おっさん、一応本気で告る……おや?
多くの証人達が行き交う船着き場。
そこに、ゼロスとザボンの姿がある。
ゼロスはザボンに皮の袋を手渡すと、申し訳なさそうな顔を浮かべ頭を下げる。
「愚姉が迷惑をかけた。本当にすまないと思っている」
「いや、アンタが謝ることじゃないだろ。俺が……俺が間抜けだったからだ。早くあの女の本性に気付いていれば……馬鹿すぎる」
「そんなに自分を卑下するものじゃない。人を信じることは尊いことだし、誰も愛されたいと思うだろ。それは僕も同じですよ」
今日、ザボンが自分の住んでいた町へと帰る。
さすがに悪いと思ったのか、ゼロスは彼に細やかなお土産も渡した。
ただ、それで彼の心が癒やせるとも思えない。
愛した女性に裏切られるなど、さすがにキツイことだろう。まして初恋であったらなおさらだ。ついでに金銭も盗まれた。
ゼロスでもトラウマになりそうな境遇で、正直哀れみさえ感じている。
だが、それはこれから前へ進むザボンに言うなど侮辱になる。ついでに彼を追い詰めたのはゼロスの実の姉だからだ。
ゼロスが何かを言う資格などない。
「これから、どうするんです?」
「今まで通り、漁師として生きていくさ。俺にはそれしか能がないからな」
「そうですか。君とはもう会うことはないと思いますが、元気で」
「アンタもな。世話になった……」
固く握手を交わすと、ザボンは振り返ることなく船のタラップを上がっていった。
その背中をゼロスはただ見送るだけであった。
「強く生きてもらいたいものだな……」
煙草を一本取り出し、静かに火を灯す。
「おい、にぃちゃんよぉ、ここは禁煙だぁ喫煙所で吸え!!」
「ハイ! すみません!!」
作業中の船員に怒られた。
今ではそこかしこで禁煙運動が始まっている。携帯灰皿を持っていようとも、禁煙エリアとして指定されている船着き場で煙草を吸うなどマナー違反だ。
ゼロスは「世知辛い世の中だ……」と嘆く。
数分後、ザボンをのせた船は帆を張り、静かにオーラス大河を出航していった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ザボンは船上でオーラス大河を眺めていた。
シャランラは死んだ。それも傭兵の手によってだ。
弟のゼロスでもなく、見ず知らずの赤の他人の手によって討たれ、その報奨金は傭兵達のものとなった。
彼女の持ち物を確認したのはゼロスで、その全てを傭兵達に譲渡した。
正直、恐ろしい男だと思った。
シャランラの行動を全て読み切り、それに合わせて様々な布石を置き、知らない間に追い詰められる策をとる。
学のないザボンには分らないが、かなり頭の回る男である。
そんな男が農業生活を送っていることも信じられないが、何よりシャランラと姉弟という事実の方が驚愕だった。
復讐を遂げたゼロスが何を思うか、少し気に掛かるところだ。
「あの男は、これからどうするんだろうな……」
復讐を終えたゼロスが何を考えているかなど分らない。
ただ、ザボンにあるのは空しさだけであり、ゼロスもまた同じ物を感じているのだろうかと思わずにいられない。
何しろ長い因縁が終わったのだ。これ以上は恨み続けることに意味はない。
「俺は……どうするか………」
愛した者が偽りで、有り金は全てシャランラが持ち逃げした。
彼にあるのは漁に使う船と、未だ部屋の荒れた小さな家だけである。
ザボンは「帰ったら……掃除しないとな」と、自嘲気味に呟く。
「そう言えば、これには何が入ってるんだ?」
ゼロスがくれた手土産。
小さな皮の袋だが、何が入っているのかは分らない。
ただ、何かの固形物のような感触はある。
気になったので紐を解き、中身を一つ手に取ってみる。
「……………ハァ!?」
それは、大粒の宝石だった。
