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能ある鷹は爪を隠すが、裏切り者には容赦しない ~陰キャを演じる天才ハッカーの俺を嘲笑った幼馴染たちが、社会的制裁で破滅するまで~  作者: ledled


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7/11

堕ちた王の独白 ~全てを奪われた男が、工場の隅で見る夢~

ガガガガガッ! キィィィン!


耳をつんざくような金属音が、鼓膜を直接揺らす。

鼻孔を突くのは、焦げた鉄の臭いと、酸化した機械油の鼻につく悪臭。

空調設備などろくに機能していないプレハブの工場内は、夏場には四十度を超え、冬場は外気と同じ氷点下まで冷え込む。


ここは、北関東の工業地帯の端にある、小さな金属加工工場だ。

社名など覚える気にもならない。どうせ、俺のような「訳あり」の人間を安く使い潰すための掃き溜めに過ぎないのだから。


「おい、新入り! 何ボサッとしてんだ! 次の部材早く持ってこい!」


怒号を飛ばしてきたのは、五十代半ばの現場主任だ。歯が抜け落ち、いつも酒臭い息を吐いている小男。

かつての俺なら、視界に入れることすら汚らわしいと感じたであろう底辺の人間。


だが今の俺、西園寺蓮司さいおんじ れんじにとって、この小男は生殺与奪の権を握る「上司」だった。


「……はい、今やります」


俺は唇を噛み締め、油まみれの軍手をはめた手で、重い鉄板を持ち上げた。


ズキリ。


右手に鋭い痛みが走る。

思わず顔をしかめ、鉄板を取り落としそうになるのを全身で支えた。


俺の右手の指は、二本しかない。

親指と人差し指。それ以外の中指、薬指、小指は、第一関節から先が無残に欠損している。


半年前の事故だ。

徹夜続きの残業で意識が朦朧としていた時、プレス機に手を挟まれた。

一瞬の出来事だった。激痛よりも先に、「あ、なくなった」という乾いた認識があり、その直後に脳を焼き切るような痛みが襲ってきた。


会社からは「安全確認を怠ったお前の過失だ」と言われ、雀の涙ほどの見舞金だけで処理された。労災隠しだ。

訴えようにも金はなく、弁護士を雇う知恵もない。何より、俺の過去――執行猶予付きとはいえ犯罪歴のある身――が、社会的な正義を主張することを躊躇わせた。


「チッ、使えねえな。指がないなら足使えよ、足!」


主任が俺の尻を安全靴で蹴り上げる。

泥にまみれた作業ズボンに、新たな汚れがついた。


「すいません……」


俺は頭を下げた。

プライド? そんなものは、五年前にとうの昔に砕け散った。

今の俺にあるのは、明日の食い扶持を稼ぐための、惨めな生存本能だけだ。


重い鉄板を運びながら、俺はふと、工場の汚れた窓から見える空を見上げた。

灰色に曇った空。

かつて俺が見ていた空は、こんな色じゃなかったはずだ。


高校二年生の夏まで、俺は王だった。


地元の名士、西園寺建設社長の長男。

金も、権力も、女も、欲しいものは全て手に入った。

教師たちは俺の機嫌を伺い、クラスメイトたちは俺のジョークに腹を抱えて笑い、女たちは俺の隣を競って歩いた。


俺が白と言えば黒いカラスも白くなり、俺が笑えば誰もがそれに倣った。

それが世界の理だと思っていた。

俺は選ばれた人間で、俺以外の有象無象は、俺を引き立てるための背景に過ぎないと本気で信じていた。


その象徴が、あの相沢駆だった。


陰気で、猫背で、目立たない男。

俺が何をしてもヘラヘラと笑い、抵抗すらしないサンドバッグ。

あいつを見下し、踏みつけにすることで、俺は自分の優位性を再確認していた。


「……クソが」


口汚い言葉が漏れる。


あの日。

教室のテレビに、親父が逮捕される映像が流れたあの日。

俺の世界は、音を立てて崩壊した。


警察署での取調べは、屈辱以外の何物でもなかった。

刑事たちは俺を「西園寺家の御曹司」としてではなく、「経済犯罪の片棒を担いだガキ」として扱った。


『お父さんの指示だった? ふん、君名義の口座から引き出された金で買ったその時計、どう説明するんだ? 知らなかったじゃ済まされないぞ』


冷徹な尋問。

俺が泣こうが喚こうが、彼らは眉一つ動かさなかった。

親父の威光が通じない世界があることを、俺は初めて知った。


その後は、坂道を転がり落ちるようだった。

親父は実刑判決を受け、刑務所へ。会社は倒産し、莫大な負債と損害賠償請求が残った。

豪邸は差し押さえられ、母親は心労で倒れ、今は安アパートで寝たきりだ。


俺もまた、少年鑑別所を経て、社会に放り出された。

高校はもちろん退学。

親戚たちに助けを求めたが、誰一人として俺を助けようとはしなかった。


