二十五章 流血回廊 前編
二人の対決の一合、決着はそれでつく。瀑布のごとく振り下ろされた剣を彼はゆっくりと迎え撃った。
重なり合い停止した剣、つばぜり合いとなる時間の中で、驚愕したのはどちらだろう。
かたわの剣、それが果たして超越した英傑に通用するか。
そういう議論をするべきではないのは、当たり前の話だ。なにせ、剣術に変わりは無いのだが、ただそのベクトルが全く健常者のそれと違う。
利き腕の違うものも存在する、武器の長さが違うものも存在する。
力の制御、物体の運動のベクトル、論えば論うほど、隻腕とは両手とは違う不利な存在である言うべきだろう。
しかしながら流派とはよく言ったもので、剣の流れの源泉が違いすぎて、同じ剣と言う流れにありながら別存在と言ってもいい代物なのだ。
体捌きの一つをとっても、それは存在しない腕を考慮しない剣を作り上げる必要がある。
かたわの剣その理論を問うのなら、一からくみ上げて完成させなければ、それはただの健常者の傲慢に過ぎないのだ。
とは言え、力で劣る事もあるだろうし、精妙さも欠けるかもしれない。不利な面など、いくらでも存在する。
「冗談だろ君は、どういう力してるんだ」
だが思ってしまう何故だと、傭兵王ザインザイツは、自分は何故この剣士に力負けしているのかと。
幾多の剣士を相手にしてきた彼女ではあるが、隻腕の剣士に力負けするなんていう、異常事態を正しく受け止められるわけも無い。
魔法剣による特殊効果かとも考えたが、そもそも彼の剣を見ている彼女は否定するしかない。
彼が持っている剣は荒天、乱すと言う魔法を刻み付けられた魔法剣。だが彼女の剣とて大業物の一振りであり、銘を凱旋と言う。彼女のと生れ故郷で、三百年ほど昔にあったとされる製鉄技術の革新期に作られた対王国戦用の兵器である。
「力なら僕は、王道にだって剣聖にだって」
「こっちより弱いってだけだ。上は居るんだよいつだって」
飾り気の無い実用性しか捕われなかった様な造り。
そう言いたい所なのだが、全長十メートル重量五トンと言えば、そもそも誰も使えないと言うしかないような武器であり、対集団戦用に威圧の呪いがこめられている代物だ。
彼女の素振りを見て彼女は対集団戦に向き過ぎていると言ったが、どうやらそれは己の剣と共に成長していく過程で行なわれた、戦闘の仕様変更だったのだろう。
本来であるのならばそのまま蹂躙し、戦場を闊歩する遊撃の王は、その特化しすぎた能力が故に、戦果はともかくとして、他の剣士たちの後塵に配する存在であるのもまた事実だ。
実際の話をすれば彼女もその事を自覚している。同格の相手にはどうあっても、自分の戦の流儀は劣るのだ。だが同時に彼女は、それでいいとも思っていた、後の大将軍は最強の消えた世界において軍神と同格の役割を果たす。
王国最後の始まりとなる西域同盟、そしてそれを率いる事になる後の軍王は、かたわの男に恐怖を抱くしかなかった。
簡単に浮かぶ敗北の文字、勝利の筋道を立てられないほど圧倒的な蹂躙。
彼女が行なっていた筈の行為は、いまそれが変わりに襲い掛かる刃のように翻す。己の全身全霊の一撃すら容易く受け止められ、己の最強の剣である筈のそれは、彼に押し返されながら、押し潰されようとしている。
地金が軋み、ゆっくりと荒天の刃が、凱旋に皹を入れながら、ゆっくりと押し込まれいく。
「あげくに魔法剣を斬り裂くだ。剣を極めるとはそう言う事かな敗残」
「冗談だろうこんな無様な剣が、極めたなんていえるわけないだろう」
折れず曲がらず、魔法剣に求められる最低限すら切り裂く、その姿は神童の憧れた剣の申し子の言葉に相応しいだろう。
だが彼からすれば、それすら無様で斬って捨てる代物だ。魔法がかかっていようと関係ない。斬ると決めたからには斬る、それが出来ないのであれば技術ではなく木偶の技、荒れた空を謳うその剣は、あまりにも無駄が多すぎた。
「こちらの剣筋を乱すなんて最悪の剣だぞこれ。本来ならその剣ごとあんたを斬ってるんだよ」