売れば十年くらいは働かずに生活できる値打ちがある代物で、ザボンが持っていて良い代物ではない。むしろ管理に困るものだった。
しかも数個入っている。更に袋の中には折りたたまれた紙が入っており、癖のある字で「採掘した物だから、好きに使ってくれ。迷惑料です」と書かれていた。
こんな物をもらっても困るだけで、何より根の善良なザボンは混乱するだけ。そして案の定、彼は暴走した。
「船を戻せぇ、こんな物は受け取れん!!」
「あんちゃん、無理を言うなや。出航したら次の街まで止めるわけにはいかねぇよ」
「なら、俺はここで下りる! 泳げば陸に……」
「オーラス大河に飛び込むなんざぁ、自殺行為だぞ! やめろ!!」
「離してくれぇ!! これを返さないと、俺は落ち着いて生きていけん!! 後生だぁ!!」
「野郎共、頭のおかしいあんちゃんを止めろぉ!! 飛び込んだら死んじまうぞ!!」
「「「「おう!!」」」」
ザボンをのせた船は、オーラス大河を流れてゆく。
騒がしい声を風に乗せて……。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ザボンを見送った後、デルサシス公爵の元へと報告に行き、いま帰宅したことをルーセリスに伝えるべく教会へと向かう。
基本的にゼロスが留守の最中、子供達やコッコ、ルーセリスが留守を見ていてくれる。
世話になっている以上、挨拶するのが礼儀である。その辺りゼロスは律儀だった。
礼拝堂には誰もいなかったので奥へ行くと、リビングにルーセリスとジャーネ、イリスの三人でお茶の最中で、楽しい会話に花を咲かせていた。
「ただいま帰りました」
「おかえりなさい、ゼロスさん」
「おじさん、遅かったね?」
「いやぁ~、帰りにデルサシス公爵の所へ報告に行ったんですけど、怒られてしまいましたよ。『ゼロス殿……君は墓地を消滅させるつもりかね? この修繕費をどこから捻出すべきか』と……」
「アンタ……なにやってるんだ?」
後始末は面倒だった。
街の至る所に接地した掲示板は、今後様々な報告を住民に知らせるために役に立つと不問にされた。しかし墓地の破壊だけはどうしようもない。
当然だがゼロスが弁償することになる。
「うえぇ~、借金生活だぁ」
「いえ、そこは別に問題にしてないですよ? 【ブリザード・カイザードラゴン】の鱗を数枚無料で献上しましたから」
「「「………」」」
イリス、ジャーネ、ルーセリスは絶句した。
多額の借金すら簡単に清算できるゼロスに、底知れぬ非常識さを感じたからだ。
【龍王】の鱗などもはや国宝クラスであり、盾でも作ればその価値は大国の国家予算に匹敵する。それが数枚も無料で、だ。
おつりの額の方が驚異的な値段になるだろう。
「まぁ、お金なんてありすぎても困るからねぇ」
「それは嫌みか!?」
「おじさん……極貧生活の私達を前にして、良くそんなことが言えるね?」
ゼロスにとっては嫌みではない。むしろ本気でそう思っていることである。
しかし他者の意見とは相容れないものであることも事実であった。
「僕は、日々平穏がモットーだからねぇ。宵越しの金は持たない主義なんですよ。ハイエナが集まりそうで……」
「どこがだ? どこが平穏をモットーなんだよ」
「ゼロスさんは騒ぎを大きくしているように見えますけど……。あっ、安物紅茶ですが、どうぞ」
「いただきます」
「おじさんは、トラブルに嬉々として首を突っ込んでいくからなぁ~……」
信用がないのが少し悲しい。
「あれから借金取りは来ましたか?」
「いえ、騙されたと知ってからは一度もきてませんね」
「あの女はとんでもないな。アタシは人間不信になりそうだよ……」
「まぁ、おじさんのお姉さんだから」
「それ、僕には侮辱なんですがねぇ」
