僕の四十三番目の彼女
どうしようもなく泣きたくなる瞬間というものが、人生には存在するらしい。
三十二番目の彼女がそう言っていた。
いつも太陽のように笑っていた彼女が、少しばかりのしんみりとした空気を引き連れていたことを憶えている。
けれど結局彼女は――少なくとも僕の前では――一粒の涙もこぼさずに、僕の前からその姿を消した。
三十二回目の破局である。
あれから、というより、あれまでも、あれからも。
僕にはどうしようもなく泣きたくなるなんて感情を催したことはないし、そもそも泣いたことすらない。僕に限っては、生まれたての赤ん坊の頃ですら泣いたことはなかったはずだ。
万に一つ泣いていたとして、けれどもそれはどちらかといえば生理的に生じる涙。
彼女の言っていた意味の涙とは、決して生理的なものではなく、何かしらの心の変化によって表面に出てきたもの。……という意味合いを込めての言葉だったのではないか、と、あくまで、僕自身が考えているに過ぎないことではあるが。
彼女にどういう意味での涙なのかと問いただしたことはついぞなかったから、真相は未だわからないままだし、これからも明らかになることはないだろう。
なぜ急に彼女のことを思い返していたのか。
四十三番目の彼女――現在の彼女が相当な泣き虫だからである。
現に今も目の前で泣きじゃくっている。
こういうときは「大丈夫だよ」と頭を撫でるものよ、なんて三十七番目の彼女から言われたことがあったから、僕はその通りに行動している。
「大丈夫だよ」
僕は三度目の繰り返しを声にする。
言葉に、今の彼女の肩が大きく揺れることを観測した。
「大丈夫じゃない、大丈夫じゃないでしょ!!」
僕の頬に暖かい涙が落ちてくる。
「だってあなた――!」
ワッと彼女は僕の胴体に抱きついた。
「こんなんに、なってるのにっ」
「……大丈夫、だよ」
大丈夫。
そう、大丈夫なのだ。
だって。
ようやく、僕は。
役目を終えられる。
「大丈夫だよ、僕は」
確かに僕は、現在進行形で永久的な眠りにつこうとしている。
体はすでに下半身を失っていて、途切れた断面から剥き出しになったコードの類いがのたくっていた。
「大丈夫じゃない、大丈夫じゃないっ」
彼女――四十三番目の聖女は、泣き止まない。
「なんで、なんでそんなんになってるのに、平気で笑えるの?
わたしなんて庇わなくたってよかったのに。聖女は代えがきくから。
あなたは、あなたしか、いないのにッ」
「代えは、きかないよ。君は君しかいない」
「そんなの綺麗事でしょ!!? 上の人たちがいつも言ってる、まやかしじゃないっ」
「まやかしなんかじゃないさ。……たしかに、聖女という役目は、君以外でも担える」
「なら」
「けれど」
そろそろ終わりが近いと、かつてはなかったはずの勘が告げている。
延命の処置にはこれ以上の電力を使うべきではないこともわかっている。
きっとかつての僕ならば、僕という情報を後世に残すための最後の処理をしていただろう。
今回の彼女により、世界は救われた。
僕という存在はもはや必要ないけれど、何事も保険というものを考慮すべきだから。
引きちぎられた下半身に搭載された分の記憶領域を回収し、上半身と頭に残されたそれとの整合性を取り、外部出力可能な領域に移す。
可能であれば外部への取り出しも行うべきであること。……理解は、している。
それでも、なおと。
僕はやるべき手順に見て見ぬ振りをし口を開く。
伝えなくてはならないと、話さなくてはならないと、僕の勘が――歴代の彼女たちの結晶が、声高に主張しているから。
「君は君しかいないんだ。
聖女としての力の話をするならば、たしかに君以外の存在でも担えるのかもしれないけれど、これからの君は『君』なんだ」
「でも」
「それに、さ」
被せるようにして、僕は言葉を連ねる。
「僕にとって、君は『君』しかいないんだよ。
マリィ」
ちゃんと、ちゃんと、憶えている。
これまでの彼女たちの顔と名前と簡単な特徴くらいなら。
三十二番目の彼女以降、ことあるごとに一番目の彼女から顔も名前も思い返していたから。
上半身より上の記憶領域しか持たない状態の今ですら、ちゃんと、僕の想い出に残っている。
四十三番目の彼女はひくり肩を小さく震わせると、顔を上げて僕と視線を合わせる。
既に泣いているくせにことさらの涙を堪えるような表情をしていた。
「……わたしの、なまえ」
久しぶりに、呼ばれた。堪えきれなかった彼女の雫が、僕の体を暖める。
「ずっと、ずっとずっとずっと、ずっと、聖女としか、呼ばれなかったから」
「うん」
「もう誰も、わたしの名前なんて、憶えていないって、思ってた」
「憶えているよ。言っただろう?
