外伝 夫婦
王城から少し離れた、神童の住む屋敷の庭で彼は剣を振っていた。
少しでもマシに戦えるようにと言う訓練だろうが、それをさえぎるように穏やかな声が響いていた。
「あなた様、この度の戦は随分と楽しかったようで」
妻が片腕となった己に語りかける。
不敗との闘い、楽しかったのだ。こちら側の先達達であり、数多くの蛮族を打ち倒した生ける伝説の一人、戦った身とすれば流石と言うしかなかった。腕を代償にしなければ勝利など得られたはずもない、彼はそう確信している。
幻視される腕の動きに酷い指先のかゆみを感じるが、既になくなった腕は、そのかゆみを幻想と認識させあるはずの無いものに対する郷愁を体が伝えていた。
無くなった腕の付け根をさわり、やはり無いのだと、少しさびしげな表情をする。
「楽しかった、けれど代償が多すぎた。本命との闘いがこれじゃあ、きっと死ぬ、俺は次の戦いで殺されるだろう」
だが退けない、剣士として生きると決めたからには、彼は、剣によって死ぬ事を望む。
彼の妻は微笑んだ、添い遂げようとさっそったのは彼女で、頷いたのは自分、そのときのくどき文句はあなたが剣で死ぬと言うのなら結婚してくださいだった。
「本望じゃないですか」
あなたにとっても私にとってもと、彼女は言う。
それもそうかと思うが、自分を殺すのはいつも魔剣だと思っていた、彼女を殺すのは魔剣だと思っていた、けれどそれは違っていた。
魔剣を殺した剣士が居た、嘘かとも彼は思った。だが見て分った、あれを人は剣の申し子だと言うと、その剣士には一つしかなかったのだ。
あらゆるつながりは断絶して、剣と自分しか存在しない、ただ切っ先に敵が存在しているだけ、切るための存在し、剣を振るためだけに生きている。ああなると人生が剣になる、きっと彼の明確なつながりはきっと、その腰に備えられた剣だけなのだろうと。
彼の両手にはたくさんの人がいる、自分の四肢を縛るつながりが積み重ねられていた。心地よいともいえるその重みを知らずに、ただ一つの剣に知らずに注いでいた。
「そうだろう、そうだろう、彼ならお前も俺も綺麗に殺してくれる」
生涯の終わりはあれが良いと彼は思った。
剣に殺される生涯はそれで十分だと、妻も笑っていた、楽しみですと、きっと彼も妻も似た同士だ。
剣に斬られて死にたい、神童はその為だけにいま存在していた。彼の妻も同じだ、才能は無かったが、彼女もまた剣士であった。二人は同じ目的で、それで惹かれあい、切り殺される死だけを望んだ。
彼らは死に狂っていた、ただ殺され方だけを念じていた。
剣で切り裂き、腹から腸を出してくれと、軍神に殺されたくは無かったが、彼と剣を合わせて死ねるのならそれでいいと、そして殺せるのならさらに上々だと笑った。
彼らが見ているのは、センセイでありながら、センセイではない。ただ彼らはそのたどり着いた剣に、切り殺されたかったのだ。
それとも殺したかったのか、それは彼らにだってわからないかもしれない。
二人は視線を絡めて笑った、あの剣で殺されるなら本望だと、二人はそれだけで笑っていた。妻が戦うわけでもないだろうに、彼は無用に人を殺す人物でもないと言うのに、剣で切り殺してくれと願うつもりだろうか。
それで十分だと彼らは思う、剣に生きたのなら剣に殺されるべきで、それが剣に純化したような存在に殺されるのであるのなら、どれだけ心地よい斬られ方をするのだろうと。
そんな死を望んだ二人は、その剣士の本質を見極めていなかったのだろう。
一人ぼっち、何をしようと好かれること無く一人になったから剣しか存在しなかった、彼はそういう存在だ。
極めたのじゃない、勝手に極まっていただけだ。
他に無いからそれだけを突き詰めた、結果として剣しか残らなかったと言うだけ、だがそれを人は剣の申し子と呼ぶのだろう。
彼の剣術は異才の極みであり独学の頂点だ。全てが相手の首を跳ね飛ばす事だけを考えたような、殺すと言う単語を明確に突きつける技術の極み。そうやって殺されたかった、だから彼らは笑っていたのだ。
過去の人々の集大成ではなく未開の技術の完結品、続く為の技術じゃない、彼が彼のために作り上げた続かない剣術の系譜、ただ完成し終わっていくもの、残らないただ先生という男の剣。
ただその剣で首を切り落とされたい。