『お前ら親子のせいで、こっちまで白い目で見られてるんだ! 二度と連絡してくるな!』


電話越しに怒鳴られ、着信拒否される。

かつての取り巻きたちも同様だ。俺が連絡を取ろうとすると、露骨に無視するか、「犯罪者」と罵ってきた。


唯一、あの橘陽菜だけは、俺にすがりついてくるかと思った。

あいつは芯のない女だ。誰かに寄生しなければ生きていけない。

だが、彼女さえも俺の前から消えた。風の噂では、どこかの底辺企業で事務員をしているらしい。


ざまぁみろ、と笑いたかったが、鏡に映る自分の方がよほど滑稽で悲惨だった。


高卒資格すらない犯罪歴持ちの俺を雇ってくれるまともな会社などない。

日雇いの現場作業、解体屋の手元、そしてこの工場。

肉体を切り売りして、その日暮らしの銭を稼ぐ。


それが、かつての王の成れの果てだ。


昼休み。

工場の裏手にある喫煙所で、俺はコンビニで買った一番安いおにぎりを齧っていた。

具は申し訳程度の昆布。冷たくて硬い米粒を、泥の味がする口の中に押し込む。


周囲では、同僚たちがパチンコや競馬の話で盛り上がっている。

「昨日は三万負けた」「新しい台が出るらしいぞ」

低俗な会話。以前の俺なら耳を塞いでいただろう。だが今は、その輪に入ることすらできない「よそ者」として、端っこで縮こまっている。


ふと、誰かがスマホを見て声を上げた。


「おい見ろよ、このニュース。すげえな、二十三歳で年収五億だってよ」

「マジか? どこのどいつだ」

「ネビュラ・ソリューションズの相沢駆ってやつ。ほら、このイケメン」


「……ッ!?」


俺の手から、おにぎりが落ちた。

地面の土埃にまみれる米粒。だが、そんなことを気にしている余裕はなかった。


「おい、それ見せろ……!」


俺は半ばひったくるようにして、同僚のスマホを覗き込んだ。


画面の中に、あいつがいた。


相沢駆。

仕立ての良いスーツを着こなし、知的な笑みを浮かべてインタビューに答えている。

背景には、都心の高層ビル群と、彼の会社と思われる洗練されたオフィスが映っていた。


『僕たちが目指すのは、テクノロジーによる公平な社会です。かつてのような理不尽な搾取や、隠蔽体質のない、クリアな世界。それをシステムで担保するのです』


その声は、自信に満ち溢れていた。

かつて俺の前で「ひぃっ」と怯えた声を上げていた男と、同一人物とは到底思えない。


「へえ、こいつ昔はいじめられっ子だったらしいぜ。そこから実力で這い上がったんだと」

「かっこいいじゃん。それに比べて俺らは……はぁ」


同僚たちが感心したように頷く。


俺の全身が、怒りと嫉妬で震えた。


ふざけるな。

なんでだ。なんであいつがそこにいて、俺がここにいるんだ。


俺は西園寺蓮司だぞ。選ばれた人間だぞ。

あいつはただの陰キャだ。俺のストレス発散のための道具だったはずだ。


「……あいつ、俺の……」

「あ? なんだお前、知り合いか?」


同僚が怪訝そうな顔で俺を見る。


「俺の……クラスメイトだったんだよ……!」


俺は叫んだ。


「俺はこいつの上だったんだ! こいつを顎で使ってたんだぞ! なのに……なんでこいつだけ……!」


同僚たちは顔を見合わせ、そして鼻で笑った。


「また始まったよ、西園寺の妄想癖」

「はいはい、元社長の息子だもんなー。偉い偉い」

「そんなこと言ってるから、いつまで経っても底辺なんだよ」


誰も信じない。

今の俺の姿を見て、かつて俺があの相沢駆を支配していたなどと、誰が信じるだろうか。

薄汚れた作業着、欠けた指、濁った目。

対してあいつは、時代の寵児。


その差は、天と地どころではない。

月とスッポンですらない。

神と、泥水の中のボウフラほどの差だ。


「くそっ……くそぉぉぉぉ!!」


俺はスマホを同僚に投げ返し、喫煙所の壁を殴りつけた。

ドン、という鈍い音と共に、拳の皮が剥け、血が滲む。

だが、心の痛みの方が遥かに強かった。


あいつは知っていたのだ。

俺がいじめていた時も、あいつはずっと、心の中で俺を嘲笑っていたのだ。

「こいつは裸の王様だ」「親の力がなくなればただのゴミだ」と、冷静に分析し、データを集め、破滅の準備をしていたのだ。


俺は道化だった。

王様気取りで踊っていたピエロ。

観客席のあいつは、ポップコーンでも食べながら、俺が転げ落ちるクライマックスを待っていたに違いない。


午後五時。

定時のチャイムが鳴ったが、当然のように残業が命じられた。

急ぎの注文が入ったらしい。断ればクビだ。


俺は再び、騒音と油の臭いが充満する工場内へと戻った。

指のない右手が疼く。

だが、その痛みよりも、脳裏に焼き付いた駆の笑顔の方が、俺を苛んだ。


『公平な社会』

