プロローグ 貧民窟へようこそ!
ガンバッテカイタヨー!ヽ(^◇^*)/
――ちょっとおっぱい凝視しちゃっただけなのに!
自分の迂闊さと、それを咎められる不条理に歯噛みしながら、俺はぬかるんだ道を疾駆していた。
「待てこの妖怪パイタッチ!」
「今日という今日はその破廉恥な両手を斬り落としてやる!」
腰のサーベルを喧しく鳴らす二人組の憲兵が、謂れのない悪罵を喚き散らして追いすがってくる。
揃いの青の制服に身を包んだ、痩せたのっぽと太ったチビ。絵に描いたようなでこぼこコンビという風情の彼らとは、このところすっかり顔なじみになってしまった。
「触ってねぇって!」
何度も繰り返した弁解を叫んではみる――が、今更彼らは聞く耳など持ってくれない。
「舐め回すように見られたとご婦人は泣いていたぞ!」
「もはや揉みしだいた様なものではないか!」
なんという論理の飛躍か。捕まれば手はおろか両目も潰されかねない。
ただ、反論している余裕はもうなかった。ぬかるみに足を取られてもたつく間に、いよいよ肉薄されてしまったのだ。
――ああ、アスファルトの路面が恋しい!
俺が前にいた世界に、こんな悪路はまず存在しなかった。
もう輪郭も怪しくなってしまった前世の記憶から、平穏な街並みと安定した文化水準の硬質な感触を蘇らせて、俺は自らの現在を呪う。
俺は転生者だ。……そんな類別があるのかどうか知らないが、とにかく「日本人だった」という前世の記憶をおぼろげながら持っている。
最初、記憶を引き継いで第二の人生――というのに心が湧きたつものがなかったと言えば嘘になる。
しかし、この世界の住人として年月を重ねるごとに、その想いはすっかり変わってしまった。
――前の方が良かった。
こんな世界、来とうなかった。
転生は神様のプレゼントなんかじゃなく、むしろ俺に対する罰か嫌がらせなのだと今では確信している。
たとえばこの道なんか――全力疾走には一番向かない泥道なんか――この世の地獄が剥きだしになったかのような場所だ。
あちらこちらの丸いくぼみに、左右を埋め尽くす漆喰づくりの店の軒下に、そして馬車が刻んだ深い轍に、真っ黒な澱みがねっとりこびり付いている。
それらを踏み抜き、泥しぶきが上がるたび、周囲の人間たちは露骨に顔を顰める。
当然だ。泥だけならいざ知らず、この道には馬が気分よさげにぷりんと生み落としていく馬糞が、あるいは窓から投げ捨てられる人糞が、何層にも積み重なって溶け込んでいるのだから。
だから悪臭が酷い。なのに、人通りは多い。
そして異様なほど、道行く人の顔触れは多彩だ。
疲れ切っていつも苛立っているような顔の労働者たちと、そんなおっさんの小脇をすり抜けていく死んだ目をした丁稚の少年。
これだけでも、不潔な泥道に相応しい最底辺の界隈なのだと判るが、しかし彼らは背景の一部でしかない。
主役は道の両脇に並んでいる女たち――人類最古の職業と呼ばれる、娼婦だ。
美女は店の入り口で煌びやかに着飾って、垢ぬけない女は穴あきの肌着姿で軒下から追い出されて――彼女たちはめいめいに格差を主張しては、道行く財布の中身と釣り合おうとしている。
両手に華、天国じゃないか――だって?
