠に出来ないのだろう。彼もまた彼女を偏愛し、敬愛し、何よりただ愛している。
自分の娘をただ彼は愛してしまっている。誰に取られたくないからと、関係を持って自分のものにし、それでも何の陰りも見せない娘に、彼はただ愛情を傾けることしか出来なかった。
こうも容易く彼女に、無償の好意を向けられる男はそう多くはない。
純粋無垢の愛情を与えられるものなど、ただ彼女に屈服する機能しか誰も持たなくなるだろうと思う程、目の前の少女がただ全てが美しかった。
そんな愛情を向けられる事すら、殺しても殺したり無いというのに、センセイと言う彼の息子は彼女のそんな部分がが許せない。剣聖は、無償の慈愛を与えられながら、彼女の全てを否定し尽くす息子が、許せるはずが無かった。
その無様な才能と感情が、彼女に何一つ届かないというのに浮かぶ、だが剣聖の目の前に浮かぶ光の中で酷く際立つ醜い影。ただその光を侵す様に、妬むただの悪意、父親にとってもはや息子と言う存在は、ただそれだけの代物になっていたのだ。
そんな悪意が彼女と出会ってみれば、何も出来なかったという。
分かりきっていたことだが、ただ絶望したのだろうと、ひたすらに彼女を見て食いつぶされたのだろうと。
父親は全てを見通したように確信する。そして無様に今も剣を振るっていることだろう、あの駄作はその辺りまで何一つ変わっていない。あの男の惨めさなど、剣聖自身が一番知っていた筈なのに、どうしても彼を見ていると煽られてしまう不安が存在した。
だがアイシャの言葉を聞き、剣聖はほくそ笑んでいた。やっぱりあれは何も出来ないのだと。彼がセンセイから感じるどうしようもない不安を拭い去るには、センセイが何も出来ないと見下すのが一番の逃避であったのだ。
剣聖が不安を感じる男は所詮、悪意はあっても、彼に順ずる才能があったとしても、心が破滅的に脆い。と言うよりも目の前に居る可憐な娘に対して、何も出来なくなる。
そう刻み付けたのは、母の呪いであるのだが、剣聖はその事に破滅の魔女のずいぶんと粋な事をすると、妻である魔女に彼は賞賛さえ送ってしまう。確かにろくでもない女であったが、妻に対してこれほどの感謝をしたのは、結婚してからは初めての事ではなかっただろうかと、剣聖は口角を吊り上げて皮肉を纏う様に笑った。
徹底的にあれをつぶしてよかったと、剣聖は思っているのだろう。
幼いころから毒のように染み込ませた、本能に近いレベルで刻まれた劣等感。それがセンセイの剣を鈍らせ殺している事ぐらい、仮にも剣の聖を担う男が気付いていない訳がなかった。
センセイを潰す事に、彼ら家族はある意味では迅速だった。だが同時に娘の才に気付いた時点で、障害となる息子を殺そうとしなかった。
それがある意味では、親としての最低限の優しさだったのかもしれない。最もただ娘の表情を翳らせるからなんて言うものが、理由だったのかもしれない。
だがセンセイにとっては、どちらが事実であっても結果が、変わっていなければ何の変化も無い。
結局の所は、娘の為に一つの心に楔を打った母、そして息子を妬み続ける父の姿、その二人の本性に気付かない疑う事すら知らない妹、そして妹を殺したがる人殺しである兄、この家族はとんとろくでも無いと言う事だけだ。
彼は娘に悟らせないように心で笑う。
どこか見下したような、それでいて夫婦と言うには少しずれた言葉が、彼のここの中で吐き出された。
「よくやったと言うべきか、あの阿婆擦れ」と、そもそも娘が産まれて以来、夫と妻の関係なんて、その程度に成り下がってしまっていた。
元々だが夫婦の間が、良好とは言いがたい関係ではあった。だがさも道具を賞賛するよう態度をする程には、流石に冷めては居なかったのだが、今となってはそれを証明する行為は存在しない。
