十四章 請え、されど価値は無し
闘技場より三刻ほど離れた川原で血塗れの体を水で流しながら、少しばかり息をつく。
やってしまったと、あとから湧き出す後悔に少しばかり顔が赤い。自分の心の弱さを反映するその行為に、なにより自分が何も乗り越えていない事に、じくじくと心が痛んだ。
川の水は、冬にも差し掛かりかけている為身を切るように冷たいが、それぐらいの水を浴びないと今は、意識さえ保ちたくないほどに体が重かった。
人を解体して殺そうとした精神の倦怠感がいまさら襲ってきて目蓋が重い。
体中が鮫の肌のように変わりながら、足の先から感覚を失うようにじんとした痺れが足からゆっくりと体に向けて侵食しているようだ。
吐く息がまだ白んでくる事もないというのに、川の冷たさは冬でも生ぬるいような、冷たさで、それだけで彼は眠気を覚まそうとしている。
「なんだよあの無様さは」
後悔ばかりだ、本来彼は嬲り殺し等しない。父ですらそうだった、ただ首を切り落とす、無用に苦しみを与える趣味などなかった。なにより無駄な殺戮をする心など持ち合わせていないはずだった。
ただだれよりも早く絶命させる、苦しみの暇も無く、ただ存在を草刈でもする様に首を刈り取る、感情を消して何よりも早く、ただそれだけを考えていたはずだった。
そういう剣でなければ苦しめてしまうと分っているから、斬られた者だから分るのだ。せめて苦しまないように殺す、それが彼の剣理の一つの筈だった。
そうあるはずだった。
だが違った、彼は気分のままに母親を殺戮しようとした。
許せなかったのもある、よりにもよってあんな事を言われるとは思っていなかった。今考えれば流石稀代の魔女ともいえたかもしれない。
「あれと関係をもてだって、ふざけるなよ、ふざけるな、なんで」
彼はそれを考えられなかった、悔しかった、何一つ敵わないどころか、やはり敵とすら見られていないのだあの妹からは、愛情しか抱かれていない事実。
こちらは全くと言って良いほどそんな物がないというのに、妹は、その程度しか抱いていないと言う、侮辱もきわまる言葉、挙句が子供だ。堪えられるはずがない、それだけは彼が堪えられるはずがなかった。
何をやっても何をしようと、妹は彼に対して親愛以外は向けないのだ。
悔しいと彼は涙を流す、だがそれが本当に涙なのかは見た目からは分らない。ただ水の冷たさに、涙も洗い流すようにもう一度水を被って、それさえごまかした。
「ああくそ、もう、ああ」
隠すしかない、水で流して感情で洗い流して、そうでなければ、そこを疲れて彼は崩れ落ちる。なによりこの場で立って歩けなくなると、自覚してしまう。
弱さが簡単に露呈する男は、母を投げ捨てた後逃げ出すようにここまで来た。自分が弱いと言う事は自覚していたが、その脆さがどうしても歯痒い。努力しても努力しても、簡単に露呈するその心は、努力でどうなるものなのだろうかと、その言葉に自分が否と否定を下す。
だが下したところで、その正反対だけが証明され続ける中で、一体どう足掻くつもりなのかと、追い詰めるように自分を問いただし、答えられない自分がいることに絶望する。
「分ってたけど、辛いなこれは、こればかりは」
どこに手を伸ばしてもどうにもならない事だけが分る。
何をしてもそうだ、何に足掻こうともこうなのだ。自分の致命的な弱さが、今ただ憎かった。あの母の言った呪いは、確かに食いちぎる事もできるかもしれない。
だが彼はそれ以上の呪いを抱えていた、振り返らぬと決めた過去を彼は見る。目をつぶって分る事など、転がる頭のない死体達ばかりに過ぎないというのに、他の記憶など、そうならない為だけに、悲鳴を上げながら彼に襲い掛かる人々と言うだけ。
つまり彼の記憶はそれ以上なくそれ以下もない。
思い出せばそれだけで体が震える、川の寒さすら理解できないほど、彼は恐怖としてそれを感じるだけだった。
「結局またそこに戻って、そこにしか戻れないんだな俺は」
俺と裏返してうずめた過去、自分の仕出かした事の重さに、何より妹が行った事の結末を見た自分の姿と向き合うしかない。
だが恐かった、信頼を信頼で返した者達の尽くを皆殺しにした、自分と言う人間の末路の部分。まだ彼が軌跡再現にすら芽生えていなかった頃の部分。
それこそが彼にかけられた呪いだ、彼が抱え続けて乗り越える事でしか、軍神に届く事のない呪いの始まりだ。
「忘れようとしてたんだけどなこれは、無理だよなやっぱり」
彼が思い出すのは、その過去ばかり。妹に負けた事じゃない、その過去が彼にとっての呪いなのだ。
