蜘蛛が恋して……
俺は蜘蛛だ。
八本の足をたくみに動かして、尻から糸を出してせっせと巣をこしらえるのに余念がない、
あの蜘蛛だ。
突然だが、俺は今虫の息だ。
体をベージュ色のふわふわの絨毯の上に投げ出して、八本の足を漏れなく全部天に向け、ヒ
クヒク痙攣している。
……我ながら情けない姿だ。
巣に引っ掛かった巨大な蛾を食おうとして、逆に食われかけた時ほど自分を情けなく思った
ことはなかった。だが、今はあの出来事を帳消しにできるほど自分が情けない……。
俺がその家にやって来たのは、住み慣れた隣家をホウキと怒声で締め出されたからだけでは
なかった。
前に一度、手垢と埃で薄汚れた窓越しにこの家を覗き見た時、ちょうどこの部屋が見えたの
だ。おりしも、住人が部屋に入って来たところだった。
ブロンドのポニーテールを結った年頃のそれは、俺の溜まりきった欲情を再燃させるには申
し分ないほどに美しく、俺は自分の寝床から逆さまに落っこちるほどの衝撃を受けた。
粘り強い糸が俺の肢体を支えてくれなければ、俺は床に叩きつけられてペシャンコになって
いたか、鋭い眼光を煌々とさせて部屋を徘徊する毛むくじゃらにパクリとやられていただろ
う。
思い起こせば恐ろしいことだが、その時の俺に言わせれば、そんな不安はどこ吹く風だっ
た。俺はそれ程に、垣根一つ向こうのその女に身も心も奪われていたのだ。
故に、その数日後に行われた住人からの『厄介払い』は、俺にとって絶好のチャンスとなっ
た。この家を出て、隣家のあの娘の部屋に引っ越すのにはちょうど都合が良い。
だが、長年愛用してきたこの巣を離れることは、足を一本、窓に挟んで裂かれてしまうよう
な、痛みと絶望感にも等しいものだといえた。
だが俺はついに吹っ切れた。
あの娘のそばにいられるのなら、巣の一つや二つ、足の一本や二本、リボンを結んでくれて
やる。
そうして俺は、あの娘の部屋に足を踏み入れたのだ。
俺の歓喜の雄叫びと女の甲高い悲鳴が重なったのは、それから束の間のことだった。
俺は娘がベッドの上に置いてある大きな枕を手に取るのが分かった。それも、暴れ馬のよう
な荒い息遣いだ。
俺はさすがに身の危険を感じた……正直、油断していた。前の家主の優しい性格が(ただの
面倒くさがりかも知れないが)ここにきてあだとなった。俺の中の“人間”という生き物への
警戒心が、長い時間の中で薄れてしまっていたらしい。そう考えれば、この俺が人間の女に恋
心を抱いてしまったことにも納得がいく。
娘に背を向けた直後、重く、柔らかい物が全身を強く圧迫するのが分かった……。
俺が次に見たのは遥か遠くに見える天井だったが、実のところ、自分の弱り切った姿を見て
いたに違いなかった。
体をベージュ色のふわふわの絨毯の上に投げ出して、八本の足を漏れなく全部天に向け、ヒ
クヒク痙攣している。
……我ながら情けない姿だ。
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます!
この作品は、某掲示板で掲載したものをアレンジしたものです。