使えそうなやつ③
森の中は、まるで時間が止まったかのように不気味な静寂に包まれていた。木々の枝が絡み合い、濃密なカーテンが光を遮り、薄暗い影が地面に広がっている。葉の擦れる音や風のささやきもなく、まるで森そのものが息を止め、ワイバーンから身を隠しているようにも感じられた。
「やけに静かだな」普段お喋りのノイズもこの静寂さに圧倒されたのか、ようやく口を開いたかと思えば、たった一言そう呟いたのみであった。
「嵐の前の静けさってやつだなぁ」クラムジーは相変わらず軽口を言おうとしたのだが、その声はどこか緊張しており、いつ訪れるか分からない危機に備えている様に感じた。けれどこの一瞬一瞬すら長く感じられ、まるでこの静寂が何か大きな出来事の前触れであることを、俺も肌で感じ取っていた。
そしてついに、その時は訪れる。
「オーク2から全騎へ、ターゲットを確認した」
『聞いたなヒラガナ、目標位置は方位40度、南へ向かって4000メートル上空を飛行中だ』
「よし、オーク3、行け、アンバー4は準備」
「ウィルコ」
ステップ2における俺の役割は、敵の陽動だ。ノイズが合図を出して間も無く、すぐさま上空4000メートルまで上昇し、クインのナビゲートを頼りに全速力で航行した。
すると見えてくる影。
「オーク3、ターゲット確認、行動を開始する」
最初に遭遇した時と同様、ワイバーンは音速に近い速度――――またはそれ以上の速度――――で南方に見える山脈の方へ向かって飛翔していた。あのスピード感であれば追いつける。このまま背後から血の魔術で攻撃すれば、否が応でも食いついてくるだろう。ヒットアンドアウェイで距離を取りつつ、奴の注意を引けば。
「オーク3、アルファ」
ワイバーンとの距離が200メートルほどにまで縮まり、そうして俺が奴に奇襲を仕掛けようとした瞬間、なんとワイバーンが翼腕を帆の様に大きく広げ、その速度を急激に落とし始めた。
こいつ、俺の存在に気づいてたのかっ。
『敵、急減速! 背後を取られたぞ!』
翼を壁の様に立てたワイバーンに衝突しないよう、俺はその脇を音速で突き抜けた。しかしこれで、ワイバーンが俺のケツに付くことになってしまう。
「このまま旋回してポイントBまで翔ぶ、アンバー4は準備しろ!」
事前に決めておいた地点ABCの内、ここから一番近いB地点に向かって、俺はワイバーンを背後に置いたまま逃げるように翔んだ。過程はどうであれ、陽動は成功したかのように思われた。しかし刹那、全身に悪寒が走る。
「オーク3スパイク! 敵魔術にロックされた!」
【Zha'lith Dhorath Ghal'ith】
その声は突然、空間に響き渡った。低く、深く、まるで遠い異世界から届いたかのような響きであった。耳に触れるその音は、ただの声ではなく、意味不明な言葉の連なりであり、リズムは狂おしいほど不規則であり、心に直接語り掛けてくるようであり、まるで忘れ去られた古の恐怖そのものの様だった。
そして襲い来る寒気。魔力の照射によるものではない。現在進行形で、体内の熱を弄られていることが分かる。これはあの女の能力だ。このまま放っておけば身体機能は低下し、蝕まれるように内側から崩れてゆくことになる。それに気づいたとき、俺はとっさに同じ魔術を使用して対抗、散ってゆくエネルギーを再集中させ、体内を秩序ある状態に戻し、体温を正常な範囲にまで回復させた。
『何やってるオーク3、追い付かれるぞ!』
「クソ!」
ワイバーンの能力行使に対し、同じ能力を用いて対抗したことまでは善かったが、しかしそのせいで飛空が疎かになり、速度が著しく低下。クインが今しがた言ったように、ワイバーンはもうすぐそこに迫っていた。それも、俺を食らわんと大口を開いて。
「アンバー4、アルファ」
