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十八章 ただの偶然でしかないと言うのに

 ただ立ちすくむ惨めな男は、自分が涙を流してるとも知らずに、赤褐色の月を見た。

 錆びた様な鈍色の癖に、随分と輝いて見えるその姿に、かつての自分を見ながら憎々しげに、天を撃つ様に空を見上げていた。

 たった今、ボロボロに壊れた剣は、彼の半身であり、彼のもう一つの姿だ。


 壊れたその剣はある意味では彼の全てであり、同時に彼の人生でもあった。なによりその献じたいが彼の全ての語り部で、なによりも信頼できるたった一つの拠り所。幼い頃からずっと持ち続けた、たった一つの人生の道しるべであった存在だ。

 それが今ははたりと消え去り、手の先から、いや頭の先から足の先まで、いつもあったはずの重みが消えた喪失感に、思考と共に体さえも浮き上がりそうな浮遊感に包まれている。


 心の空白に風が吹き荒び、その風に体が飛ばされそうな感覚。

 地べたを這いながら歩くと決めた彼は、空に吹かれて消え去りそうな、そんな無力以下に苛まれているのだろう。

 自分はなぜ、たった一つの筈のよりどころを自分で壊したのか。


 過去に執着しすぎて、剣の扱いさえ忘れた。自分の今の腕前に耐え切れる剣が無いのも知っていたから、剣の扱いには細心の注意を払っていたはずなのに、過去が自分の過失が、それを忘れさせた。

 過去が痛かった、突き刺さるのじゃない、ずっと押し潰してくる過去が、妹という存在への恐怖が、また奪わせたのだ。


 逆恨みとしか言いようの無い感情が沸きあがり、妹への憎悪を募らせる。そうする事でしか彼は動く事すら難しい。空を睨むように見上げる事だけが、剣を喪って、歩く事も出来ない獣のが恨む事で出来る最大限。


 彼はそんな弱さに心臓を切り裂きたい思いに駆られる。

 これから自分の憧れと対決するというのに、そこから体が一歩も動かない。歩く事が出来ない、なにより戦う力がどこにも無かった。

 あれだけ練磨を重ねて、その剣の腕前だけであれば、軍神に勝る神技ともいうべき力を持った使い手は、その剣の振り方すら忘れてしまった。今どうやって自分が剣を振ったらいいのかすら分らず、とうとう妹という重みに耐え切れず地面に膝をつく。


 ただ残痕たる後悔を剣の陵墓に捧げる。

 無様な、後悔ばかりの使い手でごめんなさいと、あなたを壊してしまってごめんなさいと、必死になって頭を下げた。

 呻く様な泣き声が獣の嘶きの様に響きながら、誰も見ていない城の一角に響く。

 先ほどの奇声じみた悲鳴と合わせてまるで、ここには魔物でもいるような、そんな不穏な空気が沸き立っている。


 そこに悪意も何もない、ただ感情の暗黒を合わせて、人を近寄らせるにはあまりにも、夜に溶け込んだ絶望の感情。ただそれだけが吐き出される後悔と言う名の屠殺場、彼だけを殺す後悔の執行台。

 腕は血に塗れていたが、既に傷は蘇生を完了させていた。ただその地の後が消えても彼の後悔はきっと消えないのだろう。


 そんな時だった、彼女が現れたのは、それは後に背を刺す刃と呼ばれる王道と言う剣士。

 偶然ではあったが、彼を探していた彼女は、どこにも見当たらない彼を探す為に人気の無いところを探しているところだった。

 彼女からしてみれば自分と覇王の試合を台無しにされたのだ、恨み言の一つもいいたくなっても仕方の無い話だろう。もっともそれだけは無いのだが、彼女は偶然ではあるが聞いてしまった。かなり上位の貴族の話だったのだが、あの御前試合を台無しにし続ける男の経歴の話である。


 ニーイロス男爵家の生き残り、この国で起きた反乱の中でも最も被害を出した、領民虐殺を行いさらには四方の国との同調による内外の戦乱を引き起こそうとした。

 この国では最も忌むべき貴族の血脈、なにより英雄の血脈が保有する個人戦力であり、この国でも最強の一角である騎士団、ヴォルフェ騎士団を壊滅させ、さらには軍神の初陣でありながら一度は彼女を退却にまで追い込んだ事から、歴代の反逆者の中でも最も恐れられた存在。


