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十六章 ただ外から響く音が騒がしくて



 ―――酷く部屋の外が騒がしかった。


 今日の試合は、彼女にとってある意味では、喜ばしいものであった。

 兄の実力を知る事が出来た。その深遠を見切ることは敵わなかったが、それでなお深い、自分に手が届く何かである事だけは理解できたのだ。

 同時に先の闘いでの結末が、彼と彼女の闘いを妨げるものを許さないと言う証明行為のように存在している。


 嬉しかった、あの兄がとうとう、帰ってと思うと、母をここまで殺戮しておいてもなお彼女は嬉しかったのだ。それがたとえ白刃の先であろうと、彼女の願いは叶っていたのだ。

 彼女とて満足に振る事の出来ない剣の境地を、その母の断面から理解させられた彼女は、実物を見たくて、その冴えがどれほどのものかを夢想するしかなかった。いくら彼女とて、ここまで領域に立つ事は難しい、そう理解していたのだろう。


 だからこそ会いたかったのかもしれない。

 彼女の母の言っていた相手の能力に、反応するものだ。血の優秀さにおいて、この国内外問わずここまで優れた血統はないという家に生まれた男であるセンセイ、その血に驕らず、と言うよりは驕れず、心を削るように極めた彼だからこそ、彼女はさらに反応してしまうのかもしれない。


 ―――酷く部屋の外が騒がしかった。


 それも本当ならの話、ただ彼女は惹かれているという自覚がある。

 父にも沸かなかった感情を彼女は感じていた、鳩尾よりまるで毛が這い上がるように心臓に伸びる感覚、背筋のしびれるような感覚と合わさって、まるで何かに、やさしく撫でられている様にさえ感じてしまう。


 そこに残る僅かな影が、その、高揚とした感覚さえも上塗りし、じぐんとまるで刺した痛みより先に頭が悲鳴を上げるような、感覚にとらわれる。


「なにが、え、なんでだろう、なんでこんなに」


 恐いんだろうと、知らずの内に兄と言う存在の悪意に気付いているのだろう。

 少しだけ、恐かった。手の先から僅かな震えを感じていた。それが酷く痛いと言う事にも、まるでやけどをしているかのようにじくんと痛み、指からまるでその痛みが這い上がるような感覚が、笑顔のはずの彼女のに色濃く残っていた。


 二つの感情がせめぎあう事に、戸惑いを感じずにはいられないだろう。

 彼女はいままで後ろから迫ってくる存在など、感じた事すらないのだ。無意識では気付いているのだろう兄の殺意、それが自分に迫っている事に、薄々ではあるが勘付き始めている。


 ―――酷く部屋の外が騒がしかった。


 だからこそ震えるのだ、迫ってくる存在を知らないから。

 彼の悪意は常に彼女に向けられ、それに晒され続けている彼女は無意識では悟っている。あれは自分を殺す為の存在だと。


 何もかもを奪い去る、そんな存在だと彼女は理解するしかなかった。

 だがそれが出来ない、彼女にとってはどこまで、そういう事実があろうと敵なのだ。だと言うのに、彼女はそれに対して何も出来ない。

 知らなさ過ぎる、彼女は悪意を知らない、人なら誰もが持ち合わせるそれを知らず、無知ゆえの無邪気さを持って兄に好意を向けている。だと言うのに肌で感じるそれは、きっと彼女の心をいつか蝕むだろう。


