二十二章 二度目の闘い
血の匂いが漂っていた。
備考のどころかそれは喉から血を飲み込むような鉄錆びの味を感じさせるほど強いもの。戦ばかりの土地で育った彼女にとっては慣れ親しんだ故郷の匂い。
だが一つだけ違った事がある、鉄の合奏も、猛る男達の歌声も、戦場音楽など響く事も無い。
だがそこは戦場だった、波のように広がる感情が、獣達にすら伝播しておびえた声を上げている。水分の混じった腐葉土の匂いが、まるで鉄錆びの匂いのように鼻の奥のじんとした痛みを感じさせていた。
何かが起きる、そんな予感を感じさせるには、十二分に足りる。
胸を掻き毟る何か、酷い焦燥を混じらせ、彼女のいる本営は、兵士の一人すら眠れず知らぬ何かに、警戒を緩める事が出来なかった。
まさかその焦燥を感じさせているのが、ただ一人の人間とは思わないだろう。
穢れの無い存在が生み出すことになった人間、光が強ければ強いほどに湧き上がる、影と言う存在は、その穢れを心に固めただひたすらに太陽を睨む存在へと変貌を遂げていた。
この当時の彼はもう壊れていた、自分にとっては守るべき存在の全てを、自分の意思で皆殺しにしたのだ。
どれだけ頑強な精神をしていても、どれだけ大雑把な精神をしていても、普通の人間なら心が壊れてもおかしくない悲劇を作り上げたのだ。
正気を失っていると言ってもいい、それ以前にこの時から彼は狂っていたのだろう。
何にと問われれば復讐に、なぜと言われれば殺して欲しいから。生きて居たくなかった、ただ復讐に狂わないともう体を動かせなかった。
壊れた心の補填を彼は復讐で補った。
一つの命を落とすたびに誓ったのだ、殺してやると、あいつだけは殺してやると、それは命を代償とした魔法と言ってもいい。
千五百の命を生贄にした復讐と言う名の魔法、一人の人間のその呪いを打ち込んだ結果は、復讐と言う塊を作り上げるだけの言葉の具現化だ。
一個人の意識すら奪い去るほどに膨大な復讐の情念は、彼と言う人間の意識の柱を挿げ替え、空っぽの彼の全てを奪い去った。
その結果、戦場が現れる。甘美な音楽などどこに消えたか、いつの間にかと沸き立つそれは、戦争を引き連れて現れる。復讐と言う名の集団の個を抱えて、膨大な殺意の練磨の果てに残った復讐の化身が、千五百の情念を引き連れて軍靴の音を響かせていた。
荒く吐き出される呼吸は風に消える、でもその存在がまるで一つの集団の息遣いのように、酷く何かに縛られるようなものがあった。
それは無声映画の戦争シーン、活動弁士も字幕も存在しない、かといって役者が大仰な演技をするわけでもない。静かだった、どれだけ錦の旗を晒したとしても、真っ暗な夜の中に、それは目立たないだろう。
静かに、だが夜の切れ間に、剣がさえずる様に薄く啼いた。
無用心に歩いているように誰もが見えただろう。本営にいて誰もが感じた狂気は、人の形をして歩いていた。
既に抜き身のそれは、光ると言うよりは沈む様に、かがり火に反射して、そこに刀身があるのか首を傾げてしまいそうになる。だがそんな事をする間もない、ここにいる騎士達は、それぞれが歴戦の武士達だ。
目の前のそれが、どう言うものかなど、聞くまでもなく理解するだろう。
鎧を着込んでいたそれがどんな表情をしているかなど分らない。しかし千五百の命が降り注いだ鎧だ、それ自体から血の匂いが酷く匂い、むせ返る様な命を香らせる。
それがかつては白銀の鎧だったと誰が信じるだろう。血が根を張るように、刻みつけられた鎧は、かつての色を残さず血の色に融けていた。
だがその鎧の内側を見たら誰もが驚愕しただろう。
泣いていた、止まる事のない涙を流して視界すら定まらないの状況で、絶望にのまれた復讐の塊は一個軍となって走り出す。
「止まれ、そこの騎士」
ただ一人の首を切り落とす為に、だからかけられた声など歯牙にもかけない。
止まれと言った時には彼は本営に切り込んでいた。姿を見失うような移動に、彼らは背筋を凍らせる。
