第六話 数年後の答え合わせ
五年という月日が流れた。
東京、港区。
摩天楼が林立するこの街のランドマークである超高層ビルの最上階。
会員制のスカイラウンジからは、宝石箱をひっくり返したような東京の夜景が一望できる。
その窓際で、俺、相沢駆はグラスを傾けていた。
注がれているのは、ヴィンテージのシャンパン。グラスの中で立ち上る繊細な泡が、都会の光を反射して煌めいている。
「相沢様、本日の『経済最前線』の収録、お疲れ様でした。視聴率も非常に良かったようですよ」
隣に控える秘書の七瀬が、タブレット端末を確認しながら微笑みかける。
彼女は知的な美貌を持つ女性で、ハーバード大卒の才媛だ。俺のスケジュール管理から身の回りの世話まで完璧にこなす、優秀なパートナーでもある。
「ああ、ありがとう。少し喋りすぎたかな」
「いえ、相沢様の『テクノロジーによる社会構造の再定義』というスピーチ、SNSでもトレンド入りしています。『現代の魔法使い』なんて呼ばれていますよ」
俺は苦笑した。
高校中退の元陰キャが、今や時価総額数千億円企業の最年少役員であり、メディアの寵児だ。
「ネビュラ・ソリューションズ」は、俺が開発したセキュリティAIシステムによって世界的なシェアを獲得し、今やIT業界の巨人と呼べる存在に成長していた。
身に纏っているのはイタリア製のオーダーメイドスーツ。腕時計はパテック・フィリップ。
かつて教室の隅で息を潜めていた頃の面影は、もはや欠片もない。
「……悪いが、少し一人で風に当たりたい。車を回しておいてくれ」
「承知いたしました。一階の車寄せでお待ちしております」
七瀬が一礼して去っていく。
俺は残ったシャンパンを飲み干し、窓の外を見下ろした。
眼下に広がる無数の光。その一つ一つに、誰かの人生がある。
成功する者、失敗する者。
笑う者、泣く者。
ふと、過去の記憶が脳裏をよぎる。
あの薄暗い教室。嘲笑と悪意に満ちた空間。
「……あいつらは今、どこで何をしているんだろうな」
独り言のように呟いてみるが、そこに感情は伴わない。
ただの事実確認。昨日の夕食のメニューを思い出すような、淡々とした思考だった。
***
同時刻。
東京の郊外、古びたアパートの一室。
ジリリリリリリ!
けたたましい目覚まし時計の音で、橘陽菜は目を覚ました。
「うぅ……うるさい……」
薄い布団から手を伸ばして時計を止める。
時刻は朝の六時。まだ外は暗い。
壁の薄いこのアパートは、隣人のいびきやテレビの音が筒抜けだ。昨晩も隣の住人が深夜まで騒いでいて、ほとんど眠れなかった。
「……行かなきゃ」
重い体を起こし、洗面所に向かう。
鏡に映る自分の顔を見て、陽菜は溜息をついた。
肌は荒れ、目の下には消えない隈がある。髪はパサつき、かつて「一軍女子」として輝いていた頃の面影はない。
あれから、彼女の人生は転がり落ちる一方だった。
高校を中退した後、通信制の高校になんとか編入したが、心に負った傷と「元いじめ加害者」という噂が付きまとい、まともな青春を送ることはできなかった。
大学進学も諦め、高卒で就職した先は、小さな運送会社の事務職。
そこは地獄だった。
手取り十五万円。残業代は出ない。セクハラまがいの発言をする社長と、仕事を押し付けてくるお局社員。
毎日、電話対応と伝票整理に追われ、罵倒され、心をすり減らす日々。
「化粧、しなきゃ……」
安物のファンデーションで肌荒れを隠し、リップを塗る。
二十二歳。一番華やかなはずの時期を、彼女は灰色の世界で過ごしていた。
支度を終えて家を出る。
最寄り駅までの道のり、すれ違う高校生カップルが楽しそうに笑い合っているのを見て、胸が締め付けられる。
(もし、あの時……)
何度も繰り返した自問自答。
もし、あの時、蓮司たちの命令を断っていたら。
もし、カケル君を裏切らずに、彼の味方をしていたら。
「……やめよう」
考えても無駄だ。時間は戻らない。
満員電車に揺られながら、陽菜はスマホを取り出した。
暇つぶしに見ているSNSのタイムラインに、ふと見覚えのある名前が流れてきた。
『元・西園寺建設社長の息子、工場で労働災害。指を切断の大怪我』
心臓がドクリと跳ねた。