そうでなければ自分の剣によって切り殺したい。
二人はそう考えているだけ、切り殺されたいと思い、切り殺したいと思う。あまりにもそれは以上に写るかもしれないが、彼らはそれが全てであった。
「この度の戦もならば必死ですね、どちらの必死でしょうか。剣の極み一つ楽しんでみてはどうです、私たちも一応は剣士なのですから」
「ああ、当然だろう。もしかすると、あの剣の使い手を切り殺せるかもしれない。こんな楽しい事は無い」
センセイは彼らにとってそれだけの価値があった、それ以外の価値はなかった。
彼の憧れは、所詮は剣の先の繋がり、白刃の元に斬って捨てる以外の価値はない。だがそれさえも彼にとっては大切なつながりなのだろう。
ただ剣に縛られる巻き藁のような関係だ。一方的に切られる関係、それでもきっと彼にはつながりなのだ、巻き藁のように人を切り殺し続けた末路の男は、それぐらいの関係でしか人と繋がれない。
そのつながりに憧れを抱いた、切っ先の先に自分を見たから。
神童と彼の接点は殆ど無い。強いてあげるなら魔剣、それぐらいの関係だが、彼の剣の先に自分を見ていた。あまりにもまばゆい成功した自分を、ああなりたいと望んだ完全無欠の自分を、その心のうちすら見通していれば変わったのかもしれないが、彼はそこまで人物に対する審査眼を持っているわけでもない。
彼の上っ面を見てそう決めただけに過ぎない。
誰もが持つ表の顔を見てそれに憧れた、二人して自分がなりたかった自分が目の前にいたから、憧れ同士で切り殺しあうのだ。
妻はそんな姿を見るだけで満足だった。愛したものが殺しあう姿だけが彼女の生き甲斐だった、いつか彼が剣で殺された時、懐の匕首で彼が斬られた後を沿うように突き刺し自分を切り刻む。
そうして死ぬのが彼女望み、夫の殺された軌跡で殺される。
「楽しみです、どんな剣を見せるのでしょう。あの人ならどうなっても素晴らしい剣を使うのでしょうが」
「そうだとも彼は強い、彼は、剣だ、剣しかないんだ。もしそれを捨てるようならもっと凄い剣士になる」
ああなんと完璧な剣の担い手だと彼は笑った。
あんな剣に切り殺されるならなんと幸せな事だろうと、あの剣を殺したら、考えるだけで彼は表情が歪むのを押さえなれない。
その軌跡がどんなものになるか、彼は気にせずにはいられない。
人生の成功者と失敗者、だがどちらもが他人の芝生の青さに憧れた。剣を望んだ異常者は剣を極める事が出来ず、繋がりを求めた異常者は知らずに剣を極めていた。
対比じゃない、派生した彼と彼、それに付随する愛情もまた狂った代物だった。
二人して憧れたそれは、次の日には殺し合いどちらが断ち切られる。死ぬのは当たり前だ、必死に戦うのだ、どちらかの死があるのは当たり前。
もしかすると相打ちかもしれない、そういう戦いが延々と始まっている。観客達も気付かされただろう、これは国力を削る自殺だ。軍神を見せるつもりで、みんながぱたりぱたりと死んでいく。
英雄が死に、英傑が倒れ、古豪の武士達が死に果てる。
そして残るのは切った軍の神だけ、戦いの象徴だけが生き延びるのだ。何せ人は戦う事を止められない生き物だ。
「殺されるにしてもそうじゃないにしても、今は片腕の調整だ。明日には一流になっておかないと、戦ってもらう価値すらなくなる」
「切り殺されるだけの価値で十分だと思いますが」
「そういうわけにも行かない、あの敗残とかいった男には、己が強いと認めてもらわないと、そうじゃなければ斬られる価値が無い」
あれが強くないと信じる以上、自分が強くなくては、彼は納得などしない。
自分が弱いわけがないという事を、口に出した言葉を信頼させる実力を見せなければ、あまりにも暴利の商売だ。
そういうことが彼は好きじゃないと、薄く笑う。
「こちらは二人分の儲け、そう考えれば確かにそうですね」
「ああ、そして一つだけ分った事があるのは、彼はあまりにも心が弱い事だけだ。弱いと信仰している彼を少しはマシに叩き上げてやる。それぐらいの事はしてあげるつもりだ」
「ただ剣を合わせてと言う事ですか」
当然と頭を縦に振る。当然、当然だと、二度ほど後につなげた。
そうやって強くなってもっと優れた剣の使い手になってもらわなければ、斬られるほうとしては面白くない。