イリスの悪気のない言葉に、若干むくれるゼロス。いい歳したおっさんの態度は正直可愛くない。
拗ねながらもゼロスは、ルーセリスの出してくれた紅茶をゆっくりと飲む。
「ふぅ……やっと落ち着いたな」
「そうですね」
「私達は、これからが大変なんだけどね」
「あぁ……最近仕事がないしな」
ジャーネ達傭兵組は絶賛金欠中。
ポーションなどを作って売り出してはいるが、生活していくには少し収入面でキツイ。
傭兵は魔物などから民を守る必要な仕事だが、報酬が低くあまり長続きがしない職業である。安い仕事を率先して引き受ける者は少ない。
「【魔導モートルキャリッジ】でもあれば楽なんだが、アタシらでは買えないだろ。たぶん貴族が率先して購入するだろうし、かなり予約が殺到しているらしい」
「大勢のドワーフ達がこの街に来てるみたいだよ? エルフは見かけないけど」
「まぁ、フレームや魔法機関の製造は彼等でもできるでしょ。魔導士が必要なのは、動力部内のプレートと起動させる魔法式を刻むだけだし、部品別で製作するだろうから量産体制は早いだろうねぇ」
「それができちゃうおじさんが凄いと思う」
「僕じゃなく、デルサシス殿だけどね。どんだけ人脈を持っているのやら……」
デルサシス公爵は忙しい男だ。
有用な物を見つければ、直ぐさま投資して量産体制を整え売り出す。イサラス王国と公約するまでさほど時間が掛からないほど行動が早い。
超やり手のビジネスマンであり、広大な領地を所有する公爵でもある。いつ休んでいるのか不思議なほど働いている人物だ。
「景気のいい話だ」
「そうですね。魔導士の雇用も増えますし、ますますこの街が活性化していきます」
「その景気の良さは、傭兵には関係ないけどな」
「うぅ……世界はバブル最盛期なのに、私達は貧乏のまま……」
「バブルって……。まぁ、その忙しい公爵様に、面倒な後始末をさせちゃったんだけどねぇ。アハハハハハ」
『『笑い事じゃねぇーでしょ……』』
公共の器物破損、建築物破壊、個人所有の墓地を荒らし、遺体損壊。大規模破壊テロ。
人気のない墓地でなかったら犠牲者が出ていたかと思うと、実に洒落にならないことをしでかしている。
しかも理由が『なんか、ムシャクシャしてやった。後悔はしていない』と言っているようなものだ。実際ブチ切れたのだから同じことだろう。
賠償金を払うどころか、ドラゴンの稀少素材を無料提供することで事を納めている辺り、客観的に見れば悪質と言わざるを得ない。
何しろゼロスの懐はまったく痛んでないのだ。
まぁ、デルサシス公爵も臨時収入を得られ、墓地の整備をし直す予算も得られたわけで、ギブアンドテイクの関係を築いているのだが……。
両人ともに転んでもただでは起きない性格のようである。
「釘は刺されましたよ? 『今後は、もう少し手加減をしてくれ』とね」
「そりゃそうだろ。おっさんが本気に動かれたら洒落にならん。ま、まぁ、取り立て連中のときは凄く助かったけど……」
「そうですね。ゼロスさんがいなければ、今頃私達は娼館でお客をとっていたかも知れません。ありがとうございます」
「……でも、原因はおじさんのお姉さんなんだけどね」
「なんとなくやらかしそうだったんで、後手で企みを潰せたのは大きいですね。おかげで裏の人達からも追われてましたよ。アレは爽快だった」
確かに原因はシャランラだが、行動を見逃したのはルーセリス達のミスで、ジャーネは半ば信用し始めていた。
子供達ですら警戒していたのに、だ。
まぁ、元が孤児で世知辛い環境で生き抜いてきたからこそだが、ジャーネを責めるのは酷というものだ。
「ザボン君にも言いましたが、人を信じることは尊いことですよ。誇るべき事であって、責められる謂われはない。中には平気で踏みにじるような輩もいるがね」
