#8
森の中では、地面に落ちた佐藤のスマホが鳴っている。
「ゲホッ、ゲホッ・・・・・・ゴホッ! オエッ、ゴボッ」
スマホの近くには切れた縄の端・・・・・・その側で大の字に倒れて、咳込んでいる佐藤がいた。彼の鬱血した紫の顔が、徐々に赤みに変わっていき、吐瀉物も咳と一緒に吐き出す。
その間も彼のスマホはずっと鳴り続けていた。美加は少々鬱陶しそうに顔をしかめて耳を塞いでいる。佐藤は回らない頭のまま、顔を横に向けてスマホを見やる。そこには母と表示されていた。力無く寝返りを打つように、スマホの画面をタップする。
「やっと繋がった! アンタ、一体何してるの!」
触るところを間違えて、通話がスピーカーモードになっているようだった。佐藤の母親の声が静かな山中に響く。
「アンタの勤めてるわかちあい生命の課長さんから、アンタが無断欠勤していて連絡が取れないって電話があったわよ! せっかく苦労して、叔父さんのツテで入れたんじゃない・・・・・・会社に迷惑かけちゃダメじゃない!」
「・・・・・・・・・・・・」
母親の言葉で佐藤の脳裏に、人を見下すような厭らしい笑みを浮かべた黒崎の顔がよぎる。佐藤の母親は彼を咎めるような話を続けていた。しかし、佐藤は途中から母親が何を言っているのか理解出来ない、いや、言葉そのものが理解出来ない状況に陥ってしまっていた。
ただ分かるのは自分の頬を涙が伝っている事だけだった。ずっと言葉すら発する事が出来ないでいた。最後に帰る事の出来る居場所すら、音を立てて瓦解した気がした。
「もしもし、聞いてるの? 返事しなさい!」
「・・・・・・・・・・・・」
佐藤は母親の言葉に、何か答えようと口を開けるが、言葉が出ない。
「か・・・・・・・・・母さん・・・・・・・・・ごめんなさい」
掠れるような、絞り出すような声で佐藤は母に返事をする。
この会話も当然、多くの他人達の耳にも届いていた。煽るような他人事を呟いていた者も、気持ち悪がっていた者も、気が付けば皆、この二人の会話を黙って聴きいっていた。
「・・・・・・なんかアンタ、声が変だけど風邪でもひいて」
母親が話している途中だったが、佐藤の震えた指は、通話終了を押した。
それから虚ろな瞳で佐藤は美加を見上げた。
「・・・・・・そのナイフ、貸してくれないか?」