「流石にそれは戯れが過ぎるんじゃないかと具申するよ」
まさか使い手の剣筋すら乱してくれるとは、妹の呪いか、彼女の勘違いか、それを彼は追及する事もないだろう。
さらに力で押し潰すだけだ。こんな無駄な剣を彼は認めるわけにはいかない。彼が無様を極めて砕いた剣ですら、まだ斬れると侮辱するように、ザインザイツの剣の亀裂をさらに深めながら押し潰すように力を込めた。
「嘘じゃないんだが、剣ってのはそういう風に使うものだろう」
剣士ならいつかは持ちたいと望むであろう剣だが、あまりにも無益な代物だった。
王道に刺された事なんて気にしないが、これは使えないと彼は切り捨てる。
常人を外れる握力でどれだけ握っても壊れる事のない剣を、彼は雷声の如き呼吸で力を練り、体中の神経を全て破壊につなげていく。
彼のそんな結果は、まるで稲光の始まりの様に、韻律を響かせる。
それが剣の悲鳴であると感じたのは、彼女の方が早かっただろう。自分の剣の悲鳴が響いていると、目の前で崩壊しつくす愛剣を見ているのだ。感じないわけがなかっただろうが、共鳴するように男の剣からも悲鳴が響く。
何事だと目を丸くさせながら、男の表情を見る。無機質な感情を彼女に突きつけてくるのは知っていた。これから死闘をするという男が、剣を破壊することに、何の躊躇いも無いと言う戦の仕手として有るまじき行為に、流石に嫌な笑いしか口に出せなくなる。
「神童との戦いそれでどう知るつもりだい」
「もう一つ剣あるからそれを使う」
「さっきの破片かい、流石に神童を馬鹿にしすぎだと僕は思うよ」
そんなつもりは無いと言った彼は、ザインザイツに対して本気であった事は間違いないだろう。
あの破片が自分に出来る最大の全身全霊であると、本気で彼は言っていたのだ。反感を覚える気持ちはあった。それ以上に自分の心に沸いた彼への殺人衝動を忘れるほどに、彼女はあっけにとられる。
「は……、はは、神童が納得するのかい」
「させてみせる、それにこれよりましな剣があるのなら、それを使うから暫定と言うだけだ」
稀代の名刀の一つ八詩篇の一振りを、容易く砕いておきながら言う台詞がそれかいと彼女は笑うしかなかった。
もはや修復は出来ないほどに、歪に走った剣達の亀裂は、後一歩彼が踏み込むだけで砕け散るのだろう。そのときはきっと彼が持っていた、もう一つの剣が彼女の命脈ごと切り裂くのかもしれない。
そういう恐怖があったにも拘らず、ここまで清々しく彼女に意見した男に、感動すら覚えた。あれほど薄暗い情念を常に抱える悪意に、敬服を抱いてしまったのだ。
困ったように口元を緩めた彼女は、いつの間にか砕けた剣の破片で身を切り裂かれながら、彼の次の一太刀にて命を絶たれる。
筈であった。
だが次の太刀は一向に来ない。自分はもう斬り裂かれて痛みを感じないだけではないかとさえ思う。
既に自分は死んでいて、今の感情すら走馬灯の一部ではないか。だが始まりはどうあれ、死ぬ時はこんな物なのだろうと悟りじみた感覚に、酷く穏やかな顔をしていた。
だが目を開いて彼女はそれを見るべきであっただろう。
いつの間にやら宵の青ささえ、もやはいつの事かと思うほど世界は白んできていた。
散った剣の破片たちが、その白さに反射して眩く輝く。赤の双子がいつの間にか消えて、彼と彼女、なにより世界に確固たる形を作り始めていた。
だがその象られた世界には彼と彼女以外に、幾人も存在している。
全てが首を跳ね飛ばされて、まるで置石のように当たり前にそれは転がっていた。その中には兵士のほかにも侍女も居た、だが誰もが武器を持って転がっている。
その一つが先生の腹を貫いていた。いつの間にだろうと彼女なら思ったかもしれない、だが突き刺された男は流石に、表情をゆがめて苦痛を隠す事が出来ない。
今宵だけでどれだけ刺されるだと、笑うしかない。だが一つだけ確信するしかなかった。と言うよりも、確信した上で理解するしかなかった。