僕にとって、君は、聖女である以前に、『君』であると」
「……うん」
重たくて仕方がない腕を気力で上げて、彼女の頭を撫でる。
線香花火のような煌めきで脳裏を駆け抜けていく、数十枚、数百枚の画像たち。
走馬灯と呼ばれるそれは、どうやら僕にも訪れるものだったらしい。
そうか、……僕は、これから。
死ぬのか。
「あのね」
「どうしたんだい?」
どことなく、わずかばかりに惜しいなと思ってしまった気持ちを押し隠すために、僕は笑う。
ようやっと平和を手に入れたのだ。
やっと、彼女を『彼女』として扱える時代がやってきたのだ。
……歴代の彼女たちの名前だって、ようやく、呼べるのに。
そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、彼女は小さく深呼吸をしてから続けた。
「わたし、調べたの」
「調べた?」
「うん。上の人たちの目を盗んで、こっそり、たくさん、調べたの。
ほら、これでもわたし、聖女だから。知りたいって思った資料くらい、見つけられるのよ」
彼女は、マリィは、得意げに微笑むと、そっとこぼした。
「ティリア」
――瞬間、一鼓動分だけ、僕の思考は止まった。
浮かび上がってきた画像。
初期の初期、僕が生まれた時の記憶。
ティリア。
歴史には残されていない、零番目の聖女――僕の母親が僕に渡した、この世に一つだけの、固有名詞。
でもこの名は、もうどこにも残されていないはずで。
「……なん、で」
だって書面で残されなかった、抹消されたはずの僕の名前だ。
調べるもなにも、紙面上に書かれることすらなかったはずなのに。
おそらくは驚愕で揺れているであろう僕の瞳に、四十三番目の彼女は少しだけ悔しそうに目を細めた。
「本当はね、わたしだけの力じゃないの」
懐から取り出されたのは、薄く古く掠れたノート。
「これはね、一番目の聖女の時代から、こっそり受け継がれてきたんだって。
……見つけるのに時間がかかった、という意味では、確かに探したんだけどね。
上の人もあなたもいない時間を見計らって、聖女に与えられた部屋を隅から隅まで探して、ようやく見つけたの」
わたしだけの力じゃないっていうのは、なんか、うん、チクショーって感じなんだけど。
彼女はそう言ってノートに表紙を優しく撫でた。
「でもきっと残してくれているはずだって、そう思った。
きっとこれまでも、あなたの優しさに、暖かさに、救われてきた聖女はいたはずだって。
だからきっと、誰かが、これまでの誰かは、あなたについての何かを残してくれているんじゃないかって」
「……でも、一番目の聖女は、僕の名前を呼んだことなんて、なかった」
あったら記憶に残っているはずだ。
いくら今の僕と下半身とで記憶領域が分離されているからといって、名前を呼ばれたら、それは強烈な記憶となって、重要な頭部の方の記憶領域に残されているはずだから。
それはね、と四十三番目の彼女は告げる。
「いつか誰かがあなたの名前を呼べるようにって。
ほら、あなたって毎日のように定期メンテナンス、されていたでしょ?
そこで万が一にも『ティリア』っていう文字列が見つかったら、きっとこのノートも上の人たちに取り上げられてしまって、今度こそあなたをあなたとして呼ぶ人がいなくなっちゃうから」
進んだ科学技術は、人間の脳みそからも記憶を摘出できるようになった。
流石に人間の記憶を読むことは、まだ、できないけれど。
知っているかもしれない人間から特定の固有名詞を抜き出すことくらいのことは可能だから。
「それを危惧したんだって。
だから一番目の聖女は、あなたのお母さんから名前を受け継いで、それをこのノートに残した。
デジタルだとなにかしらのスキャンで発掘されちゃうかもだから。聖女の部屋にいくつかのアナログの書物なら残されていて、それに紛れこませちゃえ、って」
話しながら手渡されたノートを、僕はハラリはらりとめくる。
そこには僕の生まれた簡単な経緯と、お母さんの名前、僕の名前。
それから、歴代の彼女たちの名前が残されていた。
一人残さず、書かれていた。
「……みんな、『僕』を、知っていたんだね」
「うん。ずっと、継いできたんだよ」
「そっか」
誰からも呼ばれなかった。
でも、少なくとも一回は、これまでの彼女たちの中で僕を『僕』として呼んでくれていたわけで。
僕も彼女たちのことを禁じられていたから、ついぞ名前で呼んだことはなかったけれど、それでも心の中では呼んでいた。
一方通行の想いではなかった、というわけで。
――ああ、なるほど。
たしかに人生には、どうしようもなく泣きたくなる瞬間というものがあるのかもしれない。
僕の生を人生と呼称して良いものかはさておき、現に僕は唐突に泣き喚いてしまいたくなったから。
けれどここで涙をこぼしてしまったら、今目の前にいる彼女をさらに悲しませてしまうだろう。
あるいは三十二番目の彼女も同じ心境を持っていたのだろうかと類推しつつ、僕は僕の視界を閉ざした。
さようなら、世界。
ありがとう、僕の大切な彼女たち。
僕の頬に伝う一筋を指で掬う彼女の温度を最期に、僕の意識は闇に沈んだ。
「絶対に、生き返らせてみせるから。
――待っててね、ティリア」