第一話 道化の仮面と裏切りの告白
教室の空気は、湿った重さを帯びていた。
七月の蒸し暑さと、四十人の高校生が放つ熱気。それに加えて、スクールカースト上位層が発散する特有の威圧感が、クラス全体を支配している。
俺、相沢駆は、教室の最も廊下側の最前列、教卓のすぐ脇という特等席で、分厚い黒縁眼鏡の位置を人差し指で押し上げた。
レンズの奥、わざと猫背にして視線を落とした先にあるのは、世界史の教科書ではない。膝の上に広げたノートに走り書きされた、複雑なアルゴリズムの構成図だ。
「……というわけで、この条約が締結された年号は重要だぞー」
教壇に立つ老教師の単調な声は、俺にとってはただのBGMに過ぎない。俺の脳内は今、数千キロ離れたサーバー群の負荷分散処理と、今夜リリース予定のパッチの最終確認で埋め尽くされている。
俺、相沢駆には秘密がある。
学校では、誰とも目を合わせず、休み時間は一人で本を読み、成績も中の下をキープする「地味で冴えない陰キャ」を演じている。クラスメイトにとって俺は、背景の一部か、精々がたまに雑用を押し付けられる程度の存在だ。
だが、校門を一歩出れば話は変わる。
俺は中学時代から独学で習得したプログラミングスキルを武器に、急成長中のITベンチャー「ネビュラ・ソリューションズ」と業務委託契約を結んでいる。肩書きはチーフエンジニア候補。月収は、ここにいる教師たちのそれを軽く超える三十万円以上だ。さらに、護身のために通い詰めたクラヴマガの道場では、県大会で優勝するほどの実力を持っている。
しかし、そんなことをこの学校の連中にひけらかすつもりは毛頭ない。
高校生活は、俺にとって「高卒」という資格を得るための通過点に過ぎない。目立たず、騒がず、平穏無事に卒業証書を受け取れればそれでいい。そう割り切っていた。
合理的で、効率的。それが俺の生き方だ。
だが、どうやらその平穏は、今日この瞬間をもって終わりを告げるらしい。
「おい、橘ァ。まだ行けねえのかよ?」
教室の後方から、野太く、それでいて神経に障る声が響いた。
瞬時にクラスの空気が凍りつく。雑談していた生徒たちは声を潜め、視線だけを声の主へと向けた。
声の主は、西園寺蓮司。
地元の有力企業「西園寺建設」の社長令息であり、このクラス、いや、この学年のカースト頂点に君臨する男だ。派手に着崩した制服、高価な腕時計、そして常に周囲を見下すような傲慢な態度。教師たちでさえ、彼の父親の寄付金と権力を恐れて注意できない。
「だーかーらー、蓮司くん、ちょっと待ってあげなよぉ。陽菜、今心の準備してるんだからさぁ」
蓮司の隣で甘ったるい声を上げたのは、佐藤ミカ。派手なメイクと短いスカートが特徴の、いわゆる一軍女子だ。彼女の手には最新型のスマートフォンが握られ、そのカメラレンズはすでに起動している。
そして、彼らの視線の先にいるのは、橘陽菜。
俺の幼馴染だ。
陽菜は、教室の中央で小さく震えていた。
中学時代までは、黒髪を三つ編みにした大人しい文学少女で、図書室で俺と二人、静かに本を読んで過ごすのが日課だった。だが、高校デビューを機に彼女は変わった。髪を明るく染め、メイクを覚え、スカートを短くし、必死になって蓮司たちのグループに食らいついている。
『陽キャ側にいないと、またイジメられる』
それが彼女の口癖だった。中学時代の辛い記憶が、彼女を強迫観念のように駆り立てていることを俺は知っている。だからこそ、彼女が俺との関係を隠し、他人行儀に振る舞うことも黙認してきた。
「ほら、早くしろよ。次の移動教室始まっちまうだろ」
蓮司が貧乏ゆすりをしながら机を蹴る。ガン、という乾いた音が教室に響き、陽菜の肩がビクリと跳ねた。
「う、うん……わかってる、けど……」
陽菜がおずおずと視線を彷徨わせ、そして、意を決したように俺の方を向いた。
その瞳が揺れている。恐怖、羞恥、そして諦め。