もはや軍神のそれは、センセイと言う男に敵しか作らない。そしてその全てが命を奪うために動く、何の冗談だと彼は心ごと表情を引きつらせる。想像してはいけない、いつから軍神は邪神になったと、皮肉を言いたくもなったが、心がそうは動かない。
連鎖的にその能力が上がっている気さえするのだ。また無益に人を奪うのかと思うと恐怖がわいて声が、掠れる。
「は、はは、ちょ、……と、ないだろ……」
これより続く御前試合、もはや彼に仲間は居ない。安息はない。敵しか存在しないのだ。
元々存在しなかったが、意思の弱いものは彼を殺そうとするだろう。
意志の強いものであっても彼をきっと殺そうとするだろう。
この国に生きるほぼ全ての人間が彼を殺そうと考えるのだろう。軍神の威光は、その影に容赦ない悲劇を作らせるために輝く。
ありとあらゆる全て彼に死ねと金切り声を上げる。眩い光に纏われた、たった一人の善性の為に、光を翳らせない為に、光を汚す唯一つの可能性を、その光を受け入れ育つ物達が剣を向ける。
こんな事があってたまるかと、いまさら彼は思わないだろう。
向かってくるなら斬って捨てればおしまいだ。それを辛いと思ったのは、過去のあの日だけだ。
ただここに来て、軍神は間違いなく強くなっていた。加護と言うよりはもはや呪い、彼女自身は望まないだろうが、それでも備わった力は力だ。それを手にしながら、何もしないのは、気付かないのはそれだけで罪だ。
一体どちらが血に塗れているのだろう。そんな事すら分らなくなる状況だが、もはや彼は彼女にとって看過できない存在なのだろう。
「取り合えず、次は殺す。ただ朝も空けた、神童が待ってるんで殺してやれない」
真っ白になる視界は、きっとこれからのことを考えた時の後悔だろう。
なにより今は人の居ない所に彼は行きたかった。妹の為に動く人間を目に入れたくないから、しかしもはやそれがうまく行くわけがないのは、彼が一番知っていただろう。
何の冗談だと言うことが始まりつつあった。
視界に入れば誰かが襲う、気さえ抜けない地獄が彼の目の前に広がっているのだ。
「え、なんで声が、聞こえるんだ」
ザインザイツは彼の言葉でようやく現実に目を覚ますが、その広がった視界に存在した死体に、流石に声を引きつらせて息をのんだ。同時に消えてしまった一人の剣士にを探す事すら忘れてしまっていた。
あまりにも器用に切り落された過去形では人、腐敗と言う現在進行形で語られ、土と言う名の未来形で完了する肉塊。ちなみにだが派生では疫病などもある。
あまりに歪だが、共通性がありすぎるそれに、彼女は一体何を思うだろう。
殺した彼か、なぜ目を瞑っている間にこんな事が起きたのかという疑問か、誰もが武器を持って死体を晒すその異常か、なんにしろ異常である事には変わりは無い。
全人類的に見ても平等な意思の元に殺された殺人は、最大表現をして芸術だろうか。最も死体をアーティスティックに彩ったところで、残骸でしかない。
そんな死体は、自分達が生きているかの様に目をギョロつかせて彼女の奥の景色をじっと見ているようだった。
それとも彼女と視線を合わせて、早く頭と体をくっつけてくださいと哀願しているのだろうか。そう思えるほど生きていた死体は、ただ一人五体満足なザインザイツに視線を向けていた。
卵の薄皮越しの緊張を感じながら、一度息を飲む。
ようやく自体に気付く彼女だが、それ程までに彼が殺した死体は生きているように思えてしまった。
「なるほど」
彼女は呟く。そしてもう一度死体に視線を見やる。
まるで当たり前のことを言うように、二度頷くと剣で破片で傷ついて滲んだ頬を人差し指で拭って、丹念になめ取る。
間族と呼ばれる彼女の地方では比較的ではあるが、一般的な戦作法だ。闘いの終わり、それを象徴する為に最後に流れた血を口に含む。そこで死んだ全ての命を喰らい、次に続けると言う伝承を基にした作法だが、自分の血であると思うとなんとも無益な感じがして、愚痴のように呟く。
「勝てないわけだ」