 何より彼は彼女の思い通りにはならない。

 飛べなくなった片羽だ、歩き出す為に羽を捨てた、ただの人間だ。人は昔から、空を目指す事で神聖さを表し強さを表した。

 トラに羽を生やして強さを表現するのなら、人に羽を生やせばそれを天使と呼んだ。

 だがその権利を捨てた彼に、空を目指す権利は存在しない。


 彼女はその姿にきっと絶望するだろう。

 彼女が彼に望むのは、真っ当な強さであり、彼ならば必ず存在した彼女と、互とする剣の道だが、既にそれて地べたを這う事を彼は良しとした。


 ―――酷く部屋の外が騒がしかった。


 だからこそ、彼女の恐れは間違いではない。

 彼は彼女の隣を歩く事だけは断じて有り得ないと言う証明が、あと少しで証明されようとしていた。孤独と言う名の病巣は、間違いなく彼女の体の中に広がっている。

 しかし彼女にはつながりが必要だった、壊れた母じゃない、死んだ父じゃない、自分と同じ存在である兄を彼女は求めた。


「こんなに使いこなせるようになったんだから褒めてもらえるけど」


 その一つの結果が軌跡再現とも言えるだろう。

 元々彼女には一度見ただけである程度の事は再現可能だ。人の技術は一度見れば、大抵のものは手に入れられる自信もあるだろう。

 軌跡再現もその一つだったと言うだけだが、元々が何もかもが完了形で語られるはずの彼女が、その剣才に方向性を与えればその程度は可能と言うだけの話だ。


 彼女さえも憧れてしまったその切り口、どうやればあれだけ切ることに集約できるのか、理解すら難しい剣理を備えてしまっていると言うのに、いや彼女ですら読めない剣腕を持っているからこそ、彼女は彼を自分に近しい人間だと思っている。


「頑張ってたんだよねお兄様は、それでこうやって現れて、そういえば一体何をしたいんだろう」


 父の言うとおりに、男爵家の復興なのだろうか、いくら彼女が真っ直ぐとは言え、完成品と言っていい存在だ。

 場外では覇王と乱闘を行い、惨劇を作り上げてしまった以上そういう風に見る事が、出来るほど無能ではないし、馬鹿でもないのだ。

 何よりもう馬鹿正直に彼女に会いに来たなんて信じられるわけも無い。


 筈なのだ。


「私に会いに来ただけなのかな」


 だが彼女は人の言葉を肯定するしかない、兄の言った言葉を信じきっていた。確かに彼は彼女に会いに着た。

 しかしそれは復讐の切っ先を向ける為であり、それ以上の意味なんて存在しないのだ。だが彼女は兄の言葉に嘘を感じず、疑う事もしないから、顔を赤くして愛らしい表情を艶やかに歪めた。


 ―――酷く部屋の外が騒がしかった。


 確かにそうだったら、なんと嬉しい事だろう。

 しかし有り得ぬ話で、彼女はこれらからその感情を裏切られる事になるのだ。羽ばたくはずの兄が地べたを舐める光景を嫌でも見せ付けられる。


「そうだ、そうだ、それしかないや。お父様は決闘だから仕方ないし、お母様はあの性格ですからきっと、なにかお兄様の逆鱗に触れるような事をしたのかも」


 あながち間違っても居ない発想だが、彼と彼女の間の線は常に何かがずれていた。

 あくまで彼女の視点に過ぎないが、人を好意的に解釈しすぎるのが、彼女の問題と言えば問題だろう。だったら私から会いに行ったほうがいいのかもしれない、そんな事を考えながら、いつしか声を弾ませるように、先ほどの感情を抹消させていた。


 きっと私と戦う為だと、だってお兄様は強くなったんだからと、羽でも舞うような優しさで彼女は言う。

 そうやって自己肯定を彼女は繰り返した。

 いつもならそれが全部現実になっていたのだろうが、彼女の思い通りにならないと言い張るそれは、彼女のそんな子供のような願いを認めないだろう。


「けど、本当に、本当に、恐いぐらいに強くなったなお兄様は」


 一度だけぶつけ合った兄との剣戟は、無様と言うしかないものだったと彼女は思ったが、どうしても次の攻撃がくるのなら、致命傷を覚悟しなくてはいけない何かが襲ってくる感覚を感じた。

 その感覚は間違いなかったといっていいだろう。そしてその次の攻撃を、さらにその先の攻撃すら在りうる相手だと、さらに軌跡再現を使われれば、そう考えると生まれて初めて敗北を考えなくてはいけない相手になるのかもしれない。


