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3:王都ダ・ヴー


 王都ダ・ヴーは谷間にある街で、だから朝方は深い霧に包まれる。

 尖った稜線を持つ、すぐ隣の峻険な山肌から、固く冷えた風が転がり落ちてくるからだ。


 歪な形の城壁に囲まれた街が霧の中に沈む光景は、なるほどファンタジー世界かといった感じに幻想的である。


 ただ、俺たちのスラムはその城壁の外にある。

 ゆえに、その幻想的な世界の住人として数えられる対象ではない。


「貴族のボンボンってセンは消えたわね」


 イリスはあくびをかみ殺しながら言った。

 娼館の戸口が窺える物陰に身を隠して、さぁこれから仕事の始まりだと身構えた矢先の一言だった。


「判るのか?」

「あんな猫背の貴族なんかいないわよ」


 ジョゼと、彼女の恋人であろう男が娼館から出てきたところだった。

 緑色の、まあまあ平均的な富裕層程度の服を身に着けた男だった。

 男はイリスの言葉通り、気落ちしたように肩を落としていて、その姿に覇気とか幸福とか言った明るさはまるで感じられない。


 ジョゼは男の首に腕を回して、彼の纏うやるせない不幸すら癒すように抱きしめていた。


 あの男が依頼の人物、ディエゴで間違いなさそうだ。

 帰り際の抱擁は、なかなか無いサービスだからだ。


「……モール、すっごい顔になってるわよ」


 イリスが俺の顔を見上げて険のある声をあげた。


 正直いささか納得できない。

 ――なんであんな男がモテるんだ?


「俺の方が百倍かっこよくないか?」

「青白くって情けなさそうな男が好みなんでしょ、ジョゼは」

「情けなさなら俺も負けてないが」

「そんなとこで張り合わないで?」


 ジョゼの抱擁を受けた後、男は内気そうにとぼとぼと背中を丸めて歩き出した。

 仲間内にはいてほしくない不愉快なオーラだ。世の中をひねて、無気力で無感動。恨み節はいっちょ前のくせに、結局は慰められるのを期待しているだけ。


 何となく見覚えのある肖像だった。

 それは紛れもない、俺自身の姿かたちだ。


 だからこそ、ディエゴがジョゼに愛される不平等に得心が行かない。


「何ボーっとしてるの。追いかけるわよ」


 ――日々に追われて慌ただしいだけ、今の自分は昔よりいくらかマシか。

 気を取り直して、俺はイリスの隣で追跡を開始した。


 朝霧のおかげで、数間の距離を取ってしまえば、尾行は悟られることもなかった。

 やがて男は大通りを左に折れる。


「貴族どころか金持ってないわね、あれじゃ」


 イリスは相手の資産状況に目敏い。立ち振る舞いひとつ見れば、おおよそ財布の中身を当てられるというのが彼女の特技の一つだ。案外、彼女は探偵過剰には向いているのかもしれない。


「探偵家業、それって儲かるの? 調べるだけなら盗んだほうが儲かるじゃない」


 イリスの声の、つまらなさそうなトーンから、ディエゴの格付けは下の下、ということが読み取れた。


 ――スラムから市街地へ戻るなら、ルートは二つ。

 ひとつは、貴族や金持ちが往来する橋を渡る道。そっちには城壁の大門があって、数人の警備兵が立っている。夜や朝方は閉じられているし、素性の検分だって行われるから、大手を振っての通行は難しい。

