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三十章 理想断層

 純粋無垢とは素晴らしいものではない。

 所詮は子供の無知を謙譲語染みた虚飾を持って語る言葉に過ぎない。人を知らないのだそれは、だがそんな赤子の如き姿に人は惹かれる。

 どれだけ世界が汚れていようと、白紙の如き存在を保ち続ける存在は、崇拝に値するだろう。それは神と見紛う清純さで、人の姿をした別の存在である事だけは間違いないのだ。


 そう人間ではないのだ。人の形と皮を被った人でなし、人が純粋無垢であると言うのはそういう事に過ぎない。何よりそれを守ろうと人に考えさせるようになれば確かに、神と言っても差支えなどないだろう。

 生きている奇跡なんと素晴らしい言葉であろう。そして何よりなんと吐き気のする言葉だろう。彼女は人が夢想し想像した神と言う物の体現に過ぎない。

 だが神とは全てを知り平等であるだけの存在だ。力があるかもしれない、慈悲があるかもしれない、それに注がれる光は万物平等だ。


 神とは全てを肯定する。それが故に何もしない存在に過ぎない。

 しかしそういう意味では彼女は、失敗作と言うしかないかもしれない。自分に向けられる悪感情を見て脅えた。

 彼女は穢れたのだ。そんな者が純粋無垢であるはずがない。

 ただ平等に、全てを肯定する。自分に向ける悪意さえも、好意さえも、全てだ全てを肯定し尽くして、何もしないと言う選択が出来てこそ彼女は完成だ。


 しかし彼女は完璧になるしかない。兄と言う存在が現れて、初めて悪意に触れたのだ。

 自分が生み出した事さえ知らない、彼女に届く剣は、既に目の前に突きつけられていた。王道との戦いの前、呆然としたままに彼女は闘技場に立っていた。

 酷い死臭があの戦いを事実として刻むその場所に、己の誇りを折られた存在と誇りをへし折った存在が立っている。


 分かりきった結末を観客は楽しみにして、剣神の恐怖を拭い去ろうとしているのだろう。

 彼女は兄の悪意の事しか覚えていない。初めての経験に怯えという形で反応を示しているだけ、その中には折角助けようとしたのに、などと言う自己弁護まで入っている始末だ。

 しかしそれ自体が彼の本性を見せ付けた原因でもある。ある意味では彼女に深く刺さった剣だ。剣は胸深くに突き刺さり、じくんとした痛みを水の様に滲ませ、足掻く事の出来ない感情に胸を押さえる。


 何故と彼女は兄に問いただしたかった。

 彼女だけが知らない、彼女と彼の関係の淀み。一人の存在の全てを捩じ伏せても、心を刻み尽くしても足りない拷問を行ないながら、知らないというだけで許されてしまった彼女のへの報復だろうか。

 そう考える事すらも許されずに、ただ一人で空に攫われ、思考の始まりさえも掴めずに、一人を感じなくてはいけない。


 彼女と対等になりえる相手は、理解さえ出来ないままに、その剣を向けているのだ。

 つまり彼女の孤独は埋められない。神になった人でなしだからこそ、人の感性が残っているのだろう。

 それは絶対に手に入らない、二人は同じく神と呼ばれるのかもしれないが、戦いの神と、剣の神は、その本質が絶望的に違う。生物の本質である闘争と、霊長殺しの剣では、全てが違う。


 闘争は全ての命を象徴し、剣は結局死しか残さない。

 ある意味では二人をここまで象徴している罵倒も無いだろう。彼女には全ての手段が存在するが、彼には望む手段は全てが死に帰結しそれ以上は存在しない。

 無意識ながらに彼は気付いているだろう。いやもはや自覚する段階であろうか、彼が彼女の悪意なのか、それともだ彼女が彼の善意なのか。


 分かりやすくこう言うべきなのだろうか。

 果たしてだ、果たして、彼女を汚さないために動いた人々は、もしかするとだ本当は彼に殺されるために動いたのではないだろうか。


 彼と彼女が対等であるのなら、彼女を汚さないために人が動くように、彼を汚すために人が動いてもなんらおかしくは無い。人は死ぬために赤黒い運河を造っているのではないか、神童と同じように彼に殺される為だけに。