 そんな風に彼女は感じていたが、それが嬉しくて仕方が無かったのも彼女は否定しないだろう。

 だから父は嫉妬したのだ、兄に明らかな感情を抱いた彼女を見て、狂おしいほどの感情を抱かずにはいられなかった。


 寝具に身を預けて、母との戦いはどうだったのだろうと思考する。

 そして神童との戦いを、よほどの事が無ければ、数合で兄は神童を切り伏せるだろう。それでも見くびりすぎていると彼女判断していた。

 片腕の剣士と言うだけじゃない、片腕となってしまった剣士と、片腕の剣士は違う、そのために費やした時間と経験が、それが血肉となっているかどうかの差が致命的だというだけだ。


 ―――酷く部屋の外が騒がしかった。


 片腕のなった剣士が、一日二日で過去を取り戻せるはずも無い。

 何より敵になった相手が悪いと彼女は思っていた。兄はあれほどの剣の冴えを見せる相手に、一朝一夕の剣が通用するはずが無い。

 だから決まった試合だと思っていた、それこそ兄が何かしらの無茶をしない限り。


「けどお兄様なら」


 ―――酷く部屋の外が騒がしかった。


「なんて考えたら、駄目なのかな。どう思う」


 どうなんだろう、そう誰かに問いかけるように彼女は、自分の胎を撫でた。

 それが返してくれるわけも無く、ただ困ったようにため息を吐く。


「だって私は、お兄様の事をぜんぜん知らないから、だってもう何年もあってないんだから」


 昔と変わってないところもあるのは、知っているけれど、今の彼を彼女は知らない。

 今までどうやって生きたかも、没落した所為で何があったのかも、全部彼女は知らない。気付けば、男爵家は滅んで、兄はそのとき死んだと知らされた。

 彼女が産まれて始めて感じた孤独はもしかするとここだったのかもしれない。


 彼女と父の関係が始まったのも、また自分から誰かが居なくなると言うと恐怖から、それを手放さないようにと、泣きながら父の寝所に向かったのが始まりであった。

 多少歪だった家族の関係が壊れたのも、実はこの辺りの事だったのだが、今考えると、それさえ剣聖が企んだ事のように思えてしまう。


 ただ実の娘をその手に抱く為に、最初から狂っていたが、随分と愛情に狂っていのかもしれない。


「また会いたいな、けど決勝まで楽しみにした方がいいのかな。うーん、どうなんだろう」


 その歳月を埋める為に、あって話をしてみたかった。

 だがなぜかその足が踏み出せない。一日前なら踏み出していたはずの足が、頑なに動こうとしないのだ。

 何でとも思う、恐いと言うよりも恥ずかしかったのだ彼女は。


 ―――酷く部屋の外が騒がしかった。


 どういう顔をしようと考えた、化粧をしたほうがいいのか何もしないほうがいいのか。周りの人はどちらでも、お美しいですとしか答えてくれない。笑ったほうがいいのか、母の事で怒っていますというべきなのだろうか。

 服は、最初に書ける言葉は、一体何をと。


「あーもう、分るわけが無いのに、お兄様、もう、お兄様」


 下着も新調したほうがいいのだろうか、父を誘惑するように、少女を演じるべきか、無邪気を装う童女を気取るか、それとも年相応の女として、可憐に彩るべきなのか。はたまた売女如くを突き詰め、男を誘う女を纏うべきか。


 気付かぬうちに彼女は兄に、明らかに兄妹とは違う感情を作り上げていた。

 多分彼女にとって同格とはそういう立場の存在なのだろう。自分にとって最も近しい人物、それが多分愛情の形になるのだ。

 どこまで行っても人は一人である様に、彼女はその人の中でもさらに孤独な存在だ。


 だから憧れてしまう、自分の隣に並びたつような存在を、あっちを切ってくれなんしとでも、廓言葉を使ってみせようかと、それこそ遊女のように自分の肌を晒して見せたら喜んでくれるのかと、そんな無駄な思考ばかりを彼女は重ねていた。


