子爵夫人、逃亡する
ゼルガーの町。
カノルドス王国東北部では最大の町である。少し前まではこの付近は王家の直轄地だったが、先日の「エーブルの争乱」以降は新興の子爵家であるグララン家の領地となり、そのグララン子爵の居城もこのゼルガーにある。
天気の良いある日の昼下がり。そのゼルガーの町の目抜き通りを、一人の男性と一人の女性が肩を並べて歩いていた。
「……で、本当に良かったのか?」
「構うものか。そもそも、俺にあんな事をさせようっていうあいつが悪いのさ」
男が隣を歩く女性に向けて尋ねれば、女性は平然とした態度でそう答えた。
男性は背も高く、身体もがっちりとしている。そのがっちりとした身体を鎖帷子で覆い、その腰には長剣。
鎧の右胸には、飛竜を形取った紋章が刻まれている。それはこの町の支配者であるグララン子爵家の紋章だ。
その紋章の下には、子爵家に仕える兵であることを示す紋章もある。兵士と子爵家の二つの紋章を持つ者。それは子爵家に仕える兵の中でも高位に位置する者だけが許されている。つまり、この男性は子爵家が抱える兵士団の幹部というわけだ。
その男性と並んで歩く黒髪の女性もまた、鎧姿だった。
こちらは男性のような鎖帷子ではなく、魔獣の素材を用いた魔獣鎧と呼ばれるものだ。
武器らしいものといえば腰の後ろに差し込まれた短剣ぐらいだが、心得のある者がその身のこなしを見れば、彼女が只者ではないことは一目瞭然だろう。
鎧の上からでも容易に判る妖艶な体付きの、とても美しい女性だ。
「おや、ガクセン団長。団長が女連れとは珍しいじゃないか。それもこんな別嬪さんを。いやはや、団長も隅に置けないねぇ」
目抜き通りの脇に店を開いていた露店の女将が、男性──ガクセンと彼が連れている女性を見つけてひやかしの声をかけて来た。
ガクセンは今、グララン子爵家が抱える二つの兵団の内、第一兵団と呼ばれる部隊の団長を務めている。
第一兵団は主にかつての『銀狼牙』の残党で構成されている兵団であり、団長であるガクセンの顔と名前は領内中、特にゼルガーの町では良く知られているのだ。
対して、第二兵団はカロスが団長を務め、その構成員の殆どが「エーブルの争乱」直前にアリシアとルベッタが手懐けた傭兵たちである。
そのガクセンは、冷やかした女将に向けて顰めっ面を浮かべた。
「おいおい女将。俺とこいつとはそんなんじゃねえんだよ。こいつは俺が以前に随分と世話になった人の娘でな。俺が今の立場にいられるのも、こいつとの縁があってこそだ。それに──」
ガクセンはにやりとした笑みを浮かべると、隣の黒髪の女性の頭をぽんぽんと親しげに叩いた。
「こいつに下手に手なんて出して見ろ。魔獣の餌にされちまうってもんだ」
そう聞かされた女将は、ぽかんとした表情で黒髪の女性を凝視する。
「が、ガクセン団長……もしかして、こちらの別嬪さんは……」
「その通り。我らが大将であるリョウト・グララン子爵閣下の第二夫人、ルベッタ・グララン様さ」
芝居がかった態度で、仰々しくルベッタに向けて頭を下げて見せるガクセン。
そんなガクセンに釣られるように、露店の女将も慌ててその場に跪いた。
「あー、止めてくれないか? 確かに今の俺はリョウト様の妻だが、元はただの傭兵だ。公式の場ならいざ知らず、こんな所で仰々しい真似はなしで頼む」
ルベッタは跪いた女将を自ら立ち上がらせ、ぱちりと片目を閉じて見せる。
女将はそんな気安いルベッタの態度に目をぱちくりとさせながら、何度もガクセンとルベッタの顔を見比べる。
「はぁー、驚いた。いきなり子爵様の奥方様だなんて言われて、あたしゃ不敬罪で首が飛ぶんじゃないかと思ったよ。しかし、ガクセン団長もずいぶんとくだけたお人だけど、奥方様も親しみ易いお方だねぇ」
「まあな。さっきも言ったが俺もリョウト様と結婚するまでは平民だったからな。ついでに言えば、その更に前はリョウト様の奴隷だったんだぞ?」
「へぇ。かつての奴隷が今じゃ子爵夫人かい。それはまた随分な玉の輿だねぇ。あやかりたいもんだ」
女将は豪快に笑うと、お詫びの印にと売り物の果物を数個譲ってくれた。
