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2:イーストエンドのグランマ

サンワメダヨー o(~∇~*o)(o*~∇~)o


 大柄の神父に先導されて、俺とイリスは貧民窟の目抜き通り――俺が追いかけられて走ったあの泥道――に面する、ひときわ大きな娼館まで歩かされた。


 スラム随一の高級店舗であるそこは、俺の半年前の勤め先であり、勝手知ったる店だった。

 クビになった場所に戻るバツの悪さはあったけれど、神父の有無を言わさぬ気配を前に嫌だとは言えず、促されるままその門扉を開いた。


 汚れて傾いた石造りの外観とは裏腹に、店の中は華やかな色と香りと喧噪に満ちていた。


 広間には見るからに高そうで煌びやかな調度品が溢れ、身なりのよい富裕層の連中と、貴族の婦女子かと見紛うばかりに着飾った娼婦たちが、華やかに談笑している。


 壁掛けランプと金の燭台は小さな炎を揺らめかせ、寝室へと続く絨毯敷きの狭い廊下を、そこだけは夕暮れ時のように赤く照らす。

 左右に幾つも並ぶ寝室の扉からは、白く甘い香炉の煙が染み出して、まろやかな肌触りで脛を撫でてくる。

 遠く軽快なヴィオラの音楽が響き、嬌声と笑声はあちらこちらでくるくると回っていた。


 ――店にも寄るだろうが、基本的にこの世界の娼館は、稼ぎ時となる夜の間、奇妙なほどあっぴろげで、晴れやかだ。

 ネオンだけ明るいがどこか心持ちの暗い現代日本の風俗店と比べると、ここはずいぶんと陰鬱さと淫猥さからは縁遠い場所に思えてくるから不思議だった。


「あら、モールじゃない。どうしたの、出戻り?」


 広間で談笑していた、見知った黒髪の娼婦が俺を見つけて目を丸くした。

 ジョゼという名前の、ツンとした生意気な感じのおっぱいの持ち主である。

 まとめ上げた髪の下の健康的なうなじと、けらけらと心底楽しそうに笑う豊かな表情を武器に、わずか十七歳で高級娼婦の仲間入りを果たしたこの店のエースの一人。


 ……ここで勤めていた時は「使えない」と非難轟轟の俺だったけれど、いつしか「モールだし当然か」という諦めの感情が湧いてきたようで、娼婦個人個人からそれほど嫌われているわけではない。