ついでの言葉を出せず喉を空気で振動させているが、それが体の震えとなるまでそれほどの時間を要する事はなかった。
「出て来い、出て来い、出て来い」
駄々のようにわめいた、喉の奥から煮え立つ感情を陣営に吐き散らかす。
吐き出された熱は、狂気となって伝播し、陣内はただ一人の騎士に掌握された。なまじ実力があるから彼らにもわかるのだ、そこにいる騎士は少なくとも自分たちでは相手にもならないと。
今だ死者も出ていない理由が分らないだろう。
ただそこにいる男が復讐にとらわれすぎて、剣を振るう相手を固定しすぎていただけの話だ。彼の視線の先には、たった一人の少女しか目に写らない。
眼球に収まるそれを探して彼は吼えている。殺させてくださいと、頭を下げるように必死に、私に復讐の権利をくださいと。
心さえも引きつるような声を上げながら、彼はお願いですと悲鳴を上げていた。
「殺しに来たんだ、お前を殺しに来たんだ。だから殺させてください、生きていないでください、お願いですから殺させてください、そのために出て来い。出て来い」
ただ叫んだ、痛くなるのはどこだろう、心臓か、心か。
どう見ても人が壊れた様は、その原因を作った彼女は、彼を目の当たりにした時、どう思ったのだろう。
あれが自分が壊した人間だと突きつけられたとき、彼女の目の中に殺させてくださいと、叫び続ける騎士が入る。
「いるよここに」
せめてもの謝罪に彼女はゆっくりと響くように、ただ頭を下げながら声を出す。
その声に反応した騎士は、表情が見えないと言うのに、喜びを混じらせて泣いた。歓喜を喉が鳴らす、ただ口をだらしなく開けたまま、振るえるようなその声は彼女に響く。
「あぁぁあ、っぁああああ、あぁあああ」
「大切な人を殺したんだもんね、私の所為だよね。ごめんね、本当にごめん」
そして彼女は、自分の声が、届いていない事を知りながらも謝罪をする。
そうすることが唯一であると信じていたが、人の心を考えていなかった自分のミスだと。
「けれど間違った事をしたとは思っていない。だから死んであげる訳にはいかないんだ」
彼女は指先で部下に指示を下す。それはきっと無駄な犠牲を出さない為の彼女の思案なのだろうが、彼には関係なかった。目の前にいる存在がいるのなら殺せればいい、そんな思考しかなかったのだ。
思慮も何もない、復讐に固まった感情を剣に込める。踏み込んだ後の剣は彼女さえ背筋を冷たくするほど鋭い。
その一合だけで騎士の実力が分る、剣という分野においてなら自分に匹敵する存在。
「在野にも随分な才覚がいる、っちぃ。すこし強すぎるよ、君は、手加減しづらい」
「返せ、返してくれ、お前が俺から奪った全部を、返せ返してくれ。もう何もなくなったんだ、お前が全部奪うから、いつも、いつも、いつもだ」
「君とはそこまで深い関係じゃないよ。もう、駄目な様だね、これから私は君を殺すよ。戦場を作り上げて私に挑むなんて、本当に君は運が悪い」
一度、現代のことを思い出そう。
彼女は一体なんと呼ばれていたのだろうと軍神、戦場の神だ。そこは彼女の信仰が全ての場所、彼女の為に祭られる彼女の為だけの世界。
いつの間にか作り上げられた槍衾の壁が彼と彼女の戦場を作り上げる、剣を振るいながらゆっくりとそれを狭めていく。
「どうあっても戦場で私は負ける気がしないんだ」
彼女は確実な勝利を得るために、部下さえも容易く操りながら、剣鬼の妙技を凌ぎ続ける。正直に言えば彼女は感嘆していた、目の前の存在は既に剣聖を上回っている。命を捨てるような唾棄すべき剣ではあるが、殺すということについてこれ程追求した剣を彼女は知らなかった。
まだ初々しい赤子の剣であるというのに、既にそれは完成に入り昇華されている。
「知るか、知るものか、お前は奪わせたんだ。俺に全部を、大切な全部を奪わせたんだ。死ねよ、死んでしまえ、お前が生きてるから、お前が死なないから、俺は、俺は、俺は」
自分が壊した騎士、本来であるなら自分と同じく王国を守る最強の一人に数えられたであろう存在を滅ぼした事に、彼女は後悔しながら諦めるしかなかった。
