羊たちの沈黙と掌返し ~傍観者だった俺が見た、教室という名の処刑場~
教室には、目に見えない線が引かれている。
教卓の周りや窓側の日当たりの良い席を占拠するのは、西園寺蓮司を中心とした「一軍」グループ。
派手に着崩した制服、大きな笑い声、高価なブランド物の小物。彼らは教室の空気を支配し、ルールを作る。
対して、廊下側や教室の隅っこで息を潜めているのが、俺たち「その他大勢」だ。
俺、鈴木翔太もその一人。
成績は中の下、運動神経も普通、趣味はスマホゲームと漫画。特筆すべき才能なんて何もない、どこにでもいる平凡な高校生だ。
俺たちの処世術はシンプルだ。
「空気」を読むこと。
一軍の機嫌を損ねないこと。
そして、ターゲットにならないこと。
この教室では、西園寺蓮司が絶対的な王だった。
父親が地元の有力者で、教師たちも彼には頭が上がらない。それをいいことに、彼は気に入らない奴をいじめ、女子を侍らせ、好き放題に振る舞っていた。
正直、胸糞悪かった。
大声で下品な話をしたり、掃除当番を押し付けてきたりする彼らのことが、俺は大嫌いだった。
でも、誰も逆らえない。逆らえば、次の日からは自分の上履きがなくなることを知っているからだ。
だから俺たちは、見て見ぬふりをした。
それが、この教室で生き残るための唯一の方法だったから。
***
あの日も、そうだった。
放課後、蓮司の気まぐれで始まった「罰ゲーム」。
ターゲットにされたのは、相沢駆だった。
相沢は、俺たち「その他大勢」の中でも、さらに影の薄い存在だった。
分厚い眼鏡に猫背。休み時間はいつも一人で本を読んでいる。会話をした記憶すらない。
無害だが、面白みもない。クラスのカースト最下層と言っていいだろう。
「好きです! 私と、付き合ってください!」
教室の中央で、橘陽菜が叫んだ。
陽菜は一軍女子グループのマスコット的存在だ。無理して明るく振る舞っているのが透けて見える子だったが、蓮司たちには逆らえなかったのだろう。
その告白を聞いて、俺の周りの連中もクスクスと笑い始めた。
俺も、口元を歪めて愛想笑いを浮かべた。
(うわ、キッツ……)
心の中ではドン引きしていた。
あからさまな嘘告白。晒し者にするためだけの茶番。
相沢が可哀想だと思った。陽菜も、やらされている感が満載で痛々しい。
でも、俺は笑った。
「ギャハハ! マジかよ!」と大げさに手を叩く蓮司に合わせて、俺も小さく肩を震わせた。
ここで真顔でいたら、「なんだよ鈴木、ノリ悪いな」とターゲットが俺に移るかもしれない。その恐怖が、俺の良心を押し潰した。
相沢はおどおどとして、「僕なんかでいいの?」と答えた。
その反応がさらに笑いを誘う。
「住む世界が違うの。勘違いしないでね」
陽菜の冷酷な一言で、ショーは終わった。
蓮司たちは満足げに教室を出て行き、残された相沢は呆然と立ち尽くしていた。
俺はそそくさと鞄を持って教室を出た。
相沢に声をかけるなんて、そんな勇気はない。
「災難だったな」の一言さえ、もし誰かに見られていたらと思うと怖くて言えなかった。
帰り道、俺は友人の田中とファミレスに寄った。
「西園寺たち、マジで性格悪いよなー」
「ほんとそれ。相沢も運が悪いよな」
「てか、橘陽菜も断れよな。あいつも性格悪くね?」
俺たちはドリンクバーのメロンソーダを飲みながら、安全圏から彼らを批判した。
自分たちが加担した笑い声のことは棚に上げて、「俺たちはあいつらとは違う」と言い聞かせるように。
そうすることでしか、薄汚れた自尊心を保てなかったのだ。
***
潮目が変わったのは、翌日だった。
一時間目の授業中、教室中に奇妙な通知音が鳴り響いた。
ピロリン、ピコン、ブブブッ。
マナーモードにし忘れていた奴らのスマホが一斉に鳴り出したのだ。
俺のスマホも震えた。
画面を見ると、クラスのグループLINEや、保護者連絡網からの通知だった。
『【重要】本校生徒の不適切な行動について』
添付された画像を見て、俺は息を呑んだ。
そこには、一軍女子の佐藤ミカの「裏の顔」が暴露されていた。
『毒吐きウサギ』という裏アカ。
万引きした化粧品の自慢写真。未成年飲酒の証拠。
そして、友人である陽菜や、俺たちクラスメイトへの罵詈雑言。
「うわっ……これ、ミカの?」
「マジで? 万引きって犯罪じゃん」
「俺らのこと『有象無象のモブ』だってよ。ふざけんな」
教室がざわめき始めた。
今までミカのご機嫌を取っていた女子たちが、真っ先に彼女を睨みつけた。
「最低」「信じられない」
「あんた、私の悪口も書いてたわよね?」
ミカは顔面蒼白になり、弁解しようとしていたが、蓮司にスマホを破壊され、最後は担任に連れられて教室を出て行った。
廊下に響く彼女の絶叫を聞きながら、俺は背筋が寒くなるのを感じた。
(誰だ? 誰がこんなことを?)
