第五話 決別と旅立ち
相沢駆が教室を去った後の静寂は、数秒もしないうちに、粘着質なざわめきへと変わった。
「おい、聞いたかよ。相沢のやつ、いじめの証拠全部持ってるって」
「マスコミにも流したって言ってたよな?」
「やっべ、俺らもなんか言われるかな? 見てただけだし大丈夫だよな?」
クラスメイトたちは、自分たちに火の粉が降りかかることを恐れ、責任の所在を必死に探し始めていた。
そして、その視線は自然と、教室の中央で呆然と立ち尽くす少女、橘陽菜へと集まっていく。
西園寺蓮司は警察に連行された。佐藤ミカは不登校になり、社会的に抹殺された。
この「いじめグループ」の中で、唯一無傷で残っているのが彼女だったからだ。
「……ねえ、橘さん」
最初に声を上げたのは、これまで蓮司たちに媚びていた女子グループの一人だった。
「あんたさ、相沢くんと幼馴染だったんでしょ? なのに、蓮司くんに協力して嘘コクとかしてたわけ?」
その声には、明らかな悪意が含まれている。昨日までは陽菜のご機嫌を取っていた人間が、風向きが変わった瞬間に牙を剥く。スクールカーストの崩壊に伴う、醜い権力闘争の始まりだ。
「ち、違うの……私は……」
陽菜は震える声で弁解しようとした。
「断れなくて……怖かったから……」
「はぁ? 怖かったら何してもいいわけ? てかさ、あんたが一番エグくない? 幼馴染裏切るとかサイテー」
「自分だけ被害者ぶるのやめなよ。あんたも加害者じゃん」
罵声が四方八方から飛んでくる。
「蓮司がいなくなったからって、急に相沢にすがりつこうとしてたのも見たし」
「切り替え早すぎ。男なら誰でもいいのかよ」
クラスの空気が、完全に反転していた。
昨日まで陽菜を守っていた「陽キャグループの一員」という鎧は剥がれ落ち、彼女はただの「裏切り者の女」として、クラス全員の敵意の標的になっていた。
陽菜は耳を塞ぎ、その場にうずくまりたくなった。
(なんで……どうして私がこんな目に……)
彼女の心の中にあるのは、駆への謝罪よりも、自分の境遇への嘆きだった。
私はただ、うまく立ち回りたかっただけなのに。高校生活を楽しく過ごしたかっただけなのに。
「……私、帰る」
陽菜は逃げるように鞄を掴み、教室を飛び出した。
背後から「逃げたぞ」「明日から無視しようぜ」という嘲笑が追いかけてくる。
廊下を走りながら、彼女の脳裏には、先ほどの駆の冷たい瞳が焼き付いていた。
『君は被害者じゃない。加害者だ』
その言葉が、呪いのように心臓を締め付ける。
「違う……私は悪くない……悪くないもん……」
陽菜は涙を拭いながら、あてもなく走り続けた。
彼女はまだ気づいていなかった。これが、彼女が選択した「処世術」の代償であり、地獄への入り口に過ぎないということを。
***
それから一ヶ月が過ぎた。
都心の高層ビル、その二十五階にある「ネビュラ・ソリューションズ」のオフィス。
広々としたフロアには、最新のPCと大型モニターが並び、自由な服装のエンジニアたちがキーボードを叩く音が心地よいリズムを刻んでいる。
俺、相沢駆は、自分専用のデスクで三つの画面と向き合っていた。
「相沢チーフ、例のセキュリティホールの修正パッチ、デプロイ完了しました」
「了解。ログの監視を続けてくれ。異常値が出たらすぐに報告を」
「はい!」
部下のエンジニアが敬礼のようなポーズをして自席に戻っていく。彼は俺より五歳も年上だが、ここでは実力が全てだ。
高校を中退した俺は、正式にこの会社の社員となり、その圧倒的なスキルで瞬く間にチーフエンジニアの地位を確立していた。
給与は、高校生時代のバイト感覚だった頃とは桁が違う。役員待遇に近い報酬と、ストックオプション。それに、何よりも「自分の能力が正当に評価される」という環境が、俺の精神を安定させていた。
学校という閉鎖的な箱庭で、くだらない人間関係に神経をすり減らしていた日々が、まるで前世の出来事のように遠く感じる。
「よう、調子はどうだ? 最年少チーフ」
声をかけてきたのは、社長の権田だ。片手にコーヒーカップを持っている。
「順調です。クライアントの評価も上々ですよ」
「そりゃ重畳。……ところで、例の件はどうなった?」
権田が声を潜めて尋ねてくる。「例の件」とは、西園寺建設と、俺の元同級生たちのことだ。
俺はモニターの一つを切り替え、ニュースサイトを表示した。