 彼は生きている限り人を殺す。どちらが先なのだろう、彼が殺したのが先か、彼女が殺させたのが先か。


 結論はまだでないだろう。

 しかし彼女にとっては、センセイに人が殺されたがっている様に見てしまう。そして彼は人を殺したがっている様にすら思えるのだ。

 それは彼女からの視点、その一人が自分であると言う感覚なのだ。闘いの邪魔をしたことじゃない、センセイが腕を切り落した時より始まった恐怖は時間をかける間も無く広がって行く。

 邪魔をした事が殺人の理由、だがそれ以前よりあった困惑の全てが解決してしまうのだ。


 兄が自分を見ている筈がない。センセイは彼女を殺人対象としか見ていないのだ。

 彼女が顔も思い出せなくて当然の話。彼と彼女の視点は死滅的狂っているのだ。若干の誤解と共に次々に氷解する事実が、彼女に対して否応無しに彼が彼女を殺したがっている事を納得させる。

 壊れてしまっているのだ兄は、人がああ言う風になれば終わるしかない。何より彼女はそういう存在を一度だけ見た事がある。


 自分が壊した人間、兄もそうなのだろうかと痛む心に問いかけても、分かる事なんて無い筈なのに、けれども彼女はその事実を手にした時うっすらとだが微笑んだ。

 自分に対してだけじゃ無いという免罪符を手に入れ、彼女は少しずつ兄の無言の言葉の痛みから立ち上がりつつあった。

 もし本当なら自分が止めなくてはいけないのだ。きっとそれは誰にも出来ない、間違いなく兄を止められるのは自分だけだからと、彼に対する最大の賞賛を行ないながらようやく自分の敵を見る。


 だが目の前の王道と呼ばれる騎士も彼女が知る真っ直ぐな威勢がどこにも無い。

 顔色を青くして、随分と挙動不審である。はっきり言って戦いに足る精神状況ではないのだ。

 アイシャの知る王道とは、自分であっても真っ直ぐにぶつかって行く気骨のある人物だった為に、驚いたのか目を丸くする。彼女自身負けるとは思っていない闘いだが、ここまで戦いには最悪の精神状況では、勝ち筋しか見えなくなってしまう。

 王道とて後ろを向く事があるのだと、彼女は少しだけ心が穏やかに成っていた。


「王道そろそろ始めたいが、その心持ちで十分かい」


 仕切りなおしだと告げる言葉に王道はびくりと体を動かし、どこか脅えた様に彼女を見る。

 不思議だった、今まだ自分にこういう視線を向けたものなって居ただろうかと、いつも同じ表情だった気がする。いつも何も変わらない慈愛があったと思う。

 けれど恐怖と言う感情を彼女に突きつけたものなんて、居たのだろうか。しかし何故かどこか懐かしい感覚もあるのだが、その事を簡単に受け入れた自分に驚く。


 誰にも向けられた筈の無い感情だったのに、それが酷く嬉しくも思えた。

 それは彼女が気付いていないだけだろう。それが兄と言う存在が向け続けた本当の感情なのだ。その兄妹にとって、当たり前だった感情は王道が向ける物だったなんて、しかもそんな感情が懐かしいと思えるなんて酷い皮肉だ。

 結局のところ彼女は最後まで知らないだろう。センセイという男が、終始抱いてた感情は殺意などではなく恐怖であった事なんて。


 王道は答えずじっと軍神を見て頭を振った。

 なにしろ彼女にとって軍神とは、あの剣神と呼ばれた存在を生み出した元凶なのだ。自分がするはずの無い外道をさせた張本人そう考えてしまう。恐怖の権化として彼女を見ることしか出来ない。 

 自分もあんな風になる、させられる。考えるだけで足が竦み呼吸が不安定に、心が撤退の悲鳴をあげ、だが体が頑として動かない。それは恐怖に縛られて何一つ出来ない彼女の無様、王道として名を上げながら真っすぐに立つ事すらも出来ず恐怖の嘆きを放つ。


 自分は自分はと、あんな化け物になり下がりたくなど無いのだと心が悲鳴を上げる。

 彼女は心の中で叫び続けた。自分は人で居たい、ただ真っすぐに前を向くだけの人間でありたい。願う自分との差異は常に現実の中で明るみになる。

 人は望む姿になれない。近付ける事が出来たとしても、理想は常に理想であるべきだ。だが人はその差に耐え切れない、自分の行なった後悔に引き摺られて理想が空想に、あげくは妄想に成り果てる。