こんなに正確に、個人情報を特定して、絶妙なタイミングで拡散するなんて。
ただの生徒にできることじゃない。
俺はふと、相沢の席を見た。
彼はいつも通り、無表情で教科書を開いていた。
まさか、な。
あんな大人しいやつに、こんなことができるわけがない。
俺はすぐにその考えを打ち消した。
だが、恐怖の連鎖は止まらなかった。
翌日の昼休み。
今度は「王」である西園寺蓮司が堕ちた。
教室のテレビで流れたニュース速報。
『西園寺建設、脱税と贈収賄の疑いで強制捜査』
画面に映る、蓮司の父親が連行される姿。
そして、蓮司自身の口座が不正に使われていたという事実。
さらに、ネットに流出した蓮司の父親の音声データ。
「嘘だろ……」
俺は呟いた。
あの絶対的権力者だった西園寺家が、一夜にして崩壊したのだ。
教室に警察が入ってきた時、蓮司は泣き叫んでいた。
「親父が!」「俺は悪くない!」
無様に泣き喚き、警官に引きずられていく姿は、かつての威光など見る影もなかった。
その瞬間、教室の空気が爆発した。
「ざまぁみろ!」
「今まで散々偉そうにしやがって!」
「犯罪者の息子が! 消えろ!」
今まで彼に怯えていた連中が、一斉に石を投げ始めた。
俺もだ。
俺も、心の中で「いい気味だ」と叫んでいた。
今まで抑圧されていた鬱憤を晴らすように、口々に彼を罵った。
誰も彼を庇わない。
陽菜でさえも、「私に関わらないで!」と彼を突き放した。
それは、革命というよりは、暴動に近かった。
支配者がいなくなった途端、抑圧されていた民衆が暴徒化し、死体に唾を吐きかけるような、醜い熱狂。
俺たちは、自分たちが「正義側」に回ったと錯覚していた。
悪を叩くのは気持ちいい。
安全な場所から、転落した人間を叩くのは最高の娯楽だ。
だが、その熱狂を一瞬で冷やした男がいた。
相沢駆だ。
蓮司が連行された直後、彼は静かに教卓へ歩み寄り、教頭先生に退学届を叩きつけた。
「いじめと犯罪の温床のような学校にいたら、僕の将来に関わりますので」
その声は、よく通る、冷徹な響きを持っていた。
いつもの弱々しい喋り方じゃない。
背筋が伸び、鋭い眼光で教室を見渡すその姿は、まるで別人だった。
俺は震えた。
気づいてしまったからだ。
ミカの裏アカ暴露。
西園寺建設の内部告発。
これら全てを仕組んだのが、誰なのか。
(相沢だ……あいつがやったんだ……)
俺だけじゃない。クラスの何人かも気づいたようで、青ざめた顔で彼を見ていた。
彼は、いじめられているフリをしていただけだった。
俺たちが蓮司に怯え、ヘラヘラと笑っている間、彼は虎視眈々と証拠を集め、ナイフを研いでいたのだ。
「さようなら、皆さん。せいぜい、泥舟の中で仲良くやってください」
彼はそう言い捨てて、教室を出て行った。
追いすがる陽菜を冷たく拒絶し、一度も振り返ることなく。
俺は動けなかった。
「泥舟」。
その言葉が、胸に突き刺さった。
彼は知っていたのだ。
俺たちが、見て見ぬふりをしていたことを。
蓮司のいじめに加担し、ミカの悪口に同調し、そして今、掌を返して彼らを叩いている俺たちの醜さを。
彼は俺たちに復讐しなかった。
いや、する必要すらなかったのだろう。
俺たちのような「有象無象」は、彼の視界にすら入っていなかったのだ。
それが、何よりも恐ろしく、そして屈辱的だった。
窓の外を見ると、黒塗りのハイヤーが彼を乗せて走り去っていくのが見えた。
俺たちは、ただ呆然とそれを見送るしかなかった。
***
あれから五年。
俺、鈴木翔太は、地元の小さな商社に就職し、営業マンとして働いている。
毎日上司に怒られ、取引先に頭を下げ、安月給でやりくりする平凡な日々だ。
今日は、高校時代のクラス会だった。