 初めてだったのだ、初めて彼女は相手の底を見切ることが出来ないでいた。

 その深遠を見たくて、恋焦がれてしまってた。多分それが、いや間違いなく彼女の母が言った魔女の血なのだろう。

 相手の能力でしか、感情を抱けない魔女の血、淫売の素質だ。

 孤独を埋める代償行為であったとしても、彼女は無意識にそういうものを選んでいる。


「一人じゃないけど、お兄様とお話したいな」


 そうでなければきっと自分が終わってしまう気がした。

 だが彼女の願いは叶わない。当たり前の話だ、多分世界でただ一人、彼女の思い通りに動かない男は、自分と羽ばたくはずの羽を失っていた。

 天蓋の外を仰いだところで彼女に目的は達しはしない。


「だから、だから、お願いだから」


 壁の向こうの空を見上げたところで赤褐色の夜が、随分とつめたい光を下に漏らすぐらいの光景しか見ることは出来ないだろう。暗いはずの帳だが、赤褐色に染まる月は、少しばかり温かみさえあってもいいと思うのに、照らす光は随分と冷たく、鳥の声は聞こえない。

 それはきっと荒野の夜なのだろう、鳥さえ羽ばたけないそんな夜。


 獣ぐらいしか走れない夜に彼はいるのだ。


 その事実を彼女は、否応無しに刻み付けられる事になる。自分と彼が全く違うという事を、隣に並び立つものなどと言えない、多分そこで、何もかもが本当の意味で終わって始まる。


 ―――酷く部屋の外が騒がしかった。


 その獣の声が聞こえた、まるで肉食獣に戸惑うような声と共に、兄の部屋が血塗れになって使えないと言う言葉が、それと同時に部屋に人間が倒れていると言う声が、怯える声と共に溢れ始めていた。


 ―――酷く部屋の外が騒がしかった、耳障りなほどに。


 聞こえないはずの声だったのに、聞きたいはずの声じゃなかったのに、ずっと響いてたはずのそれがようやく彼女の耳に入ってしまう。


「黙ってよ、黙ってよ、お願いだから。そんな事があるわけ無いじゃないか、何でそんな事が起きるの、絶対に絶対にそんな事なんて」


 ずっと聞こえていた、ずっと聞こえていた、だから彼女は叫んでかき消すしかなかった。

 そんな事はないと、聞こえていたのに、ずっと響いていたはずなのに、彼女は聞こえない振りをし続けた。

 考えても見れば分る話だ、センセイは剣を振る事を止められない男だ。


 倒れるまでふるって当たり前、病魔に侵されようと、その死ぬ手前であろうと、彼が唯一自分を認めてくれた剣を捨てる事だけは出来ないだろ。

 彼はきっとそうやって死んでいく、誰もがそう核心をもてる程度には、正気を保っていない。たかが腕一本なくなった如きで、その剣士はそれを投げ出す事は無い。ましてや、彼は今話題の人物であり、ある意味では誰もがその動向が気になっている。


 何よりあれほどの狼藉を見せた男だ。事情を聞くために、彼を探している人物も多い。

 そんな男が、当たり前のように剣を振っていたら嫌でも目につくのは仕方の無い事だろう。まして、部屋は血塗れ、しかも腕はそのまま放置、そして片腕で剣を振るうとくれば。


 目立たないはずが無い、誰かに止められただろうそして、当たり前のように黙らせたに決まっているのだ。それが騒動を呼び彼の状態を周りに伝え、城の中に伝播するように彼の状態は響き渡った。

 それが彼女の周りにも駆け巡る。この後の戦いの事を思えはそうだろう、不足者同士が御前で切りあうなど、許されるのかと、だが彼らの実力はもはや片腕如きで他のものに劣るものではないと証明されてしまっている。