 彼女にとってもはや軍神は崇拝する存在ではなくなっていたのかも知れない。

 ただ綺麗な存在に、王道は声も出せなかった。

 子供の駄々を繰り返しながら、嫌だという思考に自分を埋め尽くす。自分にとっての正しささえも見出せなくなった彼女は、静かに一言だけ囁く。


「剣神と戦うつもりですか」


 そしてまた彼を壊すつもりですかと、彼女は精一杯の言葉で言う。しかしその程度の言葉で何が伝わるわけも無い。言葉は便利で不便だ、伝えたい言葉が正確に届くかなんてわからない。


「当然だよ。私があの人を止めないで誰が止めるというんですか」

「止める、止めるとはどういう事です。止まる筈が無いのに、彼が止まれる訳がないでしょう」


 全てを削って何もかもが終わった男が止まる事を許されるのは死んだ時だけだ。

 彼女は今になっても殺すとは言わなかった。彼は止まれない止まる訳が無い、ただ落ち続けていつか燃え尽きるまで、殺さなければ四肢の末端まで動き続けるような異形に彼女はあまりの慈悲を与えすぎだ。

 殺さなければ、殺し続ける凶獣が、死にたいと泣き叫んでいるというのに、与えられるのは生命の賛歌。


 王道はただ思うだけだ。これ程ずれた価値観同士が近くに存在するのかと、全くかみ合わない二人の関係が酷く気持ち悪い。何をしても何をやっても彼らはきっと変わらない。共通し合える事象すら持ち合わせないのだ。

 死んだほうがいいと思い続けてきた彼に対して、生きていて下さいと望む彼女の行為、あう訳が無いと二人は本質から全てが破綻していたのだ。


 奪った奪われたじゃない。

 二人が二人してどちらかに極端に振れてしまっている。


「それで求めないとみんな殺されちゃうんだ。それは認めちゃいけないことだよ」

「あの化け物が止まると本気で思っているのですか。あいつは、あいつは」


 声が出せなくなった。彼女を汚す言葉を吐き出そうとした王道の声は、全て世界に飲み込まれて音さえ振動しない。

 言わなくては成らない言葉があるのだ。だがそれを伝える事の出来る彼女は、汚さない為と言うそれだけの理由で声を飲み込むしかない。どうしても口に出来なかった、ただ真っすぐにあろうとしてきた彼女は、二度目の挫折に心が折れそうになる。


 血反吐を吐くような表情のまま彼女をじっと睨むように視線を合わせ、視線で必死の言葉を紡ごうとしているように見えるが、その程度で伝わるのなら言葉はいらない。

 責めるようにじっと見られた瞳に、何一つ自分に対して偽りは無いと断言してみせる彼女の態度は、それだけで王道の心を掻き毟る。


「分かってるよ。だから気にしなくてもいいんだ。絶対に止めるから、この私が約束する」


 違う、違うのだ。彼女はきっと兄を殺せない。そして多分だが彼のまた妹を殺せない。

 称号で対等に成ったところで彼と彼女では、圧倒的に能力が違う。そうなればきっとセンセイは本当の意味で壊れてしまう。

 彼女が恐ろしいのは彼が本当に壊れてしまった時だ。果たして何が起きるのだろうという恐怖が彼女にはあった。


 彼の人となりを見て来たからこそ言えるのだ。

 まだ復讐の手段を選んでいるからこそ彼はまだ正気で居るだけの事、復讐に狂っていてもまだ彼女を殺す手段は剣と決めている。

 だが手段を選ばなくなったら、そのときの事を考えて彼女は脅える。彼が剣神であるうちはまだマシだと思っている。


 もしだ死神になったらお前は止められるのかと、そうなった時本当の意味で何もかもが終わる。賞賛さえなく、ただ死が押し寄せてくるのだ。

 その時軍神が彼を止められるか、そう考えた時に王道は軍神が負ける姿すら想像できてしまった。


 壊れ果てている癖に、たった一つの一線を守り続けていたが為に彼は軍神に及ばない。

 剣であるうちはまだ、まだ人は救われているのだ。

 あの汚濁はまだ抑えられている。彼があの悪意を吐き出し始めた時、それを無意味に撒き散らし始めた時、果たしてどうなるのだろうと。

 その片鱗を人はもう見ているのだ。彼が光を失うその前に、あれが始まりなのだ彼が動き出す本当の意味での。


 それだけは止めなければ成らない。本当であるのなら軍神をここで倒せればいいが、自分にそれが出来るわけが無い。

 王道と自分がまだ名乗れている内は、王道として動くしかない。

 自分の弱く賢しい心を鞭打ち、必死に声を出す。今だけは彼女を汚そうとも言う時なのだ。絶望を拭い去る為にも、現実を突きつけるしかない。そうでなければ悪意は目を覚ます。