剣聖にとってもはや覇王は、ただの世間をごまかす為の存在に過ぎない。同時に覇王にとっても剣聖はたいした有用な存在、その程度の扱いである。
そんな破滅した両親が溺愛しているのが娘であり、ただそれだけで彼らは夫婦と形作っているに過ぎない。アイシャと言う娘のために、家族と言う形を守っているとさえ言えるかも知れないのが、この夫婦と言う関係の形であった。
ただ娘を守ると言う感情と、一応の息子と言う感覚だろうか。
それが今の先生の形を作った一つの原因であり。歪みに歪んだ愛情の結果が、現在のセンセイの無様さを作り上げた要因の一つであるのは間違いない。
そうやって家族によって刻まれた心の弱さが、さらに彼を追い詰めている。
しかしそれを知らずに、目の前ではしゃいで兄の報告をする娘の言葉を聞き、剣聖はその無様なセンセイの姿を過去から思い出しながら、流石は駄作と褒め称えたくなる。
だが同時にだからこそセンセイの姿が、剣聖に取っては不快でもあるわけだ。娘から楽しげに語られる男の惨めさに心の充足を感じる、その自分の小人染みた思考に、彼は耐え難い自身への不快感を感じてしまう。
そんな自分が彼女のそばに居て、いいのかと自問するように、剣聖は胸に手で掴み自身の感情の醜さを抑える様な仕草を必死に取っていた。
だがアイシャは男の感情など知らない。ただ優しげに兄が今どんな状況かと、事細かに説明している。
死んだはずの家族が現れたのだ。まして彼女からすれば、敬愛していた兄でもあった。
こんな嬉しい事はないだろう。何時にも増して楽しげな色を表情に纏い、それが男の嫉妬を煽っていた。
あくまで自分には劣ると言う、唯一の自尊心を持って彼は息子を見下し、それによって心の安定を保とうとしている様にすら見える。
しかしだ現実は常に過酷を突きつけ、空想を妄想に突き落とす。それは年月を重ねた存在であっても変わりない一言で消えて終わるものだ。
例えば、目の前の幻想の完成形の口からで、あったとしても変えようが無い。
「ただお兄様、私の見た感じだと、お父様より強いよ」
「な……、に、を……、ありえぬ。有り得ぬ、あの戯けがそんな事が」
そして無邪気な表情から、不意打ちとばかりに伝えられた言葉に、流石の父も目を剥いた。
こと戦いの評価において彼女の見立てが外れるはずが無い。あの駄作が自分と並ぶ才能を持っていることは知っていたが、彼は負けるなどと考えた事も無かった。
そんな余裕すらあったと言うのに、娘は容赦なく事実を告げた。
男の唯一の自尊心すらも打ち砕くように、彼女は容易く現実を剣聖に突きつける。
「だってお兄様、手加減してるはずなのに、次の太刀があったよ。その攻撃はきっと、私に届いたと思う」
彼とて娘に一太刀入れる事すら敵わぬと言うのに、悪意はそこまで踏み込んでいると言う事実が、父親である彼には有り得ぬ話と言い切りたい代物であった。
だが娘は間違えない、彼女が言うのなら間違いなくそれは達成された代物だ。心の呪いさえも引きちぎり、彼はその場に立てると言う可能性を見せ付けていたのだ。なんと言うことだと、初めて息子に対して嫉妬以外の気持ちが湧き立つ。
尊敬ですらない、ただの恐怖だ。汚濁が娘を怪我す可能性が出てきたと、いかめしい顔が青くなって、普段なら見せない狼狽を明らかにしていた。
そんな尋常ではない父親の姿に、首を傾げて見せるバンビの仕草は、可愛くはあっても流石に父親の動揺を消せるほどではない。彼女は国を落とす時ですら、傷一つ無かったような存在なのだ。
そんな存在に剣を届かせる、それがどれ程の偉業か。ただ剣聖は彼女の言葉に、視力を奪われたように目の前を真っ暗にした。
