昔語り
寝台の上で獣の毛皮に包まり、すやすやと寝入る少年を見詰め、その老人は厳つい顔をだらしなく崩した。
「全く、だらしのない顔をしおって。『双剣』も今ではただの爺馬鹿か」
「ふん、何とでも言え。孫を可愛く思わねえ爺いがどこにいる。いや、違うな。儂の孫だからこそ、こいつは可愛いんだ」
老人は、寝ている孫の頭をその大きくてごつい掌で優しく撫でる。
少年の柔らかい黒髪の感触が掌に伝わり、ただでさえだらしない顔つきだった老人の顔が更に笑み崩れる。
「しっかし、どうして孫って奴はこんなに可愛いんだろうな? とてもじゃねえが、あの生意気でお転婆な儂の娘が生んだとは思えねえ。父親の性格を受け継いだのだとしたら、あの男を婿にした娘の大金星だな」
「何とでも言うがいい」
やってられない、といった風情で、黒くて小さな生き物は小さな机の上で身を丸めた。
娘がまだ幼い頃に病で連れ合いをなくした老人は、男手一つで忘れ形見の娘を育てた。
そのせいだろうか。老人の娘は幼い頃から男勝りのわんぱくで、炎のような激しい気性の持ち主だった。
そして、老人譲りの剣術の素質。その素質の高さに思わずおもしろがって娘に様々な剣術を教えたが、今となっては反省すること頻りだ。
このままでは嫁の貰い手もいないだろうと半分諦めていた時、ある日突然ふらりと老人の元に帰って来た娘は、一人の青年を連れていた。
旅の吟遊詩人だというその青年。しかも、娘の身体にはその青年との子供がすでに宿っているという。
思わずぽかんとした表情で娘とその婿となる青年を眺める老人の前で、愛しそうに自らの腹に触れる娘は、老人が知る気性の激しい女傭兵などではなく一人の母親の顔をしていた。
吟遊詩人だという娘が連れてきた青年は、実に穏やかな性格の人物だった。
争いごとを嫌い、いつもにこやかな笑みを浮かべている。老人の娘とはまるで正反対の人間である。
正直、老人にはこの二人が夫婦として上手くやっていけるか心配だった。それ程、二人は似たところがない。
しかし、そんな老人の心配は杞憂でしかなく、彼の娘と青年は老人が住む魔獣の森と呼ばれる魔境から少し離れた町で、実に仲睦まじく暮らしていた。
それからしばらくして、老人の娘は一人の男の子を産み落とす。老人と娘、そして娘婿はこの男の子にリョウトという名を与えた。
老人も孫が生まれたことを大いに喜び、しばらくは自分の家と娘たちの家を何度も往復したものだ。
娘婿の吟遊詩人としての技量は大したものだった。彼が町の酒場などで唄えば、一晩で銀貨が五十枚近く得られた。
娘が傭兵として稼いだ蓄えもあり、彼らは実に平穏で豊かな生活を送っていた。
だが、孫のリョウトが五歳ぐらいになった時。それまでなりを潜めていた娘の放浪癖が疼き出したらしい。
リョウトを老人に預けると、娘と娘婿は旅に出た。
しばらく旅に出ては、ふらりと老人の元へ帰って来る。そんな生活を二、三年ほど続けただろうか。いつものように旅に出た娘夫婦。だが、そのまま娘婿は二度と帰らず、娘も全身傷だらけという有り様で老人が暮らす小屋へと辿り着いた。
老人もリョウトも、娘であり母である女性を必至に介抱したが、数日後に彼女は息絶えてしまう。
彼女たちに何が起きたのか。老人とリョウトは今際の際の女性から全てを聞いた。
それを聞いた時、老人は怒り狂い、愛用の双剣を手にして小屋を飛び出そうとした。もちろん、娘夫婦をこんな目に遭わせた者たちを探しだして復讐するために。
だが。
だが、その時のリョウトを見た老人の怒りは見る間に鎮火した。涙を必至に堪え、母の亡骸に縋りつくこともせずに立ち尽くすリョウトの姿を。
その姿を見た老人は、自分が成すべきことを悟る。
彼が成すべきなのは、娘夫婦の復讐ではない。残されたこの幼い少年を娘たちに代わって育て上げることだ、と。
それから、老人はリョウトに様々なことを教えた。
剣の扱いは元より、森の中で暮らすための様々な知恵や動物の狩り方、有用な薬草と害のある毒草の見分け方などなど、老人が知る限りのことを全てリョウトに教え込んでいく。
時に老人を尋ねて来る旧友たちも、リョウトのことはとても可愛がり、彼らもまた、自分たちの知ることをリョウトに教えたのだった。
「孫と一緒に暮らすようになってもう五年か。早えもんだなぁ」
「おぬしも年をとるわけだな、ガラン」