「人を信じようとすることは、ジャーネの良いところですよ。私はずっと疑っていましたから。それでも少し騙されかけてましたけど……」
「私は、おじさんの指示で動いていただけだけどね。それがなかったら騙されてたかも」
「それ、アタシに警戒心がないと言ってないか? ハァ~……人を見る目を養う必要があるかなぁ~……」
「そのままで充分に魅力的ですが? 変にスレたりしてないし、可愛らしいと思うがねぇ」
「……はぇ?」
いきなり言われたジャーネは一瞬動きを止め、言葉の意味をゆっくりと吟味理解し、次の瞬間に彼女の顔は一瞬で真っ赤に染まった。
羞恥で言葉が出ないのか、口をパクパクさせている姿が少し間抜けで可愛かった。
「ジャーネさん、落ち着いて」
「な、なななな、いきなり何を言うんだ! アタシをからかって楽しいのか!?」
「からかっているつもりはないですが、わりと本気で可愛いらしいと思っていますが?」
「ゼロスさん、しれっと言いますね。でも、ジャーネはこういうのが苦手ですから、思っていてもあまり言わない方が良いですよ? 混乱してしまいますから」
どうやら面と向かって言わない方がいいらしい。
だが、おっさんからしてみれば、年頃の女性の初心な面はとても愛らしいと思えるものだった。見ていて実に微笑ましい。
「まったく……いきなり何を言うんだ。このおっさんは……」
「そんなに怒るようなもんですかね?」
「ジャーネは照れているんですよ。こういう所は昔のままでほっとしますね」
「おじさん、意外に軽薄?」
「失礼な、では少し真面目な話をしましょう。ルーセリスさん、ジャーネさん……」
テーブルの前で腕を組み、一息入れてから神妙な面持ちで語る。
どうやらゼロスは本気で真面目な話をするようだと雰囲気で察し、二人は気持ちを引き締める。
「はい?」
「なんだよ」
「僕と結婚してください」
「「「…………」」」
次の瞬間、時間が停止した。
いきなりとんでもない爆弾を落とされ、思考回路が吹っ飛んだのだ。
最初に時を動かしたのはイリスだった。
「まさかのプロポーズ!? プロポーズなの、おじさん!! いきなりどうしちゃったのぉ!?」
「そんなに変ですかねぇ? わりと真剣に考えてはいたんだが……。特に年齢差が気になっていて、なかなか……ねぇ? しかも二人同時に嫁」
「ねぇ? って……だからって、唐突すぎるでしょぉ!?」
「ちょうど厄介な問題が片付きましたから、思い切って言ってみた。なかなか覚悟が決まらなくてねぇ~。今の年齢だと、どう考えても親子ほどの差がありますし、いっそ年齢差が気になるなら若返っても良いかなぁ~と」
「あっ、【時戻りの秘薬】……。おじさん、持ってたんだ」
「数は少ないけどね。僕が作ったわけじゃないし、手間が掛かる」
【時戻りの秘薬】は、かつて【白の殲滅者】で仲間のカノンが制作した魔法薬である。
若返る歳を自分で調整できるが、一度使用したら同じ魔法薬で再度若返ることができない。一度きりの使い捨てアイテムであった。
余談だが、【回春の秘薬】を制作したのも彼女である。
「何で私がいるときに言うかな。普通は雰囲気を作ってから告白するんじゃないの?」
「いやぁ~、さすがに三人きりで切り出すのは勇気が要るよ。それに、考えてもみると良い。僕は今まで結婚すらしていないんですよ? 雰囲気作りなんてできると思うのかい?」
「……彼女はいなかったの?」
「昔、ヤツのせいで……関係が破綻した」
あまりの悲惨な話に、イリスは少し泣いた。
「……というわけで、真剣に考えて欲しいんですが。どうしました?」
「い、いえ……その………私は末永くお願いしますと言いたいんですが、ジャーネが……」
「あっ……」
ジャーネは硬直していた。