集まったのは十人ほど。
居酒屋の個室で、ビールを飲みながら昔話に花を咲かせる。
話題は自然と、あの当時のことになった。
「そういえば、西園寺のやつ、指落としたらしいな」
「マジ? 工場で働いてたんだっけ」
「ミカは行方不明だし、橘陽菜もなんか暗い事務員やってるらしいぞ」
彼らの転落人生は、俺たちにとって格好の酒の肴だ。
「俺たちはあそこまで落ちぶれてない」という安心感を確認し合うための、残酷な儀式。
「結局、真面目が一番だよなー」
「そうそう、普通に生きてりゃいいんだよ」
誰かがそう言って笑った。
俺も愛想笑いをして、ビールを煽った。
普通。平凡。
それが俺たちの勲章だ。
その時、店内のテレビからニュース番組の音が流れてきた。
『今夜のゲストは、IT業界の若きカリスマ、ネビュラ・ソリューションズの相沢駆さんです』
場が静まり返った。
全員の視線がテレビ画面に釘付けになる。
そこに映っていたのは、洗練されたスーツを着こなし、堂々とした態度でインタビューに答える相沢駆だった。
年商数百億。世界的なシステム開発。
その肩書きは、俺たちの想像を遥かに超えていた。
『相沢さんは、高校時代からプログラミングで活躍されていたそうですが?』
アナウンサーの問いに、相沢は涼しげに微笑んだ。
『ええ。高校は通過点としか考えていませんでしたから。周囲の雑音には耳を貸さず、自分のスキルを磨くことに集中していました』
雑音。
ノイズ。
俺たちのことだ。
俺も、田中でさえも、彼にとってはただの背景音に過ぎなかった。
「……すげえな、あいつ」
「俺らと同級生だったなんて、信じらんねえよ」
「住む世界が違うって、こういうことか……」
誰かがポツリと言った。
さっきまで蓮司たちの不幸を笑っていた俺たちの顔から、優越感の色が消えていく。
俺は画面の中の相沢を見つめた。
彼は、俺たちとは違う。
俺たちが教室の空気に怯え、長いものに巻かれている間に、彼は自分の力で世界を変える準備をしていた。
俺たちが「普通」というぬるま湯に浸かっている間に、彼は遥か高みへと登り詰めていた。
「……乾杯するか」
俺は努めて明るい声を出した。
これ以上、惨めな気分になりたくなかったからだ。
「そうだな! 相沢の成功に乾杯!」
「俺らの同級生が有名人だなんて、自慢できるじゃん!」
みんな、空元気でグラスを掲げた。
そうやって、自分を誤魔化すしかなかった。
俺はビールの苦味を噛み締めながら、ふと思った。
もしあの日。
陽菜が嘘の告白をした時、俺が「やめろよ」と言えていたら。
相沢が一人で本を読んでいた時、俺が「何読んでるの?」と話しかけていたら。
何かが変わっていただろうか。
俺の人生は、もう少しマシなものになっていただろうか。
いや、無理だ。
俺にはそんな勇気も、才能もなかった。
俺は鈴木翔太。
ただの傍観者。エキストラA。
物語の主人公にはなれない人間だ。
画面の中の相沢駆は、未来について熱く語っている。
その光は眩しすぎて、直視できないほどだ。
俺はテレビから目を逸らし、焼き鳥の串を手に取った。
冷めた焼き鳥は硬くて、味がしなかった。
「なぁ、次の注文どうする?」
「ポテトでいいんじゃね?」
俺たちはまた、どうでもいい会話に戻った。
そうやって、日常の中に埋没していく。
それが、俺たち凡人に許された、唯一の生き方なのだから。
ただ、一つだけ確かなことがある。
俺は一生、あの教室の風景を忘れないだろう。
王が堕ち、道化が笑い、そして天才が去っていったあの日々を。
何もできなかった自分の無力さを。
俺はジョッキに残った温くなったビールを一気に飲み干した。
喉の奥に、苦い後悔の味がいつまでも残っていた。