 ……はずなのだが、そこは賄賂ひとつで容易に開閉する、ゆるい検問でしかなかったりする。


 賄賂が月給の数十倍にも上るというから、警備兵の誰もが配属を願う場所だと噂に聞いた。

 ダントンなど、俺たちを目の敵にする輩も、もともとは門の衛兵だ。


 とはいえ、賄賂は貧乏人の俺たちに払える額ではない。

 市街地で仕事をするなら、別ルートの確保が必要になる。


「やつらは味方じゃないから」


 いつもイリスは憎々しげに言う。


 確保すべき別ルート――それが、俺たちがもっぱら利用する「西門」だ。

 良く通る道だから、ディエゴが路地を左に折れた時、俺にも行先が判った。


 西門とはいうが、実のところ門そのものがあるわけではない。

 城壁が取り壊しの真っ最中なのだ。

 この百年を通じて三回目の都市拡張工事だという。


「私が来てから四年経ったけど、進んでるようには見えないわね。ま、その方がありがたいっちゃありがたいけど」


 確かにありがたいことこの上ない。

 各所が老人の口元みたいな歯抜けになっていて、しかも警備兵がいない。随所からフリーパスの状態なのだから。


 朝霧が晴れるころに、その歪な形の城壁が見えてきた。

 ディエゴは無警戒に、歯抜けの一つをひょいと乗り越えていく。

 茶色がかった石の足場は、イリスの小さな体にはあまりに大きく、そして不安定だ。いつものように、イリスの手を引いて引っ張り上げながら、俺たちはディエゴの後に続いて市街地へと入り込んでいった。


 街は、朝を迎えていた。霧が晴れてから、ようやく市民は軒先に顔を出す。

 活気と呼ぶにはまだ人はまばらだが、これから仕事だと言わんばかりに、職人らしき男は空に向かって伸びをし、その妻らしき肥えた女は忙しそうにぱたぱたと窓を開けて回っている。


 足元は、もちろん現代日本の美しい小さなタイル張りほどではないものの、驚くほど均質で滑らかな、暗い灰色の長方形がぎっしりと敷き詰められている。

 道幅も広い。なにより、遥か向こうまで等間隔にまっすぐ続いている。


 市街の道幅は、その用途によって丁寧に定められているのだ。

 メートルやインチといった基準で明文化されているわけではないようだが、例えば荷車に干し草を突き詰めるウェスライットという棒を基準とする、といった慣習はある。


 だから時折、役人が棒を横に持って街を練り歩く。そして、棒に触れたものは全て没収となる。

 この街なりの公共の利益というやつだ。だから市街地では、自分の財産を外に出す人間はいない。

 何でもかんでも外にほっぽり出して知らぬふりを決め込む、スラムのあの泥道とはまさに雲泥――石泥というべきか――の差だった。


「あそこがねぐらかしらね」


 やがてディエゴは、道の両脇を埋める四階建ての石造りの集合住宅に入っていった。


「ヤることヤったからひと寝入り? 家賃は安そうだけど」


 少し嘲りの調子を匂わせながらも、イリスは顔を曇らせていた。少し彼の職業が判らなくなった……という懸念が、眉間のあたりにあった。

 集合住宅に住む市民――という身分が、いささかディエゴの風貌に合わないのだ。


「いいとこ職人の丁稚くらいだと思ったんだけど……。見立て、狂ったかしら」


 ダ・ヴーの市民の大半は、何らかの技能を持つ職人である。

 大工、木工、石工、鍛冶、細工、毛皮、ガラス……数えきれないほどの製造業が、それぞれに同業組合を形成して街の中核を成しているのだ。


 同業組合は、この街の在り方そのものと言っても過言ではない。


 彼らは教会に個別の祭壇を持ち、品質と値段を一定に保ち、丁稚を家に住まわせて監督し、そして親類縁者の冠婚葬祭の一切合切を取り仕切る。


 ダ・ヴーでは同業組合こそが市民権であり、戸籍でもあった。

 一生をこの城壁の中で終える彼らにとって、その繋がりは強固なものにならざるをえない。


「この街で一番声が大きいのは職人よ。貴族も聖職者も面倒だけど、一番敵に回しちゃダメなのは同業組合の連中。ムカつく奴らだけど、なるべく事を荒立てないことが大事」


 そんな風に、イリスは俺に教えてくれたことがある。

 同業組合の連中は、他に類を見ないほど排他的だ。


 そういった職人の発言権が強いのも、ダ・ヴーが世界でも有数の工業都市だからだった。

 山間のこの街で殖産興業が先鋭化した、その経緯と歴史は長くなるので割愛するが、そもそもダ・ヴーは工業都市たる立地条件を満たしている。


 例えば製鉄においては、炭三里鉄七里……というのが理想といわれる。ダ・ヴーはかなりそれに近い。

 傍の山々からは石、鉄、銅、鉛などが豊富に採れるし、木炭を産出する森林も豊かだ。

 都市拡大の数倍のペースで周辺の森の伐採が行われ、どこもかしこもはげ山だらけ……という喫緊の課題はあるが、苛酷になった運搬を補う人員は、スラムに吐いて捨てるほどいる。