そして彼の言葉を一度反芻した。
「これが斬るって事かい。僕には出来そうにないな」
負け犬のように彼女は言った。彼に沸き上がった吐き気のするような嫌悪感はいつの間にか消えている。
アレが一体なんだったのか彼女には分らない。だが彼を殺そうとはこれから先に思うことはないとも思う。自分の内面の一つに何か歪んだものがあったのか、ただの直情的なものだったのかすら分らない。
軍神を汚さない為と言う大義名分、確かにそれもあった気がしたけれど、まだ別の何かがあった気もした。
彼女の前で起きた惨劇、思うのは一体誰が起因だと言う気持ちだろう。
思う限り軍神が正解に近い、だがもしだ、もし、その男が軍神と相対する存在なのであれば、彼もまた軍神と同じ何かを持っていると考えてもおかしくない。
ならば後に剣神と呼ばれる男は一体何を抱えているのだろうと、人に余る神の名を与えられたもう一人、彼は軍神と同じく一体何を手にしてしまったのか。
果たしてどんな加護を身に受けているのか。
語るまでもなくそれも流血が生じるものなのだろう。彼の人生の全てがその要訣を突いている。何しろ彼の人生とは、人を切ることしか存在しないのだ。
人とのつながりが消え失せる、出来た絆は全て斬る為に存在する。
そんな男が持つ加護なんて物はろくでもないもの決まっている。人殺しに過ぎない男の勝ちはそこで終末だ。
「僕としてはごめんだけどな、人はそういう生きるものじゃないし」
そんなのは求道者か、剣鬼のする始末だ。何一つないから極まるという事は、彼にはそれしかないと言うだけのことに過ぎない。そんな人生は破綻の一途を辿るだけの代物だ。
余分と無駄こそが人生の彩であるのなら、無色透明などに価値はない。それは彼が妹に思った事の他ならない。
純粋無垢など一つの価値もないと言う事実を、彼自身もまた体現している事になどきっと気付かないのだろう。
何もない男はゆったりと、闘技場に足を向けていた。
まだ朝も早いと言うのに、辺りからは喧騒が響いている。その中には痴れ者の死を望む声が響いていた。
鳥の告げる朝の声など、きっと誰も耳にしていないのだろう。
まだ朝の冷たい空気は、息を吸うだけで体に冷たさが混じる。今まであった熱が、その呼吸だけでゆっくりと収まっていくのを感じながら、最後になるかもしれない宵と朝との境目の空を覗く。
これが最後になるかもしれない空だ、なにより彼にとっては忘れられない朝になる。そう思って不安定などちらでもある空の紫を視界に焼いた。
仰ぎ見る朝はそれでおしまい。ようやく正面に視線を戻すと、見た事のない人物が彼をじっと見ていた。彼はその事にぞっとした背筋の寒さを感じることになる。
「そのお姿は一体どうしたのですか」
弱く響いた声だが芯が入った言葉に、すっと意識が研ぎ澄まされるように、視線を彼は細める。
襲われるのじゃないか、そんな感情を消す事の出来ない彼は、どこか驚いた様子で自分に話しかける女性だけじゃない。まだ彼に剣を向ける人間が、居るのではないかと知覚範囲を広げる。
警戒を解けないままに、間合いに人を寄せないように、なによりそれを気取らせないようにと自然体に力を抜いていくが、逆に彼女に彼の警戒を悟らせるのだ。
「いえ、別に刺客とかそういうものでは、私は神童の妻ですので」
手を左右に振って、困ったような声を上げる。
夫との逢瀬を終わらせて彼女も空っぽなのだろう、呪いに晒される事もなく、落ち着いた様子だが、仮にも夫の敵に対して随分おっとりした物言いだった。
逆にその事が彼の警戒を強めるのだが、彼の腕を見て彼女は少しだけ、怒った様子を見せる。
「それよりもです。どうしたのです、なぜか腕が、そして剣がないのです」
「砕けた、あとあんたの夫との戦いには邪魔かと思って斬った」
「いやですね、何を仰っているのか理解不能ですよ。どういう発想で邪魔になるんです、剣士の命の利き腕ですよ」
何を言っているのか分らないと彼女は目を細めて彼を問いただす。