 その生き残りと聞けば、流石に彼女も黙っていられない。

 彼女も知っている、誰でも知っているが中身を全く知らない惨劇と、惨殺を行おうとした彼がどうしようもなくダブってしまう。

 だが彼を見つけたとき、彼女は言葉を失うしかなかった。


 腕を切り落としたという噂は、すでに場内八方に渡って伝わっているが、彼女は流石に冗談だと思っていた。だが目の前にその実物がある、己の腕を切り落として、土を盛った場所で膝をつきながらごめんなさいと呻く男がいる。

 なんだこれはと彼女は目を剥く、これが強者の姿かと憤慨した。だが同時に声もかけられない重さを感じるしかなかった。


 今彼に対して話をかければ、剣も持っていないのに殺されると断言できた。

 これ程までに破滅した感覚は彼女も感じた事は無い。寒さで張り詰めた弓の弦の様に、力を入れるだけでその場で弾けてしまうような、そんな空気が糸の様に絞られて、彼女には緊張の鼓動を早めた。

 このまま後ろから剣を振り下ろせば終わりそうな存在が、彼女にとっては何か別の存在を見るように恐ろしい。


 それはきっと、いや間違いなく、彼の感情の空気だろう。人を引き摺り奈落に貶めようとするような感情、今それがこの場にだけは立ち込めて、それこそ胸焼けのするような感覚に普通の人なら捕らわれるだろう。

 その空気を少しでも払拭したくて、彼女は結ばれた口を緩ませポツリと呟くように話しかけた。


「何をやっている」

「あ……あ、あ」


 一瞬自分が出した声かも分らないほどに、声が遠く響く。その声に反応するように涙をにじませた暗い目が、屁泥の匂いを溢れさせながら彼女を見る。

 ぞくりとした背筋の寒気はきっと、彼という感情を向けられた人が出来る精一杯の抵抗だ。

 壊れたと言うのに、いやきっと剣が彼の感情の蓋になっていたのだろう。その妹を殺すと考えた男の心に少しだけの落ち着きを用意する様に、ある意味では彼の封印だ。少しでも剣に身を寄せられていたから、隠されていたそれは、夜だから一層明るく見えてしまう。


 嫉妬、自分はこうなったのになんで妹はと、八つ当たり、父の所為でこうなったと言うのに、彼は妹が許せず、喪失、余すことなく自分の全てを彼女は奪い去ったと言うのに、羨望、あんなに綺麗なままでいるから、絶望、だから許せない、絶対に彼女はだけは許せない。

 自分の全てを奪っておきながら、綺麗でいるなんて、真白のままでいるなんて許せるはずが無い。知らないままでいることなんて許されるはずが無い。


 そんな感情が周りには汚れとして伝わる、心の弱いものならきっとその感情だけで吐き気をもよおす事だって出来るだろう。

 口元を手で抑えながら、彼と同じく涙で滲んだ目で必死になって睨むように、体裁を整えてはいるが、手が剣に掛かると言う思考を芽生えさせる事は無かった。彼女は心を折られたのだ、ただ感情だけを溢れさせる男に。


「あんた、なんでここに」


 ぽかんと開いた心を象徴するような静かな声、彼女の状態を知ってか、知らずか、嗚咽の混じった声は随分と間抜けに響いた。

 そんな間抜けさが逆に彼女の恐怖をあおる、無自覚な悪意なんてものは、晒される側にとってはたまった物ではないのだ。それはもしかすると無差別の悪意、不用意に触れれば辺りを灰燼にしかねないような暴力的な物だ。


 ただの疑問の言葉にその程度の感情を感じてしまうほどには、今の彼は危うい。

 目の前の男が、今まで感じていたどれとも違う変貌ぶりに、彼女は何も言えなくなりそうになるが、心を無知で打ち据えるように厳しく心を縛り、喉の奥にしまっていた言葉を自身のゆるぎない感情により絞るように吐き出した。