 もっとも、決して好かれているわけではないから、あってもなくてもいい背景の一つ程度の扱いなのだろうけれど。


 ジョゼは俺の後ろにぶすっと立っていたイリスに気づくと、形の良い顎を逸らした。


「それとも、いよいよイリスもここで働く気になった?」

「はっ。誰が」


 一方でイリスは娼婦連中からは大いに嫌われている。 

 これに関しては全面的にイリスが悪い。娼婦という職業をイリスは見下しているし、その悪感情を隠そうともしない。

 自分の値段はこんなはした金じゃない――というプライドのせいなのだが、それが娼婦たちの神経を逆なでしているのだ。


 ジョゼは得意げに言う。その物言いが、イリスにとって一番の挑発になると知っているからだ。


「若いうちから慣れといたほうがいいわよ? 年増になってからじゃ、プライドが邪魔してブ男一人喜ばせることもできないんだから」

「一生こんなとこじゃ働かないから安心して。私の夢はもっとおっきいのよ」

「それもそうね。あんたのつるぺたじゃ、せいぜいモールに抱かれるくらいが関の山でしょうし」

「誰がつるぺたよ! ――ちょっと待って、モールと私が!? 冗談でもやめてよ!」

「不名誉だ! 俺に幼女趣味はない!」


 目をむくイリスをジョゼは軽やかに笑ってかわす。挑発合戦はいつものようにイリスの負けだ。

 心の機微に敏い百戦錬磨の娼婦からすれば、イリスはまだまだ子供というわけだった。 


「モール、イリス。こっちだ」


 店の奥に消えていた神父がにゅっと身体を出して、俺たちを呼んだ。

 娼館に神父……というミスマッチもそうだが、彼の大きな体格と不愛想な顔つきはむしろ用心棒の風格だ。

 そもそも彼が、本職の聖職者なのかどうかも判らないのだが。


 ぐるると牙をむき出しにするイリスの首根っこを引っ掴んで、俺は店の一番奥まった部屋に向った。


 そこは、まるで静物画に描かれでもしそうな、四角張った執務室である。

 煌めく様な装飾品は見当たらない。けれど、机、椅子、燭台、ペン――あらゆる調度品にはどっしりとした重量感と年季が感じられた。

 壁に掛けられた二枚の宗教画と、眼光鋭い老婆を描いた一枚の肖像画からは張り詰めた空気が滲みだして、神父が扉を閉めて喧噪を押し出してしまうと、途端に空気はぴり付いて重く感じられた。


「来たね、二人とも」


 執務机に帳簿を広げて、芋虫のような指で頁を繰っている老婆が、グランマと呼ばれるこの部屋の主だった。


 それはとりもなおさずこの娼館の主で――そしてなにより、この貧民窟の主であることを示す。


 貧民窟は、目抜き通りを境目にして東西に分かれる。

 イースト・エンド(西のはずれ)ウェスト・エンド(東のはずれ)だ。それぞれに絶対的なボスがいて、両者は緩やかな敵対と協力を持って共存している。


 グランマはイースト・エンドのボスだ。


 貧民窟で生きる人間にとって、絶対に敵に回してはいけない人間の片一方。


「元気そうじゃないかモール。聞いたよ、昼間はダントンたちと大立ち回りだって?」


 グランマは大きな鷲鼻を俺に向けて、吊り上げた口角から金歯をのぞかせた。

 魔女のようだ。それも、明らかに毒リンゴを手にする方の悪い魔女。喪服のような黒いドレスや、深く刻まれた皺が、グランマのおどろおどろしい印象に拍車をかけている。


 スラムで起きたことなら、グランマは全て知っている。いや、()()()ことなら、と言い換えた方が正しいだろう。このスラムの明日の出来事すら、グランマは全て詳細に把握しているに違いなかった。


「嬢ちゃんも大変だったね。でも川に飛び込むのはもう辞めた方がいい。なかなか臭いは取れないからね」

「言われなくたって、二度としないわよ」


 イリスは腰に手を当てて、ぶっきらぼうに答えた。


 グランマを前にすると誰もが縮こまる。俺だってそうだ。迫力に押されて肩も足も竦んでしまう。

 けれど、イリスだけは例外だった。不機嫌そうな顔を露骨に表して、喧嘩腰の言葉遣いで挑みかかる。

 イリスは大概、のべつまくなし誰にだってそんな態度だけれど、グランマに物怖じしないのはスラムでも彼女くらいだ。


「相変わらず懐かないね、この嬢ちゃんは」

「ババアに媚びうるほど落ちぶれちゃいないもの」


 イリスはとんでもない暴言で吐き捨てるが、グランマは面白がるような表情でそれを許す。


 理由は判らないが――イリスと俺は、この老婆に妙に気に入られているのだった。

 俺をスラムに連れてきたのはグランマだ。けれど、グランマは半年前に俺を店から放逐した。

 その負い目がある……なんて感情はないだろう。この婆さんは、捨てたもののことなど一顧だにしない。


 イリスはもっと前にグランマと既知の間柄のようだが、どうやって知り合って、どんな関係性を築いたのかは聞いたことがない。


 だから、なぜグランマは俺たちに良くしてくれるのか。本当に見当もつかない。


「部屋はどうだい。なかなかの物件だろう?」


 例えば、俺たちが住む集合住宅を斡旋してくれたのもグランマの口利きがあったからだ。

 そうじゃなければ俺たちの半年程度の稼ぎで入居を許されるはずがない。


 ――もっとも、住居の手配は、少し前にグランマに協力したその時の報酬でもあるのだが。


「ええ、とてもいいわ。テーブル運んだら翌日薪にされてたし、毛布はパクられるし、鍵つけたらドアごと持ってかれたし。あそこはほんっと、最高ね」


 イリスは今でも、先の仕事の対価として、与えられた居住環境は不釣り合いだ、と不満に思っている。

 けれど風雨を凌げるだけでもありがたいことくらい、本人も理解しているはずだ。


「そりゃあ、あんたたちはまだまだ木っ端泥棒なんだからね。寝込みを襲われないだけ幸運さ。どっちも顔だけは整ってるから、あんたたちは今、ひそかに人気なんだよ。知ってたかい?」


