一章 御前試合前夜
その日は王国の建国祭の始まりだった。
北方の軍神が一つの国を落としさらに国力をつけた国は、何時にも増してお祭りムードという奴だっただろう。
国民の喜ぶ声がやけに響いていた。そんな楽しげな空気の中、ひねくれた男はおいしそうに鳥のから揚げを頬張っていた。
軽く塩コショウで味付けされたそれは、出来立てと言う事もあり、噛めば肉汁が舌を焼くように溢れて来ている。それがさらに食欲をそそり、もう一口といった具合に手が伸びでしまう。だが主題はそこじゃない。
御前試合に登場する筈であった剣士の一人である魔剣と呼ばれた剣士が殺されたという情報がようやく王国の責任者の元に届いたのだ。
そしてそんな天才を殺したのが、ある理由から没落してしまった男爵家の養子であり、跡取りとなっていたセンセイという名の息子である言う話だ。没落して以来行方をくらませていたと言う事だったが、こうやって御前試合に現れ、魔剣を召集した貴族の面子を潰したのだから上を下への大騒ぎだ。
だがその産まれを知っている者が、不用意に騒がれることを拒みそれを黙殺したのだが、その結果として国の上層部では少しばかり、暗い空気が流れていた。
そんな不穏な空気の中、一人だけ人物の名前を聞いたとき喜んだのが、軍神と呼ばれる少女であった。
「お父様、お兄様が帰って来てるって本当なの」
「いきなり乗るなアイシャ、少し驚いたぞ」
「ごめんなさい。じゃなくて、お父様話をはぐらかさない」
花香る風を纏って、少女は飛び跳ねながら自分の倍はあろうかと言う父の背中に飛び乗る。軽い跳躍ながらその重力を感じさせない動き一つ一つに、国を滅ぼしたという才能を片鱗を見せ付け、その慈しむような明るさに、厳しい男は表情を穏やかにしていた。
見た目どおりの頑強な体つきをしている、剣聖は軽い衝撃を感じつつも、柔らかな愛娘の幼い行動をとがめるのを一瞬忘れてしまう。どれだけ血に濡れても白いその心に、剣聖はひどく心が休まるのだ。
だが逆に駄作としか思っていない息子には、この大切な娘を近づけたくなかった。
傍から見ればあの息子は、嫉妬の塊で酷く汚らしく、娘の美しさが穢れるとしか思えない。
つねに下から妬み上げる様に、汚らしいその嫉妬の感情が娘との対比で、いっそう汚く見え腐臭のような不快さを漂わせていた。
それは娘の才能が凄まじすぎた事と言うのもあるだろう。本来であるなら息子も間違いなく自分に並ぶほどの才を持っていたのも事実だった。だが自分の背中に、ぶら下がっている娘の為なら、あの程度の才は捨てられたのだ。
いつか愛娘に獣の牙を剥く、その可能性がある才覚など不要でしかなかった。
「そうだな、あの馬鹿者が帰ってきた」
「お兄様、強くなったんだね。だって御前試合に出られるんだもん、弱かったお兄様が強くなったら、また一緒に暮らせるのかな」
楽しげに聞いてくる娘の言葉に、父親としては酷く同情してしまう部分もある。
本来であればあの息子にだって、天才という言葉が与えられても不思議では無かったのだ。ただ背中の真の天才が居たからこそ彼は無能扱いされた。
彼を男爵家に養子に出したのも、そういう視線を避けようと父親なりの努力でもあった。九割は娘に対して危害を与えないようにではあるが、一割は実は父親の優しさではあったのだ。というのが彼の建前だ。
そもそも男爵家は父親である自分の意思で没落させてしまったのだ。恨まれていて居ない方が不思議である、それについては仕方が無いと思っている。
しかしそれだけで、ここまでやるとは思っていなかった。出来るだけ早めに潰しておこうと、自分を最初の対戦相手にあてがったりと、娘を守る為に必死になっていた。彼女に無用な傷を付ける等と言う思考は無い。