彼女たちの顔触れを見れば、そんな考えすぐに吹っ飛ぶ。
今が人生の最盛期、という自信を漲らせた妙齢の美女は確かに華やいでいる。これでもかと盛りに盛ったおっぱいの、その愛の谷間を指で撫でて誘う仕草もそそられる。
俺はこの辺だと妙に顔が知られているので、彼女たちは俺の懸命な姿に声援を送ってくれる。
「モール、泥を飛ばすんじゃないよ! 一張羅に沁みが付いたらどうすんだい!」
しかし、中にはしぼんだ野菜みたいな乳を惜しみなく晒している婆様だって、道行く全ての生命体に声を投げかけているのだ。婆様はイッヒッヒと歯抜けの口元を歪ませて、手招きしてくる。
「モール、あんた暇そうだね。安くしとくよ」
そして彼女たちのヒエラルキーの一番下。
まだ女の身体にすらなっていない少女たちだって、ショーウィンドウの立派な一因だ。悪臭漂う馬糞置き場の近くに追いやられながらも、何とか今日を凌ぐ糧を稼ごうと、暗がりから目を光らせている。
「モールお兄ちゃん、手伝おうか? 50カッパーでいいよ!」
……こんな感じに。
茶色と黒ばかりが目立つ泥道だが、色彩がないわけではない。
女たちを値踏みしながら練り歩く、カイゼル髭をピンと尖らせた金持ちの衣服がそうだ。
流行りの、やたらとぴちぴちしたズボンに、胸元が白いレースでふぁさぁとなった、見るからに派手ないでたち。
宮廷貴族……のように見えるが、案外そうでないことが多い。上流階級を真似するのが、小金持ちのトレンドだからだ。
身分を一つでも多く、財布の中身を1カッパーでも多く周囲に誇示するのが、良い女を見つけるコツだという。
俺の感覚からすれば、こんな奇抜なファッション、真似したがる心が判らないが、残念ながら揶揄は出来ない。
俺も同じ格好をしているのだから。
「まったく壮麗さでなる王都にこんな場所があるとは、実に嘆かわしい。ああ汚らわしい」
彼らはこれ見よがしに顎を逸らせて、娼婦たちに冷ややかな目を向ける――振りをしながら、しかしすでに股間にはふっくらとしたテントが出来上がっている。ぴっちぴちだから、それはとても目立つのだった。
――そして時折、それらすべてを蹴散らすように、二頭立ての馬車が泥を跳ね上げて疾駆する。
お気に入りの高級娼婦の場所へ急ぐ、貴族様の馬車だ。こちらは本物の上流階級である。
馬車が見えたらとにかく素早く飛びのかなければならない。
馬糞交じりの泥をひっかぶるくらいならまだマシなほうで、うっかりすれば轢死体の出来上がりだ。貴族様は人の一人や二人潰してしまっても速度を緩めやしない。ここの住人だって、迷惑そうにチッと舌打ちして、死体はどこに捨てようか考え始める。
貧民窟。
自分の持ち物が、今日と明日と、そして生き方の全てを左右する悪夢のような場所。
――同時に、今の俺にとってはホームグラウンド。
しゃらんとサーベルを抜き去る音がした。
背筋が凍る。振り下ろされた刃からとっさに飛びのいて、俺は店の窓をぶち破って飛び込んだ。
部屋ではまさに娼婦が仕事の真っ最中だった。
男に跨った赤毛の女は一瞬目を目を丸くして、しかしすぐ呆れた顔になると、
「モール、あんたまたトチったの? そろそろ命も危ないんじゃない?」
闖入者に動転することなく、すぐに腰をうねうねと動かして仕事を再開するあたり、さすがはプロフェッショナルだ。
それから赤毛の女は、窓際で鼻の下を伸ばしているでこぼこコンビに晴れやかな顔を見せて、
「あんたたちもまたおいで。そろそろ給料日だろう?」
二人の憲兵は顔を見合わせて、お前もか!? と複雑な顔をしていた。
とにかく、この娼館に行きついたのは僥倖だ。
裏口の向こうには、スラムの住人だって全容を把握しきれない、複雑に入り組んだ細い裏路地が迷路のように広がっている。部外者を撒くにはうってつけだ。
俺は娼館を突っ切った。顔なじみの女たちは、誰もがまたか、とため息をつく。
あとで掃除に来なさいよ、というお咎めに生返事で答えつつ、俺は裏口から飛び出した。
裏路地に日の光など届かない。だからめっぽう暗く、昼間でもそこらに転がっている酔っ払いにうっかり躓いたりする。
しかし、それさえ気を付ければ、無事アジトに辿り着けそうだった。
背後が騒がしくなってきた。
どうやらでこぼこコンビは、迂回するのではなく、そのまま辿ってくる最短ルートを選んだらしい。……乱舞する無料のおっぱいチケットにつられたのかもしれなかったが。
このあたりは俺の縄張りだ。地図は完璧に把握している。
どんどん奥へと進む経路を頭の中に設定した。でこぼこコンビはどこかで見切りをつけるだろう。
