1:イリスの背中はとても薄い
ニワダヨー (*^ワ^*)
死の物狂いで川から這い上がって、濡れた服もそのままに住居に辿り着いた頃には、もう日は暮れかかってしまっていた。
間一髪、といったところだ。
日の光を失えば、家に帰り着くことすら危うくなる。
貧民窟の夜はそう出来ている。人が灯す光などほとんどないし、背筋を凍らせるような息遣いが闇に濃淡を作っている。
無関心と冷徹と残酷が、木板の壁よりぶ厚く他者を隔てるここは、きっと自然の中に投げ出されるよりはるかに夜の帳が深くて重い。
とはいえ。
なんとか今日も五体満足に帰宅した俺たちだけれど、そこに一切の安堵感はなかった。
服から染み出した悪臭漂う汚水が足元にじわりと広がっていく。
得られなかった労働の対価と、ダメにした数に限りある資産と、それからまたひとつ失った人間としての尊厳に肩を落として、俺たちはしばらく無言だった。
イリスはこぶしを握り締めてふるふると肩を震わせている。
――それも当然か。
イリスがレディ前の少女、うんこと親和性の高い子供とはいえ、まさかうんこの流れる川にダイブするとは思っても見なかっただろうから。
「……泣くなよイリス。考えてみれば、俺はうんこ塗れはこれが初めてじゃなかった。イリスもすぐにうんこに慣れるさ」
「泣いてないわよ怒ってるのよこの馬鹿っ!」
どうやら俺の気遣いは見当を外していたらしい。
イリスは肩を怒らせて、涙目で俺を睨み上げてきた。
「乳ごときに見惚れて仕事トチるとか聞いたことないわよこの無能!」
「見惚れたのは確かだけど俺だけの責任じゃないだろ!?」
俺がしくじったのは認めよう。しかしこっちにも言い分はある。
「何よ。デカい乳があったら凝視するのがマナー、とか言い出したらはったおすからね」
「お前の計画がザルだったんだよ!」
ぐっ、とイリスが言葉に詰まった。
そう。計画立案の段階で、今日の失敗はほとんど決まっていた。
――俺たちの職業は泥棒である。
二人一組で行うエリアダイビングという手法を開発して、最近盗賊界隈じゃ名の通り始めたコンビなのだ。
「仕方ないじゃない……まさか隠居のじいさんがいるとは思ってなかったんだから……」
イリスも自分の非を認めて、悔しそうに唇を噛む。
エリアダイビングのやり方は、方法としては簡単だ。
一人が玄関先で家人の注意を引き、その間にもう一人が家の裏手、勝手口から突入する。
そうしたらあたりのものを手あたり次第チョッパって、素早く撤退するのだ。
今日は俺が玄関先、イリスが侵入役だった。俺の、胸元のひらひらした貴族然とした恰好も、玄関先で怪しまれないための小道具だったりする。さすがにボロを纏っていては、家の者も気味悪がって外に出てこない。
ただ、引き付けておける時間なんてたかが知れている。
侵入役が手を出せる範囲はせいぜい厨房からダイニングまで。ゆっくり家探しして、隠された宝石とかを探している余裕は全くない。
だから、盗品一つ一つの単価は安くて、一攫千金にはほど遠い稼業だ。
けれど、手法自体はこの街ではかなり有効だった。
金目のモノを持っている有産階級は必ず使用人を雇っているからだ。空き巣に入れるほど無防備で、なおかつ盗むほどの価値がある家というのはほとんど存在しない。
単独犯では必ず押し込み強盗になる。
強盗殺人自体は珍しくないものの、俺もイリスも殺人にまでは手を染めたくない。
それに、強盗殺人の検挙率がこの世界は意外なほど高い。高価なものはアシが付きやすいし、盗人界隈も買い取り業者も横のつながりが強い。
盗品を持ち込んだ買取屋は、殺人事件の犯人をすぐに衛兵にチクる。殺人を禁忌とする倫理観は、スラムにもある程度あるということだ。その代わりといっては何だが、俺たちみたいな木っ端泥棒は黙認されている。
「……仕方ないわ。逃げれただけでも幸運としましょう」