 なによりここで御前試合を止めにするというのは、民衆に対しても不満が残ってしまうのは間違いない。

 王が自身で決めて行った興行だ、途中で止めればそれだけ王と言う名に傷がつく。その程度の興行も出来ない無能と言うレッテルを貼られてしまいかねない。

 軍神によって国民からの信頼を手に入れた王にとって、それだけは避けるべき内容であったのだろう。


 国威発揚といったが結局は、あまり民衆にすかれていなかった王が、苦肉の策として取ったのが、あらゆる人間に絶大な支持を得ている軍神を使う事と言うだけだ。この国では議会と王が常に鎬を削っている。

 その為、どうにかして王は民衆の力が欲しかった。

 だが彼らは馬鹿なのだ、根源的に自分たちの生活が楽になればいい。ただそれだけで、そうならないのなら王が悪いと方向定めて嫌う。


 自己の無能を棚に上げてだ。


 だが民衆の支持、王はこれを欲しがる。これは直接、議会を黙らせる力になるからだ。

 その為の興行が御前試合であり、軍神というこの世界における最強のお披露目だったのだが、随分とそれは様変わりしたようにも思える。


 王はそれでもこれを続けると言い張るだろう。

 そうでなければもはや、彼は終わるのだ。軍神によって支持を得る、そうでなければもはや大失敗としか言いようの無い、英傑達の破滅が転がっていた。

 軍神がこれで消えればきっと、次に待つ破滅は王であるのは間違いない。


 だからそんな足らない者を、その御前に立つ事を許すしかない。

 軍神の勝利で彩る為に、だが多分その結果は随分とずれたものになるだろう。


 誰もが汚さないように、彼女を汚さないようにと勤めてきたはずなのに、美しい純粋無垢を永遠に形にするために。

 なのに、響く言葉が彼女を汚す。綺麗なまま彼女に泥を塗りたくり、随分と見た目は汚れてしまう。それが純粋無垢の形かと鼻で笑うものがでるほどに。


 うなるように耳を塞ぎながら、それでも響く騒ぎの声を耳する彼女は、涙を流し始めていた。

 だってそんな事無いから、絶対に有り得ないから、彼女が考える限りそんな事をする人はいないから。けれどと、彼女がどこかでそう湧き上がる思考があるのも事実だったから。

 余計にその事実が認められないのだろう。


「だって利き腕だよ、なんで、そんな剣士なら命よりも大切な、なんで」


 ただ決着を付けるという思考に飲まれた男のやけだった。そこに理由と言う理由は無いのだ。

 何でと問われてもきっと彼は、やるしかなかったとしか答えないだろう。


「軌跡再現じゃ、絶対に使い手は切れないのに」


 剣の重さに耐え切れずに、自分の剣で傷つける事はあるかもしれない。

 つばぜり合いになって押し負けた時に、傷つける事もあるだろう。だが剣の軌跡とは本質的に、相手を斬るために存在する以上、使い手を切り裂く事が出来るはずが無いのだ。


 ある意味では、それが軌跡再現の弱点と言えば弱点なのかもしれない。あくまで振ったものの再現である以上、その定義を超えられない。その軌跡を振るった相手に対してだけは、その刃で傷つけられるわけも無いのだ。

 なによりそういう軌跡があったとしても、その通りの傷しか定義付けできない。


「無茶苦茶すぎるよお兄様」


 使い手に異常なほどの甘さがある。それがある意味では軌跡再現の欠点、彼女は当然のようにそれを知っているし、見ただけでそれを理解した。

 その欠点が故に、軌跡再現には使い手に対して無傷圏が存在する。清浄の間隙を通す男であるセンセイにとってそれは、あまりにも致命的な弱点であった。簡単に言えば、自分と同格以上の使い手との直接の斬りあいの際、絶命圏内での超近接戦闘において、あまりにも無意味な代物になってしまう。