もはやそれは彼にとって神の冒涜に近い。ここに神堕しの可能性を見れば、狂信者はその感情を露わにしても仕方ないだろう。恐怖に歪み男の感情は、それを認めたくないと意地を張るように、必死に眼球からあふれ出しそうな感情を溜める。
その抑えられた感情で充血した目は、自身の感情を抑え切れ無い男が、必死に押さえている証拠なのだ。
それなりに剣聖に接してきた者なら、尋常の事態では無いと気付くような狼狽だというのに、まじかに居る彼の信仰の対象は気付けない。
ただ全てを抑えて冷たくなった言葉は、それでも震えたように響く。
「それは本当なのか」
「うん、お兄様絶対に強くなってるよ本当に。私達に会いに来てくれたんだと思うと、凄く嬉しい」
男はその笑顔を見て胸を焼いた。どこかにあった恐怖を忘れる程に見惚れて、どこかで脳が解けたようにすら思えた甘い一瞬。これが彼女だと思える一輪の花の顔を見て、剣聖は心で呻く。
それは自分だけが作れる物だと、他の全てが原因で発露してはならない。
嫉妬が胸に付きまとい心を焼く、それが恐怖で緩んだ心を強固に変えた。独占欲に歪んだ心は、ただ一人の息子にそれを突きつける。
駄作が、駄作がと、怨念のように喚き立てる心など彼女は知らないだろう。
殺してやると言う感情が、悲鳴のように心の中に沸き立っている。男の嫉妬の見苦しさは、彼といい父親といい何一つ変わらない。
なんと言うべきだろう、はっきり言えるのは親子共々と随分と無様と言うだけの事だ。
似ている部分が皮肉が利いている。だがその無様さは、やはり人が個人である証明なのだろう。剣聖と先生の間には、対等と言う部分で酷い差異があった。
一人は隠せず、一人は隠さなければ太陽に近寄れない。その感情を見せ付けられるからこそ、剣聖は息子を妬んだのかも知れない。
その上辺だけで純粋無垢を抱く男は、成人の笑顔を作り上げ、欺瞞を作り上げる。
「そうか、そうなのか、あいつも頑張っていたのだな」
言葉との表裏を見れば、父親としての顔すら分からないだろう。
彼女の前では絶対に見せないと決めたその悪意は、光のような彼女の前だからこそ逆に、極色彩に塗装され尽くして、彼の内側が明け透けに見えてしまう様にさえ思える。
だが太陽が影が見えない様に、彼女もまたその色を見る事は出来ないのだろう。
誰もが内に抱えるその汚濁を、ただアイシャはただ人に見せ付けるだけ見せ付けて、きっと彼女自身はその色さえ見えていない。なんて不公平なのだろう、人には呼吸するように自身の醜さを突きつけるくせに、ただ一人の太陽はそれに気付けない。
父の言葉をそのまま真に受け、うんと激しく頭を動かす彼女の姿は、既に子供には見えないと言うのに、その姿がらしいと思ってしまう程度には少しばかり純粋無垢が過ぎる。
その差異が男の心の穢れと共に、劣等感として表れている事に、アイシャは気づけただろうか。剣聖が望むずっと愛した者の傍らにと言う願いは、一緒に居ると言うそれだけで、知らず知らずの内に、男の劣等感を肥大化させつづけていた。
所詮その男は小人だ。だからこそ彼は歪んでいった、それでも一緒にと言う感情が、かみ合わぬ歯車を無理やり連結さ様としたから、男の弱さをある意味でアイシャは引きずり出させ続けた。
そしてアイシャに抗うと言うセンセイの心に、気付かぬうちに彼は嫉妬していたのだろう。彼女が掲げる無垢なる愛情を、受け止めても脅えてもなお抗おうとしたセンセイの姿に、きっと剣聖は何故私と違うと感情のはけ口として先生を見ていたのだろう。
その惨めさと不釣合いなまでのアイシャに抗うと言う感情、もしかするとそれを尊いと思っていたのかもしれない。きっと自分には真似出来ない代物だから、太陽に真正面から剣を向けられると言うのは、風車に挑む愚かな騎士だけだ。
誰もがその姿を罵倒するかもしれない、哀れな姿を見て笑いを誘うかもしれない。同時にどの様な困難さえも、踏み越えると言う意思を持った存在の証明でもある。