彼女がこれから何をしようとしているのか、俺のIQ148の脳髄を使わずとも、状況証拠だけで十分に推測できた。
いわゆる「罰ゲーム」だ。
じゃんけんか何かで負けた人間が、クラスで一番冴えない異性に嘘の愛の告白をする。昭和の時代から続く、陳腐で悪趣味なイジメの定番。
ターゲットは、クラスで最も無害で地味な男、つまり俺だ。
(……くだらない)
内心で溜息をつく。こんな非生産的な茶番に巻き込まれるなど、時間の無駄でしかない。だが、ここで俺が「気づいている」素振りを見せれば、彼らのプライドを逆撫でし、事態はさらに悪化するだろう。
俺はあくまで「何も知らない陰キャ」として振る舞わなければならない。
陽菜が一歩、また一歩と俺の机に近づいてくる。
クラス中の視線が突き刺さる。期待、嘲笑、憐憫、そして無関心。それらが混ざり合った独特の空気が肌にまとわりつく。
俺の机の前で、陽菜が立ち止まった。
香水の甘い匂いが鼻をかすめる。かつての彼女からは、古い本の匂いがしていたものだが。
「あ、あの……相沢くん」
震える声で名前を呼ばれ、俺はわざとらしくビクリと肩を震わせて顔を上げた。分厚いレンズ越しに、陽菜と目が合う。
「な、なにかな……橘さん」
声が裏返る演技も完璧だ。俺の挙動不審な様子を見て、教室の後ろの方でクスクスという忍び笑いが漏れる。
陽菜は一度ギュッと目を閉じ、拳を握りしめると、一気に捲し立てた。
「す、好きです! 私と、付き合ってください!」
教室が一瞬、静寂に包まれた。
その直後、爆発的な歓声と口笛、そして下品な笑い声が炸裂した。
「ギャハハハハ! 言った! マジで言ったぞ!」
「すげぇー! 陽菜、役者じゃん!」
「キョドりすぎだろアイツ! 顔真っ赤!」
蓮司が机を叩いて大笑いし、ミカがスマホを構えたまま甲高い笑い声をあげる。そのレンズは、間違いなく今の「告白」の一部始終を録画していたはずだ。
俺は、呆然とした表情を作りながら、心の中で冷徹に状況を分析していた。
陽菜の告白は、言葉こそ愛を囁いているが、その表情は処刑台に向かう囚人のようだ。彼女は俺を好いているわけでも、逆に嫌っているわけでもない。ただ、蓮司たちという「強者」の命令に従い、自分の居場所を守るために、俺という「弱者」を切り捨てたのだ。
それが、彼女の選んだ生存戦略。
俺はゆっくりと立ち上がり、おろおろと視線を泳がせる演技を続けた。
「え、えっと……ぼ、僕なんかで、いいの……?」
その瞬間、蓮司が腹を抱えて俺たちの間に割って入ってきた。
「ブフォッ! 『僕なんかでいいの』だってよ! おめでてーなオイ!」
蓮司は俺の肩を乱暴に叩き、耳元で怒鳴るように言った。
「バーカ! 本気にするわけねーだろ! 罰ゲームだよ、罰ゲーム! 鏡見てから言えよ陰キャが!」
ドッと沸く教室。
まるでピエロだ。俺は周囲を見回し、絶望したように口をパクパクと開閉させる。
「え……う、嘘……?」
「嘘に決まってんだろ! 陽菜があんたなんか相手にするわけないじゃん、ウケるー!」
ミカが追い打ちをかけるように叫び、スマホのカメラを俺の顔の目の前に突きつける。
「ねえねえ、今の気持ちどう? 彼女できると思って舞い上がっちゃった? どんな勘違いしちゃった?」
フラッシュが焚かれるわけでもないのに、目の前がチカチカするような感覚。
俺は視線を陽菜に戻した。
彼女は俯き、肩を震わせていた。蓮司たちの笑い声に同調するように、ぎこちなく口元を歪めている。
ここで彼女が「ごめん」と一言でも謝れば、あるいは俺を庇うような素振りを見せれば、まだ救いはあったかもしれない。幼馴染としての情けで、この場を穏便に収める選択肢も残されていただろう。
だが、陽菜は顔を上げ、潤んだ瞳で俺を見据えると、はっきりと言い放った。
「……ごめんね、カケル君。私たち、住む世界が違うの。勘違いしないでね」