「あんな未来のない仕事、やってるやつは馬鹿よ」


 ただ、いくらスラムにとって荷運びが貴重な働き口とはいえ、イリスの吐き捨てるような評価はきっと正しい。

 賃金は流した汗に見合わない。少しでも体力が落ちればすぐに雇われなくなる。労働中における暴力的な支配も、毎日人死にが出て、そしてそれらが罪に問われない。


 労働基準法などという思想そのものが存在しない世界なのだと、彼らの話を聞くたびに俺は気持ちが暗くなる。


 だから、ほんの僅かに頭が回り、自分の能力を信じることができ、押しつけがましい倫理観を一歩踏み越えることが出来る人間なら、誰もが将来のために犯罪に流れる。


「ああもう、さっさと出てきなさいよ……!」


 裏路地に潜んでしばらく待っている間に、街の通りが活気づいてきた。人の往来が増え、彼らの腹を満たすべく、屋台が何軒も台を広げて白い炊煙を立ち上らせる。


 空腹の俺たちにとってはなかなかにキツい匂いだった。蒸しただけの芋や豆の浮いたお湯といった、さして味もしない屋台の飯だが、温かければご馳走のようなものだ。カビの生えた硬いパンばかりの食生活という俺たちではなかなかありつけない。


「ちょっとモール、何かパクってきなさいよ」


 憎しみを心底から表したかのような、獰猛なイリスの目が俺を犯罪にけしかけてきた。

 しかし、屋台のやつらはああ見えてガードが堅い。金をもらうまでは商品を渡そうとしないし、よしんば強奪できたとしても、ここで騒ぎを起こすのは得策ではないだろう。


 イリスもそんなことは判っているはずだ。だから、腹立ちまぎれの一言を述べたまでで、それ以上は何も言わなかった。


 それからかなりの時間、俺たちは腹をぐぅぐぅ鳴らしながら、裏路地で忍耐を強いられた。


 街はいよいよ活気づいて、鉄を叩く音が親方の怒鳴る声と一緒に窓から放たれ、屠殺を待つ豚は声を揃えて命を乞い、ひっきりなしに行きかう荷車の車輪は石畳をけたたましく鳴らす。


 空に、黒い煤煙が幾本も立ち昇るのが見えた。城壁沿いの河べりが幾つもの炉を構える製鉄の場所となっていているのだ。工場と呼べるほど近代的ではないが、レンガ造りの背の高い高炉や、周辺で汗を流す労働者の群れは、そこだけ一足飛びに産業革命時代かと見紛えるほどだ。

 ……産業革命時代など、俺は見たことないけれど。


「……製鉄勤めかもな」


 煤煙を見ながら、俺はふと思いついたことを口にした。


「かもね。賤民身分ってこともあるでしょうけど」


 製鉄の人員は市民が主流で、そこにスラムの住人が点々と混じる、といったところだ。

 鉄を焼くには熟練が要される。質の向上には専門の職人の豊富な経験がものをいう――ものの、多すぎる高炉の全てを賄い切れていないのが現状だ。重労働だが求人は多い。


 そして、市民という特権身分でありながら、そんな重労働に勤しむ人間がいるとすれば、それは落伍者に他ならない。犯罪というほどではないが、何らかの過ちを犯したり、周囲と打ち解けられなかったり、能力が足りなかったりして、同職組合の絆からつまはじきにされた者。


 家賃の安そうな、おんぼろの集合住宅に住むディエゴは、そこに属する類の人間かもしれなかった。


 そんな推理を勧めていたら、事態が動き出した。

 ディエゴがようやく、集合住宅から出てきたのだ。一寝入り後とは思えない暗い顔付きで、周囲をきょろきょろ見回してから、雑踏に紛れ込んでいく。


「追うぞ」


 足を踏み出しかけたところを、イリスに袖を引かれた。


「待って。せっかく自宅が割れたんだから、もっと効率的に調べましょ?」

「どうするんだよ?」

「――私たちなりのやり方があるでしょ」


 イリスは得意げに腕を組んで、集合住宅の板張りの窓を見上げると、ふふんと鼻を鳴らした。


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