この自分が弱いと言い張る男のそして、逃げられない宿業の塊。
これから未来一人の女性によって発見されるまで、誰にも知られないであろう惨劇の跡はそれを物語るが、それが遠い日の事であり彼しかそこで起きた事を知らない。
「頭が痛くなりそうだ、未だに思い出すたびおかしくなる。あれは結局どっちが悪かったんだ、あの時死ねばよかったのかそうじゃなかったのか、もう全部が分らない」
分るわけが無い、理解できるはずが無い。
それはいまさら問う事などに意味の無い話、自問自答を繰り返す事しか出来ない男が、どうにか抗おうとした結果に過ぎない。
彼にとってはそれだけの話なのだ、だがその結論を出す事が出来るはずも無く、もう一度水を体に浴びせて体ごと精神に活を入れる。
「このままでどうにかなるわけが無いのに、くそ、くそ」
何度も呟く言葉は己への叱咤だ。
不甲斐無いばかりじゃない、よりにも寄って自分が最も貴意するはずの殺人に対する嗜好を持ち始めているんじゃないかと言う焦燥感。
何一つ成し遂げられない事に対する怒り、ごちゃ混ぜになってあふれ出すのは、やはり劣等感だろうか。
水面に浮かぶ自分の顔は無駄に醜く歪んでいる、それが川の流れの所為なのかもさっぱり分らずただ醜いとだけしか感情を抱けない。
歯噛みしたところでその表情は一層歪むばかりで、彼は水面をかき乱してそんな無様に自分の顔を消す。そうする事で少しだけほっとしたのか表情を和らげるが、また歪んで浮かぶ人家尾に恐怖すら抱いた。
地べたに這いずりながら太陽を望む敗者の顔だ。卑屈に卑怯を塗りたくり、下劣でそれを固めて、惨めを掘り込んだ異様な無様さ顔ににじみ出る無様な男の無様の証明。
自殺と言う甘美な誘いさせ感じさせてしまう、その表情にこみ上げてくる物をとめる手段さえ持たず、彼は吐き出してしまう。
「ごぶ、あ、げぇええ」
水面の自分の顔に、びちゃびちゃと白濁とした吐瀉物をぶちまけながら、加太で息をし始めている。呼吸も鈍い隙間風のように荒く、胃酸の臭気にもう一度吐き気をもよおし、辺りに巻き散らかす。
弱さの証明を自ら作り上げ続けるそれは、瞳いっぱいに涙をためながら、嗚咽のようにだが川の流れに流されるほど小さく呻いていた。
このままでいい筈が無いのにこれより先に進めない。
「諦めるなんてできないって言うのに、何でだよ、何で、何で、何でだよ……」
分っている、踏み出さなくてはいけない事なんて。だが彼はそれが出来なかった、心にたまる膿のような感情が、呪いと言う彼の罪の形が、立った一歩だと言うのにそれを許してくれない。
歩いてくれと願っても、足が動かず、ただその場で涙を流しているだけ。
まるで足が地面に溶接されているような絶望感、いっそ足を切り落としてしまえばまだ歩けるかもしれないと思うほど、彼はその場に立ち止まって動けない。
「動かないなら死ねばいいのに、死ねば、死ねばいいんだよ。誰か助けて、誰でも良いんだ」
ああ無理だ、無理だ、絶対に無理だ。
自分の言葉を否定する、それだけは絶対に自分には許されないのだと、理解していたと言うのに口に出してしまう。
人を殺す最も悲惨なものの一つを味わいながら、誰一人差し伸べてくれるはずも無い手を望む、強くなりたいと願う心は所詮自分の弱さの裏返し、それも全て自覚しているからこそ彼は悪夢なのだ。
どれだけ自分を見つめなおしても、容易く人の性分など変わらない。
彼の足掻くその姿も同じだ、どれだけ足掻いても簡単に変えられるものではない。でなければ呪い等は生まれない。
そののろいが安いものではないのは当たり前だ、今までの人生を否定できるかと問われているようなもの、彼はそれを否定してはいけない人間であり、否定しないからこそ立っていられるのだ。
だが歩けない、そこまでは出来てもそれ以上が出来ない。
それと向き合い人生を否定しては彼ではなくなり、立つ事も出来なくなる。矛盾に矛盾を積み重ねる積み木の作業は、誰かの一押しでまた壊れてしまうだろう。
次に彼を壊すのは誰だろうか、神童か妹か、それとも違う誰かか、それとも未だに登場していない人々か、だがどちらにせよこれでは彼は神童との戦いすら危ういだろう。そんな事は分っていたが、それでも剣さえ振るわせないかも知れないと思うと身が竦む。
また自分が殺戮を行うんじゃないかと、そう考えたら剣すらもてない、素振りをしようと思うが今ですら鞘から剣を抜く事が出来ない。徹底的に壊された母親だったが、その代償もまた確かに効果的なものだっただろう。
