毒を吐くウサギの末路 ~承認欲求の化け物が、夜の底で腐っていく話~
薄暗い個室の中、ブルーライトだけが私の顔を青白く照らしている。
ネットカフェの狭いリクライニング席。
テーブルの上には、飲み干したエナジードリンクの空き缶と、コンビニ弁当の容器が散乱している。
空気は淀み、隣のブースからは男のいびきや、独り言のような呻き声が聞こえてくる。
「……うざっ」
私は舌打ちをして、ヘッドホンを耳に押し当てた。
流れてくるのは、流行りのアイドルソング。でも、今の私にはノイズにしか聞こえない。
スマホの画面をスクロールする指が止まらない。
Twotterのタイムラインを、意味もなく更新し続ける。
『佐藤ミカ』
『毒吐きウサギ』
『万引き』
『未成年飲酒』
『自業自得』
検索窓に自分の名前を打ち込むのは、もうやめようと思っているのに、指が勝手に動いてしまう。
五年前の炎上騒動。
その残骸は、ネットの海に永遠に残り続けている。
私の顔写真、加工前のすっぴん画像、晒された裏アカのスクショ。
それらを見るたびに、胸の奥が焼け付くような感覚に襲われる。
「なんで……なんでまだ消えてないのよ……」
私は画面をタップし、まとめサイトの記事を開いた。
『【悲報】イキりJK佐藤ミカ、裏アカバレて人生終了www その後どうなった?』
コメント欄には、私の不幸を喜ぶ見知らぬ他人の言葉が並んでいる。
『今は風俗で働いてるらしいぞ』
『いや、ホームレスになったって聞いた』
『どっちにしろざまぁみろだわ』
「死ね。全員死ね」
私は小さく呪詛を吐いた。
画面の中のアイコン――加工アプリで盛りに盛った、最高に可愛かった頃の私の笑顔――が、今の私を嘲笑っているように見えた。
鏡を見るのが怖い。
今の私は、二十二歳には見えないほど老け込んでいる。
肌は荒れ、髪はプリン状態でパサパサ。安物の服は薄汚れ、体からは安宿特有の湿っぽい臭いがする。
かつて「一軍女子」として教室の中心にいた私は、もうどこにもいない。
ここにいるのは、社会のゴミ箱に捨てられた、ただの「燃えるゴミ」だ。
あの日。
教室で私の裏アカが暴露された、あの日から、私の人生は狂い始めた。
学校では針のむしろだった。
今まで仲良くしていた友達は、手のひらを返したように私を無視し、陰口を叩いた。
「犯罪者」「万引き女」
聞こえるように言われる悪口。机への落書き。
私が駆にしていたことと同じこと、いや、それ以上のことが私に降りかかった。
家に帰っても地獄だった。
ママはヒステリーを起こして泣き叫び、パパは無言で私を殴った。
「お前のせいでパパの会社での立場がなくなった」
「近所歩けないじゃないの! 恥さらし!」
誰も私を守ってくれなかった。
陽菜も、蓮司も、親も。
みんな、自分が可愛いだけ。私がスケープゴートにされただけだ。
だから、私は逃げた。
退学届も出さずに家を飛び出し、夜行バスに乗って東京へ来た。
東京なら、誰も私のことを知らない。
新しい自分になれる。また、キラキラした私に戻れる。
そう信じていた。
甘かった。
砂糖菓子よりも甘くて、脆かった。
歌舞伎町のネオンは、田舎者の私を歓迎しているように見えたけれど、実際は巨大な捕虫灯だった。
「可愛いね、家ないの?」「仕事紹介しようか?」
優しく声をかけてくる男たちについていけば、居場所ができると思った。
最初は楽しかった。
「キッズ」と呼ばれる、家出少女たちのコミュニティ。
同じような境遇の子たちと屯して、酒を飲んで、愚痴を言い合う。
「親とかマジうざいよね」「学校とか行く意味なくない?」
共感し合える仲間。承認欲求が満たされる場所。
でも、そんな生活には金がかかる。
親の財布から抜いてきた数万円なんて、一瞬で消えた。
金を稼ぐために、私は何でもやった。
最初はパパ活。次はガールズバー。
年齢確認の甘い店を探して、年齢を偽って働いた。
チヤホヤされるのは気持ちよかった。
「ミカちゃん可愛いね」「指名するよ」
客の言葉がお世辞だと分かっていても、私はそれに縋った。
そして、出会ってしまった。
ホストの、レイ。
「ミカは特別だよ。俺の姫だ」
甘い言葉。優しい笑顔。
私が一番欲しかった「特別扱い」を、彼はくれた。
私は彼にのめり込んだ。彼のためにシャンパンを入れたくて、もっと稼げる仕事に手を出した。
違法な風俗。裏オプション。
体を売るたびに、心が削れていくのが分かったけれど、レイに会えば全部忘れられた。
「ありがとうミカ、愛してるよ」
その一言を聞くためだけに、私は泥の中を這いずり回った。
でも、それも嘘だった。
ある日、レイが他の客の女と歩いているのを見た。
「あいつ? ああ、ただの金ヅルだよ。メンヘラでウザいけど、体張って稼いでくるから便利なんだわw」
笑っていた。
私が貢いだ金で買ったブランド物のスーツを着て、私が一番嫌いな、あの「見下すような目」で笑っていた。
頭の中で何かが切れた音がした。
私はレイに掴みかかり、店の中で暴れた。
結果、店を出禁になり、レイからは暴行の慰謝料と称して法外な金を請求された。
借金取りに追われる日々。
住んでいたシェアハウスも追い出され、行き着いた先が、この薄汚いネットカフェだ。
「……金、ないなぁ」
財布の中身を確認する。千円札が一枚と、小銭が数百円。
これでどうやって生きていけというのか。
また体を売るしかないのか。
もう疲れた。何もかも。
スマホの通知音が鳴った。
ビクリと肩が跳ねる。借金取りからの催促かと思ったが、違った。
ニュースアプリの通知だ。
『IT業界の風雲児、相沢駆氏が語る未来』
「……は?」
その名前に、心臓が凍りついた。
相沢駆。
カケル。
あの、陰キャメガネ。
震える指で通知をタップする。
画面に映し出されたのは、洗練されたスーツに身を包み、堂々とインタビューに答える男の姿だった。
嘘でしょ。
これがあいつ?