かつてそれで失敗し、その結果成功した男は、あのような事は二度と起こさないと心に誓う。
「そうだといいが、あいつには才能なんて無い。卑怯な手管でも使ったのだろう、そういう者は我が家に不要だ」
「えー」
必死になって戦って勝利して、その権限を得たのかもしれないと言うのに、父親としてそれを認めることは無いのだろう。
認めてしまえば、あの視線が娘に刺さる。あの嫉妬しかない瞳が、彼の愛した娘を汚しかねないと、その天使を穢れさせるものかと牙を剥く。単純な話なのだ、彼は娘のほうが大切で息子はどうでもいい。
娘という魅力ではない、とうにその娘の純潔を奪ったような父親だ。
すでに女としてしか見ていないのだろう。それを奪われると言うただの嫉妬だ。まして彼女は兄に対して無償の信頼を寄せている、あのような存在に。
それが酷く剣聖の嫉妬に火をつける。遠く離れた筈の息子から感じる言い知れない不安から男爵家は潰されたのだ。
この男は所詮は小人であって、娘を女としか見ていなかった。いやそのあまりの穢れの無さに、魅了されたと言った方が間違いではないかも知れない。
だからこその内に隠すべき感情が溢れてしまう。それが息子と何が違うのかと思いながらも、彼はきっとその事にいまだに気づいていないだろう。
見苦しいまでの男の嫉妬、そうなのだ、この男もまた嫉妬というそれに気が狂っている。汚らわしいと断じた息子に、彼は最も近しい存在であったのだ。
きっと二人が出会い視線を合わすだけで感じ取るのだろう思う。流石は家族揃いも揃って、ことごとく破滅しているように似ていると、それは殺しあう理由にしかならないが、これから一日たてば嫌でもそうなるのだ。
そういう意味では、ちょうどいいタイミングの親子喧嘩だ。同族嫌悪なんて人類の戦争の理由の筆頭。だが彼はそんな代物を愛しき人を守る、なんて言う虚飾によって飾り立てて背中にぶら下がる娘を胸に抱く。必ず守るなんて言葉を、自分よりも強い娘を抱きながら決意するのだ。
「ほえ」
いきなりのことに驚いたのか、目を丸くして間抜けな声を上げる。
離すものかと男は心に誓った、妻などどうでもいいのだ。彼が大切なのはこの娘だけ、自分よりもはるかに強い最強でも、穢れない傷付いていない心に、いつか悪意が降りかかり傷付けられる事を彼は耐えられない。そのときの娘の表情に影が差す事を彼は許せない、その時娘の視線はたった一人の自分じゃない男に注がれる。
彼女の視線が自分以外に向く事のみに彼は恐怖するのだ。この柔らかさを、この穢れのない存在を、決して失いたくないと、その為なら一つや二つの子供など捨てて見せる。
揺ぎ無く固まる決意が、復讐を狙う男の決意となんら変わらないと知らされたとしたら、彼は一体どのような表情をするのだろう。
流石は家族と笑うのか、そこまでかと呪うのかと叫ぶのか、その事に対する正しい解答なきっと彼には与えられない。そこで自分の犯した事に対しての断罪を受ける事はきっと間違いない。
そんな汚濁の一人である父親に抱きしめられて少し顔を赤らめながらも、まだ夜じゃないよと笑って頭をなでるその姿は、娼婦の様ですらあると言うのに、恋人に囁く様な穢れのない言葉の魔力はどのような男にでも股を開く麗しの聖女か、夜を売る女が男に擦り寄る様か。
ただ知らない少女はそれすらも受け入れるだけだ。きっと彼はこういう部分すら息子に見られたと思っているのだろう。そうやって自分が彼女を汚していると、そういう視線に脳を焦がされている。
