キリアスウェルス
若干、重い……かな?
「へえ、勇者なんて久しぶりに聞いたわねぇ」
母さんは何かを思い出したように呟く。
目の前の焼き魚の骨を丁寧に摘みながら。
現在、午後七時半。
俺はみんなと食卓を囲みながら、先ほど見た女勇者について話していた。
「久しぶりって……前にもいたの?」
俺は母さんの呟きを耳にして、思わず問う。
焼き魚の骨を抜きながら。
俺の問いに母さんは頷いた。
「ええ、いたわよ。あれは……三百年くらい前かしら。うちを訪ねてきたのよ。ね、レスティ?」
「ああ、確かにいたな」
母さんが視線を向けると、魚を口に運ぼうとしていたレスティは一旦箸を止め、母さんに返事をしてから口に入れた。
口の中にものを入れて喋らない生真面目さが実にレスティらしい。
流石は誠実の権化。
クロナなんて、骨も取らずに頭から食べている。
それ、何匹めだ。
一方の母さんは、箸の上部を顎に当てて何かを思い出すように視線を彷徨わせる。
「えーっと、彼、名前なんて言ったかしら……?確か……キリン?」
「キリアスウェルスだ」
「そうそう、キルス君よキルス君。懐かしいわ〜」
「しっかりしろスカーレット。お前は奴の結婚式にも出席したろうが」
レスティから呆れたような視線を向けられ、母さんはそれから逃れるようにそっぽを向いて吹けもしない口笛を「はす〜はす〜」と吹き始める。
母親の情けない姿を傍観しているのも何なので、俺は助け舟を出してやる。
「てゆうかそもそも、何で勇者がうちに来たのさ?」
俺の質問に、母さんは屈託のない笑顔を浮かべる。
「あら、王国近辺の火山に住む番の龍のところに、人間代表の勇者がやってくる理由なんて一つしかないんじゃないかしら?」
「まさか……、戦いを挑みに来たの?番って事は、父さんもいるところに?」
「ええ、そうよ」
「うわぁ……」
俺は思わず苦笑いを浮かべた。
身一つで母さんと父さんに挑むとか……無謀にも程がある。
その勇者は、己の力を過信した馬鹿だったのか、はたまた、正義感溢れる好青年だったのか。
どちらにせよ、我が両親に挑んだ時点で結果は見えているが。
「あの時の彼、可愛かったわね〜。私とあの人を見て、産まれたての子鹿みたいにプルプル震えちゃって」
クスクス笑う母さんの瞳には、はっきりと嗜虐的な感情が見えた。
俺が密かに引いていると、それを敏感に察知した母さんは取り繕うように話を続けた。
「だ、だからと言っていじめてはいないわよ?ちゃんと互いの力量差を懇切丁寧に説明して、説得したんだから」
慌てる母さんを俺が白い目で見ていると、いつの間にか二匹目に突入したレスティが口を開く。
「その様子は俺も見ていた。確かあの後、お前達に弟子入りしたんだったか」
「そうそう」
母さんはしみじみと頷く。
「『剣と魔法を教えて下さい!』って頼まれちゃってね。あんまりにも純真な瞳で見てくるものだから、断るに断れなくって。それで、結局一ヶ月だけ私とあの人で彼を鍛えてあげる事にしたのよねぇ」
「それで?二人の教官に鍛え上げられた勇者は、魔王を倒せたの?」
「たおせたのー?」
俺が母さんに話を促すと、満足するまで魚を食べ終えたらしいクロナが上機嫌な様子で復唱する。
隣のローザも澄ました顔で魚を摘んでいるが、聞き耳は立てているようだ。
やはり気になるんだろう。
ところが、母さんは何故かキョトンとした顔で「え?」と声を上げる。
釣られて俺達もキョトンとなる。
「「え?」って、勇者は魔王を倒すために強くなったんじゃないの?」
兄妹を代表して俺が問う。
「ああ……。まあ、確かに彼も最初はそのつもりだったみたいなんだけどね」
「最初は?じゃあ最後はどうなったの?」
まさか、魔王側に寝返ったのか。
俺はそう予想したが、事実はその斜め上を行った。
「勇者君と魔王ちゃんが恋人になったわ」
「はっ?」
母さんがなんでもない事のように言った一言に、俺は思わず摘んでいた魚の身を取り零した。
見ると、ローザもぽかーんとしている。
「な、何でそうなったの?」
当然の疑問が浮かんでくる。
すると母さんは、楽しそうに二人の馴れ初めを話してくれた。
◆◇◆◇◆
過酷な旅の末、勇者キリアスウェルスは魔王城グランケイオスに辿り着く。
しかし、気合いを入れて乗り込んだ城で彼を待ち構えていたのは、艶めいた黒髪に引き込まれるような瑠璃色の目をした美しい少女だった。