しかしここで、アイシクルがベストタイミングで割り込んできた。彼女は俺に集中しているワイバーンの背後上空から迫り、有効射程内に入ったところで特異能力を使用した。そうすればワイバーンはくるりと身を翻し、獲物を俺から彼女へと変更させる。
サキュバスであるアイシクルの能力は【魅了】。対象が理想とする異性の姿形を自身に投影し、さながらそこに居るかのように幻を見せることができる。つまり今、ワイバーンの眼に映るアイシクルの姿は、理想の雌――――あるいは雄――――として認識されている。攻撃される危険性は無いが、あの巨体に捕まれば無事では済まないだろう。
「いくら私でも、あの巨体の“相手”は無理だ、早く助けろ」
「分かってらあ!」
「だっはっは、そらいくぞ伝説!」
ワイバーンが滞空するアイシクルに掴みかかろうとした刹那、遥か上空から凄まじい速度で飛来する3つの影。その内の一つ、ミュートはその速度のままアイシクルを回収し、残りの2つは、さながら星礫の様にワイバーンの頭部に落下した。そうすればワイバーンは拳骨を食らったかのように頭を落とし、巨大な体が空中で揺らぎ、翼の動きは乱れ、そのまま背を下にして墜落を始める。
「ふゅー、いいとこ入ったんじゃねえか?」
「グッドヒット、喉は温めたかオフキー、墜ちるぞ!」
「その名で呼ぶな、ぶっ飛ばすぞ」
伝説が地に墜つ。その衝撃の瞬間、空気が震え、腹に響くほどの重低音と共に土煙が立ち上った。ワイバーンの巨体が地に叩きつけられたことで、周囲の木々は靡き、地面が割れる。粉塵が舞い上がり視界が遮られる中、俺はワイバーンのが地面に横たわっているのを認めた。しかし両の翼を地に突き立てて、低く唸りながら依然として威厳を保つその姿は、まさに支配者と呼ぶにふさわしかった。
「【Antiqua vis, alae caelum volantes,Flamma spiritus noctem illuminans,Terram concutiens】」
昼前の日差しが木々を縫ってワイバーンに鋭く差し込む中、アンバー1がその美しい声を森に響かせた。その律動はまるで木の葉が囁くかのように優雅で、冷たい風に乗って広がってゆく。まるで糸で紡がれた生地のように、柔らかく心地よい音色。ワイバーンはその歌に、翼を広げたまま動きを止めた。そして歌の魔力が次第に強まると、糸の様に細い瞳孔が丸みを帯びて行く。
「【montes transcendes,Nomen tuum draco, magni dei imago.Caelum dominans, stellis saltans】」
讃美歌のような壮麗な曲が続く中、ワイバーンはそれに抗おうとしていた。翼を帆のように広げ、鋭い目でアンバー1を睨みつけるが、その力強い目も次第に虚ろい、心は闘争の意志で満ち満ちているようだったが、その大いなる意志も、やがて歌の波に押し流されてゆく。だがワイバーンは、かつて支配者であった矜持を貫くように、まるで自身を鼓舞するかのように咆哮を轟かせた。
その声は、雷鳴のように空を裂き、木々を反り返らせるほどの力強さを持っていた。それは恐怖を与える響き、アンバー1の歌声を、浜辺の貝を攫う波の様に吞んでゆく。咆哮の苛烈さが歌の繊細さを一層際立たせ、対照的な二つの力が戦場に響き渡った。そしてその拮抗を断つが如く、ワイバーンが鋭い竜爪をオフキーめがけて振り下ろした。だが彼女には、守護天使がついている。
「【天儀の防壁】」
オフキーを包む透明は、しかし目を凝らして見てみれば、戦ぐベールのような揺らぎが認められる。それはシェイキーの特異能力であり、彼女の防壁は、大船のアンカーのようなワイバーンの鉤爪を、なんと真っ向から受け止めて見せた。
「いいぞシェイキー!」