まさか、いきなりのプロポーズ……と言って良いかわからないが、急激な話の展開に思考がフリーズし、赤面したまま固まっている。
一見して姉御肌に見えるが、彼女はどこまでも純情純真な乙女であった。
何よりもこの手の話に免疫がない。
「完全に固まっちゃったねぇ~。返事は後にした方が良いかも。純情だから……」
「昔からこうでしたから。白馬の王子様に憧れたり、甘い恋愛話をしている司祭様達の話を盗み聞きしてましたからね。今も夢見がちなところがあるんです」
「ルーセリスさんは即行で決めたよね?」
「私は自分の目と本能を信じます! それに、このままだと行き遅れてしまいますから」
「でも、ルーセリスさんがおっさん趣味なのは意外だったなぁ~」
別にルーセリスはおっさん趣味というわけではない。
物心ついた頃から両親がおらず、家族というものに憧れを持っていた。
また、母親という存在は自分を育ててくれた女性神官達で理解したが、父親という存在がどんなものかが分らない。
その幼児期から抱いていた空想や願望が、必然的に彼女を年上好みにしたわけだが、別に深いこだわりがあるというわけでもない。同年代だろうが年下であろうが、自身が納得できれば結婚するであろう。
何よりも【恋愛症候群】の兆候が出ており、ゼロスと相性が良いことは本能から来る直感が教えてくれている。彼女はその本能から来る衝動に対して素直に従っただけだ。
迷う必要などどこにもない。
「思いっきりがいいですねぇ……。僕は結構悩んだんだけどなぁ~」
「女は度胸です。迷っていては最悪の結果になってしまいますから……」
「「あぁ~……」」
【恋愛症候群】が末期に至った者は奇行に走る。
その奇行が少し行き過ぎた程度なら良いのだが、中には社会的に死ぬような凄まじい行動に走る者も多いのだ。防ぐには自分の心に素直になるだけである。
さすがにルーセリスも社会的に死にたくはなかった。
「ジャーネも、そのことは分っているはずなんですが、見た目からは想像できないほど臆病だから……」
「臆病と言うより、奥手なんだよ。それにしても、ルーセリスさんって意外に肉食系?」
「そんなことは……でも、ジャーネはこのままだと危ないですよ? ゼロスさん、ジャーネを襲ってくれませんか?」
「「いきなり、とんでもないことを言ったぁ!?」」
聖女な見た目とは裏腹に、とんでもない爆弾を落とした。
ゼロスの爆弾発言とは威力が異なる。何しろ彼女は「幼馴染みを美味しく食べてください」と言っているのだ。
一応遠くない未来のことも考えているのだろうが、それでも段階というものをすっ飛ばし、強引に男女の関係を勧めている。
おそらくは、どこぞの司祭長の影響が出ているのだろう。
「幸い、今は意識が飛んでいますし、既成事実を作るにはもってこいだと思います。それに、このまま放置すると、ジャーネが社会的に……」
「ルーセリスさん、心配しているのは分るけど、ジャーネさんの気持ちを蔑ろにしてるよぉ!?」
「それは大丈夫です。ジャーネもゼロスさんに気があるのは間違いないですし、結婚のことも真剣に考えてますよ? 後は覚悟を決めるだけですが……」
「奥手な性格が災いして、踏み出す機会を逸すると? まぁ、言いたいことは分るが、逆に人生のトラウマになりませんかねぇ?」
「そこは、優しくしてあげてください。本能に身を任せましょう」
本能に任せる。ある意味では真理だ。
しかし人間は本能だけの生物ではなく、感情にも左右される。
「放心してますし、今は無理じゃないかね?」
「そんな弱気では駄目ですよ! 昔からジャーネは、追われれば逃げる子ですから」
「なんで、そこまで強引に事を運ぼうとするの? ルーセリスさん……」
「ジャーネにも色々とあるんです。男性が苦手と言うより、怖いんです。ゼロスさんのことは怖がっていないと思いますが、意識の奥底では……」