汚らわしいのはどちらだと、まるで突きつけるように存在する息子。何一つ彼らの関係を知らない男に、ただ憎悪の心を彼は燃やしていた。
憎い、何故私はと呻く、汚らわしいのは駄作と自分、一体どちらなのだ。そう何度も自問して解を導き出す度に息子が浮かぶ男は、嫉妬を焦がしながら息子を嘲るように笑う。あれ程にいるだけでけがらわしい存在などいないと、それを認めることで心が酷く落ち着いた。
偉大なる護国の剣である筈の男は、自分の娘に惚れて関係に及ぶだけじゃない、所詮は息子に嫉妬して追い出したただの小人だ。それを認める事も出来ず、妬み続けるそれが剣聖の本性の一つでもあるのだ。
そんな姿が酷く見苦しい、自分はなんて醜いのだと、自身の抱える小人としての醜さ必死に隠しながら、その事実が娘から自分を引き離すとすら考えた男は息子を捨てた。
父としての優しさも会っただろう、だがそれを人は建前と呼ぶ。自分を汚し、いつか娘を傷つけ汚す存在、娘とはまったく存在を異ならせる異形。彼が先生に抱いている感情は、息子によって芽生えさせられ汚された物だと彼は断じた。そうやって己の弱さを隠して、言い知れぬ不安を彼に与え続ける息子を消したのだ。
さて汚いのはどちらだ、嫉妬に狂って妹を殺そうとする兄か、それとも娘の体に溺れた父か、その二人はまるで一人の女を取り合う男の様にすら見える。
まったく同じの正反対、合わせ鏡にして同じ様な人間を大量生産したらどうだ。
勝手に自分達で殺しあってくれるだろう。同族嫌悪の極み、吐き気のする集大成がこの二人とも言えるかもしれない。
この場で美しく綺麗なままなのは、父親を優しく抱きかかえながら、兄の事を幼子の様にただ慕い、父親を娼婦のように、聖女のように誘う、アイシャと言う軍神だけだ。
原因はすべての美しい少女という形をした軍神、だがその周りから湧き出るのは嫉妬ばかりだという、さて本当に汚いのはどちらなのだろう。
浮かび上がるのは汚泥の悲鳴ばかり、そこに正しさなど存在しない。だが生きている限り汚れない人間は存在しない。きっとその渦中の一人である負け犬は、嫉妬の混じった言葉で自らを自らを傷つけるよう突きつけるだろう。
汚らわしいのは「全て」だと、自分もあいつも父親も、いや世界中の誰もが汚らわしいと、皮肉に吊り上げた笑みで全てを嘲笑するように言い放つに決まっていた。
場面はそんな皮肉交じりの男に変わる。食事が終わった彼は、堂々と御前試合の参加証を見せ付けて、王城の参加者の部屋に寝転がっていた。本来なら魔剣の為に用意された部屋は、一人で過ごすには随分と大きな部屋で、流石一国の王が住まう場所だと、感服するような意匠が施されていた。
これは素晴らしいとため息が出てしまう。一応ではあるが彼も貴族の一人だ、それなりに目端が利くのだろう。随分と昔から刻まれた歴史と言うものの重みに、少しばかり感動に近い何かを感じて、居心地の悪さを感じていた。
しかし流石は王城、いくつかの改修を経たとはいえ、千年を超える王国の系譜が刻まれた場所なのだと認めるしかない。
だが人間ばかりは千年を超える事はない。そもそもその十分の一でも随分と珍しい部類だ、しかし人間は本質的なところは変わらない。例えばこのたび入城した男が、老師の二翼の一人にして偉大なる剣士である魔剣を殺害したと言う男の噂で王城は持ちきりだ。
南方の英雄の一人である魔剣を倒した人間は、どうしてもその噂で人々から奇異の視線で見られるが仕方の無いことだろう。彼が部屋に篭っているのもそう言った居心地の悪い視線から避ける為だ。
だがその噂はさらに色々と憶測を付けて流布されていた。あまりにも無責任に氾濫する噂と言う名の激流は、その中心である人物を見当はずれの方向に流して行く。