彼女が扱う【天儀の防壁】は、魔力を集中させて周囲のエーテル(魔力の源)を引き寄せ、そのエネルギーを集約することでバリアを形成する魔術だ。それはあらゆる物理攻撃を無効化するが、その真価は、バリアに与えられた衝撃力を吸収し、それを自身の魔力へ変換するところにある。強力な衝撃であればあるほど、回復する魔力も大きなものとなり、つまり攻撃を与えるほど、その壁は強固なものとなるのだ。
「【Aeones transgrediens, sapientiam ferens,Nos vi tua veneramur et laudamus,Nomen draconis in aeternum cantamus】」
最後の力を振り絞った一撃だったのか、自らの爪がシェイキーに阻まれたことを見届けた後、ワイバーンの呼吸は次第に深くなり、その巨大な体をゆっくりと地面に横たわらせた。翼が枝垂れ、鋭い爪も力を失い、まるで彫刻のように静まり返る。オフキーの歌が、ついに竜の意識を深みへと誘ったのである。
『目標の、無力化を確認した』
ワイバーンがついに地面へと伏した瞬間、ほんの僅かな静寂が辺りを包んだが、それから時を置かずクインから通信が入った。その声は震えており、止まぬ興奮をなんとか塞ぎ止めているかのようだった。しかし現場の隊員たちは包み隠すことなく、その高ぶりを歓声へと変えて表現した。俺たちは今、伝説との闘争に勝利を飾ったのだ。
「ふゅー、改めて間近にすると、とてつもねえ迫力だな」
「もっと近に寄っても平気だぞ」
「い、いや、オイラはここでいい」
「まさかビビってんの?」
「ビビッてねえ!」
最後の締めとして、クラムジーが特異能力を使用してトドメを刺す必要があるのだが、しかしワイバーンとの距離を一向に縮めようとしない彼をアイシクルが鼻で笑うと、ようやく意を決したのか、クラムジーはへっぴり腰でじりじりと巨竜へにじり寄った。ちなみに他の隊員たちはというと、みな適当な木に腰かけて、体を休めながら彼らのやり取りを眺めていた。
「さっさとやらねえと日が暮れちまうぞー」小馬鹿にするようにノイズが言うと、他の隊員も調子を合わせて「二番騎、男を見せな」だとか、「先の戦いがあなたの心を強くしたはずですよ!」だとか、クラムジーに同情してしまうほど、散々な言われようだった。
「うるせえやい、そこで指くわえて黙ってみてろ!」
「がんばえー」
「っちぇ…………馬鹿にしやがって」
指を咥えて、心の入っていない檄を飛ばすアイシクルを睨みながら、クラムジーは一つ舌打ちをして一歩前へと進んだ。そして彼は、2メートル弱はある自身の背丈と同じくらいの長さのクレイモアを、背中の鞘からスラリと抜く。
「無抵抗の相手を手にかけるのは気が引けるんだがなぁ」
「はっはっ、捕虜にでもする気か?」
「気持ちは分からんでもないが、目を覚ます前にやらないと、今度は俺たちの番だぞ」
「あいあい」
俺とノイズの言葉によって背中を押されたのか、ノイズはその眼差しをワイバーンの頭部に注ぎ、そして特異を発動させる。
「【母の御剣】」
クラムジーの特異は、魔力を使用して物体を移動、また加速させることができる。移動可能な距離や加速度は物体の重さによって変動するため、クレイモアくらいの重さであれば、射程距離は大体30メートルほどで、トップスピードは飛翔する矢くらいであろう。ステップ5の作業として、ワイバーンを眠らせた後、断頭台の要領でワイバーンの首を落とす計画なのだが、それにはクラムジーの特異がうってつけなので、執行人に彼が選ばれたという訳である。
そうしてクラムジーの詠唱に合わせてクレイモアが上空へ浮かび上がり、剣身を横たわらせ刃を垂直に立てると、その形を維持したまま、凄まじい速度でワイバーンの首根っこへ迫った。――――ガキンと、しかし刃の折れる金属音が鋭く耳をつんざく。