「ふむ……なんとなく察しがつきますが、憶測の域がでないなぁ。なら一度、二人きりで話し合う場を用意してみますよ。イリスさんにも協力してもらうか」
「マジですかぁ!?」
一夫多妻や一妻多夫が認められるこの世界、ゼロスは嫁を二人もらうことになりそうである。その前に少し問題がでたようではあるが。
また、【恋愛症候群】が活発化する時期まで、何とかする必要があるようである。
限られた時間で、おっさんがジャーネを口説き落とせるかは定かではない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
薄暗い廃墟の中、静寂に包まれた闇から無数の気配が現れた。
この存在は同質の意思に引き寄せられ、やがて一つに集まり融合してゆく。
『憎イ……四神………』
『…帰リタイ……苦シイ……』
『オォォ……集エ……復讐………滅ボセ……』
それは負の感情そのものだった。
一つ一つが意思を持ち、同時に無力な存在であるがゆえに融合を求める。そして受肉することを願っていた。
共通しているのは怒り、憎しみ、悲しみ、望郷の念、終わることなき永劫の苦痛。
それ故に同質の存在には敏感で、この場に漂う意思に呼ばれてきた。
焦げた地面と風で散った灰。それには自我がまだ残っていた。
『集ェ……』
『一ツニ……体ヲ……』
『復讐スルベキ……メーティス……国……』
『オノレ……ニクイィイィィィィィ!!』
やがて存在は結合し、灰を媒体にして脆弱な体を構築してゆく。
それは黒い影のような体であった。
無数の意識は結合するが、それぞれが共通の想いを持っているのだが、この場に一つだけ違う存在があった。それは欲望に満ちている。
金欲、物欲、名誉欲、怠惰、強欲、傲慢。そして黒い意思達と共通する唯一の感情、怒り。
この存在は周囲の存在と相容れず、しかし利用するべく受け止めていた。
集った存在も利用されるのを承知で受け入れ、受肉するために力を貸した。それほどこの世界に対する怒りが激しかったとも言える。
黒い影は人型へと姿を変え、針金のような足を動かし移動を始める。
『……メーティ……ス……四神……』
『滅ボセ……』
『…力……モット……力ヲ……』
『聡ィイィィィィィ……ユル……サナイ………』
『…カエ……ルンダ……』
『私ノ……世界ニ………滅ボシテ………』
廃倉庫で生まれた存在は、複数の意思によってメーティス聖法神国を目指す。
今はまだ無力な存在だが、強くなる方法を知っている。
本能からかすでに存在する同種と合流すべく、わずかな波動を流し闇の中へと消えていった。
それから数日後、評判の悪い傭兵が骨のように干からびた変死体が見つかり、同じような不審死が各地で相次いだ。
人、動物、魔物問わず死体して発見され、原因が分らず捜査は難航を窮めた。
正体が判明するまで、まだしばらく時間が掛かることになる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
少し時間が進む。
ザボンの純愛が最悪の形で終わって一週間。
実家に戻った彼は漁師に復帰し、何気ない日常の中に戻った。
だが、彼の中には言いようのない虚無感が常に苛み、かつての仕事熱心な姿に戻るにはしばしの時間が必要に思われた。
それだけ愛が深かったと言えるが、その愛を失った反動の傷は更に深くなっている。
恨んでいられたなら生きる力になっただろうが、彼はシャランラを探すためにサントールまで行ってしまった。
そして知った。愛した者の素顔を……。
「おい、まだ調子が戻らないのか? まぁ、気持ちは分る……なんて無責任な台詞は言えんけど、元気出せよ」
「重傷だな。今はそっとしといてやれ……。俺が同じ立場ならしばらく立ち直れん」