あの、教室の隅で本ばかり読んでいた、キモいオタク?
『僕たちは、理不尽なシステムを変えたいんです。誰もが正当に評価される、そんな世界を作るために』
綺麗な言葉。自信に満ちた表情。
かつて私が「陰キャ」と見下し、ストレス発散の道具にしていた男が、今や日本のトップリーダーとして脚光を浴びている。
「ふざけんな……」
私はスマホを握りしめた。
「ふざけんなよ! なんであんたが! なんであんたばっかり!」
声が漏れる。
隣のブースから「うるせえぞ!」と壁ドンされたが、構わなかった。
おかしい。こんなの間違ってる。
私は一軍だったのよ。カーストの頂点にいたのよ。
あいつは底辺だったじゃない。
踏みつけられる側だったじゃない。
なんで逆転してるのよ。
私がこんなドブみたいな場所で這いつくばってるのに、なんであいつは光の中にいるのよ。
「私のせいじゃない……あいつのせいよ……」
そうだ、あいつがあんなことしなければ。
私の裏アカを晒したりしなければ、私は今頃、大学に通って、合コンして、普通の幸せな人生を送っていたはずなのに。
全部あいつが壊したんだ。
逆恨みだと分かっている。
でも、そう思わなければ、今の自分の惨めさに押し潰されてしまいそうだった。
私は衝動的に、Twotterの投稿ボタンを押した。
かつて「毒吐きウサギ」として何千人ものフォロワーを持っていたアカウントは凍結され、今はフォロワー数人の捨て垢しかない。
『相沢駆はクズ』
『あいつはいじめられっ子だった』
『私が知ってるあいつの過去、全部バラしてやる』
指が震える。
これで何かが変わるわけじゃない。
でも、何かせずにはいられなかった。あいつの足首を掴んで、こっちの泥沼に引きずり込みたかった。
投稿ボタンを押す。
『送信しました』
数秒待つ。
反応はない。
数分待つ。
インプレッション数はゼロのまま。
「……誰も、見てない」
当たり前だ。こんなフォロワーもいない弱小アカウントの呟きなんて、ネットの海では塵にも等しい。
私の怨嗟の声は、誰にも届かない。
世界は相沢駆を称賛し、私なんて存在していないかのように回っている。
「うぅ……ぐすっ……」
涙が溢れてきた。
悔しい。悲しい。惨めだ。
かつてあれほど承認欲求を満たしてくれたネットの世界でさえ、今の私には冷たい。
「お腹、空いたな……」
感情が一周して、虚無感が襲ってくる。
恨む気力さえなくなって、動物的な本能だけが残る。
私は立ち上がり、ふらつく足でネットカフェを出た。
夜の歌舞伎町。
雨が降っていた。冷たい雨だ。
傘なんて持っていない。
濡れるに任せて歩く。
ネオンサインが水たまりに反射して、毒々しい色を放っている。
「お姉さん、仕事探してる?」
スカウトの男が声をかけてきた。
以前なら無視していたような、うさんくさい男。
でも今の私には、この男だけが「私を見てくれた」人間に思えた。
「……すぐ、金になる?」
「なるよ。ちょっとハードだけど、日払いでいける」
男がニヤリと笑った。
その笑顔の裏にある悪意に気づかないふりをした。
もう何でもよかった。
この空腹を満たせるなら。今夜眠る場所が確保できるなら。
「行く」
私は男の後ろについて歩き出した。
路地裏の、さらに奥へ。光の届かない場所へ。
ふと、大型ビジョンを見上げた。
そこにはまだ、相沢駆のCMが流れていた。
彼の瞳は、真っ直ぐに未来を見据えている。
私の方なんて、一度も見ようとしない。
「……さよなら」
誰に向けた言葉だったのか。
過去の自分にか。それとも、光の中にいる彼にか。
私は視線を落とし、暗闇の中へと足を踏み入れた。
***
数時間後。
私は雑居ビルの薄暗い部屋にいた。
カビ臭いソファ。シミだらけの壁。
目の前には、太った中年の男が座っている。
「へえ、元JKねぇ。ちょっと賞味期限切れだけど、まあいいか」
男は私を品定めするように舐め回した。
屈辱的だった。吐き気がした。
でも、逃げ場はない。入り口には怖い顔をした男が立っている。
「さっさと脱げよ。時間ねえんだから」
男が紙幣をテーブルに投げ出した。
一万円札が三枚。
私の価値は、たったこれだけ。
高校時代、パパに買ってもらったバッグは十万円だった。
美容院代だけで毎月二万円使っていた。
ランチに三千円使うのが当たり前だった。
それが今、私の体、私の尊厳すべて込みで、三万円。
「……はい」
私は震える手で服のボタンを外した。
涙が止まらない。
なんで、どこで間違えたんだろう。
あの日、ミカちゃんグループに入れてと陽菜に言った時?