それを快く受け取ったルベッタとガクセンは、その果物を齧りながらその場を離れる。
「さて、思わぬ道草を食ってしまった。見つかる前にとっととずらかろう」
「なあ、ルベッタよ。今更だが本当にいいのか?」
「くどいな。現に俺はこうして城から逃げ出して来たんだ。もう遅いってもんだ」
呆れ顔のガクセンに向けて、にやりと笑うルベッタ。
そう。彼女の言葉通り、今の彼らは逃亡者なのだ。
「大体だな。俺にあんな真似なんて無理なんだよ……」
ゼルガーの裏通りに店を構える一件の小さな酒場。
ガクセンは馴染みだというこの店にルベッタを連れて来た。ここならばそう簡単には見つからないはずだから、と言い含めて。
今、その酒場でガクセンは、一方的にまくし立てるルベッタの愚痴に付き合っている。いや、付き合わされている。
「窮屈なドレスを着て、せせっこましい食事の作法だの、歩き方一つにしても色々と……俺にそんな貴族の作法なんてやっぱり無理なんだよ」
ルベッタの愚痴は、リョウトの妻となってから学び始めた、貴族の夫人としての教育についてだった。
彼女自身、それが必要だというのは理解している。
しかし、理解しているからといって、それに熱が入るかは別問題なのだ。
「じゃあ、止めちまえばいい。大将には嫁さんがもう一人いるんだ。それも、生粋の貴族の家に生まれ育ったご令嬢がな。公の場は全部あっちに任せてしまえばいいだろう?」
ガクセンの言葉通り、グララン子爵にはもう一人妻がいて、そちらは貴族の家に生まれ育った人物である。そのため、その女性は貴族としての作法や教養はしっかりと身につけている。
ルベッタも当初は、ガクセンが言ったように公式の行事などは全て第一夫人に任せるつもりだったのだ。そのために、あちらに第一夫人の座を譲ったのだから。
しかし。
「……それはそれで、俺があいつに負けているような気がして、我慢ならんのだ」
「……難儀なやつだな、おまえもよ」
呆れつつも苦笑し、ガクセンは杯に入った酒を一気に呷る。
言われてみれば、隣で愚痴を捲し立てている女性は、昔から負けず嫌いなところがあった。幼い頃の彼女を知るガクセンは、それを思い出して少しばかり懐かしい気持ちになる。
「……だが、貴族としての最低限の作法ぐらい、身につけておかないといけないのは理解しているんだ。そうでないと、俺が何かヘマをやらかした時、それは俺だけじゃなく我が旦那様の恥にもなるからな……」
「くくく。愛しい男のためなら、どんな苦痛も我慢できるってか。じゃあ、逃げ出さずにしっかりと励むこった」
「…………せめて、教師役があいつでなければ……」
現在、ルベッタに貴族としての基本的な教養と作法を教えているのは、件の第一夫人であった。
彼女の授業はとても厳しく──気心が知れているだけに余計厳しいのかもしれない──、それに耐えかねたルベッタはとうとうこうして彼女の授業を放り出して逃げて来たという訳である。
「アリシアの奴、俺が何か失敗をすると、待ってましたとばかりにねちねちねちねちと……ったく、あいつは小姑か?」
「それは仕方ねえんじゃねえか? おまえだって好きであの大将と一緒になったんだろう?」
「……それはそうだが……」
ルベッタの脳裏に、始めて彼と出会った時の事が思い浮かぶ。
そしてそれは、彼女の人生を決定づけた運命の出会いでもあった。
最初は、単なる好奇心だった。
恋人──その時、彼女はそう思っていた──のために、英雄として名高い祖父の形見の名剣を、何の未練もなく手放そうとするリョウトという名の青年。
その青年に、彼女は興味を引かれた。
彼女はかつての想い人に父親や親しい仲間を殺され、失意と共に奴隷として売られた。
売られてすぐ、彼女の類まれな美貌と妖艶な体付きに目を止めたどこかの金持ちが、彼女を買おうと申し出た。しかし、一言彼女が口を開いた途端、その男勝りな口調に彼は購買意欲をなくしたようだった。
どうやら、その金持ちは清純な娘が好みだったらしく、見た目はともかく傭兵として生まれ育ち、がさつな性格の彼女はお気に召さなかったらしい。
その後も何人か買い手が現れたが、似たような理由で彼女が買われることはなかった。