この夫妻の望みは優れた剣士に切り殺される事、その剣士が隻腕になっているなど、看過できる事ではないだろう。
だがある意味では異次元の発想をもつセンセイは、困りながらも真剣な顔で言う。
「いや、邪魔だったから」
「だからですね、なんでなんです」
彼としても真剣に答えたつもりではあったが、彼女達の望みにそれが対応するわけがない。先ほど神童との別れが終わった彼女は、思い出すだけでも涙が出ると言うのに、彼女達の帰結である男の言葉は、理解出来るものである訳がないのだ。
「だっていらないだろう利き腕、あの人との戦いだけは、ほら対等じゃ無いと」
殺しあう意味があるのかと、彼女に問いかける。
技量を尽くすのではなく、命を尽くす。彼はそう言っていた、その為にはこの腕なんていらないと、一言で分る説明を何度もしていた。
目を丸くするしかないのは彼女だ。この人は天然さんですかと、頭痛がしてきそうですと、あきれてしまう。
「それで軍神様に、抗えると思っておいでなのですか」
「そりゃ、なんと言うかさ。ここであなたの夫とさ、不利な戦いをするようなら、心で負けるんだよアレには」
食い潰されるのが心である事だけは、彼にはもう許されないのだろう。
何度も過去を口に出し決意したのは、心が二度と折れないためだ。自分の芯を打ち直す行為は、刀匠のそれにも似ているだろう。
「それに、かたわの剣が健常者の剣に負けると言った。流れが違うだけだ、源流からくみ上げて相対してその真価は始めて分るものだろう。とりあえず相性がいいとは言え、ザインザイツに勝ってきた、ならそう捨てたもんじゃないだろう」
なによりここに一つの剣の結果があると彼は言う。
彼女は剣士として感服するしかなかった。これが天才かと、嫉妬すらわかない彼女が憧れた神童が憧る剣の申し子。
相性如きで本来、魔人を倒す事など出来はしない。それを剣士は一夜の剣で成し遂げたと言うのだ。
「それはあなたにとっての十全ですか」
「ああ、これが俺に出来る最善だと思うが、十全とは言いがたい。
一つ悪い事を言うのなら剣を砕いてしまって。仕方ないから、これで行こうと思ってるが、流石に怒るか」
そういって彼女に出したのは、剣の欠片。
ふざけているのかと言いたいが、この剣士ならそれすらやり遂げるのではないかと思う信頼はあった。
「ある意味凄まじい人ですが、流石にそれで夫と戦ってもらっても困ります。私達には私達の願いがありますから」
「八詩篇は正直アレだったから、その辺の数打ちを借りようかと思っていたんだが」
「世の中で八詩篇クラスの名刀を望む剣士がなんにいると思っているんでしょうか。私としてはその不等号が疑問です」
仕方ないですと彼女はため息を吐いた。
どうせ自分はもう振るわないのだ、いまさら遣い手にもなれない剣士が、無様に指すのは見栄え以外の価値はない。
なにより彼女は思った、自分の剣でこの剣士と、あの剣士が戦うのであれば、これ程素晴らしい事はあるのだろうかと。
想像するだけで心が少女のように躍っていた。なんと素晴らしい結末になるのだろうと、これ程素晴らしい人生への手向けがあるのだろうかと。
「この剣を差し上げましょう」
そういって彼女は彼に、自分の指していた剣を渡す。
一瞬ではあるが、そのまま抜き去って、自分を切り殺すのではないだろうかと思った彼は、警戒の色を隠せずには居たが、ただ王道のように彼に剣を差し出した姿に、自然と手が伸びて掴む前に一度、手を止めて彼女と視線を合わせる。
「いいのか」
剣とはやはり剣士の命であるべきだ、なにより彼女もまた剣鬼であると彼もわかっていたのだろう。この剣が彼女の魂であるのだと言うことを、なによりどこか剣に憂いを帯びた彼女の視線に、剣への執着が見て取れたのだ。
だから彼女が容易く剣を差し出すなどと考えられるわけがなかった。
剣鬼であり続ける女が、剣捨てると言う発想が出来るほど彼は柔軟ではない。しかしそれでも彼女は頷いたのだ。