机の上で丸まったまま、長い首だけをひょいと持ち上げ、黒くて小さな生き物が老人に告げる。
「全くだよ、ロー。儂も年を取った。あと、どれだけ生きていられるのか分からないが……できれば、こいつが嫁を迎えて曾孫が生まれるまでは生きていたいもんだ……ま、ちっとそれは無理っぽいか」
実際、老人は自分が衰えているのを自覚していた。
体力や記憶力の低下など、様々なものが彼に老いを感じさせる。
自分の寿命があと何年ほど残されているのか。曾孫の顔は是非とも見てみたいが、おそらくそれは叶わぬ夢だろう。
「万が一、儂が死んだ時はおまえが儂に代わってこいつの将来を見届けてやってくれ」
「うむ、承知した。友の頼みだ。引き受けぬわけにはいかぬな」
黒くて小さな生物が頷くのを見届け、老人もまた満足そうに頷いた。
「ところで、ロー。前から一度おまえに聞いてみたいことがあるんだがな?」
「我に聞きたいことだと? それは何だ?」
「ああ。どうしておまえはこの国を襲ったんだ? あれ以来、おまえとはずっと一緒だ。だから儂には判るんだなぁ。本当はおまえが厄災の化身などではなくずっと穏やかな奴だってことがよ?」
尋ねられた黒くて小さな生物──老人がローと呼ぶ黒竜は、丸まっていた姿勢から身体を伸ばし、翼をぱたぱたと動かして老人の肩へと移動した。
「我ながら、真に恥ずかしいことではあるが……実はな」
「おう。何でえ? 改まって」
「…………実は、あの時のことは寝起きであまりよく覚えておらんのだ」
「……………………………………………………………………何だとぉ?」
四十年ほど前。
このカノルドス王国を未曾有の危機が襲った。
その危機はたった一体の竜がもたらしたものだったが、その竜のために国ひとつが滅亡寸前まで追い込まれたのだ。
ある日、カノルドス王国の西方の国境付近に、突然一体の巨大な黒竜が現れた。
黒竜は手近にあった町を瞬く間に蹂躙し、そこで暮らしていた人間の実に半分以上を喰らったという。
「あの時は我も数百年ぶりに目覚めて寝ぼけておってな。しかも、目覚めたばかりで腹が減って腹が減って……つい、手近にたくさん群れていた生き物……つまり、人間たちを寝ぼけ半分に思わず食ってしまったのだ」
本来、竜という生き物は何も食べずとも餓死するということはない。しかし、空腹を感じないわけではなく、何かを食べたいという欲求につき動かされることがあるとローは語る。
だが、町の人間半分を食べてもローの意識は覚醒しきらず、そのままふらふらと人間で言えば夢遊病のように東の方角へ──つまり、王都が存在する方角へと移動した。
途中、その進路上にあった集落や町は、その巨体が巻き起こす突風や、欠伸代わりに吐き出した炎などで甚大な被害を受けることになる。
そうなると王国としても、この黒竜を放置するわけにはいかず騎士団を派遣した。しかも、全王国軍の三分の二に相当する大軍を。
しかし、それだけの大軍を以てしても、黒竜には敵わなかった。その事実は、今ではこの国の誰もが知るところである。
「……その後、我はお主とその仲間たちに倒されるわけだが、我の意識がはっきりと覚醒したのは、お主たちと戦っている真っ最中だった。我にしてみれば気がつけばお主たちが襲いかかってくる状況だったのでな。こっちも全力で抵抗したさ」
「……やれやれ。真実を聞いてみれば何ともはや、だ。とてもじゃねえが、他人には聞かせられない理由だな」
老人は、寝ぼけて町を襲ったという黒竜を責めるつもりはない。
腹が減れば何かを獲って食う。それは自然の摂理である。例えそれで何百何千という人間が命を失おうとも、弱肉強食の掟に従う以上、黒竜を責めることなどできないだろう。
老人とその仲間が黒竜と戦ったのは、当時暮らしていた町に黒竜が接近したからだ。
弱肉強食は確かに自然の掟ではあるが、弱者が強者に抗ってはいけないというわけではない。
老人とその仲間たちは、自分たちの暮らしと親しい者たちを守るために巨大な黒竜に挑んだだけであり、もしも彼らがその場にいなければ敢えて黒竜と戦うことはしなかったに違いない。
「いいか、ロー。このことは絶対に他言するんじゃねえぞ」
「うむ。我としてもこの事実は恥ずかしいものなのでな。おぬし以外の誰かに言うつもりはない」
自分の肩の上でこっくりと頷く小さな黒竜の頭を、老人は少々乱暴に撫でまわしてやった。