 元々が未熟な剣だ、それを未熟なまま使ったところで、彼にはあまりにも遅すぎる。

 だからこそ軍神に及ばないと断言できた、特にあまりに正統な剣を使う彼女にとって、奇策はあまりにも賭けが過ぎる。

 彼女との戦いが始まるとして、最低限四つの事を守らなければ、戦う土俵にするら上がれないのだ。


 命をこめるような軌跡を降り続ける、未熟な剣では羽虫のように容易く殺されてしまうから。呼吸すら許されない、瞬きすら、心臓の鼓動ですら致命的な隙になる。それが出来て初めて闘争と言う土俵に上がれる。

 故に彼女と戦う為に軌跡再現など価値は無い。全ての軌跡が身命を賭すような状況で、使えたとしても無駄な軌跡を使えるほどの余裕は存在しない。


 軌跡再現を付けるほどの腕になると逆に、その技術が無駄になる。あくまで鍛錬用というのはその辺りにあるのだろう。

 それを当然のように知り尽くした彼女は、それ自体が格下以外には通用しない代物である事を看破しているだろう。何よりだからこそ理解するのだ、兄は自分で自分の腕を無理に切り落とした事という事実に。


 どうやって切り落としたかは分らないが、いくつかの予想を立てて彼女は、吐き気をもよおしえずく。


「なんで剣士の命を、簡単に切り落としたの。あんな綺麗な軌跡を振るえる剣を容易く捨てられるの」


 空を飛べる様な、そんな綺麗な軌跡を振るっていた。

 彼女のような剣じゃない、ただその人生を斬る事に突き詰めたような全てが詰まった軌跡。軍神である彼女が憧れてしまうような、兄の剣はもう終わってしまった。

 誰の所為なのだろうと、思考を重ねたところで、無駄である事を理解していながら、彼女はそのドツボに落ちるしかなかった。


 ここで駆け出せれば彼女はきっとさらに絶望できただろうが、足が動かない。

 絶望を拒否した体は一向に動くと言う行動を選択してくれない。心で彼女は拒否している以上それは仕方の無い事なのかもしれないが、ある意味では彼女は始めて挫折を経験しているのだろう。

 踏み越えられるか、それともこのまま崩れ落ちるか、蝶よ花よという世界は、もう終わる、きっと彼女の世界はこれから一変する。


 その片鱗は足音を立てながら近づいてくる。

 踏み鳴らす軍靴の様な音は、いま外で響き渡る混乱そのものだろう。これを踏み越える事が出来るようであれば、彼の勝ち目すら星の数を数えるような奇跡に変わる。


「それともさらに上に行くため、もっと違う何かの為、分らない、分らないよ。なんで自分の腕を切り落とせるの」


 いままでの人生をなんで簡単に捨てられるのと、言外に叫ぶ。

 彼女の声は、洞窟の水面に落ちる水滴のように、響いてもきっと誰の耳にも届かない。届くはずも無い、一番届いて欲しい人は、きっと彼女の言葉を聞かないから。きっと届いても、斬って捨てるに決まっているから。