記事を開くと、そこには西園寺蓮司の名前があった。
少年院を出た後、親戚からも縁を切られ、地方の工場で住み込みで働いていたらしい。安全装置を無視した作業中に機械に巻き込まれ、右手の指を三本失ったという。
かつて親の金で豪遊し、他人を見下していた男の、あまりにも哀れな末路。
そして、もう一人。佐藤ミカ。
彼女の噂も風の便りに聞いた。
高校中退後、家出して夜の街に入り浸り、ホストにハマって借金まみれになったという。今は違法な店で働かされているとか、行方知れずになったとか、ろくな噂を聞かない。
「……みんな、バチが当たったんだ」
陽菜は小さく呟いた。
因果応報。
自分たちがカケル君にしたことの報いが、それぞれの人生を破壊した。
「じゃあ、私は? 私はいつ許されるの?」
私は指を失ったわけでも、行方不明になったわけでもない。
ただ、真綿で首を絞められるような、じわじわとした苦しみの中で生きている。
希望のない未来。孤独な毎日。
これが、私の罰なのだろうか。
電車が駅に到着し、陽菜は人波に押されるようにホームに降りた。
今日は社長の命令で、都心のクライアントへ書類を届けに行かなければならない。
場所は六本木。今の自分には不釣り合いな、煌びやかな街だ。
***
六本木の交差点。
巨大な街頭ビジョンが、街を行き交う人々を見下ろしている。
書類の入った重い鞄を抱えて、陽菜は信号待ちをしていた。
周囲はブランド品で着飾った女性や、スマートなビジネスマンばかり。安物のスーツを着た自分が、ひどくみすぼらしく感じる。
ふと、頭上のビジョンから聞き覚えのある声が聞こえた。
『――これからの時代、必要なのは変化を恐れない勇気と、本質を見抜く力です』
陽菜は顔を上げた。
そして、息を呑んだ。
巨大なスクリーンに映し出されていたのは、相沢駆だった。
ニュース番組の特集インタビュー。
スタジオの照明を浴びて、堂々と語る彼の姿は、あまりにも眩しかった。
『相沢さんは、若くしてこれだけの成功を収められましたが、その原動力は何だったのでしょうか?』
キャスターの質問に、画面の中の駆は穏やかに微笑んだ。
『過去に囚われないことですね。終わったこと、不要なデータはすぐにアーカイブして、常に未来の可能性だけを見る。それが僕のスタイルです』
不要なデータ。
その言葉が、陽菜の胸に突き刺さった。
「カケル君……」
信号が青に変わったが、陽菜は動けなかった。
画面の中の彼は、まるで別世界の王子のようだ。
自信に満ち溢れ、知性的な瞳で未来を見据えている。
かつて隣にいた、猫背で眼鏡の少年はもういない。
彼は完全に、手の届かない場所へ行ってしまった。
人波に押され、よろめきながら歩き出したその時だった。
交差点の向こう、高級ホテルのエントランスから、一台の黒塗りのリムジンが出てくるのが見えた。
そして、その車の後部座席に乗り込もうとする人物の姿が、陽菜の目に飛び込んできた。
間違いない。カケル君だ。
ビジョンの中の彼と同じ、完璧な着こなし。
隣には、モデルのように美しい女性が寄り添っている。彼女が何かを囁き、彼が小さく頷く様子は、絵画のように美しかった。
「あ……」
陽菜の足が勝手に動いた。
考えるよりも先に、体が反応していた。
「カケル君!」
雑踏の中で叫んだ。
声は喧騒にかき消されるかと思われたが、奇跡的に、車に乗り込もうとしていた彼が足を止めた。
彼はゆっくりと振り返った。
その視線が、人混みの中にいる陽菜を捉えた。
陽菜は必死に手を振った。
書類鞄が肩からずり落ちそうになるのも構わず、彼に向かって駆け寄った。
「カケル君! 私、陽菜だよ! 覚えてる!?」
警備員が制止しようとするが、駆が手でそれを制した。
彼は無表情のまま、近づいてくる陽菜を見つめていた。
陽菜は彼の目の前まで来て、息を切らせて立ち止まった。
至近距離で見る彼は、画面越しよりもさらに洗練され、圧倒的なオーラを放っていた。
高級な香水の香りが漂ってくる。
「……久しぶりだね、カケル君」
陽菜は精一杯の笑顔を作った。
髪を整え、服のシワを伸ばしたい衝動に駆られたが、もう遅い。
「こんなところで会えるなんて、偶然だね。私、近くで仕事してて……」
「…………」