「それは、わちゃしの質問に……いやまて、ちょっと待て」

「ああ、うん、わかったが」


 彼への恐怖の所為だが、思いっきり言葉を噛んだ。

 彼女は凛とした魅力のある女性だ。どこまでも真っ直ぐを体現したような性格で、愚直といって差し支えないような人だから、そういう間違いはかなり目立ってしまう。

 先ほどまでの陰の気を撒き散らしていたセンセイですら、目を丸くして驚いている様子だ。


 その所為だろう、一瞬にして立ち込めていた黒く滲んだ空気が霧散した。


「仕切りなおしになるが、私の質問が先だろう」

「わかったけどな、別に言う事なんて無い。ただ剣を未熟で壊して、絶望してるだけだ」


 彼女は少し驚いた、御前試合に出てくる使い手たちは、どうしてもその技量から武器を壊す事が多い。

 だからこそ優れた武器を持つ事になるのだが、彼女の八詩篇の二詩篇も、その仲の代表的なものだが、技量に合わない武器を使う事によって武器が耐え切れなくなる。

 軍を相手にして引けをとらないような使い手たちだ。どれだけの力が必要で、どれだけの耐久力がある武器が必要か、そう考えればそれなりの名剣ではあるとはいえ、逸脱し身体能力を誇る彼には足りるはずもないと。


「それは武器の問題ではないのか、未熟などと」

「未熟だろう、己の怒りに任せて握りつぶすなんていうのは、剣を扱うものの所業じゃない」


 だが吐き捨てるように彼は言った。

 自分の所業が剣を扱うものとしてどれだけ無様か、ただその一言で十分に理解するしかない。王道と呼ばれた彼女と彼の差を、あまりにも剣の使い手としての意識が違いすぎた。


「そんな未熟者がだ、自分の剣すらまともに扱えなかった奴が、未だに軍神を殺す事を諦められないんだ」


 こんな滑稽な事があるかと、力のない言葉が響く。

 軍神の信者であるはずの彼女は今の言葉を聞いて、驚いたようではあるが、それに対して敵意を向けることは無かった。

 これだけもろい心があっても、それでも諦めきれないと言う事実。


「無理に決まっているだろう、あの方は人の範疇じゃ」

「だが人だ、人間だ、あいつはまだ人間だ。なら絶対に、どこかに、絶対」


 殺せる可能性はある筈だと、いわなくても代わる言葉が彼女に届く。

 無理だ止めろといってもこれは止まらないのは分かっていた。だがこんなにも誰か助けてくれと叫ぶように、殺すという彼の姿は随分と重い。

 妹を殺すと言う呪いに取り付かれて、それだけが生き甲斐となった復讐の末路はこれだ。


「死ぬぞ、いや殺されるぞ、あの方は慈悲の塊のような方でありながら、ひとたび敵に回れば容赦をする方ではない」

「殺してくれるなら未練も断ち切れてありがたいんだよ。産まれてこの方、死にたいと思ったことのほうが多い人生だぞ」


 その次は殺したいだろうけど、そんな言葉が後に響いていたが、彼女の耳には入らなかった。

 死にたいと思いながら生きてきたなんていうのは、彼女の想像の範疇ではなかったのだろう。もし本当に彼女が軍神の信者であればここでやかましく自殺でもしろと罵ったのかもしれないが、出来るはずもなかった。


 そう思っていながら自殺しない理由はただ一つに決まっていた。


「そこまで」

「そうだよ、その通りだ、多分その考えで間違っていない。それでも俺は妹を殺したい、死にたくても殺したいんだよ」


 そしてとうとう彼は口にした、当たり前の事実だから。彼にとって隠すものなど何一つ無い、かつて自分が、いや今でも軍神 アイシアス=エイジア=クラウヴォルフの兄、であると、何事も内容に告げる。

 彼のことは実はあまり知られていない、彼女に兄がいると言うのは、あまりにも有名な話であはあるが、なによりかつては英雄の後継者としてうわさもあった筈だというのに、その存在が抹消されたように、彼の記述は殆ど存在しない。


 それもその筈だ、ニーイロス男爵家の養子になっていた。

 そんな醜聞を周りに晒せるわけもない。軍神の経歴において汚点になる、なによりよりにもよって彼女は兄の家を滅ぼした存在となるのだ。

 北方の出身だという事は髪を見ればわかるが、ここまで彼女と密接な関係だとは流石に彼女も思わず一度息をのんでそれが詰まったような違和感を感じた。


「そんな事をしたって、何一つ変わらない。いや、変える気がないのか」

「復讐を考えている奴が正気と思わないほうがいい。ただ武器が壊れただけで、怯える男が、復讐だけで立ち上がってるんだ。まともなわけが無い、あるわけが無い、こんな醜い存在が正気であってたまるか」