今日は、俺が巨乳の使用人に怪しまれて時間を稼げなかった。
同時に、イリスは下調べを怠り、家に隠居の爺さんが居座っていることに気づかなかった。
結果、ダントンたちに追われるという逃避行と相成ったわけだ。
「戦利品はどうなんだ?」
今日無収入だと、明日には食料が尽きる。
イリスは自分のスカートの中をまさぐって、露骨に不機嫌になった。
「銀のスプーンと……げっ、これ真鍮じゃない失敗した……万年筆がひとつだけね。追いかけられたから、重いものは捨てちゃったし」
「買取もしてくれなさそうだな……。こりゃ明日も仕事か?」
「下調べなしの一発勝負になるわね……」
妖怪つるぺたバキュームとはよく言ったもので、イリスのちょっと末広がりのスカートには何でも入る。
内側に大量のポケットが縫い付けられているのだ。一度盗品をそこに隠してしまえば、悠々街を歩いていても見咎められることがない。
仕事の内、緊張感するのは盗んだ品を売りさばくまでの小一時間だ。言い逃れが出来ないし、それに盗人を狩る盗人も貧民窟にはゴロゴロしている。
イリスのスカートは、そうした危険性を大きく軽減してくれていた。
「……明日のことは明日考えましょ。ほら、早く身体拭いて。臭うんだから」
「そっちもな!」
理不尽な出来事にしょっちゅう心を凹まされる貧民窟の生活だが、そんなとき、最初に気を取り直すのはいつもイリスだ。
十歳くらい――正確な年齢は本人も知らない――の子供のくせに、彼女はとても場慣れしている。
俺がスラムに来て約二年。イリスはもう五年目になるというから、年季の違いがそうさせるのだろう。
濡れたぞうきんを手に、イリスはぽいぽいと身につけているものを脱いでいった。
少年のように薄い背中が露わになる。小さな肩甲骨の形と、背骨のラインがくっきり浮き出るほどに、肉付きは悪い。
……当たり前だけれど、俺は幼女の裸になんか欲情しない。
俺はロリコンじゃないし、そもそもイリスはどちらかと言えば成長期前の少年みたいな雰囲気があって、なんというか女と認識しづらい。
「髪、やってやるよ。そっち向け」
俺が一通り身体を拭き終わった後も、イリスは長い髪の処理に悪戦苦闘していたので、いつものように俺はぼろ雑巾と櫛を手に協力を願い出た。
半年前まで、俺は娼婦の付き人をしていた。女の髪を梳かすのは、そこそこ慣れている。
イリスの、透き通るくらい細くて、薄い茶色の髪を柔らかく雑巾で包んで、櫛を当てる。
それから香りの付いた油を少量櫛に付けて、今度は一房一房に滑らせるように撫でていく。
「痛っ……」
イリスの髪の状態はいつだって悪い。櫛はしょっちゅう引っかかってしまう。
スラムの住人なんてみんなこう――というわけではなく、娼婦は指触りの良い細い髪をしていたから、単なる女子力の差だろう。
ちなみに娼婦の付き人の場合、髪結いまでやる。俺はどうにも不器用で物覚えが悪いらしく、酷く不格好な形に結い上げるのが精いっぱいだった。
娼婦は見た目がそのまま賃金に直結する職業だ。変な髪型にしてしまう俺はあっさり付き人の仕事から解任された。
しばらく静かな時間が流れた。
裸の俺と裸のイリス、十歳と十九歳、年齢的に背徳的に見えるかもしれないが、俺たちにそんな感情は通い合っていない。
仕事のパートナー、ルームシェア仲間。その線引きはしっかりしている。
しかし、毎日せっせとイリスの髪を梳かしてやるのは、彼女には口が裂けても言えないが、日ごろの感謝の意味を込めてのことだったりする。
半年前、娼婦の付き人を解任された俺は、さらに出入りしていた娼館からも「使えない」「キモい」「一緒にいると童貞がうつる」という批難を受けて放逐された。
路頭に迷った俺を拾ってくれたのが、イリスなのだ。
あの時、痩せた身体にぎらつく眼差しを持つこの少女に逢っていなければ、俺は確実に野垂れ死んでいただろう。
