十七章 拒絶
くだくだとうるさい人間たちから逃げ出して、城内でも人気の少ない裏庭に彼はいた。
そこでさも当然のように彼は剣を振っていた。
日常の習慣だったから、片手の剣を体に馴染ませてるように、ゆっくりと確かめるような軌跡を描いている。いままで作り上げた彼の剣を全て捨てるのだ、これぐらいの思考があるのは仕方の無い事だが、彼はどうにもしっくりと来ない軌跡に少しばかり困ったようだ。
当たり前の話と言えばそうなるが、攻撃に対する選択権の少なさではなく、どちらかと言えば剣の重みに引っ張られる感覚だろう。
どうにも予想以上に引っ張られるような感覚が強かった。
それは知らずの内に成長していた彼の剣が、その鋭さを上げていた所為であった。まともな剣のぶつかり合いをしていないとは言え、彼が戦ってきたものたちは最上級の敵だ。
無意識に彼らに対抗する為に、体の動かし方がさらには上手くなっているのだろう。その所為で武器を振るった際の遠心力によって引っ張られる力が強くなってしまった。
その結果として、片腕になったときの誤差さらに酷く感じられている。
武器に振り回されると言うのは、かなり久しぶりの感覚ではあったが、まだ妹がいなかった時期の話で、まだ母も父も比較的マシだった頃にまで遡る、剣との付き合いもそんなに古いのかと楽しげに笑ってしまった。
物心つく前から握っていた剣、人生の殆ど全てを彼は剣と一緒に生きてきていた。
そんな事を何かが足りなくなってようやく思い出す。
よく今まで一度として、その剣を捨てようと考えなかったなんて、随分と挫折したはずなのに、自分も昔から未練がましい男だったんだと、そんな事を振り返る。
剣は振れば答えてくれた、今まで一度として裏切った事はない、彼が裏切った事はあったとしても逆は一度としてない。
だから手放せなかったのだろう。最初は父と母の為に、その次は家族の為に、そして何時しか自分の為だけに振るようになった剣は、彼を認め続けてくれていたのだ。物も言わない剣に、いまは必死に答えようと振るう。
相棒をうまく扱えていたはずの腕を捨てて、最大の裏切りを行っても、剣は振るたびに答えてくれていた。それが嬉しくて、一つ理合いを作り上げて、またそれを消してさらに一つ上に、そう何度も段積み作業を行いながら。
一人と一つで剣を振り続ける。
あれは違うと、これは面白いと、あと五時間と言う時間を使って、足らずの剣を、かつ手を超える剣に作り上げる。
その発想が無茶苦茶なのは、彼も知っているだろうが、そうしないと次の神童との戦いは負ける気がした。彼は多分、何かをなくした者達の必死さを知っているのだろう。
全てを掬い取れるヒーローはこの世に存在しない、軍神だって無理なのだ。この世界の誰にも出来る事じゃない、そんな中でなくした何から抗う者達は、ただそれだけで恐ろしい。自分に出来る全てを費やしつづけるから。
自分がこんな風になったように、誰かもまたこうなる事がある気がしてならない。
彼は全部取りこぼして、それでも諦めきれない人間だ。抗うしか許されなくて、それを実行し続けてここにいる。
そして神童もきっとそうなる気がした。
「あの人は、あの人なら」
絶対にそうなる。何もかもが無いから、何か一つに呪われる。
神童は片腕を失ったときから、そう変貌しているように思えた。手の平に刺す痺れは、随分と必死に彼に対して気をつけろと、叫んでいる様であった。
こういう感覚に外れは無い、マイナスに対する感覚なら随分と研ぎ澄まされている男だ。その勘を外す筈も無いだろう。
彼を生かしてきた才覚だ。
無意識ながらにそれを理解しているから、彼はその感覚に逆らわない。絶望の経験則だけは、容易く人に負けないと言う自負があるのだろう。