しかし、世の中には色々な趣味の人間がいる。彼女のような口のきき方をする女性が好みだ、という少々変わった趣味の男だってどこかにはいる事だろう。
ならば、と彼女はその時に決心した。
どうせ誰かに買われるのならば、目の前の青年のような人物の方がいい。
恋人のために大切な形見をぽんと手放すような人物だ。きっとお人好しな性格をしているのだろう。彼ならば、入手した奴隷を酷く扱うような事もあるまい。
まあ、奴隷となる以上は、身体を求められるぐらいは仕方ない。向こうも年若い男だ。自由にできる女を手に入れれば、それに手を出さないはずがない。逆に自分の女奴隷に手を出さないような男は、どこか性格に問題があるか、男色趣味の持ち主に違いない。
だから、彼女もそれは覚悟していた。奴隷となって衣食住の世話をしてもらうのだ。それぐらいは代価というものだ。
その青年は今、奴隷商人からもう一人奴隷を選べと思わぬ事を言われて目を白黒させている。
それを見る限り、どうにもこの青年は人が良さそうだ。上手く寝台の中の主導権を握れば、奴隷でありながらもそれなりの生活ができるに違いない。
それに、彼の左右で色が違う瞳もまた、彼女の興味を引く原因だ。
そんな目論見もあり、彼女はその青年に自分を奴隷にしてくれと申し出たのだった。
結論から言えば、彼女の目論見は外れる事になる。
確かに青年は人が良く、優しい人物だった。
しかし。
彼もまた、その祖父と同じく英雄としての器を持った人物だったのだ。
剣の腕はそこそこ。祖父のような超一流とはとても呼べない。しかし、父親から素養を受け継いだという吟遊詩人としての彼は、まぎれもなく超一流だった。
彼の唄を初めて聞いた時、不覚にも彼女の心は大きく打ち震えた。
彼がその時に唄ったものは、感動的な抒情詩などではなく、竜斬の英雄たちの日常を描いた楽しげなもの。にも拘わらず、彼のその唄は彼女の心を大きく揺さぶる。
その心の動きを何とか押さえ込み、隣にいた同僚とも言うべきもう一人の女奴隷にその心境を悟られるようなことはなかったものの、その女奴隷がいなければ、きっと彼女はその場で涙を流していただろう程に、彼の唄は彼女の心に響いた。
生まれた時から傭兵たちに囲まれて育ち、芸術に関する教養など一切ない彼女に、だ。それ程までに、彼の吟遊詩人としての腕は卓越していたのだ。
そしてその夜、彼女は主となった彼に抱かれた。
初めて女を抱くという彼。その事に彼女は内心ほくそ笑む。
ここで彼を自分の身体に溺れさせてしまえば、もう一人の女奴隷よりも良い扱いを受けるに違いない。
そう考えて優しく、そしてできる限り慎ましく。多少の演技的な恥じらいを見せながら、彼女は彼に抱かれた。
しかし、ここでも彼女の目論見は崩れ去る。
初めてという事もあり、彼の女の扱いは確かに稚拙だった。しかし、その鍛え込まれた逞しい肉体と、激しいまでの抱擁に逆に彼女の方が溺れてしまった。
気づいた時にはその豊満な身体を彼に押しつけ、何度も彼の名を夢中で呼び、荒々しく彼を求めていた。
そして彼が自分の奥に男の欲望を解き放った時、不覚にも彼女は意識を失ってしまったのだ。
後で聞けば、その後にもう一人の女奴隷も同じような目に合ったという。
古来より、英雄は寝台の上でもまた英雄であると言う。
ならば、間違いなく彼も英雄としての素質を持っている事になる。
思わず、そんな事を思ってしまう彼女だった。
その後も、彼には何度も驚かされた。
自分が所有する奴隷に革の首輪は似合わないなどと言い、玉石を連ねた首輪を用意した彼。
その気遣いと優しさに、不覚にもときめいてしまった。
そして。
そして何より、彼がその身に宿した異能。その異能こそが、彼を英雄として成り立たせる何よりの証拠だった。
多数の魔獣を呼び出し、使役するという『魔獣使い』の異能。
その後、彼はその異能を用いて、数々の偉業を成し遂げていく。
強力な魔獣を打ち破り、大規模な火災の被害を最小限に抑え、野盗の一団を殲滅し、遂には国の根底を揺るがす内乱をも鎮めてしまった。