「西園寺建設は倒産手続きに入りました。負債総額は五十億。剛造社長は保釈も認められず、実刑は確実でしょう。息子の蓮司も、少年鑑別所に送致される見込みです」
「ふん、自業自得だな。で、学校の方は?」
「校長と教頭は引責辞任。いじめ問題の隠蔽が明るみに出て、来年度の志願者数は激減するでしょうね。……まあ、僕には関係のない話ですが」
俺は淡々と事実を述べた。復讐は完了した。彼らは相応の報いを受けた。それ以上の感情はない。
「そうか。……お前、本当に高校生だったのか? たまにはこう、青春を懐かしむとかないのか?」
「青春? あんなものが青春だと言うなら、ドブ川の方がまだ綺麗ですよ」
俺が鼻で笑うと、権田も「違いない」と笑った。
その時、受付の内線電話が鳴った。
「はい、相沢です」
『お疲れ様です、相沢さん。受付に……お客様がいらしてるんですが』
受付の女性の声が、どこか困惑しているように聞こえた。
「アポイントのない来客なら断ってください。今は忙しい」
『それが……相沢さんの高校時代のご友人だと名乗る女性で……どうしても会いたいと、ここを動かなくて……』
「……友人?」
俺の眉がピクリと動いた。
友人などいない。あの学校に、俺を友人と呼べる人間など一人もいなかったはずだ。
『お名前は、橘陽菜様とおっしゃっています』
その名前を聞いた瞬間、俺の中で冷たい風が吹いた。
橘陽菜。
まだ、俺に用があるというのか。
「……分かりました。すぐに下に行きます」
俺は受話器を置き、立ち上がった。
「どうした? 厄介事か?」
「いえ、過去の亡霊が現れただけです。すぐに除霊してきます」
俺は権田に軽く手を上げ、エレベーターホールへと向かった。
ビルのエントランスホールは、大理石の床が磨き上げられ、洗練された空気が漂っている。
その片隅にある来客用ソファに、場違いなほどに萎縮した少女が座っていた。
よれた私服に、手入れされていない髪。
一ヶ月前まで、学校で「一軍女子」として着飾っていた面影は、見る影もない。
俺が近づくと、彼女は弾かれたように顔を上げた。
「……カケル君」
その瞳には、深い隈が刻まれていた。
俺は彼女の対面のソファには座らず、立ったまま彼女を見下ろした。
今の俺は、オーダーメイドのスーツに身を包んでいる。彼女との対比は残酷なほど明確だった。
「どうやってここを?」
俺の第一声は、再会を喜ぶものではなく、単なる事実確認だった。
「……ネットのニュースで見たの。カケル君が、この会社のすごい人になったって……それで、住所を調べて……」
陽菜は、まるで叱られた子供のようにモゴモゴと答えた。
「それで? 何の用だ」
「用って……ひどいよ。私たち、幼馴染じゃない。心配して会いに来たのに……」
「心配?」
俺は失笑した。
「君が? 僕を? ……笑えない冗談だ。一ヶ月前、君が僕に何をしたか忘れたのか?」
俺の冷たい視線に射抜かれ、陽菜の肩が震えた。
「だ、だって……あの時は、ああするしかなかったの! 蓮司くんたちが怖くて、逆らったら私がいじめられると思って……」
「だから僕を売った。そうだろ?」
「違う! 売ったんじゃない! 私はただ、カケル君なら分かってくれると思って……! カケル君は強いから、私なんかよりずっと賢いから、あんな意地悪くらい平気だと思って……!」
陽菜は必死に言葉を紡ぐ。だが、その言葉が出れば出るほど、彼女の浅ましさが露呈していく。
「それに、私だって辛かったの! あの後、学校でみんなに無視されて……教科書隠されたり、悪口言われたり……私、もう学校に行けないの。怖くて、家からも出られなくて……」
彼女の目から涙が溢れ出した。
「カケル君、お願い。助けて。私にはもう、カケル君しかいないの」
彼女はソファから立ち上がり、俺の手を掴もうとした。
「私、カケル君の彼女になってもいいよ? 嘘告白じゃなくて、本当に。カケル君のこと、ずっと頼りにしてたし、好きだったの。だから、私をここにおいて? 掃除でも何でもするから……!」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で最後の情けが消え失せた。
彼女は何も変わっていない。
自分を守るために他人に依存し、利用価値のある人間にすがりつく。
蓮司がダメになったから、今度は成功した俺に乗り換えようとしているだけだ。
「好き」という言葉すら、自分の居場所を確保するための道具として使っている。
俺は彼女の手が触れる前に、一歩後ろに下がって避けた。