その焦燥感が剣を振らせた。
このままじゃきっと駄目だと、剣を振るしか彼は考え付く事も無い。ただ当たり前の日常を繰り返し、弱いという自分を今だけは忘れていた。
今までの剣を捨てて次を作り上げる。そんな無茶を行う必要があるから、少し楽しげだったのだろう。かつ手を捨てて、今を作る、その過程が彼にとっては、その引っ張られる感覚すら計算に入れるのか、もっと違う形の何かを作るのか。
まったく持って決まっていない自身の計画性のなさと、突発的な行動のせいで笑うしかない状況ではあるが、なくなった腕に未練なんてひとつも感じていなかった。彼にとっては今までの剣も、これからの件も根本は変わらないのだろう。
どれだけの練磨を重ねた先であろうと、切っ先の向いている先もその結末も決まっている。
対軍神剣術であることに変わりはない、流派は復讐、いや八つ当たりがいいだろうか、それとも嫉妬、ずいぶんと後ろ向きな流派であることは変わらないだろうが、名前をつけるならその辺りになるのだろう。
そのためにくみ上げる剣は、いったいどこまでの変貌を成し遂げるのか、地を駆る獣はきっといつかを続けて果ての為に狂うだろう。
ただ一人を殺す為の鍛え上げる剣の始端は、これから数刻後の話だが、そこが完成のときでもある。
ただ剣を宥めすかせる様に振りながら、ただいままでの剣の為の体から、これからの剣の体に作り変える作業を淡々と行う。
「そういえば、あの頃こうやって馬鹿みたいに振ってたな」
男爵家に養子に出てからも彼は変わらず剣を振っていた。
あの日記の通り、次の家族の為と必死になっていた。彼に出来るのは剣ぐらいだと思っていた。妹という比較対象がいなければ彼は天才だ。
しかも厄介な慢心しない努力をする天才、あきらめも何もせずただ必死になると言う。盆栽にとっては悪夢のような存在だ。
それは剣においても、そして勉学においても言える事だった。
あらゆる事を頑張ろうと、彼は必死になっていた。
そのときと同じだった今は、誰かの為に剣を振っている。自分以外のために、彼は久しぶりの軌跡を紡いだ。
ただ決着ためだけに腕を切り落とした馬鹿は、自分の剣の為の筈なのに、他人の為に剣を振っている。妹という延長線上から少しだけずれた、彼の終着点じゃないのに、彼は見せたくて仕方がなかった。これがあなたの認めてくれた自分ですと。
言葉よりも雄弁に剣は語ってくれると彼は知っている。
同じ剣士同士であるのならそれはさらに、分かりやすい繋がりとなってしまうだろう。だがらそのひとつの完成を作り上げたかった。
センセイという男の作り上げる、ひとつの自分の終着である形を、きっとそんな剣を見せれば妹に奪われると分かっていながら、その完成すらも完了形の妹には、いい餌に過ぎないと知っていながら、彼はその完成を作り上げようと必死になっていた。
勝率だけじゃない、彼はある意味では全部を捨てた。
ある意味では無茶苦茶だ。剣の全てを読み切ることが可能な軍神の前で、自分が作り上げる剣の形を見せ付けると言うのはつまり、その剣を捨てる事と同義の筈なのだ。
それを彼は知っている、彼はそんなこと一番知っている筈なのに、終端を作り上げ、妹によってそれを食われるつもりなのだ。
ある意味では次に人生の全てをかける様な愚考と言っても過言じゃない。
一を見て十を知り尽くす彼女に、その全てを見せると言うのは、その剣の全てが見切られるのと変わらない。あらゆる対策が用意されるだろう、そして何より彼の剣が彼女に奪われる事を意味していた。
それは彼にとって何より屈辱的な行為の筈だ。
奪われ続けた彼にとって、最後の砦である剣を奪われたのなら発狂しかねない恐怖がある筈なのに、それを受け入れることを覚悟していた。たとえ奪われたとしても彼は、抗うと言うことを辞めるつもりもうなかった。
