しつこいやつ①
「【ド・イサンス・アモン・エペ】」
『魔力の興りが尋常じゃない、そこにいたら消し炭になるぞ!』
「クイン、こっちに向かってるやつら全員に退避命令を出せッ!」
『分かってるから、お前も早く逃げろッ』
「【エ・プニ・セキス・ドレス・コントル・ヌ】」
女の詠唱が進むにつれ、これまで感じたことのない拒絶反応に手足が震える。俺はユリーカを抱え、すぐさまその場を後にした。そして飛んだ、ただひたすらに逃げた、死にたくなくて。
“【クタ・サンス・サクレ・エフェロス・エクート・マヴォワ・ロクターヌ】”
奴の魔力で周波数が乱れ、通信魔法を通して、さながら死へのカウントダウンの如し詠唱が、引き続き耳になだれ込んでくる。女とは20キロ以上離れたはずだが、しかしその魔力の増幅は尚も俺に寒気を覚えさせた。そして理解した。それがスクロールの、最後の一節だということに。
「退避間に合わない、回避行動を取る!」
『攻撃は空から来るぞ、急いで身を隠せ!』
“【キューレ・ソーラ】”
たった今、女の魔術が発動したことを感じ取った。まるで太陽が爆ぜたかのように、空が光で満たされる。この世の総ての闇を打ち払うかのような神聖、それはまるで神の息吹の様に、あるいは怒りの様に、母なる大地へと注ぎ込まれた。
『敵魔術、着弾、今!』
瞬間、耳をつんざくような金切音と、まるで窯へ投げ入れられたのかと思い違えるほどの熱線が肌を突き刺した。神の杖かとも見紛う光柱が、空よりももっと上空の、見慣れたはずのダークブルーから幾本も降り注ぐ。そしてそれは、ありとあらゆるものを溶断しながら直線に、俺たちの陣営の方へ向かって地面を引き裂きながら突き進んだ。とっさに身を隠した倒木の下で、天使が降臨したかのような光景に、俺はただ祈ることしか出来なかった。
どうか中りませんように。どうか中りませんように。どうか中りませんように。どうか中りませんように。どうか――――。
「こちらホ……隊騎をっ……できない」「こちら……隊、応答せよ……位置は……」「ア……タ、聞こえますか? ぎょうは……せいが」「敵大隊、多数沈も…………方に被害なし……」「……ああ、神さ……うか……我らをお救……い」「空からッ……まだ……魔……誰か……」「支援を要請する……座標は……」「敵が……接近中……応答せよ……」「繰り返す……こちらの状況は……」「緊急事態……必要だ……」「通信が……います、再送……」「部隊の位置は……にいる……」「支援……お願い……コード01……」「応答……えるか?」
『敵魔術、なおも効果継続中、速度測定不能、高度測定不能、全方位から多数…………オーク3、応答しろ、頼む、返事をしてくれ』
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「たい……隊……長……」
誰かを呼ぶ声と、鈍く痛む体を揺すられる激痛で目を覚ました。視界はぼんやりと暗く、どれだけ凝らしてもハッキリとしないが、目と鼻の先に誰か人の顔があることだけは分かった。そしてそいつが声の主であり、今も俺の身体に痛みを走らせている張本人であることにも気付いた。
「痛い、から、やめてくれ」
「あぁっ、よかった、気付いたのですね」
ユリーカが俺の胸元に頭突きを食らわせ、さらに両の腕で羽交い絞めにしてくる。よほどの無茶をしたのか、この30年の人生で一度も味わったことのない筋肉痛が、彼女のその極め技によって一層酷いものとなった。たった今目覚めた頭を、一瞬にして覚醒させるほどにまで。俺はとっさに彼女の背を叩き、ギブアップの意を伝える。
「痛い痛い痛い!」
「あ、あ、すいません!」
甲虫の様にしがみついていた彼女がようやく俺から離れ、絶え間なく全身を駆け巡っていた痺れるような痛みも、これでマシになった。だが、今では鮮明になったこの意識も、また彼女の極め技のお陰なのである。そして今が夜中であって、どこか見知らぬ森の中でたった二人きりという、とんでもない事実にも気付かされた。
「どこだここ」
「分かりません。気付いたら私も、ここに居たんです」
「そうか。怪我は無かったか?」
「はい。隊長のお陰で、何とか」
「ならよかった」