それを彼は見ているのかもしれない。剣聖の目なら見えているのかもしれない、ただ惨めな剣がいつかそこに届くと、そして彼はそれを認めようとはしない。それを事実と認めれば、この世界で最も哀れな存在が誰か分かってしまうから。
剣聖は軍神すらも凌駕するその瞳を閉ざす。きっと彼は未来さえも、一緒に閉ざしてしまった。唯一つの存在にその全てを費やすように、愛する人に不都合な事など彼が認められるはずも無かった。
「そうなんだよ、だから一緒に暮らせるようになるよ。また家族四人で」
それでもアイシャの言葉は剣聖を抉る。まるで彫刻刀でゆっくりと肉を抉るような、心の切除作業は、剣聖にとってどれ程の痛みであっただろうか。
尽くした所で愛情が成就するのであれば、恋愛とは随分安い代物だ。感情の部分に対して、尽くすなどと言う単語は、はっきり言い訳に過ぎない。剣聖の心など彼女は知らず、あくまで家族愛をアイシャは彼に押し付けた。
男はそれを欲してなど居ない。求める感情がどんなものか、褥を共にしたのなら分かるはずのその感情すら、何一つ届いていない事を剣聖は知っていた。
届かない、言葉も、心も、願いも、全て彼女の前には等しく無価値である。
何故なら家族であるからだ。どこまでも歪んだその形に、ただ一人だけ幻想を抱き、その世界で生きている彼女にとって、父親のそれが肉親の愛情表現を超える事など、有り得る筈がない。
その上で彼女が紡がれる言葉は、剣聖の心の全てを無意味と言う。だからアイシャの言葉を全て肯定したい男であったとしても、その言葉だけは剣聖はそれを容認する事が出来ない。
「駄目だよ、それは駄目なんだ、あやつはすでに男爵家の人間、没落したとはいえそこの当主なのだよ、家を持った男が、実家に戻るなんていうのは、お前の兄上を侮辱しているような行為だよ」
よりにもよって「アレ」と暮らす、そう考えるだけで剣聖は、気が狂いそうになる。
少しばかり彼女を咎める様にじっと目を合わせて、ただ白いその姿を鏡面にして内に燻る、己のという卑小さを必死に隠そうと足掻いていた。
目の前に息子がいようものなら間違いなく、鼻で笑うような隠し方だろうが、この大事な人を盗られてなるものかと、男は無様に否定を繰り返し、ただ一つの思いを用意して目を隠す。
私はアイシャを守れると。
穢れ無き意思を持つ男は、嫉妬の影を光によって焼き尽くす。娘を陵辱したと言っても、過言で無い男は崇高な決意を掲げ決意の剣を太陽に晒す。
その姿は先刻、復讐の対象に欺瞞の限りを尽くした男に被る。だがそれが男の決意の結晶だった。それは似ているのか、ただの劣等感が作り上げた、剣聖の憧れの形だったのか、今更それをあげつらう必要は無いだろう。
ただその正解は男が口にしている全てだ。男が口にする欺瞞こそが全てでいい。アイシャがそれで喜んでくれるのであれば、男はそうなるだけの話だ。
ただしその欺瞞を彼女に納得させる為に男は、それを真実として彼女に語る。それがどれほどに無意味か、男は分かっていてもアイシャの為にと虚飾の世界を壊そうとしない。
「え、そうなの、そうだよね、お兄様も家を受け継ぐような人になったんだ。そうかそれでこの御前試合で力を見せ付けて、お家の復興を考えているんだ」
「そうかも知れんな」
たしかにここでアイシャを倒しでもすれば間違いなく、男爵家は復興できるだけの名誉を得ることは出来るだろう。最もそれは彼の家名を名乗れば無駄な事になるのだが、剣聖はその事を彼女に言える訳が無かった。
それだけは彼の失敗であり、成功の話でもある。どちらにせよ男が台無しにした全ての部分。その一点だけは、剣聖は彼女に知られてはならない。自分がしでかした、太陽すら汚す冒涜的行為を、そのためならこの場で舌を噛み切っても惜しくないだろう。