「仕事はきちんとやってくれるから良いが、このままだといつ事故を起こすか心配なんだよ。オーラス大河は流れが速いからな」
「あぁ……すまない」
漁師仲間の優しさには感謝している。
だが、騙されていた時間が長いほど、失ったことに対しての空しさは大きい。
今日もまた幸せだった頃の幻影を思い出し、言いようのない寂しさが心の中を吹き抜ける。死んだ方が楽になれると思うほどだ。
『死ぬ前にアレを返さないとな……』
ゼロスから慰謝料代わりにもらった宝石。
鑑定してもらったところ、とんでもない値がついてしまった。
善意は嬉しいが、ただ漁師には過ぎた代物だ。手元にあるだけでも怖じ気づくほどだ。
根が善人なだけにこの慰謝料はやり過ぎに思えて仕方がない。
そして、今日も溜息を吐きながら、いつもの食堂に顔を出す。
「あっ、いらっしゃい。ザボンさん」
「あぁ……いつもの日替わりランチで頼む」
宝石のことを考えているときは、嫌なことを忘れられる。
それだけが救いと言えるのだが、問題はいつ返しに行くかだ。
だが、あの宝石を返したら陰鬱な日々が続くかと思うと、どうしても返しにいけなかった。
気を紛らわせるものがないザボンは、宝石のことを考えることでシャランラに騙されていた頃の記憶を誤魔化し、惰性のまま生きていることを自覚している。
女々しいと自身が分っているからこそ、再び深い溜息を吐く。
最近ではこれが日課になってしまった。
「お持たせ、日替わりランチよ」
「あぁ……ありがとう」
頼んだ日替わりランチをトレイで運んでき給仕。彼女の明るさにも救われている。
活発そうな彼女はいつも自分を気にかけてくれて、少しの間だが立ち直れそうな気分にさせてくれる。しかし一人になるとやはりネガティブな感情に呑まれてしまう。
だが、今日に限って彼女はいつもと違った。
ザボンの座るテーブルのそばから離れないのだ。
「……どうしたんだ?」
「ザボンさん……。私、最低なのよ。今ザボンさんが苦しんでいるのに、凄く喜んでいるの」
「えっ?」
「だって、私……あの女が嫌いだったから」
「嫌いって、君はシャーラと話したことがなかっただろ? なんで……」
「女の勘って言うのかな、生理的に受け付けなかったのよ。男性が好きそうな仕草ばかりで、存在そのものが嘘くさかったし、それに……」
「それに?」
「私、前からザボンさんのことが好きだったから!」
突然の告白だった。
彼女は顔を真っ赤に染め、いきなりザボンに自分の想いを打ち明けた。
男としては嬉しいが、あまりのも唐突だったので思考が吹き飛ぶ。
そして、食堂にいる全ての客が二人に視線を向けていた。
実は彼女を狙う男は多く、誰が彼女の心を射止めるか競争になっていた。抜け駆けなしの暗黙の了解ができていたほど人気がある。
そんな彼女がザボンに告白したのだから、嫉妬の視線が痛い。
この時のザボンは彼女の名前すら知らない。
「い、いや……俺は………」
「えっと……返事は心の傷が癒えた頃に聞かせて。こんなの卑怯だと思うし……あっ、仕事に戻らなくちゃ!」
声をうわずらせながら、彼女は走って厨房へ引っ込んでしまった。
残されたザボンは呆然とするばかりである。
「「「「「この……リア充がぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」」」」」
その後、漁師仲間に取り囲まれ、苛烈な制裁がザボンを待ち受けていた。
げに憎くきは、恋路の横からかっ攫うモテ男。望まずとも彼はその立場になってしまい、振られた男達には怒りの衝動を抑えられなかったようである。
半年後、ザボンは彼女と結婚することになる。
漁師仲間の嫉妬の視線を一身に受ける、盛大で殺意に満ちた結婚式となったという。