「それ以外に語る口が剣を扱うものにあるはずも無い。ただ、それで会話をして、それで会話を終わらせて、片方が生きて片方が死ぬ、こんなに分りやすいものは無いだろ」
その言葉にようやく剣鬼の夫が目を覚ましつつあると彼女はほころんだ。
血塗れになっても剣を振るう、敵にとっては悪夢、味方にとっては恐怖、そういう剣の執着者の顔になっていくと、彼女は嬉しくなってきた。
ありがたい、あの逸脱した剣士、そして子供のようにもろい剣士、彼女の憧れた剣士がようやく本来の表情を取り戻したと。
「それ以外無いですね。それで伝わらぬのならそれまでの剣士と、それ以前に剣に倒れるだけになるというものでしょう」
なら心配は要らないと、彼は一度剣を構える。
両手とは違った重量感に少しばかり困った顔を隠す事が出来ない。だがその重量感にいま慣れなければ何も達する事は出来ないだろう。
彼の構えた剣の姿を見て、妻も同じく剣を握った。
「いまのあなたならまだ私でも相手になるでしょう」
「一応こっちじゃあ、序列二位の剣士だろう。相手にならないと言うほうが」
「いえいえ、いまさら分かっている事をいう必要はないですよ」
才能以前に立ち向かう心がありませんしと彼女は笑った。
彼女にとって、御前試合に出る剣士は、軍神と変わらないのだ。戦う前に負けを認める存在たち、それに抗うなどと考えられない。
だから代償行為を求めた、その結果が彼女の決めた末路と成る。彼女もまた心を折られた存在で、剣の挫折者でもあった。
だから憧れるのだろう、そろった英傑達の軌跡を、戦えないからこそその奇跡を持って自分が振るった証拠としたい。
ただそれだけの代償行為、彼女も彼もそれをわかっていて、彼も殺される時その軌跡を刻みたいと願う愚か者で、だからこの終わりは破滅と言う名の願望の成就しか残らない。
「そういう御託は良いですから、はじめましょう。時間は待ってくれません、一秒でも早く、あなたの認める剣士にあなたを見せてあげないといけません。そのための時間は少ないのですから」
「そうだ、そうだな、じゃあお願いだ、少しばかり交じり合おう」
御前試合二日目、その夜の出来事だ。
夫婦の逢瀬、彼らが最後と思う睦み合いは、夜遅くまで高らかに響いた。
その音はやけに楽しげな声の響きに似ていた。ただ耳に心地よく響く鈴の寝のような代物。
話は一度変わるが、王都御前試合、後世には詳しい記述が残っていない。
それは見たもの全てが死んだからだ、ただ残骸が残るだけ、それだけしかない終わり。そしてあまりの凄惨さから、正史に刻まれる事の無かった戦いでもある。
だがその中で一つだけ響いた声がある二腕の剣と呼ばれる隻腕の剣士同士の戦い。
その闘いの始まる前の逢瀬は、それと勝るとも劣らない闘いであったのだろう。ただ剣をぶつけ合い体を調整していく作業でありながら、その夫婦は殺しあって、妻の腕もまた切り落とされた。
「存分に」
それが逢瀬の終わり夫婦の言葉、それで十分な夫婦の会話。
万を尽くして語るよりも、彼らはその言葉で通じ合う。ただその終わりに夫は彼女にこういった。
「そちらも」
と、朝焼けに二人は別れた。
夫婦ではなくあくまで剣士として、あらゆる意味で二人は別れたのだろう。赤く濡れた剣は、最後の別れを紅として染めた。
愛情よりも彼らは剣を選んだ、だから剣士としての別れしかなかったのだ。
たとえ彼が勝利しても敗北しても何も変わらない。
彼らはここで離縁したのだ。一つ彼の重りが消えた、速さが上がり命が軽くなる、生命に対する執着がゼロに変わり、彼は自分が認めた剣士に一つ近づいた。
妻だった女はただ涙を流すだけだ、自分のなくなった腕を見ながら、また彼に近づけたと思うだけ。自分の血を使ってゆっくりと紅を唇に塗る、彼女が出来る精一杯の飾りだ。
少しでも彼に寄り添った女が美しかったと見せるための行為、その濡れた紅が、オレンジに反射して、淡く輝いているように見える。
邪魔だと切った短い髪も朝焼けにそまって、何もかもがオレンジに塗られているなか、たこ塗れてごわついた手が、空に捧げられ、左右に揺れた。
空を赤で塗るように、もしかすると空を斬るために、己の血でオレンジを赤で切り裂くように、剣士である女は、彼が見えなくなるまで手を振り続けた。
なにこの神童よりも奥さんの濃さ。