少女は自分の事を魔王クリスティアと名乗り、勇者と対峙した。
だが、キリアスは剣を持つクリスティアの手が震えている事に気が付いた。
キリアスが不審に思っていると、クリスティアが口を開き、震える声で叫んだそうだ。
『私を殺しても、他の魔族は殺さないで』と。
直後、恐怖を堪え切れなくなったのか、魔王である少女はぽろぽろと涙を流し始めた。
この時、キリアスは本気で狼狽えた。
今まで戦ってきた魔族とは剣を交えるだけで、碌に会話をしてこなかったが、何故か『この少女は他の魔族と違う』と思ったそうだ。
だが、実際には彼女と他の魔族の違うところが何もないと言う事に気付き、愕然とした。
この少女の魔族を思う真摯な気持ちは、他の魔族も一緒なのだと。
今まで戦ってきた者達も、魔族を思い、魔族のために戦っていたのだと気付いた。
そして、我が身を振り返った。
自分は、教会の最高司祭様から『勇者』と認められ、ただの平民であるキリアスは、『勇者』キリアスとなった。
そして今まで、様々な地を歩き、魔王を打倒すべく旅をしてきた。
だが、目の前の少女を見て、思う。
『自分は一体、何のために戦ってきたのだろう』と。
教会の神官様達や行く先々の人々に褒めそやされ有頂天になって言われるがままに魔族を殺し、魔王を殺そうとしていた自分。
自分の行動に、自分の意思はあるのか。
そう思い、考える。
結果は。
ない。
ない。何もないのだ。
自分はただ他人に言われた事をやっていただけだった。
そこに何の疑問も抱く事もなく。
それが正しい事なんだと思い込み、自分で確かめる事もせず、多くの命を奪った。
キリアスは、『勇者』に疑問を抱いた時、急に怖くなった。
もしかして、自分はとんでもない勘違いをしていたんじゃないか?
魔族は憎き敵。
そう思っていた。それは、誰の思いだ?
……自分じゃない。
教会や人々に言われて、そう自分もそう思い込んでいただけだ。
自分自身は、魔族に対して何の恨みもない。
自分の魔族に対する憎しみは、他人のものでできていた。
自分自身の中身は、からっぽだった。
自分は、そんなすかすかの信念で、魔族を殺してしまったのか?
魔族はきっと、自分なんかよりずっと重く、硬い信念や覚悟を抱いていたのだろう。
そんな尊ぶべき者達を、自分は、殺めてしまった。
魔族は、魔族を守ろうとして。
自分は、ただ自分の力に酔い痴れて、自身を偶像の勇者と思い込み、何の迷いも、信念も、覚悟もなく。
剣を、振り下ろしたんだ。
急に、走馬灯のように今まで殺めてきた者達の顔が頭の中を巡り出した。
怒りに身体を震わせたまま、力尽きた大鬼。
愛する者の名を呟き、事切れる吸血鬼。
己の命を賭して、子の逃げる暇を作った魔狼。
戦ってきた強者達の最期。
そして、次の瞬間、キリアスが見た事のない映像が頭の中で流れ始めた。
大鬼、吸血鬼、魔狼……様々種族の女性、子供。
彼女達はこちらに向かって微笑みかけ、子供達は目の前を元気よく走り回り、最後には自分のところへ笑顔で戻ってくる。
そして、決まって最後に浮かんでくるのは、一人の人間に愛する者が殺された瞬間の、深い、深い絶望の表情。
ただ崩れ落ちる者、涙を堪えて愛する者に背を向ける者、全てを悲観して、視界を赤く染め上げる者。
気付いたら、絶叫を上げていた。
剣を落とし、狂ったように叫ぶ。
頭を掻き毟り、悲鳴を上げる。
自分の全てが崩れ落ちる音。
これまで心の拠り所、免罪符にしていたものが音を立てて砕け散る。
自責と、罪悪感と、絶望と。
支えを失った両腕は宙を彷徨う。
掴めど掴めど、空気が通り抜けるばかり。
何で。
僕は。
みんなのために。
みんな?
みんなって誰?
僕は……。
僕は……何のために。
僕は…………。
その時。
キリアスの頭を抱きしめてくれる人がいた。
クリスティアだった。
彼女の顔を見上げる事はできなかった。
怖かった。
彼女の目を見る事が。
ただ、夢中で彼女を掻き抱いた。
彼女の胸に顔を埋め、泣き喚いた。
魔族への謝罪の言葉を繰り返しながら、子供のように泣きじゃくった。
クリスティアは、そんなキリアスの頭を優しく撫でて続けた。
やがて、視界が黒に塗り潰される。
世界が遠くなってゆく。
優しい香りに包まれながら、キリアスの意識は闇に埋もれていった。