 彼女を救える存在は、きっと更なる絶望を彼女に与えるのだろう。

 それをきっと彼女も理解している、見るだけでも絶望するだろうに、だがそれ以上の絶望が待ち受けている事を、きっと彼女は理解させられる。

 世界は彼女に優しい、だから彼女は近づけなかったのだ。無意識に彼女を壊す何かが存在する事を教えるように。


「なんで、なんで、なんで」


 語調が激しくなるのを止められるわけも無かった。

 疑問は吐き出され、近くで聞くものにはきっと耳鳴りさえ感じるほどに激しくなる。それでも外に届かなかったのは、きっと誰もが彼女と思わなかったからなのだろう。

 穏やかで笑みを絶やさない純白の少女が、髪を振り乱して絶望を疑問として吐き出している姿など、周りの人間にとっては悪夢でしかないだろう。喜ぶものなど一人だけだ。


 羅列した疑問の解答欄があったとしても、彼女が望む解答が存在する事は無い。

 その正式な答えは彼女が最も望まないからだ。

 それは浮かんでしまうような悪夢、彼女にとっては大切でたった一つの繋がり。ただ自分が大切に思うそれが、彼にとっては大切でもない路傍の何かと言うだけ。


 彼女を殺す為、それ以上のものは絶対に存在しない。彼女が大切な繋がりは、彼にとっては一番に消し去りたい代物だ。無意識であれなんであれ、彼女は奪い続けて来た人間だ。

 兄と言う存在の全てを奪ってきた、奪わせ続けてきた。あれは彼女の悪意だ、綺麗だったからこそ現れた彼女の悪意だ。


 彼女が生み出した悪意なのだ。あらゆる環境が彼女の為にあるのなら、それから捨てられ堕ちる事しか許されなかったのなら、それを一身に受けなくてはならなくなったものは、悪意にしかなれないのだ。一つの宝物の為には、一つの呪いが必要だ。

 一人の英雄には、一つの苦難があるように、与えられ続けた彼女は、全て奪われた彼を作り上げた。


「なんで、お兄様は」


 それは、それは、それは、繰り返しても変わらない。

 何よりあふれ出る感情にようやく彼女は一つの結論を下すしかなかった。


「私を見てくれないの」


 簡単な事だ、だがそれは言ってはならないことでもあるのだろう。

 あの日あの時あの場所、彼女の初陣の日、知らなかったでは許されないあの日、たった一人の記者が見た場所で、首の無い死体たちが出来た理由作り上げそれを知らないからこそ。

 彼は彼女を殺そうと決めた、何一つあの悲劇を知らないから彼女を殺そうと考えた。


 血の川が流れて首が落ち続けた世界を作り上げた原因でありながら、彼女は何一つ知らないから。彼の全てがあった場所を奪い去ったくせに、それを知らないで純真無垢でいられるから。

 彼に全てを奪わせたくせに、知らないからこそ、彼は悪意に成り果ててしまった。壊れて、破壊されて、何度粉砕されても、諦めきれない復讐の塊を作り上げてしまった。


 せめて知る必要があった、彼女がそれに後悔していたのならきっと、まだ兄でいられたであろう。

 首が落ちた光景、全てが死んだあの世界を作ったのは彼で、彼に全てを奪わせたのは彼女と言うだけの簡単な、だが人が終わるには十分に足るだけの話。


 簡単に言えばこういう話だ。あの日、彼女は兄に男爵領に生きていた人間全てを殺させた。

 それだけだ、それだけ、それに加えるなら彼女がその事実を一切知らないと言う事だけだろう。それでも起きた悲劇があって、彼が彼になった。


「もう嫌だよ一人は、もう、もう嫌だから、お兄様何か言ってよ」


 死ねと、声が響いた気がした。その言葉に怯えるように、辺りを見回すがそれが幻聴である事に彼女は、安堵を息を漏らす。

 言うわけない、お兄様がそんな事をと、思ったところで何かが変わるわけでもない。今の幻聴はきっと彼がいいたい言葉だ。


 いや殺してやると言う方が正しいのかもしれない。

 だってそこで蹲る弱い少女を殺す事だけが彼の願いなのだから。そんな彼女の心を掻き乱す声が夜に響く。否定をさせない現実を彼女は耳を塞ぎながら、遮断して細い線のような泣き声をもらし続けていた。


 ただ外から響く音が騒がしくて、その声を塞ぐように泣きながら、やっぱり聞こえてる声が煩くて、わずらわしくて、泣き疲れて眠るまで、外の声がやむ事は無かった。


 

そろそろ彼女にも危機感を持ってほしかった。

それとこの作品のヒロインは妹ですから。

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― 新着の感想 ―
薄々勘づいてたけど……まさかそんな事が?そんな訳ないよね、ちゃんと妹ちゃんは死んでくれるんだよね?
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