イリスは紛れもない、俺の命の恩人だ。いがみ合うことは多いけれど、たぶん俺は、絶対に彼女への忠誠を違えることはないだろう。
人生は、彼女と出会うことで少し好転した気がする。
一緒に仕事をするようになって、俺はようやくまともな自分の収入を得た。
幸運も重なって、少し前に起こったゴタゴタのおかげで、こんな部屋まで借りることができた。
――貧民窟で「部屋持ち」というのはかなり上位に位置するご身分なのだ。
俺は、僅か半年で物凄い出世を遂げたのだった。
もっとも、この部屋はスラムで最も家賃の安い物件ではある。
部屋は高層住宅の最上階に位置している。日本のセレブなら飛びつきそうだが、この世界だと高層住宅は貧民の象徴だった。
あまりにも危険なのだ。
何せ人口が増えるたび、説明書のない日曜大工よろしく素直に上に部屋を重ねていった、単なる積み木の住宅に過ぎない。
スラムの土地が収容できる貧民の数はとっくの昔にキャパオーバー。となれば上に積むしか方法はない。ということで、建て増し建て増しで恐ろしいほどバランスが悪かった。
俺たちの住む六階など、見えている地雷以外の何物でもなかった。
床は傾斜し、足を下ろすたびに大きく撓む。ドアは体当たりでもしないと閉まらない。壁の歪んだ木版はあちこちに隙間を作って、朝方に冷たい風を送り込んでくる。
鳥のさえずりの代わりに、朝はどこかのギシギシアンアンで目が覚める。そこに「家が壊れるだろうが!」という怒声が響き渡って、その声ですら建屋は揺れる。
少し強い風が吹けばジェットコースターじみた浮遊感を味わうほど大きく傾く。
雨が降ると、六階はおろか一階まで水浸しだ。
こういうのが幾つも横に並んで、死なばもろともとばかりに互いを利用して何とか建っているのがこのあたりの高層住宅街だった。
つまり、薄暗い裏路地を構成していた、壁の中の一棟である。
「あ、そうだ」
髪を綺麗にしてやると、イリスは大事なことを思い出したという風に、脱ぎ捨てたスカートをひっくり返した。
どすん、という少し重たい音が響いた。
中版程度の、本だった。
これで通算八冊目か、と俺は部屋の隅に重なっている本の山を見やる。
イリスは盗みに入ると、必ず本を一冊パクってくるのだ。
「これは……だめね、読めそうにない」
ただ、川に飛び込んだのが災いして、今回の本は読むのに耐えない状態だった。
本は売れなくもない品物ではある――が、彼女は必ず自分のために盗んでくる。
盗んでくる本のジャンルは一定しない。
炉の本とか完全の研究、スムマとかの技術書。聖書に数学書。俺にも読めない異国の文字の本もある。それと、ちょっと前に波乱を呼んだ、とある商人の秘密の帳簿。
本に一貫性がないのは、イリスがタイトルを見て選び取っているわけではないからだ。
なぜなら彼女は、読み書きが出来ない。
「ほら、さっさと始めるわよ。陽が落ちるまで、まだもう少しだけある」
労働者のお下がりである、ぶかぶかの乾いた服に着替えると、イリスは俺をせっつき始めた。
俺も似たような服に着替えて、イリスが床に広げた紙の前に陣取って腰を下ろした。
――イリスが仕事のパートナーに、決して有能とは言えない俺を選んだ理由。
俺の顔が整っていて、貴族の服を着ればギリギリ貴族に見えなくもない、というのが一つ。
もう一つは、読み書き算数を教えることが出来るからだった。
読み書き算数はこの世界ならば職能の一つだ。識字率は恐ろしいほど低く、教養として本が読めるのは聖職者や貴族、極めて裕福な職人くらいだろう。だから、代読屋とか代筆屋とかの職人だって存在する。
スラムなら名前が書ければ御の字だ。
イリスは最初、自分の名前も書けなかった。
半年かけて、教科書で言えば「アイアムイリス、ディスイズアップル」程度には読み書きができるようになってきた。
算数は、足し算引き算の概念がようやくと言ったところ。百まで数えることはまだできない。