「殺してください。あなたには彼は絶対止められない、彼を壊したあなたには絶対にだ」

「――――えっ」


 それだけの言葉を言うのに、二度の吐き気をえずく。

 歯の根が合わずにカチカチと鳴らし、寒い訳でもないのに手の震えが止まらなくなる。酷い罪悪感に目の前が真っ白になり、自分のしでかした事に絶望すら抱いた。

 自分の視界に浮かぶ絶望に歪む軍神の表情、それを見て心を痛めて逃げる様に視線を逸らした。


「それは、どう言う」


 軍神の震える言葉に、その態度に、心の動きに、黒い亀裂が浮かぶ。誰の視線にも明らかな亀裂が彼女を中心に軋み始めていた。

 地割れのように完璧の筈の世界が悲鳴を上げていた。王道の一言は間違いなく世界を変えるような一言であったのだろう。

 本来なら知りえない事実、彼女に対して伝えられない筈の呪いだ。


 自分が兄を救えない事実、そして自分が作り上げたといった彼女の言葉。だって彼女が知りうる限りそれは一人しかいないのだ。

 自分が破滅させてしまった存在。彼女にとってはたった一度の後悔、人が終わってしまった証明。


 全てが死んだあの日。ぞっとした感覚に目の前が見えなくなっていく。

 符合していくのだ、全てがまるで納得の行く事実として受け入れられる。あの過去が抉り出されて傷を作り上げる。

 早く出ろと何度も突き立てるその言葉の痛みに、軍神は声を上げる事が出来なかった。あの日に起きた事は、過去は未来に対してこの様に繋がってくるのかと。


 優れた頭を持つ彼女だからこそ、予測を立てるのは容易かっただろう。

 ただ言葉を継ぎ足し自分への悪意を証明する理屈を過去から弾き出せば、彼女に刻まれる後悔はあそこにしかないのだ。

 その後悔で壊してしまった存在、あの鎧を着込んだ騎士。慙愧に耐えない悲鳴を上げて彼女の切り殺された筈の存在。


 彼女はそこの行き着いてしまう。

 王道はただ彼女に気付いて欲しかっただけだ。だがそれだけですむ筈が無いのだ。彼と彼女の関係は、そこまで終わっていた事に彼女は気付いても居ない。

 今までのあらゆる誤解がようやく解ける。もしそうなら彼女は兄を止められないと思った。


 あの時の様に殺す為に剣を振らなくては、死ぬまで彼は動き続ける。自分の作り上げた悪意の意味に彼女は少しずつだが触れていく。だがそれに触れて理解した時、きっと彼女は涙を流し絶望するだろう。


 彼を止める事など首を切り落してやる事でしか叶えられる事は無い突きつけられるだけのことだ。

 問いただしたい相手は死んで答えてもくれないだろう。何故自分がと言う、その疑問を解決してくれる理由は兄が殺している。それが取るに足らない嫉妬であろうと、彼女にとっては心を壊す理由になる。


 しかし彼女はすっと表情を変えた。

 ここで困惑していても意味が無い事に気付いたのだろうか、ただ早くひとりの可能性に行きついただけだ。

 もう一人だけ、事実を知っているだろう人物が居る。そのために早く今の戦いを終わらせる必要があった。


 だが王道は何を言うわけでもなく。降参と両手を挙げて敗北を認める。

 あっけない幕切れに観客達もその事について責めもしないだろう。この日の戦いは前の戦いで終わっている。消化試合であるこの戦いに興味を示すものは存在せず。

 御前試合だというのに王すらその場に居ないのだ。儀礼的通例しか存在しないその闘いの終わり、ただなんとも言えない沈黙があった。

 彼の恐怖だけが染み付いていたのだ。軍神などでは拭えない、その闘いの終わりの所為で、誰もが未だに口を開く事すら出来ない。


 そんな観客の心情を知らず、勝敗を告げる声が響き。

 彼女はそれを聞き終わると同時に走り出す。たった一人の可能性だが、王道の言葉の意味を知る可能性のある人物に向けて。

 その絶望を容認しない為に、自分が何をしたのかその事実を手に入れようとしていた。


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