展開された兵は逃がさないようにと、彼の退路を塞ぎ、そこで彼女は一度彼を力任せにつばぜり合いから彼を吹き飛ばした。
「それでも決意して君が見せた事だ、領民を守るための騎士として罪過を背負ったその姿に感服したぐらいだと言うのに」
その程度でどうにかなる男ではないが、地面を滑るように着地すると、吼えるようにして叫びながらさらに彼女に剣を向けて走る。
思慮のない剣などと言うのは、これより先の未来剣神と呼ばれる男の剣ではない。彼の剣は本質的には、理合いを突き詰める鍛錬の結果と自分を追い込む事により引き出す見の力だ。獣のように吼えて、鋭さも失う剣など、ただの野獣と変わりはしない。
「それでも耐え切れなかったんだよ。だから心が壊れてしまった、責任を持って私が君の禍根を断とう、もう眠って全部忘れるといいよ」
「ふざけるな、殺させたのはお前だ。お前が俺に奪わせたんだ、全部お前が、自分の事を理解していないから、俺は殺したんだ、全部殺すしかなかったんだ、全員を」
「みんな、ちょっとまてまさか君は、領民まで」
血の匂いが、風に晒されて溢れてきた。気付くべきであった、彼は血が取れないほどに鎧を赤く染めていたのだ。
そんな大量の血を浴びなければ出来ない行為だ。まして彼女が彼を見た時、まだその鎧は白銀の鎧だった。自分が壊してしまった人間に目を取られすぎていた。
人が壊れると言う事を、完全に理解してしまった彼女は、目を細めた。
これが甘さの結果であると、人の心が壊れればこうなるのだと言う実物を見せられて、震えてしまう。
「殺したよ、みんな首が落ちてると思う。お前が殺させたんだ、お前が俺に殺させたんだ」
「変えてこれないのは分っていたけれど、それが騎士の有様か、そんな事をするために領主一族を殺させたわけじゃないんだ」
それでも耐えられなかったのかいと彼女は呟いた。
うなずくわけでもなく彼は武器を叩きつけようとするだけ、感情に明かした剣は斬る事さえ敵わないだろうが、少女の頭蓋を割る事など難しくもないだろう。
光が流れる、彼が振り下ろすよりも早く、彼女の剣は奔った。
袈裟に切り裂いた彼の体は、ぎりぎりで身を捩ったのか、絶命だけは避けたようだが、致命傷には変わりない、死ぬ事だけを避けたようなよけ方は彼の肺を切り裂き、内臓の一部を地面に撒き散らしていた。
さらにはその以上は検束が衝撃波になったのだろう、胸の辺りにあるの骨の殆どを折り、いくつはは臓器に突き刺さっている事だろう。その剣に巻き込まれたのだろう、彼の体もまた地面に叩きつけられ、さらに鈍い音彼の体から響いた。
それでも足掻くように立ち上がろうとするが、指先一つ動けず、唸り声を上げる。
「ごめん、君の全てを受け止めて終わらせようと思ったけれど、今の言葉を聞いたら無意味になるよ。ここまで壊してしまった私の所為なんだろうね。ただ騎士としてそれは駄目だよ、手加減なんてして上げられなかった」
挙句に言われる言葉はいつも代わらない、必死になった彼は殺すために全身全霊を込めた。それでも、昔と変わらない言葉が彼の心をまた折る。
手加減、訓練、手を抜く、自分は何一つ彼女に及ばないと突きつけられるだけだ。手加減を止めさせたのは、自分が領民を殺した事実に対して彼女が怒りを覚えただけの事。
「返せ、俺の全部を返せ、自分の所為だってことも理解しない卑怯者め、自分の力を理解しようともしない卑怯ものめ、お前はだけは、絶対絶対に」
「君を壊した私の責任だよ。私の、だからごめんね、こうなるなんて思わなかったから」
結局は、彼は彼女に及ばないというだけの事を、突きつけられて、心音を止めた。
だが忘れない、最後の言葉を、全部を忘れないだろう彼は、彼女から吐き出された言葉全てが、彼にとっては認めることの出来ない全てだ。
あいつは、何一つ理解していないと言う事を、絶対に忘れない。
地面を握り締めたまま、周りからすれば絶命したとしかいえない存在。それが息を吹き返すまで二日の時間が掛かった。