これからきっと自分は何度も心を折られるのだろう事を理解しても、これだけはと、ポツリともらす。自分にとって何より大切な戦いになるから、心を折られて、達磨の様に体が成り果てようとも、彼はその戦いから逃げ出すことはない。
腕を切り落として思ったことは、体が軽くなった、少しだけ前を向けた、少しだけ馬鹿になれた。
それだけ、彼はそれだけ、そんな膨大な価値をもらった。頭の片隅で浮かぶ思考は、片腕でどうやって妹とどうやって戦うつもりなのか、どうやってあの災害に剣を向けるつもりなのだろう。
なんて後ろ向きなものばかりなのに、
「さっぱり分からない」
とそら吹く。
そもそもどうやってあれと戦うつもりだったのだろうと考えても、やっぱり分からなかった。いまさら何をしても、対策を立てることだけが無駄と言う事しか彼には分からなかったのだ。本来、そもそも軍神と戦える人間は存在しない。
その事実にようやく気づいて、ささくれる感情が心臓より根をはり随分と違和感のある痛みを刻み付けていた。
「仕方ないんだが、どうせ一度でも見られれば終わるんだ」
軌跡再現みたいな無茶な技でなければ、妹なら一目見れば作り上げると知っていた。
その事実が悔しくて歯噛みしそうになるが、それよりも彼は剣を振る。現実がそうであったとしても変わらないと言うように、彼は剣を作り上げる。
「なら完成させるしかないんだろう。遅いか早いかだ、それに片鱗を見せたって」
あいつなら奪いつくすに決まっている。押し込んだ言葉はそんなところだろうか。
荒い息が白んでくるほど冷たくなる夜の一角で、泥に転げる犬の様に剣を振る。彼女の望んだ翼を彼は求めない。
歩く、ただ前を向いて歩くことだけを求めた。
それさえ出来ない男だったから。ずっとうずくまって動けないような男だったから、空よりも地平の果てを望んでいるのだろう。
見せてやると彼はつぶやいた、奪いたかったら奪って見せろと彼は、心で叫んだ。鼻息荒く剣は作り上げられる中、彼の目は随分と爛々としていた様に思える。
「頑張ろう、なんて言葉が久しぶりに、そのままの意味で使える。逃避じゃない行為なんて、何年ぶりだ」
楽しげだった、心に湧く敗北の感情が今だけは消えているから。
ただ自分に潜り込むように、ただ深く深く感情も剣も体も全て、液体のように溶かして、その全てを深く沈め続けた。
無心に剣を振っていた、今まであった感情は消えてゆったりと、何もかもが沈んだ景色が浮かぶ。
そこに剣だけが浮き船のように浮かんで、月見と洒落込む様に、波に揺られているようだった。
「随分と懐かしい、こんなのは久しぶりだ……は―――っ、久しぶりって……それって」
こんな感情になったのなんて、久しぶりだと彼は思い出して、その剣の船は難破した。いきなりの嵐は感情の悲鳴のようだ。
彼がこんな風に落ち着いて剣を振っていたのは、たった一度だけしかなかったから。眼球すら零れ落ちそうなほど目を見開いて、充血した目が凶顔とともに憎悪の感情をあふれ出させる。
「みんな殺した時じゃないか」
忘れられない過去を思い出すしかなかった。いや忘れ去っていた過去を思い出したのだ。
あの反乱が終わる要因となった血の川と首の雨が落ちる世界のお話を思い出してしまった。ただ剣だけに全てを絞り込んで、領民千五百人、辺境伯軍五百十八名、家族八名を皆殺しにした後悔だけの男が淡々と行った殺戮の感情だ。
それだけは思い出せはもう先ほどのきれいな感情など思い出せない。
ただ義務を成すように感情を消して剣の先に力を込める。そして後は淡々と首を跳ねて行くだけの作業を行った男が持っていた感情だそれが、こうなればもう無理だった。そこに埋めていた筈の感情があふれ出す、神童のように綺麗になんてなれる筈がなかった。