「イリス、そこは綴りが違う」
「こう?」
日が完全に沈むまで、あと十分もないだろう。暗闇を照らすオイルは贅沢品だから、滅多に使わない。
それでもイリスはそのわずかな時間に、一文字でも多く学び取ろうと真剣だった。
広げた紙はもうほとんどインクで真っ黒だ。盗品のストックはまだあるとはいえ、紙自体も貴重品。いくらでも文字を重ねて、さらに裏返してまで使い切る。
この熱心さは教師冥利に尽きる、というやつだろうか。
――ただ、僅か十歳の向学心を前にすると、俺は自分の情けなさが際立つようで、徐々に気持ちは落ちてくる。
この世界じゃ職能にもなるとはいえ――俺は読み書き算数くらいしか教えられないのだ。
前世の「現代日本」の知識があるというのに、転生してからも多くの書籍と家庭教師に囲まれていたというのに、俺の頭の中には小学三年生程度の脳みそしか入っていない。
現代知識があると油断していたから、この世界の未発達な勉学など馬鹿にしていた。
だってそうじゃないか。
この世界には重力という概念がない。
農民は地球が丸いということも知らない。
思考は心に宿る、というレベルに医学は間違った知識のオンパレード。
そしてエリートですら、金が錬成できると本気で信じて研究を繰り返している。
転生したころは、なるほど俺が現代知識を使って歴史的特異点になるのだな、とタカをくくっていた。
しかし、スラムの住人になるほど堕ちぶれて、いざ実学が必要となった時に、使える現代知識は影も形もなかったのだ。
重力を知っていても計算式で表せなかった。
地球が丸いことを証明する方法が判らなかった。
身体を解剖したこともなければ、薬の成分一つ判らないし取り出せなかった。
錬金術のかなめである水銀の性質も、口で説明できないほどだった。
――俺は前世でどうしようもないニートで、今世でも放蕩貴族という極楽身分でニートをしてしまった。
つまり俺は無能なのである。どうしようもないほどに。
「どうしたのよ、変な顔して」
無為に過ごした二回分の人生にため息をついていると、イリスが不快げに睨みつけてきた。
「いや……結局俺は、何にも持ってないなって」
「何よいまさら。どんな人間も与えられた手札で勝負するしかないの」
そうばっさり切り捨てて、再びイリスは目の前の文字に向き直る。
与えられた手札で勝負するしかない。
それはイリスの口癖だ。
人生を、不平等なポーカーに彼女はよく喩える。それは配られたカードが一枚しかない、なんてこともざらにあるあまりにルールがガバガバのカードゲームだ。
でもルールの欠陥を嘆いたところで何も事態は好転しない。ならば手札を奪ってでも増やして、そして周到に取り替えて――今ある手持ちで「勝ち」をもぎ取っていかなければならない。
イリスは手札を増やそうとし続けている。文字だって、本だってそうだ。
そしてこの少女は、たとえ二枚しかカードがなくったって、堂々たる顔つきでブラフを仕掛て勝負に出る。
俺は何もできない。何か出来る気もしない。
だから、どこか俺は、ただ黙々と文字に挑み続けるイリスに憧れている。
数分もしないうちに日は落ちてしまった。こうなるともう寝るしかない。
寝床なんてものはないし、毛布もない。けれど、真夜中に入り込んでくる隙間風の冷たささえ我慢できれば、夢を見る時間だけはたっぷりある。
けれど、お休みと言いあう前に、戸口を叩く音がした。
出なさいよ、というイリスの圧を察して、俺は立て付けの悪いドアを開けた。
――大男が立っていた。肩幅と上背なら、筋骨隆々のダントンより二回りも大きい。
胸元に翳したちらちら瞬くカンテラが、黒いケープと、車輪を象った銀のペンダントを照らし出していた。
「神父……さん」
彼とは顔見知りである。
威圧感のある顔で男は俺を見下ろすと、野太い声で言った。
「グランマがお呼びだ。すぐに支度しろ」