だが本当にセンセイが男爵家の復興だったのであれば、こんな気持ちを剣聖が抱くことも無かっただろう。絶対に違うと確信しているからこそ、剣聖は息子を認める事は出来ない。
嫉妬以前の問題だ、センセイの目的は一つしかないと彼は理解している。センセイの全てが終わる要因を作った存在に対する、復讐以外ないことぐらい原因である男が、知らないはずは無い。
ただ剣聖の言葉を真に受けるアイシャは、凄い頑張りやさんだお兄様はと、驚いた表情を向けて、そんな事を彼女が言うたびに、この男は胸が締め付けられるようだった。
なんと私は度し難いのだと、そんな自身の穢れた心を分かっていながら、剣聖はそれ以上に、アイシャのただ尊敬を込めた言葉に心が軋む。
何でそうやってあれを褒めると、お前が口にしていいのは私だけの筈だ。
心の中で何度そう悲鳴を上げて、後悔より先に娘の感情の先を気にする。それを表に出さない態度は異常とも思える程、剣聖はアイシャに対しての感情を寡黙に表現していた。
どれだけ彼が娘を愛しても、その心が届かない事を誰よりも知っている男だ。だから易い嫉妬に心が妬けるのだろう。
手に入らない事を理解しているから。
「じゃあお父様も頑張らないと、十分に休息をとって、お兄様を負かす気で行かないと、本当に負けちゃうからね。どっちも頑張ってくれないと、意地悪みたいでなんかいやだ」
明日殺すと断言している息子の為に、十分に休息をとる。確かに理にかなっていると言いたいが、剣聖は震えていたアイシャの言葉に。
自分はあの男に負けるかもしれない、と言う事実を口にした娘の言葉、それは軍神としての言葉なのだろう。その言葉の意味を彼女はきっと知らないで言っているが、予言のようなものだ、剣聖は自身の敗北を突きつけられている。
あれに家族に対する慈悲があるはずが無いのだ。自信の敗北とはつまり、剣聖の死をアイシャは宣言したのと変わらない。今目の前に用意された現実の前に、剣聖は視界さえ遠くなる。
殺されると言うのはつまり、目の前の娘の甘やかな体に、触れる事すら出来なくなるのだ。そしてその触れる事すら躊躇われる、アイシャを二度と見る事が出来なくなる。死とはアイシャを守る事が出来なくなる。
あの悪意の残骸に、アイシャが心を汚され、心を乱して涙を流すかもしれない。
それは嫌だ、あの悪意が彼女の心を満たすなんて考えたら、男は嫉妬を隠せなかった。震える感情が、いつの間にか体を動かし気付いた時には、アイシャの体を胸に抱いていた。
そこに男の情欲を嗅ぎ取ったのか、困ったような仕草を彼女は見せた。
「やめろ、今だけはあいつのことを言うな。頼むからアイシャ、この夜だけは」
「んーけど今日は駄目だよ。そういう気分じゃないもん、なんかお兄様にあって体が暖か、ん、んーん」
喋らすものかと唇を塞ぐ、あれの言葉なんて聴きたくなど無い、よりにもよってアイシャの口から、あの男の名前なんて、そう思った時には感情が先に動いていた。
困ったように声を上げる、彼女の声を聞いても止める事も出来ずに、必死になって彼女の唇を啄ばんだ。
まるで白い着物に墨汁をたらすような様相、手の平の窪みから甘い痛みがこぼれて足の先に伝わるような、酷く緊迫した線のような快楽が痺れを持って伝わってくる。
そんなアイシャの唇の感覚に、恐怖すらも忘れて剣聖は、放心してしまう。
くるしーと言っているのだろう、何度も手加減だけはしているのだろうが、剣聖の背中を叩いている。剣聖に責める視線しているが、今だけは彼女の瞳には自分しかいないと思うと、胸が勝手に呼吸しているような、温かさを感じてしまっていた。
大切なのはお前だけなのだと、彼は心で叫ぶ、お前以外は必要ないのだと、彼は心で叫ぶ、口に出来ないその言葉を彼は叫び続けていた。