それとも、蓮司たちと一緒に駆を笑った時?
もっと前、中学で地味な自分を変えたいと思ってメイクを始めた時?
全部だ。
私の選んだすべての選択肢が、この地獄へと繋がっていたんだ。
服を脱ぎ捨て、裸になる。
冷たい空気が肌を刺す。
男の下卑た笑い声が聞こえる。
私は目を閉じた。
心を殺す。何も感じないようにする。
私はただの肉塊。感情のない人形。
そう思い込むしか、耐える方法はなかった。
行為の最中、頭の中に浮かんでいたのは、かつての教室の風景だった。
夕日が差し込む放課後の教室。
私の周りには友達がいて、みんな笑っていた。
「ミカちゃん、ウケるー!」
「今度カラオケ行こうよ!」
「ミカちゃんって本当おしゃれだよね」
あそこには、確かに私の居場所があった。
偽りだったかもしれないけれど、虚勢だったかもしれないけれど、私は確かにそこで輝いていた。
「……戻りたい」
小さく呟いた言葉は、男の荒い息遣いにかき消された。
終わった後、私はシャワーも浴びずに服を着た。
テーブルの上の三万円を鷲掴みにする。
これが私の命綱。明日の食事代。
「また来いよ。次はもっとサービスしろ」
男の言葉を無視して、部屋を飛び出した。
外はまだ雨が降っていた。
私は路地裏でうずくまり、嘔吐した。
胃の中には何もないから、黄色い胃液だけが出てくる。
苦しい。気持ち悪い。死にたい。
「うぅ……うあぁぁぁ……」
声にならない叫びをあげる。
誰も助けてくれない。
通り過ぎるネズミだけが、私を見ていた。
その時、スマホが鳴った。
通知ではない。着信だ。
画面には『非通知』の文字。
借金取りか、警察か。
あるいは、奇跡的に親からの電話かもしれない。
私は一縷の望みをかけて、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『よう、久しぶりだな、ミカ』
その声を聞いた瞬間、全身の血が逆流した。
西園寺蓮司。
五年前の、あの威圧的な声ではない。
嗄れて、疲弊しきった、幽霊のような声。
「……蓮司? なんで、私の番号……」
『探したぜ。昔のツテを使ってな。……お前、今東京か?』
「……そうだけど。何よ、今更」
『俺もだよ。もう田舎にはいられなくてな。……なぁ、会わないか?』
「は?」
『俺たち、同類だろ? 駆の野郎に人生狂わされた被害者同士だ。……傷の舐め合いでもしようぜ』
蓮司が笑った。乾いた、狂気じみた笑い声。
かつての王の威厳など欠片もない。ただの負け犬の遠吠えだ。
でも、今の私には、その声が甘い誘惑のように聞こえた。
「同類」。
そう、私たちは同じだ。
光ある世界から追放された、闇の住人。
彼なら、私の惨めさを分かってくれるかもしれない。
一緒に、駆を呪ってくれるかもしれない。
「……どこにいけばいい?」
私は尋ねた。
『新宿のガード下だ。待ってるぜ』
通話が切れた。
私は立ち上がり、雨の中を歩き出した。
それが、さらなる地獄への入り口だと分かっていても、私は進むしかなかった。
孤独に耐えられなかったから。
誰でもいい、私と同じ「底辺」の体温を感じたかったから。
雨足が強くなる。
私の姿は、夜の闇に溶け込んでいく。
かつて「毒吐きウサギ」と呼ばれた少女は、毒に侵され、泥にまみれ、やがて誰の記憶からも消え去っていくのだろう。
ビルの隙間から見える空には、星ひとつ見えなかった。
ただ、冷たい雨だけが、私の罪を洗い流すこともなく、降り続いていた。