『理不尽な搾取のない世界』


あいつの言葉がリフレインする。

皮肉だ。あいつが作った「公平な世界」において、無能で犯罪者の烙印を押された俺は、こうして社会の最底辺で搾取されている。

それが正当な評価だと言うのか。

これが、俺の実力相応の場所だと言うのか。


「おい西園寺! 手ぇ動かせ!」


主任の怒鳴り声。


「……はい」


俺は機械的に返事をし、プレス機の前に立った。

ガシャン、ガシャン、という規則的な音。

この機械が、俺の指を奪った。

そして今も、俺の時間を、命を、少しずつ削り取っている。


ふと、考えることがある。

もし、あの時。

陽菜に嘘の告白なんてさせなければ。

相沢駆に関わらなければ。

俺は今頃、どうしていただろうか。


親父の逮捕は避けられなかったかもしれない。

だが、少なくとも、ここまで徹底的に社会から抹殺されることはなかったのではないか。

もう少しマシな人生があったのではないか。


いや、無駄だ。

たらればを語るには、俺はあまりにも多くのものを失いすぎた。


深夜十一時。

ようやく作業が終わり、俺はふらつく足で工場を出た。

街灯もまばらな田舎道。冷たい夜風が汗ばんだ肌を冷やす。


アパートへ帰る途中、二十四時間営業のコンビニの明かりが見えた。

吸い寄せられるように中に入る。

晩飯を買わなければ。また、味気ない弁当だ。


雑誌コーナーの前を通る時、ビジネス誌の表紙が目に飛び込んできた。

『次世代を担うリーダーたち』という特集。

その中心に、やはりあいつがいた。


相沢駆。

涼しげな目元。知的な口元。

隣に並ぶのは、名だたる大企業の社長たち。


俺は震える手で、その雑誌を手に取ろうとした。

だが、指のない右手ではうまく掴めず、雑誌は床に落ちてしまった。


バサリ。


開いたページには、駆のインタビュー記事が載っていた。


『過去を振り返ることはありませんか?』という記者の問いに対し、彼はこう答えていた。


『振り返るほどの価値がある過去なら、そうしたかもしれません。ですが、僕の過去にあったのはノイズだけでしたから。ノイズは除去し、クリアな音だけで未来を奏でたいんです』


ノイズ。

雑音。


俺のことだ。

あいつにとって、俺の存在は「いじめっ子」ですらなかった。

ただの、処理すべきシステムエラー。除去すべきバグ。

人生というプログラムにおける、無意味なノイズ。


「……ははっ」


乾いた笑いが漏れた。


俺はあいつにとって、敵ですらなれなかったのだ。

ただの障害物。踏み越えられ、掃除され、忘れ去られるだけの存在。


「お客様、立ち読みはご遠慮ください」


店員の声にはっと我に返る。

俺は慌てて雑誌を拾い上げようとしたが、指が思うように動かず、何度も取り落とした。


その無様な姿を、若い店員が冷ややかな目で見下ろしている。

その目は、かつて俺が駆に向けていた目と同じだった。

見下し、嘲り、憐れむ目。


「す、すいません……」


俺は逃げるように雑誌を棚に戻し、一番安いカップ麺を一つ掴んでレジに向かった。


アパートに帰り、電気もつけずにカップ麺をすする。

お湯がぬるい。麺がボソボソする。

涙が溢れてきて、スープの中に落ちた。

塩辛いスープが、さらに塩辛くなる。


「なんでだよ……」


薄暗い部屋で、俺は独りごちた。


「俺は、西園寺蓮司だぞ……」


その名前には、もう何の価値もない。

ただの、惨めな男の識別記号に過ぎない。


窓の外では、また工場の機械音が微かに聞こえている。

明日も、明後日も、その先も。

俺はこの音を聞きながら、油にまみれて生きていくのだ。


指のない右手が、幻肢痛のようにズキズキと痛む。

失った指は戻らない。

失った時間も、栄光も、二度と戻らない。


俺は床に転がり、汚れた天井を見上げた。

シミだらけの天井が、まるで俺の人生の縮図のように見えた。


遠くで、電車の音が聞こえる。

東京へ向かう電車だろうか。

あいつがいる、光り輝く街へ向かう電車。


俺にはもう、その切符を買う金も、資格もない。


瞼を閉じると、高校時代の教室が浮かんだ。

俺のジョークに笑う取り巻きたち。怯える相沢駆。

あの歪で、残酷で、けれど俺にとっては天国だった場所。


「……戻りてぇなぁ」


俺の呟きは、誰にも届くことなく、夜の闇に吸い込まれて消えた。


夢の中だけでも、王様でいさせてくれ。

目覚めれば、また地獄が待っているのだから。


俺は体を丸め、逃げるように眠りへと落ちていった。

明日という絶望が、すぐそこまで迫ってきていることを知りながら。

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