それを口にすればきっと彼と彼女は終わるだろう。
元々が終わり果てたような関係だ、簡単に破滅してくれるに決まっていた。だからこそ、ここまでしておきながら、娘を愛した父親は、その夜だけは最後の一線を越えられない。
娘を抱いた男は、そこまでしても大切な言葉だけは、口に出来ずにただ一瞬の世界に没頭した。
それは世間体などではない。それを言えばきっと彼女が穢れると分かっていた。
自分が大切に思い続けた少女が汚れてしまう。本当の意味で自分が大切だと思った女性を汚してしまうと、どれだけ口にしようと思っても出来なかった。
その太陽のように、笑う笑顔を陰らせてしまう。
彼はそれが恐くて仕方が無かった。こうやって口を塞ぐ自分さえも、他人であるならその場で斬り捨てるほどに醜悪な行為。
困ったような顔をしながらでも、彼女はこの行為を受け入れる。これも家族のスキンシップだと思っているのかもしれない。
何も知らないような聖女は、ただ笑顔で何もかもを受け入れる。
彼はそんな彼女を優しく抱き締める。かなり強く抱いているのか、アイシャは腕の中で身を捩っている。まだ生まれて数ヶ月しか経っていない、綿毛のような子猫が身を捩る姿にも似ていた。
強く力を入れるだけで、くしゃりと潰れそうな彼女の形は、柔らかく現実の物を抱いているのか剣聖は錯覚して、彼女の形を忘れないように力を入れる。
離してたまるかと、娘を強く抱きしめる。大切な人を彼は守ろうと、傷付けてなるものかと決意する。それが息子だろうと、世界だろうと、きっと代わらない決意になるのだろう。
そんな決意を彼女は知らない。そもそもアイシャはきっとそんな事すら、試練として軽く踏破してしまうかもしれないと分かっていながら。それでも剣聖はアイシャを、ただ愛した人を守りたいのだ。
その願いはきっとアイシャと同じ位に、美しい想いだろう。
しかし願いは人を救う言葉ではない。所詮それはただの宝石と同じ、実が伴わなけば意味が無い。ただの死骸の言葉に過ぎないのだ。
それをアイシャが察知したのか、必死に抱きしめた剣聖の手を軽く解き、彼と距離を開ける。その間がきっと剣聖とアイシャの本当の距離なのだろう。
手さえも届かない、声さえもきっと、全てが届かない家族以外で、繋がる事の出来ない隙間。そして剣聖が最も見たくなかった、埋め様の無い断絶であった。
「お父様、これでお預けです。ちゃんと体を休めて頑張らないと、本当にお兄様に殺されちゃうかもしれません。気の緩みは命を奪いかねないんですから」
彼はそんな距離を埋める、何かを用意できるわけもない。もうこの結末は明確に決まっているのだ。
軍神に傷をつける事の出来る可能性のある男と、不可能な男。その差は戦えば如実に現れるだろう。純粋な実力の差と言う現実が、剣聖には待ち受けている。
その想いが息子を殺す事が出来るのかは、それこそ神のみぞ知るという奴だろう。
「大丈夫だ、あやつに負けるつもりなど、さらさらないのでな」
そういって娘の頭をなで撫で様とした。だが彼女はそんなに子供じゃないと、舌を出して手を避けた。届かないとどこか心で思いながら、最後の娘の感覚すら男は忘れつつあった。
センセイという男の足跡が、剣聖の背中まで迫っているのだ。本当の剣聖とアイシャの距離を知ってしまった男は、息子を思い浮かべて何度も思考で殺した。それを唯一の自尊心として、冷めつつある彼女の暖かさをその手に掴む為に、燃え盛るような嫉妬をゆっくりと娘の笑顔で冷ます。
負けぬと、あれを殺して大切なものを守る。震えだした体を必死に抑えながら彼は、その決意を新たする。何度も手にした娘の甘い体を思い出して、脅える心を休めてようやく彼は、完全に眠ることが出来た。