「ええ、今のこの腕では流石に満足に振るってあげる事も出来ないでしょうし。なにより一つだけお願いがありますから。それを叶えてくれるのならば、差し上げます」
「嫌な予感がするんだが、しかも断れない類の願いを言うつもりだろう。こっちは女難にかけては専門家だ、何度腹を刺されたり斬られたか」
そういえば自分の体を刺した大体の存在が、女であると今更ながらに驚くが、大抵は斬って捨てたでしょうにと彼女は、淑女のごとく笑って見せた。
しかしそういう人物に限って、なぜか殺せたかと問われれば、一人ぐらいしか殺してないような気もするのだ。王道にしろ妹にしろ、彼は結局殺していない。
「そんな事もないが、それで願いは、出来る事なら叶えるつもりだと言う」
「難しい事じゃありません。本当に今から行なうのだからさほど難しくもないでしょう」
そこで彼女は一度言葉を区切った。
少し緊張した面持ちではあるが、口にするとなると少しだけ勇気が居るものなのだと、初めて思ってしまった。
これが女の愛情の形なのかと、だが彼女はそんなもの要らなかった。
「我が夫ヒルメスカを殺した後、私を斬り殺してくれませんか」
言葉にして高揚した表情を隠す事もなく、蕩けた表情で自害よりもなんと素晴らしい結末だろうと彼女は思う。
夫が認めた剣士と言うのが、彼女の今までであったが、この言葉は彼女もまた彼を認めた証明だ。
素晴らしい剣士よ、私にその剣を刻み付けてくれと、哀願する。
その事に彼は息を飲むしかなかった。なんて無茶苦茶な願いだろうと、自害する事の出来ない復讐鬼は、羨ましくどこかで思いながら、二度程の遵守の後に彼女の剣を手にする。
「承った」
その言葉と共に、自分と他者との関係が遠いものだと自覚してしまう。剣の前にしか彼は関係を作ることが出来ない。そんな言葉を彼は自覚しなくてはいけない位には、他者との関係の断絶を認識してしまった。
一つの関係を手に入れた事には変わりない、なによりどれほど歪んで狂った願いであったとしても、目の前で笑う神童の妻の願いを彼が断れるわけがなかった。
だが同時にそれだけが彼は嫌だった。
もう一度彼女と視線を合わせる、自分が殺すかもしれない相手の名前ぐらいは知っておきたかった。憂いの帯びた表情は変わっていないが、彼と合わせる視線には、強さが残っていた。
「あなたの名前を教えて欲しい。例え負けようと、勝とうと、自分を認めてくれる相手の名前ぐらいは知っておきたい」
「家名はありません、元は戦奴の身分なので、ただフジと覚えていただければ」
「いい名前だと思う、神童もいい奥さんを手にしたようで羨ましい。こっちは女運に関しても最悪だから、いい出会いなんてないもものでね」
ただ彼は頭を一度下げた、そしてふと思い出したように彼女に声を上げる。
忘れていたと、相手の名前を聞いて自分の名前を言う事のないと言うのは、あまりにも彼女に失礼だ。
いくら名前を知られようとも、それだけは変えてはいけない。命を奪う相手だ、呪いの一つも残したいかもしれない。
「素晴らしき出会いに返礼だ。こちらはセインセイズ=ニーイロス・クラウヴォルフと言う、あまり名乗る名じゃないが、覚えておいてくれ」
あなた達夫婦には頭が上がらないから、これ位は名乗らせてもらわなければと笑う。
その名前に彼女が驚くのは当然だが、薄く笑うって言葉を返してくれるだけだ。夫婦を殺そうと言う相手に、なんとも正気ではない光景だが、彼らにとっては最もそれが自然だった。
「御武運をセインセイズ殿」
「そちらこそフジ殿」
そして別れの言葉も、彼らにとってはとても当たり間のもので、二人して困ったように笑って別れる。
ただそれだけの日常のようなものだった。
執筆BGM amazarashi アノミー ムカデ 無題
Victoria Justice All I Want Is Everything
Jessie J Who's Laughing Now
吉井和哉 CALL ME