「はああ!?」
「マジかよ」
「こりゃあ、一筋縄ではいかなそうだな」
クレイモアがワイバーンの鱗に直撃した刹那、なんとブレード部分が粉々に粉砕された。原点回帰した際の竜人の鱗も如何なる刃を防ぐと言うが、しかしあの斬撃を受けて傷ひとつ付かないという自信は無いため、恐るべき強度であると改めて驚かされた。そして何といっても、一番に傷ついたのは彼に他ならないだろうということ。
「あ゛ぁぁぁぁぁあ、俺のゴッドスレイヤーがっ」
「だっさ」
かろうじて残った柄の部分を拾い上げ、膝を着いて咆哮するクラムジー。空気の読めないアイシクルは置いておいて、その場にいる誰もが彼に同情の念を抱いたことだろう。しかしどうしたものか、彼の威力をもってしても断てないとなると、もはや打つ手は無いように思える。このままではワイバーンが目を覚ますぞ…………。
「私がヤる」
諦めムードが漂う中、そう言って名乗りを上げたのはアイシクルだった。なるほど彼女はサキュバスである。夢魔と呼ばれるサキュバスは元来、夢の中で性交を行い、生のエネルギーを吸収して生命維持していると聞いた。さらに夢の中でとはいえ、サキュバスとの性交渉を繰り返すことは危険であり、何の対策も講じないでいると、次第に体は弱り、やがて死に絶えてしまうらしい。つまりアイシクルが眠っているワイバーンの夢に入り込み、過程はどうであれ、精気を吸い尽くす魂胆なのだろうと俺は納得する。
「っけ、お前に出来んのかぁ?」
「サキュバスのくせに不愛想だからねえ」
サキュバス種の特性は知っているが、アイシクルのその能力自体が如何ほどのものかは知り得ないため、オーク隊のメンバーは口出しせず静観するほかないのだが、しかし彼女と同じ隊のアンバー達は、なにやら疑っている様子だった。そんな彼らに、アイシクルは眉ひとつ動かさず「男なんてヤれれば満足する、愛想は関係ないだろう」と、綽々たる余裕を見せながらワイバーンの枕元へと歩み寄っていく。
「だっはっは、伝説との性行為か、見ものだな」
「気楽なもんだな、ノイズのおっさんはよお」
「まあ、サキュバスなら鱗の固さは関係ないか」
「頑張ってくださいアイシクル!」
気の抜けた会話が森に響く中、アイシクルがワイバーンの頭に触れた。するとワイバーンの顔にピクリと一瞬だけ力が入り、凪の様に穏やかだった息遣いは今度、まるで嵐の如く荒々しくなる。加えて体を包み込むように横たわっていた尻尾も、なにやら楽し気に左右へ振れる。そうしてアイシクルが夢に入って程なく、突然彼女の身体が痙攣を起こしたかと思うと、崩れ落ちるようにして膝から地面に倒れた。
「大丈夫かっ」
真っ先に駆け付けたクラムジーが抱え込むようにして彼女の上体を起こすと、アイシクルは、時折ひくひくと身体を引き攣らせ「し……しゅごかった」と、虚ろな目をしながら怪しい呂律で呟いた。再び満ちる雰囲気、虚空を眺め、口角から垂涎する彼女の有様に、どうやら失敗したようだと、みな思ったに違いない。
「どうするノイズ」
「どうしたんもんかいねえ」
どうやら俺と同じくノイズも打つ手なしと言った様子であり、彼は両手の平を空へ向けると、タメ息交じりに首を振った。だがノイズはこうも言った。
「こうなったら、洞窟の女に意見を聞くっきゃねえな。ワイバーンについては少なくとも、俺たちより精通しているご様子だしな」
それもそうだと俺は納得し「じゃあ、俺が聞いてくる。」と一言いえば、まるで見計らっていたかのように、俺たちの間に別の声が割って入る。
「ダメじゃないか君、分かっているのに隠すなんて」
雲の様にどこからともなく現れた黒髪の女は、最初からこの場に居合わせていたかのような顔で、眠るワイバーンを眺めながらそう言ってきた。そしてその言葉の意味は、俺に能力を与えた彼女だからこそ。