もちろん、彼一人の力で成し遂げたわけではないが、彼がその中心にいたのは間違いない。
そして、彼はその功績を認められて子爵の位を授かる事になる。
リョウト・グララン子爵。
それが、かつて彼女の主であり、今は夫である『魔獣使い』の英雄の名だ。
その英雄と常に一緒に駆け抜けて来た事が、今の彼女の細やかながらも最大の自慢なのだった。
ガクセンは、呆れて物が言えない心境だった。
初めは確かに、子爵夫人としての慣れない勉強に対する愚痴だった。しかしその愚痴は、いつの間にか惚気話に取って代わっていた。
彼女の表情も、最初こそは顰められていたが、今では陶然したものに変わっている。
彼でなくても、やってられない気持ちになるというものだろう。
だが、まあ。
彼女が幸せだというのならば、彼としては何も言うことはない。
彼女は大恩ある人物の娘だ。その娘が幸せならば、それは彼にとって、いや、かつて『銀狼牙』に属していた者たち全員にとって幸いな事なのだ。
そう思いつつ、横目でちらりとその娘を見れば、にやにやとした笑いを浮かべながら、実に幸せそうに夫との事を語っている。
やれやれ。と、再びガクセンが苦笑を浮かべた時。
ばたん、と酒場の扉が大きく開かれた。
驚いて振り向いたガクセンとルベッタの視線の先。そこに、先程噂していたグララン子爵第一夫人の姿があった。
最近ではドレス姿でいる事の多い彼女だが、今はかつてのような魔獣鎧姿。その腰には愛用の飛竜刀まで佩いている。
「こんなところにいたのねっ!? 随分と探したわよっ!!」
「あ……アリシア……よ、よくここが判ったな……?」
ひくひくと口元を引き攣らせながらルベッタがそう問えば、アリシアは自慢そうに自分の足元へと視線を落とした。
「ええ。本当にこの子は優秀だわ」
「ワーロォ……おまえの仕業か……」
掌で目を覆いながら、天を仰ぐルベッタ。
アリシアの足元には、真っ白な大型犬が一頭いた。それは最近、彼女たちの新たな仲間の一員となり、「ワーロォ」という名前を与えられた大型の雄犬だ。
アリシアはワーロォにルベッタの匂いを追わせて、ここを突き止めたのだろう。
そのワーロォはルベッタに出会えたのが嬉しいのか、盛んに彼女に飛びついてじゃれている。
「さあ、帰るわよ、ルベッタ。今日の授業はいつもに増してびしびし行くからね!」
「…………くそぅ。もう好きにしてくれ……」
がっくりと項垂れ、それでも大人しくアリシアの後に続いて店を出ていくルベッタ。あちらにワーロォがいる以上、どれだけ逃げても無駄だと悟ったに違いない。
「ガクセン団長。ルベッタの逃亡に協力したあなたには、明日から一週間、厩舎の掃除を一人で行ってもらいます。これはグララン子爵及び、子爵第一夫人の命令です」
「うへぇ。ま、仕方ねえやな。第一兵団長ガクセン、厩舎掃除を謹んでお受けしますぜ、第一夫人様」
肩を竦めつつ、罰を享受する覚悟を決めたガクセン。
彼はアリシアとルベッタが店から出ていくのを見届けると、閉じられた酒場の扉に向けて手にしていた杯を掲げてにこりと含みのない笑みを浮かべた。
「親愛なるグララン子爵と彼が愛する第一夫人と第二夫人に、更なる幸が訪れんことを」
誰に告げるでもなくそう言うと、ガクセンは、杯に残っていた酒を一気に喉へと流し込むのだった。
『魔獣使い』外伝第二弾、ようやく更新しました。
以前よりアリシアとルベッタがリョウトに惹かれる理由が判らない、という意見を多々いただいていたので、今回はそのルベッタの心境をば。
アリシアにつきましては、本編の第一章「09-異能持ち」に、彼女が彼に惹かれた理由を人知れずこっそり追加しました(笑)。よろしければそちらも合わせて目を通していただけると嬉しいです。
最近、『我輩は神である。名前はまだない。』(略称『あるない』)ばかり書いていたので、外伝の更新が遅くなってしまいました。
いや、『あるない』はなぜかすらすら進むので、ついついそちらを書き進めてしまいまして、そのためにこちらが遅くなるという。なんとか年内に『辺境令嬢』の外伝も書きたいところです。
では、次回がいつになるかは不明ですが、次の更新もよろしくお願いします。