 うれしくない情報に俺は身震いする。

 スラムの男は割と老若男女のべつまくなし。イリスの処女も俺の処女も、ここじゃ毎日風前の灯火というわけだった。


「さて、仕事の話だよ」


 グランマは帳簿をぱたんと閉じると、身を乗り出して、飲み込まれそうなほどに深い濃紺の瞳で俺たちを見据えた。


 やはり何らかの仕事を言いつけられるか。

 予想はしていた。まさかグランマが、近況報告のためだけに俺たちを呼ぶはずもない。

 話を聞く前から、イリスは不愉快げに顔を顰めていた。面倒くさいことになることと、しかし断れないことがすでに判っているからだ。


「ジョゼに恋人が出来たみたいでね」


 グランマにしては迂遠な導入から、仕事の話は始まった。


 ジョゼ――さっきの黒髪の女の子だ。その名前に、イリスはますます眉間の皺を深くした。


 娼婦だって恋をする。私生活なんてものはないに等しい職業だけれど、恋人だって作る。

 もちろん、晴れた日に郊外デート――だなんて、そんな恋人らしい付き合い方は出来ない。同棲とか、ましてや結婚などは望むべくもない。

 けれど、例えば読めもしない手紙のやり取りだとか、一晩を幸福と男の腕に包まれて眠るだとか――たとえそれが仕事と区別のつかない範疇であろうと、彼女たちは心の在り方を切り替えて恋愛し続けている。


「それが何よ」


 気に入らない女の恋愛事情には興味がない、といったふうに、イリスは口を尖らせた。


 別に、現代日本のアイドルじゃあるまいし、こっちの世界の娼婦は恋愛を禁止されているわけではない。

 グランマだって娼婦個人個人の恋愛をいちいち気にしちゃいない。

 ただ、話がジョゼとなると、ちょっと風向きが変わってくる。


「ジョゼは金の卵を産む雌鶏さ。悪い虫がついちゃ、商売に差し障るだろう?」


 ジョゼは二十を前に高級娼婦の仲間入りを果たした、有望株の一人だ。

 まだまだ追い抜くべき先輩は多いとはいえ、五年もすれば必ずグランマ配下屈指の稼ぎ頭になる。


 ――まったく、ジョゼの恋人とやらが羨ましい。


 俺が娼館の出入りになってすぐに、初めての仕事として割り当てられたのがジョゼの付き人だった。

 すでにそのころから彼女の人気は高かった。

 着飾った高級娼婦にありがちな高慢ちきなところがなく、何よりとにかく楽しそうに笑ってくれる。

 丁稚の子供から道行く厳めしい顔の労働者、そしてもちろん客となる富裕層にまで、満遍なくジョゼは癒しを与える。


 俺だってそうだ。彼女には癒されることが多かった。

 特にジョゼは、俺の「転生話」を面白おかしく笑い転げて聞いてくれた。話の中身を信じてくれたわけではないけれど、娼館と聞いて陰鬱さだけを想像していたスラム初心者の俺に、ジョゼの明るさは確かな救いだった。


 場所が現代日本の高校の教室あたりであれば、ジョゼはきっと、いつもクラスの中心で笑顔を咲かせられていただろう。


 俺の初恋の人はこんな女の子だった――のかもしれない。


 そこらの記憶は古すぎてもう輪郭も怪しいけれど、思い出の空白にジョゼの姿かたちを当てはめると、狂おしいくらいの懐かしさがこみあげてくるから不思議だった。彼女の顔は日本人のそれではないけれど、昔いつも目で追っていたような、そんな気持ちになる。