確かにまた彼は壊れている、脆い心だ、その剣の切っ先が次に向けられるのが神童だと考えれば、鈍ってしまっても仕方ないのかもしれない。そして尊敬する存在に同じことを摺るのではないかと言う恐怖が彼を襲えば、簡単に壊れる程度の心の持ち主だ。
「はは、っはは、あは、ははっは」
精神のバランスが不安定になってゆく、これなら薬でも飲んで正気を失ったほうがまだ救われていたかもしれない。だがそれをするほどの余裕も金も彼には無かった、必死になって剣を振ろうと足掻いてみるが、もつことさえ出来ないまま彼は、醜く声を漏らし続けた。
どうして、どうして、
「俺ばかりこんな事になるんだ。何でうまく行かないんだ、いつもいつもいつも、いつもだ、なんでなんでだよ」
何で自分だけこんなに、悪い事なんて、悪い事なんて、
「してるよしてるさ、殺したよ、みんな殺したさ、あいつがあいつが、あいつが」
声が壊れる、怒り狂ったまま、悲鳴を上げ続ける。
何でこんな風に、何でこんな事に、いつもなぜこんな、こんな結果が訪れるんだと、全部あいつが悪いわけじゃないのも知っていると、悪いのは父と母であった事も彼は知っている。
それでも許せないのは妹だった、その逆恨みが悪いのかと彼は叫びたかった。
だがそれを逆恨みにしたくなかった。
絶対に彼はそれだけは出来なかった。
自分の全てを奪いつくしたあの妹が許せなかった。許せなくて、許せなくて、許したくなくて、けれど何も残っていなかった。いつか奪われるんじゃないかと、自分の心さえあの妹に奪われると、そんな恐怖が浮かび一生消えない。
自分が持っていた最後のプライドさえも彼女は奪い去ろうとする。妹に関われば関わるほど、彼は、彼のままではいられなくなるのだ。
「全部あいつが奪うからじゃないか、あいつが大好きな人だって、大切だった人達だって、全部奪うから、奪うから」
言い訳のように何度も叫ぶ、叫んで叫んで叫び続ける。
そうやってやけくその様にわめき散らして、全部妹の所為だと言い張って、どんな事が起きたとしても自分から起因した問題が、妹の所為でない事も分っているから、彼は心が壊れそうなのだ。
そして彼は剣をぬくこともなく軌跡再現を使った、剣すら握れない男は、それを必要としない技術を使ったのだ。だがそれに意味があるのかは分らない、それはかつてを再現する、己と向き合う術である。
だからこそ彼は向き合おうとして使ったのかもしれない。
「これはジェキス執事の首を刈った時のだった。これはメイニアの首を母親共々切ったときのだった、ははは」
向き合ってみれば、なんとも血塗れの軌跡の限りだろう。
その軌跡達はかつての罪の再現、彼が嫌うもう一つの意味でもあるのだ。自分が作り上げた罪たちを使ってさらに罪業を増やす。
そしてそれを思い出すと言う証明、だから彼は使いたくなかった、見たくも無い自分の過去だったから。だがその技術はかつてと向き合わせる、逃げられないようにがんじがらめに鎖で縛って目蓋を切り裂いて、瞬きすら許さないと。
見せられ続ける、心が壊れるのを彼は理解していただろう。
でもそれでも、彼は軌跡再現を使い続けた。抜けない剣を掴む為に、過去ではなく現在に踏み込む為に、そうやって足掻かなくては、もはや立ち上がり剣を振るうことすら出来ないほど、彼の心は弱っていたのだ。
ぎしりと歪む心を、無理矢理彼は動かすしかなかった。
ろうそくの最後のように燃え尽きる一瞬の活力を保ちながら、いつ折れるとも知れない歩みを始める、それ以外彼が生きていく理由はもはや無いのだ。
川からゆっくりと出て、また闘技場に向かう。
吹き荒ぶ風が冷えた彼の体を凍えさせながら、自然現象すら攻撃してくると自虐的な言葉を吐き、痛めつけられた心が少しだけ動く様になった事を感じていた。
悪態を吐ける程度にはマシになったのだと、そう思えたから少しだけ表情が柔ら無くなる。
「頑張ろう、せめてあの人との戦いだけは無様を見せる訳には行かないんだ」
どんな無様もいい、ただ神童との戦いだけは彼にとっては特別だった。
自分を認めてくれた人、たとえ妹に呪われようとも、彼にとってはライバルを殺した男を賞賛した人だ。ああなりたいと心から願った人物、神童との戦い。
自分に勝ったら自分を認めてやれといった人物、生きていて始めて憧れた人だ。
どこで折れても仕方の無い心だが、せめて、せめてと願う。せめてあの人と戦えれば、きっと妹の殺し合いの何かが繋がるはずだと。
彼は信じずには居られないのだ。
この作品は主人公と妹の温度差が以上に開いているところがウリの作品です。そうじゃないとこの作品の最後が微妙になるので。