どうやら俺たちは運の良いことに、あの地獄のなか無傷で逃げおおせることができたらしい。その過程は全くの謎であるが、とりあえず結果オーライとしよう。それじゃあ次の問題だが、この鬱蒼とした森の中で、果たしてどう基地へと帰還するかだが、先ずはクインとの交信を試みることにする。「オーク3からタワー31へ、応答せよ」しかし悲しいかな、まるで届いておらず、ただ暗い森に俺の声がこだまするだけであった。
「応答なしか。お前の管制官はどうだ?」
「私も試しましたが、全くの無音です」
「そうか」
通信が届かない原因については、およそ見当が付いていた。あのウラシアナの女指揮官から逃げる際、奴の魔術の詠唱を傍受した。おそらくあの強大な魔力場が周波数に干渉して、何か悪さをしているに違いない。となれば他の仲間へ助けを求めることは諦めた方がよさそうだ。
「空から周辺の様子を見てくるから、お前はここで待機しろ」
「分かりました。でも多分、徒労に終わりますよ」
地べたにへたり込み、目を伏せながらユリーカは呟いた。その様子は俺にいい気分を残さなかったが、彼女がそうなった理由について知るためにも、筋肉痛で岩の様に重い体に鞭を打って、先ずは高度100メートルくらいを目指して上昇した。だがそんな高さまで飛ばずとも、彼女が項垂れる訳については直ぐに知り得た。
月灯りを頼りに辺りを見渡してみるが、この目に映るのは、木々が密に生い茂り、まるで終わりのない大海が広がっているかのような景色。今朝はどこを見ても山しかなかったはずが、今ではコップロフト山脈の最高峰すら拝むことができないのである。つまり俺たちは何者かの手によって、どこか見知らぬ地に飛ばされたということになる。あの惨状から逃げ出せた事実を鑑みるに、そいつは恐らく味方のようだが、しかしこの状況は、どう考えても陥れられたようにしか思えない。ユリーカの絶望の意味が分かってしまった。
「参ったな、こりゃ」
俺は彼女の元へ戻り、腰を落として声を洩らした。こういう状況を想定した訓練も受けているが、果たしていつまで続くだろうか。体力の温存、食料の確保、シェルターの建造、やるべきことは沢山あるが、救助が見込めないとなると、堂々巡りにしかならない。だからなんとしてでも帰る方法を見つけねばなるまい。生涯をこんな森の中で過ごすため、軍人に成ったわけではないのだから。
「とりあえず今日は休んで、明日の早朝ここから移動しよう」
「…………分かりました」
ここが仮に敵地に近接した場所なのであれば、敵の眼に留まる焚き火は避けるところだが、空から見た感じでは周囲に人の気配は認められなかったため、そこは特に心配することなく火を起こした。あとは寝込みに野生動物や魔物に襲われないよう、見張りを立てる必要があるが、ユリーカの疲労は既に限界を迎えてそうだったので、先ずは俺が見張ることを提案すれば「ありがとうございます」と、やはりそうなのか、彼女はすんなりと受け入れてくれた。
そうして体を休めるべく、焚き火の近くで彼女が横になった後、火を挟んで反対側にある木の幹に腰を下ろし、俺はザゼンとやらを組んだ。これも姉さんから教わった異国の姿勢であるが、気を抜いて寝落ちしないよう、精神統一を図るためにその手法をとった。耳を澄ませ音を聞き、目を凝らして周囲を警戒する。すると薪の弾ける音と共に乾いた物音。そちらへ目を向けると、寝たと思っていたはずのユリーカが上体を起こしていたのが目に入った。そして今度は四つん這いの姿勢になり、じりじりとこちらへにじり寄ってきた。
「隊長、お傍で寝ても構いませんか?」
「眠れないのか?」
「いえ、ただちょっと不安で」
申し訳なさそうに伏し目がちに、彼女はそう言ってきた。まあこんな所でリラックスしろと言うのも野暮なので、俺は彼女の要求に応えてやることにした。そうして「分かった」と返せば、俺が樹木にそうしているように、彼女もまた俺に体重を預け、その頭を肩の上に置いてきた。
「私ってば、臭くないですか?」
「一日中戦場にいたんだ、多少汗臭いのも当たり前だろう。でもそれは、お前が頑張った証でもある、恥ずべき事じゃないさ」
「へたくそ」
彼女はふっと息を吐くように笑い、そうして眠ってしまったのか、その夜はそれ以降彼女が口を開くことは無かった。