その言葉は、俺への謝罪ではない。蓮司たちに対する「私はこいつとは違う」というアピールであり、自分自身への言い訳だった。
俺の中で、何かが完全に冷え切った。
ああ、そうか。
君は、僕よりも彼らを選んだのか。かつて図書室で語り合った時間よりも、あのくだらないヒエラルキーの中での安寧を選んだのか。
それが君の答えか。
「……そっ、か。そうだよね……ごめん」
俺は力なく座り込み、小さく呟いた。
「だっせー! マジで凹んでやんの!」
「動画撮れた? 後でグループLINE流してよ!」
「拡散希望だなこれ!」
蓮司とミカの嘲笑がピークに達する中、チャイムが鳴り響いた。
「おーし、行くぞー。陽菜、お疲れ! 今日のクレープは俺が奢ってやるよ」
「え、本当? やったー! 蓮司くん太っ腹!」
蓮司は陽菜の肩に馴れ馴れしく腕を回し、教室を出て行く。ミカたちもそれに続く。陽菜は一度だけ振り返り、俺の方を見たような気がしたが、すぐに蓮司に笑顔を向けて去っていった。
教室に残されたのは、残酷な祭りの後の余韻と、それを遠巻きに見るクラスメイトたちの冷ややかな視線だけ。
俺は俯いたまま、眼鏡の位置を直した。
(……録音、終了)
俺はポケットの中で、スマートフォンの録音アプリを停止させた。同時に、筆箱の中に仕込んでおいた超小型カメラの映像転送もオフにする。
クラウドストレージには、今のやり取りが高音質・高画質で保存された。
俺の演技を嘲笑い、人間としての尊厳を踏みにじった彼らの言動。そして、保身のために俺を裏切った幼馴染の決定的な言葉。
全ては「データ」として蓄積された。
「相沢、大丈夫か?」
当たり障りのない声をかけてくる男子生徒がいたが、俺は「う、うん……」と弱々しく答えるだけに留めた。彼らもまた、共犯者だ。止めることもせず、ただ面白おかしく眺めていただけの傍観者。
俺は鞄にノートパソコンを放り込むと、逃げるように教室を出た。
校舎裏の人目につかない場所まで来ると、俺は深く息を吐き出し、背筋を伸ばした。猫背の矯正。スイッチの切り替え。
分厚い眼鏡を外し、コンタクトレンズの入った予備の眼鏡――知的な印象を与える、銀縁のスクエアフレーム――に取り替える。
ポケットから取り出したスマートフォンは、先ほどから激しく振動していた。
画面には『社長』の文字。
「……はい、相沢です」
電話に出た俺の声は、先ほどまでの弱々しいものではない。低く、落ち着いた、大人の男の声だ。
『おお、相沢くん! 例のプロジェクト、クライアントから緊急の仕様変更が入ってね。君の頭脳が必要なんだ。今から来れるか?』
「想定内です。すでにバックアッププランのコードは頭の中で組み上がっています。三十分でオフィスに到着します」
『さすがだ! 頼りにしてるよ』
通話を切り、俺は校舎を見上げた。
夕日に照らされた校舎は、どこか牢獄のように見える。あの中で、彼らは今頃、俺の動画を見て笑い合っていることだろう。
SNSでの拡散も時間の問題だ。明日になれば、俺は全校生徒の笑い者になっているかもしれない。上履き隠しや教科書への落書き、そういった古典的な嫌がらせも始まるだろう。
だが、彼らは知らない。
自分たちが足蹴にした「陰キャ」が、彼らの父親の会社のセキュリティホールも、彼らが隠している裏アカウントのパスワードも、全て掌握できる力を持っていることを。
能ある鷹は爪を隠す。
だが、その爪を研ぐことを忘れたわけではない。
「……さて、そろそろ清算の準備を始めようか」
俺は誰にも聞こえない声で呟くと、校門の前に停まった黒塗りのハイヤーへと乗り込んだ。
ドアが閉まる重厚な音と共に、俺は「相沢駆」という冴えない高校生から、冷徹なエンジニアへと完全に変貌を遂げた。
彼らが味わったことのない「現実」を教えるための、長い戦いが幕を開けたのだ。