ただ悪意を重ねてそれだけしか出来ない男は、後ろを振り向いてそれに捕らわれる。
震えが走る、四肢に思い出した感情が堰を切ってあふれて、船はただ荒波に飲み込まれて、姿を消して月はそれを真っ赤な姿で笑うだけだ。指の先まで復讐を思い出してしまった彼は、握っていた剣をさらに深く強く。
「今だけは、今だけはって思ってたのにこれか。弱いんだな、やっぱり弱いんだ俺は」
またそんなことを頭に浮かべてしまう。
そうなったらもう終わらない、忘れていた全てを、また感情が生み出す。また妹を思い出して体が震えた、どうやって勝つんだと、何で腕が足りないのに勝ちを考えていたんだ。
なんて、後ろから悲鳴とともにそんな言葉があふれている。今だけでもいいから終わってくれと、叫びそうになると言うのに、ただ握る剣しかその事を分かってくれないだろう。
「こんなんじゃ、次で終わる、絶対に終わってしまうって言うのに」
叫ぶようにして深く握った剣は、ばきりと悲鳴を上げた。
深く握りすぎた剣の柄は、彼の握力に耐え切れずに粉砕してしまう。その瞬間だ、彼の感情がまた終わるのは、今まで裏切り続けてきた剣が始めて彼を拒絶した。
柄が折れただけならよかった、だが彼の握力はそれをさらに超えてしまったのだ。
「な、んで、ああ、なんで」
刃が地面に転がるそのとき一体となっていた刃にもダメージがあったのだろう。剣が転がる、さらにそこで悲鳴を上げた、もう二度とその剣が振るわれる事を証明するように刃砕けた。
「あ、あああ、ああ、ああ―――――――――あっああ」
今まで彼が裏切らないと信じていた剣は、彼を拒絶して地面に転がった。
たった一つ信じきっていた剣さえも彼の手元から零れ落ちる。その瞬間よりどころをなくした男は、叫びだした、悲鳴を響かせた、狂騒じみた悲鳴を上げ続ける。
なくしてしまった、最後の一つさえも彼の手から零れ落ちた。
叫ぶ、悲鳴を響かせるように彼は叫んだ。歩けないと悲鳴を上げるように、過去の妄執の男は、悪意によってしか立ち上がれない筈の男は、自分を認めていた筈の剣さえも失う。
地面を正気を失ったように掻き集める。砕けた剣を必死になって、だが刃が転がっているのだそんな事をすれば、彼の手は切り裂かれる。大切な最後の腕が、血に染まり傷ばかりが目立っていく。捨てないでと子供のように喚きながら、剣を必死に掻き集める。
だがそうやって集めた土の塊を見たところで、彼が救われるわけもない。
彼にずっと付き合ってくれていた筈の剣は、彼の目の前で一つの破滅を迎えた。土の山が彼の下に転がり、盛り上がったそれの前に立ち尽くし、血塗れになった腕を握るが、痛みで握りこむことすら出来ない。
それを魔力がゆっくりと治療しているが、もう戻らない剣の墓標を見て彼は、絶望するしかなかった。
「なんで、なんで、なあ、俺は本当に一人になるんだよ」
その最後を奪ったのは自分自身だった。大切なものを感情に明かして握りつぶした。
彼はそうやって最後を奪った、自分で奪いつくした。妹に奪われた何よりも、ここで失った最後は彼にとって何にも変えがたい最後の繋がり。
誰もが彼を認めてくれる唯一の繋がりが今壊れたのだ。腕をなくした喪失感なんて比べ物にもならないだろう。ただ漫然と終わった、彼にとって大切な繋がりが完全に途絶えたのだ。
裏切っても信じ続けた剣をただの八つ当たりで壊した男は、ただ霧の様に白む視界に、水滴の歪みを混ぜて漏らした。
「こんなんだから、妹に奪われるんだろうが、裏切り者」
何一つなくなった男はただ呆然と立ち尽くしながら、一滴の雫を地面に滲ませた。