何せ憲兵が深入りするのには勇気が要る場所だ。サーベルに衣服……ここらの犯罪者には、彼らの持ち物は垂涎の的だろう。
さて、と足を踏み出したところで、計算外の声が路地に響いた。
「モール!」
まさに目指そうとした遠くの丁字路。
その暗がりから、ざっくばらんな長い髪を振り乱して、少女が駆けてくるのが見えた。
まだ十歳の女の子だ。やたら裾の広がったスカートを身に着けた彼女は、名前をイリスといって――今は俺と寝起きを共にする、仕事上の相棒だ。
「イリス、そっちも大丈夫だったか」
朗らかに彼女の無事を喜ぶ俺だったが、しかし彼女は余裕のない表情で俺の小脇をすり抜けて、
「大丈夫じゃない!」
イリスの来た方を見やる。やたらと肩幅の広い「髭面ダントン」の通り名で有名な――相貌よりその暴力の方だが――衛兵が、口元を歪ませてのっしのっしとやってきていた。
正直この界隈じゃ一番捕まりたくない男だ。老若男女関係なく、人を殴り殺す免罪符を手に入れるために衛兵になったのだともっぱらの噂なのだから。
俺も踵を返して再びの疾走を開始する。が、ちょうどその時、店からでこぼこコンビが飛び出してきて急な進路変更を余儀なくされた。
イリスと二人、とりわけ狭い道へに潜り込んだ。
そしてすぐに失敗に気づく。ここは想定外の経路で、しかも最悪の選択だった。
「おい、このままじゃ――」
「しょうがないでしょ!」
先を行くイリスの歩幅はどうしても小さい。幸い、一列縦隊で追ってくる衛兵たちは、腰のサーベルがあちらこちらに引っかかって速度が出せないようだったが――それも、まるで気休めにならない。
なぜなら、この道を抜けると、あまりに開けすぎた場所に出てしまうからだ。
道が途切れた。
目の前に広がるのは、川だ。
濁った水がなみなみと流れ、陰った日光の鈍い反射を鈍重な様子で運んでいた。
ここは貧民窟と街を物理的に隔てる、境界線でもある。だから困ったことに、多少は見栄えよく道幅が広げられているのだ。
逃げる方向を失う俺たちは、路地から飛び出してきた衛兵たちに、あっという間に三方を取り囲まれてしまった。
「年貢の納め時だなぁ、妖怪つるぺたバキューム……」
髭面ダントンが、にちゃあと口元を粘つかせながらにじり寄ってきた。
タダ酒を飲むこと、嫌がる女を組み敷くこと、泣きわめく子供を殴ること――これらが生きがいだと公言して憚らない男だ。スラムの誰もが、こいつだけには目を付けられたくないと日々を過ごしている。
「その呼び方やめてくれない?」
そんなダントンに、イリスは物怖じすることなく侮蔑の視線をぶつけていた。
少女から向けられる露骨な嫌悪の眼差しほど、心にクるものはない。とりわけイリスは、感情美しく発露する整った容姿の持ち主だ。
彼女は心根を一切隠さない。
悪意も憎悪も、侮蔑も軽蔑も、そっくりそのまま相手にぶつける。
「コソ泥に口答えする権利があると思うか? 両足を切り落として、貴様は絞首刑だ」
ダントンが青筋を浮かべた。隣のでこぼこコンビも、興奮気味に息巻いていた。
「妖怪パイタッチ! お前も両手を切り落として吊るしてやる!」
……さて、どうしたものか。
戦う? 無理だ、俺は喧嘩がめっぽう弱い。サーベル持ち相手に大立ち回りなんぞできやしないし、ましてや相手はダントンだ。こっちがサーベル持っててもやられる。
助けを求める? それも意味がない。ここじゃ死ぬも生きるも自己責任。救いの手なんか、宗教家だって信じちゃいない。
「ねぇ――」
イリスが俺の袖を引いてきた。
何か名案があるのか、と尋ねると、イリスは不思議なことを言いだした。
「モール、あなた、うんこってどうしてる?」
「そりゃあ、おまるにして、この川に捨ててるが……」
水洗トイレなんて望むべくもない社会だ。
ましてや貧民窟、下水管や下水道という概念すらない。
「そうね。――覚悟は決まった?」
イリスの思惑を理解して、俺は全力で拒否した。
「俺は嫌だぞ」
「両手を切り落とされるより?」
「悩みどころだな」
本当に悩みどころだった。
川は、用水であり、上水であり――下水である。
しかもここは都市の川下に位置する。王都で排泄される膨大な量の糞便が集合し、混ざり合って粘つく場所なのだ。
「悩むくらいならやってみろ、よ! 飛んで!」
イリスの小さな手が俺の衣服を握りしめた。そして、そのまま引っ張られるように踵を返して――。
俺たちは地を蹴った。
――こうするしかなかった。イリスの判断は正しい。
頭では判っていたけれど――迫りくる茶色い流れに、また一つ人間の尊厳が穢れていくことを悟って、俺は絶叫した。
「こんな世界、嫌だぁぁぁー!」