「だが自身が正気じゃないと言い張る間は、人はまだ正気の境界線に立っている。引き返せるかもしれないんだぞ」


 言っていてなんて嘘臭い言葉だと彼女は思った。

 人としての何かが彼は随分と昔に壊れている。正気を振りかざすにはもう、遅いのだ、男爵家反乱鎮圧、あのときに何か無ければ彼は元には戻れない。


「無理だ、判っていて言うなんて王道、酷すぎる。戻れない、領民を撫で斬りした男が、家族を殺した男が、正気になんて戻れるわけが無いだろう。一度男爵領に行ってみるといい、絶対にあんたは撤回するさ」


 それできっと俺に嫌悪を抱くだろうと、いやいまでもそうかと、捨て鉢気味の態度で笑う。

 だがそんな態度を見て、彼女は腹を立てた。人生を投げ捨てたようなその態度が、王道と言う彼女の生来の気質に酷く反応したのだろう。


「知らん、私は何も知らない。お前がなぜ領民を殺したかも、家族を殺したのかも、何一つ知らない。私に理解して欲しいのなら、お前がそれを語るしかないだろう」


 目で見たものと、当事者の言葉以外私は信じないと言う。

 強いのだやはり彼女も、自分には無いその真っ直ぐな強さが、太陽よりも目映く写って今が夜だというすら忘れてしまいそうになる。

 強くなりたいと、そんな姿を見るたびに憧れる。こう真っ直ぐな人が、妹に食われていると言う事実が辛くなる、けれど王道はやはり強かった。どれだけ妹があっても、神童と同じく自分を真っ直ぐ見てくれる人だった。


「ずるい、みんな全くずるい、なんでそんなに強いんだ」


 過去が緩んだ、そのことに彼は困ったように笑うしかない。

 今の間だけは人生の相棒を忘れられた、あまりの強さに自分が変われるようにすら思ってしまう。絶対に無理な事だと言うのに、そんな希望をみせられてしまう。


 人が変われるなんていう、妄想の産物が本当にあると思ってしまう。


「俺はこんなにも、こんな…………なのに」


 希望は、希望なんて、絶望よりも残酷な言葉なのに、そんな言葉を信じてしまいそうになる。

 彼はそれを認められない、それは全て妹にある言葉で、自分の言葉じゃないから。地べたを這うと決めたのなら、きっと――――希望と言う言葉だけはあってはならない。


「私は知らない事は知らん。貴様に怯えていたのが馬鹿らしい、教えてみろ、それで人生は変わるかもしれない。というより教えろ。変われないのなら、変われるように王道の私が聞いてやる、なにより見合った対価も払ってやる」


 こうなれば、もう彼女の独壇場だった。

 もしかすると噛んだ事がいい結果になったのではないかと、他人事に様に自分の事を考える。今思えば恥ずかしい事だが、それで自分のテンポを戻せたのなら随分と安い買い物だ。

 あれに飲まれればある意味では、軍神よりもたちの悪いものに感染しかねない。恐怖なんていう、本来戦うものであれば、共存していくべき代物に怯えなくてはならなくなっていた。


 そういう意味では救われたのだろう。彼は軍神以上の刺激物だ、人の心を壊すに足るだけの怪物。

 だから彼女は思ったのだ。そんな怪物が生まれた理由、妹と何があったのか、全部教えろといったのは、彼女自身が乗り越える為でもあった。

 まだ抗えるとはいえ、彼が恐い事にはかわりがない。


「どこからがいい、もうなんでもいい。吐き出したらすっきりしそうだし、そうだな、まずはこれだけ覚えていて欲しい」


 そして最後に反乱鎮圧の後に起きたお話を、センセイと言う男が壊れた理由のご拝聴をお願いいたします。

 妹が兄の事を覚えていない理由、そして彼が彼女を憎み怯える最大の理由。


「そもそも男爵家が反乱なんていう事実が存在しない。全ては剣聖が行った策略で、全てがでっち上げられた反乱それが切っ掛けだった」


 それがこの国で起きた惨劇の最初、ニーイロス家反乱の始まり、一つの幸せが終わって、一つの奇妙な果実が地面に転げ落ちて始まる転がる首の物語の最初の語り。

 その言葉に彼女は本当に驚いた。なんでじゃない、こんなことがありえるのかという始まりが紡がれる。正史が正しいとは限らない典型、勝利者たちではなく、それは敗北者の歴史。


 歴史の末端にすら記されない、彼が語るのは本来あった消された絶望の物語だ。


始まるといってからかなりの時間がたちましたが、男爵家反乱編始まります。

たぶん三章ぐらいで終わります。

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