彼女の手が空を切り、無様に宙を彷徨う。
「……君は、何も分かっていないな」
俺は静かに、だが重く告げた。
「カケル君……?」
「『カケル君なら分かってくれる』? 『平気だと思った』? ……傲慢だね。君のその甘えが、僕をどれだけ傷つけたか、想像もしなかったのか」
「そ、それは……」
「僕は君を信じていたよ、陽菜。中学の頃、図書室で過ごした時間だけは本物だと思っていた。だから、高校で君が変わってしまっても、黙って見守っていた。いつか目が覚めると思って」
俺は彼女の目を真っ直ぐに見つめた。
「でも、君は最後まで目を覚さなかった。君は、自分のプライドと保身のために、僕を切り捨てたんだ。君が選んだのは、僕との絆ではなく、あのくだらない教室での地位だった」
「ごめん……ごめんなさい……謝るから……!」
「謝って済む問題じゃない。これは選択の問題だ。君はあの時、自分の意志で僕を裏切ることを選んだ。……それが君の出した『答え』だ」
俺はポケットからスマートフォンを取り出し、セキュリティ担当への通話ボタンを押した。
「エントランスに不審者がいます。排除してください」
「えっ……?」
陽菜が目を見開く。
「ふ、不審者って……私だよ? 陽菜だよ? 幼馴染の……」
「僕に幼馴染はいない。ここにいるのは、僕の過去を汚した、ただの他人だ」
俺の言葉が終わると同時に、屈強な警備員が二人、駆けつけてきた。
「お客様、お引き取りください」
「いや! 離して! カケル君! 待って! お願い!」
警備員に両脇を抱えられ、陽菜が引きずられていく。
彼女は必死に足をバタつかせ、泣き叫んだ。
「ごめんなさい! 本当は好きじゃなかったの蓮司くんのことなんて! カケル君が一番なの! お願い、許してぇぇぇ!」
その醜態は、ロビーを行き交うビジネスマンたちの注目を集めた。
だが、俺はもう彼女を見なかった。
自動ドアの向こうへ、彼女の声が遠ざかっていく。
やがて、その声は完全に聞こえなくなった。
俺は一つ深呼吸をし、乱れたジャケットの襟を直した。
胸の奥にあった澱のようなものが、綺麗に消え去っているのを感じた。
これで本当に、終わりだ。
彼女との過去も、あの学校での記憶も。全てが「処理済み」のデータとしてアーカイブされた。
「相沢さん、大丈夫でしたか?」
受付の女性が心配そうに声をかけてくる。
「ええ、問題ありません。ただの……迷惑メールみたいなものでしたから」
俺は微笑んで答えた。
「迷惑メール、ですか?」
「ええ。開封せずに削除しました。もう二度と届くことはないでしょう」
俺はエレベーターへと戻った。
上昇する箱の中で、俺は窓の外に広がる東京の街並みを見下ろした。
車や人が豆粒のように小さく見える。かつて俺を苦しめた教室の中のヒエラルキーなど、この広い世界から見れば、顕微鏡でしか見えないほどの些細な埃に過ぎない。
俺には、やるべきことがある。
書き換えなければならないコードが、構築しなければならないシステムが、山のようにある。
俺の才能を必要としてくれる場所がある。
「……行くか」
エレベーターが二十五階に到着し、扉が開く。
そこには、俺の戦場であり、俺の居場所であるオフィスが広がっていた。
俺は迷うことなく、その光の中へと足を踏み入れた。
(一方、その頃)
ビルの外に放り出された陽菜は、冷たいアスファルトの上に座り込んでいた。
「うぅ……ひっ……ぐすっ……」
通り過ぎる人々が、奇異の目で彼女を見ていく。
だが、誰も手を差し伸べようとはしない。
彼女はスマホを取り出した。
画面には、母親からのメッセージが表示されている。
『あんた、学校どうするの? このままじゃ退学よ。お父さんも怒ってるわよ』
『近所の目もあるんだから、ちゃんとしなさい』
家にも、学校にも、彼女の居場所はない。
唯一の希望だった駆にも、完全に拒絶された。
「どうして……どうして私だけ……」
彼女はまだ、自分が被害者だと思っていた。
自分が蒔いた種が、どんな実を結んだのかを直視できずにいた。
空からは、冷たい雨が降り始めていた。
陽菜は濡れるに任せて、呆然と空を見上げた。
高層ビルの遥か上、駆がいるであろう場所は、雲に隠れて見えなかった。
二人の道は、ここで完全に分かたれた。
一人は雲の上の光差す場所へ。
一人は冷たい雨の降る泥沼へ。
その差は、あまりにも残酷で、そして絶対的なものだった。
陽菜の震える肩を、雨が容赦なく叩き続けていた。