さらにその噂を複雑怪奇にしたのは、北方の貴族にしか見られない灰色の髪だ。そんな髪をしているものは、軍神と剣聖ぐらい、だからだろう知っているものは驚いてしまう。
彼は一体誰なのかと、家名もないどこかの腕自慢、たぶん北方の蛮族の出なのだろうと推察されるぐらいだろうか。元々英雄の血統とはそちら側の血を引いている者達の中でも力の優れているものに与えられる名称だった。
それが彼より十六代前に蛮族との融和政策があったり、戦争があったりした時に活躍したのが、灰色狼と呼ばれる彼のご先祖様だった。
あまり王都の方では見ることは無く、公爵である剣聖とその家族ぐらいというのが、この国では当たり前の考え方なのだ。灰色の髪は北方の貴族というのはそれぐらい常識的なことではあったが、流石にそれは無いと誰もが首を振る辺り。
剣聖の長男というのはよっぽど秘匿とされているのだろう。そんな存在はいないと断言される程、彼と妹の間には差があるのだという証明なのかもしれない。
だからこそ彼は余計に嫉妬に狂ってしまう。
何で、何で妹だけと、溢れる体の熱は、ただの妹への嫉妬だ。あの綺麗な妹に対する、自分の醜さを見せ付けるあの妹の所為だ。
あの妹は無垢だ、真っ白の何一つ汚れること無い白、だからこそ綺麗過ぎる。無垢は優しさではない、純粋は優しさではないのだ。
優しさとは自分がそうされたいと言う欲望の反映。打算的な代物に過ぎない。自分がしたからされる、金銭の取引となんら代わりは無い。
だがそれでもそういったものが優しさでも、純粋無垢よりはましだ。
あれは綺麗なんじゃない、自分達が汚いことを見せ付けるのだ。だからこそ彼は憎い、全てを持っていて、挙句に美しいあの妹が、自分だけは何もしていないと言い張る彼女の姿が、彼には許せるものではない。
感情が嵐のように荒れ狂う。これから始まるその戦いの為の原動力が、ただその身を焦がすような嫉妬が、軋む心を奮い立たせる。
「足掻くんだ、やっと機会が出来た、これっきりなんだ」
体中が震える、今から行うのは敵う筈の無い戦いだ。
だがそれで抗うことを止められない男は生き足掻くしかない。体中を震わせながら、剣を握った。武者震いとも知れないその震えは、剣を振り下ろすと同時に霧散する。
室内の中で軽く振られた剣は空気さえも切り裂きながら静かな音を鳴らしていた。それがたった一つ彼を裏切らなかった努力の結晶だ。だがその全霊を尽くしても彼はきっとあの軍神には届かない。
そのことを忘れ去る為に、彼は何度も同じ言葉を呟きながら剣を硬く握る。
「これっきりなんだ」
絶対に、どれだけの力を尽くしても妹とでは人間の性能が違う。しかし負けるつもりで彼はここにはいない、そういう感情全てに必死に抗う。彼はそれしか出来ない敗北者だ。
嫉妬なんて本来悪い感情ではない、醜い訳でもない、当たり前のものだ。当然の代物なのだ。隠す隠さないはあったとしても、それは運命に唾を吐くように当たり前の行為。
ただその感情を扱う人が悪いだけに過ぎない。
それを彼は穢れだと思ってしまう。綺麗なものを見続けたから、そんな感情さえ持たない無垢な存在が、彼にとって唯一の比較対照だったのだ。
自分が抱く穢れを全ての人間が持たず、ただ一人の汚濁である自分だけ備えている機能とでも言うように、この世の穢れを受け入れて穢れた悲劇のヒロインを気取りながら、彼はただ嫉妬で妹を殺すことを願う。
「この世に、完璧なんて言う化け物が居ないって証明できるのは」
絶対に負けるであろう今からの戦いを超えるために。
彼の体に収まる汚濁と言う汚濁を込めた言葉を、どろりと吐き出していた。