駆は何も答えない。ただ、品定めするように彼女を見ている。
陽菜は焦った。何か言わなければ。何か、繋ぎ止めなければ。
「あ、あのね! 私、今事務の仕事してるの! 大変だけど頑張ってるよ! 蓮司くんたちのことも聞いた? ひどいことになったよね。やっぱり悪いことってできないね……あ、でも私、今は真面目にやってて……」
支離滅裂な言葉が口をついて出る。
何を言いたいのか自分でも分からない。ただ、彼に認めてほしい。今の自分を見てほしい。
「カケル君、私……ずっと後悔してたの。あの時のこと。本当にごめんなさい。今更だって分かってるけど……でも、私……」
陽菜は潤んだ瞳で彼を見上げた。
「もしよかったら、今度食事でも……昔みたいに、話したいな。私、カケル君の話もっと聞きたいし……」
すがるような視線。
それは、五年前に彼の会社のロビーで見せたものと変わらない、他者への依存心に満ちた目だった。
駆の隣にいた美女――七瀬が、不審そうに駆に尋ねた。
「相沢様、お知り合いですか?」
その問いかけに、駆は数秒の沈黙の後、静かに口を開いた。
「いや」
短く、淡泊な否定。
陽菜の表情が凍りついた。
「え……?」
「昔、少しだけ接点のあった人だ。名前も……すまない、よく思い出せないな」
駆の声には、怒りも憎しみもなかった。
あるのは、徹底的な「無関心」だけ。
路傍の石を見るような目。
それが、今の陽菜に向けられた彼の評価だった。
「そんな……嘘でしょ? 私だよ、陽菜だよ? 幼馴染の……」
「君」
駆が陽菜の言葉を遮った。
「君が今、どんな人生を送っているのか、僕は知らないし、興味もない」
「……っ」
「ただ、一つだけ言えることがあるとすれば」
駆は一瞬だけ、柔らかい表情を見せた。
だが、それは慈愛ではなく、完全に自分とは関係のない他人へ向ける、社交辞令の微笑みだった。
「元気そうでよかったよ。……幸せになってね」
幸せになってね。
その言葉は、どんな罵倒よりも残酷に陽菜の心を抉った。
それは、「君の不幸に関与するつもりもないし、君の幸福を願う義理もないが、まあ勝手に生きてくれ」という、完全なる絶縁状だった。
駆はそれ以上何も言わず、背を向けた。
「行こうか、七瀬」
「はい」
二人はリムジンに乗り込んだ。
重厚なドアが閉まる音。それが、陽菜と駆の世界を隔てる最後の音となった。
「待って……カケル君……!」
陽菜が手を伸ばしたが、黒塗りの車は滑らかに走り出した。
彼女を残して、光の海の中へと消えていく。
残されたのは、排気ガスの匂いと、冷たいビル風だけ。
六本木の華やかな交差点の真ん中で、陽菜は一人、立ち尽くしていた。
周囲の人々は、何事もなかったかのように通り過ぎていく。
みすぼらしい女が一人、呆然としている光景など、この街では誰も気に留めない。
「……幸せに、なってね……?」
陽菜はその言葉を反芻した。
なれるわけがない。
あんな輝かしい彼を見た後に、あの泥沼のような生活に戻って、幸せになどなれるわけがない。
自分が捨てたものが、どれほど大きく、かけがえのないものだったのか。
その事実が、これからの人生、死ぬまで彼女を苦しめ続けるだろう。
「あは……あはは……」
乾いた笑いが漏れた。
涙は出なかった。涙を流す資格すら、自分にはないのだと思い知らされたから。
ポケットの中で、仕事用の携帯が鳴った。
おそらく、書類が遅いと怒鳴る上司からの電話だ。
陽菜は携帯を握りしめ、よろよろと歩き出した。
戻らなければならない。あの薄暗い、希望のない日常へ。
背後のビジョンでは、まだ駆のインタビューが流れている。
『未来は、自分の手で選び取るものです』
その言葉が、彼女の背中に重くのしかかる。
彼女が選んだ未来。
それが、これだ。
二人の道は、ここで完全に途絶えた。
二度と交わることはない。
天と地ほどに開いた格差。
それを埋める術は、この世界には存在しない。
陽菜は地下鉄の入り口へと続く階段を、重い足取りで降りていった。
まるで、自分の人生そのものを象徴するかのように、暗い地下へと沈んでいく。
地上には、変わらず眩しいほどの光が溢れていたが、その光が彼女を照らすことは、もう二度となかった。