 そんなジョゼに想いを寄せられるとは、幸運な奴め。


「……誰なんです?」


 初恋の人に好きな人がいる、と聞いてしまったときのような失望感を押し殺して、俺はグランマに尋ねた。


「ディエゴ・ロゥ。三日と置かずに来てはジョゼをまるまる一晩指名する、若い男さ」

「いい御身分ね。貴族のボンボンの放蕩でしょ、どうせ」


 隣でイリスがへっと鼻を鳴らした。

 娼婦の値段はピンキリだ。しかしこの店は、グランマのお膝元に相応しい別格の値段を誇る。

 日雇い労働者が三年生活を切り詰めたって、この店の女の一晩すら買えない。


「そうさね、確かに身なりはいい――が、どうしても金持ちには見えないんだよ。モールみたいなものさ。貴族の子息というには、どうにも品がない」

「……」


 下品、という悪罵は俺が最も聞きなれたものだ。

 仮にも俺は貴族の生まれであるのに、立ち振る舞いのどたばたさが治らないし、おっぱいに吸い寄せられてしまう目はすぐに血走ってしまう。


 いい加減自分の悪癖には気づいているので、反論せずに俺は先を促した。


「ディエゴって男の、素行調査をすればいいんですか?」

「その通りだ、モール。話が早いじゃないか。……男は外にほっぽり出してみるもんだね、少しは血の巡りが良くなったと見える」


 ふぅむと感心したようにグランマは机に両肘をつくと、目を細めて満足気に笑った。

 成長を認めてくれるのは素直にうれしい――が、仕事の内容はいささか解せなかった。


「どうして私たちなのよ。何でも屋を開いた覚えはないわ」


 そう。

 俺たちのスキルは二人一組での泥棒稼業がせいぜいだ。

 人を付け回したり、ましてや素性を調べ上げることなんかやったことがない。


「他にもっと適任はいるでしょ。それともそんなに人材がないの?」


 グランマは様々な特殊技能持ちを配下に収めている。知的労働も肉体労働もなんでもござれのはずで、素行調査なんて仕事が、わざわざ俺たちに割り当てられるのは不自然だった。


「判るかい? こいつはあたしの恩情だよ。金だって払ってやる。だけどね、本題はそこじゃない」


 戸惑う俺と反発するイリスに、グランマは狡猾そうに口の端を吊り上げて言った。


「あんたたちには後ろ盾がない。だからナメられて、みすみす家の中まで荒らされる。あたしゃね、それに心を痛めてるわけさ」


 グランマの「お気に入り」と知れ渡れば、俺たちはこのスラムで一定の地歩を得ることが出来る。

 虎の威を借るなんとやらだが、裸一貫で生きていくのには限界がある。


 ちらりとイリスの顔を窺った。彼女は不気味そうにじっとグランマに目を向けて、奇妙な厚意のウラを見透かそうとしているようだった。


 恩情。

 グランマからはずいぶんと遠いところにある言葉だ。


「……判ったわ。ディエゴってやつのことを、調べて報告すればいいんでしょ。もしウラがありそうな男だったら、とっちめて別れさせるところまでやればいいのかしら」


 結局イリスは首肯して、グランマの提案を受け入れた。

 グランマと明確な繋がりを持てるのが、望外の報酬であることは間違いない。実績のない若い泥棒には、乞うても手に入れられないものだ。

 イリスも、自分の中に反発を抑え込むことにしたらしい。


 これで安眠も蓄財も貞操も――スラムで生きる上で避けては通れない危険性のいくつかを解決できる。


「恫喝なんてのは他の人間に任せるよ。嬢ちゃんもモールも、荒事は不得意だろう? 人を脅せる顔立ちでもあるまいし」


 俺の顔面は優男風だ。イリスだって、凄んでみたところで所詮は十歳の少女。グランマの見立て通り、俺たちに恐喝は向いてない。


「――ちょうど、ディエゴは今夜来る」


 背後に控えていた神父が話を引き取って、依頼の詳細を述べた。


「明け方、やつが帰るころに後を付けて、どんなやつなのか調べてこい。明日中に全て済ませろ。わかったか?」

「一日で全部やるわけ?」


 締め切りの短さにイリスは憤慨したが、グランマは甘えるんじゃないとばかりに、


「手段は任せるよ」


 と手を振って話を終わらせた。


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