死体の処理すらすることなく、来たの領地へと帰っていった妹達。
彼に対する情けだったのだろう、敵に対して顔も見られたくないと、それどころか触れられたもないと、それぐらいなら朽ちていく事を望む筈だと彼女は言って、彼を放置して、絶望を確認する為に一度、現場を見て涙したと言う。
さらには帰ってみれば兄が死んだと言う報告を受けてさらに彼女は絶望した。
それから父と家族の関係を超えるまで、さほどの時間を要する事はなかったと言う。これを剣聖は狙ったのかは分らない、ただそういう事実があると言うだけだ。
この時にきっと先生も彼女を壊したのだ、復讐と言う感情を突きつけて、殺意を振りまいた。彼女が生まれて経験した事すらない悪意を突きつけられたのだ。そうやって弱った心は彼女を汚した。
美しい筈の純粋無垢は、孤高のままを諦めたのだ。
「ごめんなさい」
心臓が停止したのは、蘇生に体を費やす為に限界まで、彼のからだの眠らせるための行為だ。そうやって折れて突き刺さった骨などを元の位置に修正したりと、彼が持ちえた膨大な魔力が彼を蘇生させる。
撒き散らした臓物もそうだ、ゆっくりと蘇生させ、体の機能を損なう事無く蘇生させるだろう。
彼は自分だけは癒せたのだ、誰一人癒せない代わりに。
「ごめんなさい」
どれだけの命を彼はここで奪っただろう。
一つとして残らない絆と言う文字、それを彼は残す為に足掻いた。結果は彼のこれからが証明行為となる、何一つ残っていないというだけの事だ。
最後に残った絆は、彼にとってどれほど唾棄するべきものだったのだろうか。
視界が歪んでいる、謝罪の声しか出せない。
自分が弱かったから、何一つ取り返せなかった。心も力も何もかも、きっと彼は妹に及びもしないのだろう。
あらゆる物が全部彼にはない。
「あいつを俺は殺せませんでした」
弱かったから、そのくせ自分は生き延びてしまって、何一つ成し遂げられなくて。
謝罪しか口に出来なかった。
「強くなります、強く、強くなって、必ずあいつを殺します」
そうしたらいつか、誰かセンセイと言う人殺しを殺してくれますかと、泣く様に囁いた。しかし答えてくれる人は居ない、人殺しがまともな生き方など出来る筈がない。
生きていく価値など存在しない、存在自体が害悪だ。彼はその一人、それしか出来ない存在自体が不用品。
「そしてもうみんなを復讐の言い訳にしません。絶対にしません、人殺しの動機でみんなを汚しません、全部自分の為で、ただそれだけで、あいつを殺します。身勝手にみんなを殺した男は、身勝手に妹を殺しますから、安らかに」
ゆっくりと立ち上がりながら、鎧を脱ぎ捨てる。
領主としていた時間なんて極僅かだった。それでやった事の全てを思い出して彼は眼を塞ぐ、沸き立つのは復讐と言う感情だけ。
自分がおかしくなってしまった事を感じてしまう正気具合が、彼にとっては辛かった。
ただゆっくりと歩き出す。まだしなくてはならない事があったから、自分のしでかした事の末路を丁寧に戻す為に。
「眠ってください」
彼の後悔を眠らせるために、自分の領地に歩いていった。
そして彼は死体の埋葬を行う、一つ一つを大切に身ながら、腐って異臭を放つ頭蓋を家族ごとに並べて、そうやって埋葬をし続けた。
ずるりと向けた人の皮をも気にせず、死臭のするその場所で、せめて家族一緒の暮らせるようにと、埋葬を続けた。
全て覚えている、自分の殺した人々を、彼はそう言う。
腐って虫が沸いても忘れられないと、腐ってずるりとむけた頭蓋を忘れられないと、妹を切り殺した手ごたえを忘れられないと、獣に貪られてズタズタになった体を忘れられないと、父を殺した絶望を忘れられないと、全部忘れる事が出来ないで八つ当たりのように自分は軍神を殺す。
理由はそんなものだと、あの妹を殺す理由はそれだけだと言う。
その願いだけが、自分の生きる意味だと彼は、迷子の泣き声のように王道の告げた。
妹様の秘密、野菜よりも肉、甘いものよりも肉、とりあえず肉が好き。