カノルドス王国の北東部に広がる広大な森。
他では見かけない珍しい動植物が多数棲息していることで有名な森である。
この森に棲息するのは普通の動植物だけではなく、強大で凶悪な魔獣もまた、数多く棲みついていることでも知られている。
魔獣の森。
いつしか、その森はそう呼ばれるようになった。
そんな森の外周部にはベーリルという名前の小さな村が一つ存在する。森の浅い部分で獲れる動植物と小さな畑で生計を立てる寒村だ。
その小さな村の村外れにぽつんと建つ小屋に、魔獣鎧姿の一人の青年と二人の女性が訪れたのは、先の内乱が終わってから半年ほど過ぎた頃だった。
「ここへ来るのが随分と遅くなってしまったな」
「ええ。本来なら半年前にここへ来るつもりだったのに、あの内乱に巻き込まれてしまったものね」
「でも、そのせいで今の状況があるんだ。悪いことばかりでもないさ」
村外れの小さな小屋。その裏手にある簡素な墓の前で、三人は感慨深そうに語り合う。
墓と言っても本当に簡素なもので、小さく盛られた土と墓標代わりに大き目の石が二つほど積み上げられただけ。
この墓の下に伝説にもなっている英雄が眠っているなど、誰も想像さえしないだろう。
「……随分と久しぶりだね、爺さん。今日は爺さんに紹介したい女性たちがいるんだ」
青年は後ろに控えていた二人の女性を呼び寄せると、それぞれ左右から抱き寄せるようにして肩を抱いた。
「彼女たちが僕の妻だ。あはは、二人もいてびっくりしたかい?」
青年は墓の下に眠る祖父に静かに語りかける。
女性たちも肩を抱き寄せられたまま、じっと青年の言葉に耳を傾けていた。
「実は、僕はこの辺りの領主になったんだ。だから、これからはちょくちょく来ることもできると思う」
バロムに乗ればゼルガーからここまであっと言う間だよ、と青年が続けた時、背後に何かが近づいてくる気配を感じた。
ここは魔獣の森である。例えまだ森の中に入っていないとはいえ、森の中から魔獣が彷徨い出ることだってあり得る。
三人が緊張した面持ちでそれぞれの得物に手をかけて振り向いた時、青年が纏っている該当のフードから黒くて小さな竜がもぞもぞと這い出した。
「慌てるな。この気配は魔獣ではない」
黒い小さな竜の頭が、小屋と村を結ぶ小道へと向けられる。
そして、その小道をこちらへと向かってくる小さな人影を見た時、青年の顔が嬉しそうに笑みを浮かべた。
「オグスっ!!」
突然声をかけられ、小屋へと近づいていた小さな人影が一瞬立ち止まる。
そして、そこにいるのが誰なのかに気付いた小さな人影──オグスは、嬉しそうに青年へと駆け寄った。
「リョウト……? 本当にリョウトなの? いつ帰って来たのさ? 帰って来たのなら知らせてくれよ」
「つい先程さ。バロムで直接森の中へ降りたからね。村には寄っていないんだ」
再会の挨拶を交わす友人たち。
この時、オグスはようやくリョウトの背後に女性が二人いることに気づいた。
「ねえ、リョウト。後ろの二人は誰? リョウトの知り合い?」
「彼女たちは僕の妻だ」
「えええええっ!? つ、妻って奥さんのことだろっ!? こんな美人が……それも二人もってどういうことっ!?」
いろいろあったんだ、とオグスに答えたリョウトは、再会を果たした友人と妻たちを小屋の中へと招き入れた。
この小さな友人に、ここを旅立ってから今日まで、何があったのかを詳しく語って聞かせるために。
実にお久しぶりに『魔獣使い』の外伝の更新。
遅くなった理由としては、やはり現在連載中の『怪獣咆哮』が間もなく完結を迎えるのと、『あるない』こと『我輩は神である。名前はまだない。』が書きやすくてついそちらばかり書いてしまったせいでしょうか。
さて、今回はずーっといつかは書きたかった、ローことバロステロスがどうしてカノルドスを襲ったのか、その説明でした。
うん。実はバロステロスがカノルドスを襲ったのは、これだけの理由だったんだ(笑)。
人と竜とでは価値観も違えばその実力も大きく違う。なので、こんなくだらない理由でも一国が滅亡の危機に陥るという。人間にしてみれば理不尽な理由ですが、竜にしてみれば「腹が減ったから適当にその辺の生き物を食う」程度の認識でしかないのです。
今回のことで、読んでくださっている人たちの予想をいい方向に裏切れたらいいな。
では、次回がいつになるのか全く不明ですが、その時はよろしくお願いします。