30-もう一つの決着
遠く、背後に戦場の喧騒が聞こえてくる。
しかし、その喧騒も徐々に小さくなっていくところから、リガルは今回の騒乱が終結しつつある事を悟った。
とはいえ、彼に敗けた事に関する感慨はない。戦況が向こうに傾いた事を敏感に察し、彼はさっさと逃亡を選択した。今回はたまたま敗けたが、それ自体は大した問題とは思っていない。
生きてさえいれば、いつか巻き返せる。
それが彼の信条なのだから。
戦場──王都から離れるため、現在リガルは森の中を駆けていた。
仲間を見捨てて逃げたのだ。敵である王国軍にも味方であるセドリック軍にも見つかるわけにはいかない。そのため、彼は見通しの悪い森の中を慎重に走っている。
だが、その戦場ももう遠い。おそらく、決着はついてしまっただろう。
セドリック軍の敗北という形で。
「あんたが悪いんだぜ、伯爵。あんたが暗黒竜なんぞを復活せちまったのが、全ての間違いだったんだ」
森の中、立ち止まる事もなくリガルは一人ごちる。
その後もしばらく森の中を駆け、ある程度距離を稼いだ彼は森から街道へと出た。
取り合えずはこのまま他の町まで逃げ、その後は隣国へでも行ってほとぼりを冷まそうか。
そう考えながら街道を歩き始めてすぐ、彼の頭上を巨大な影が横切った。
慌てて空を振り仰ぐリガルの視界に、上空を旋回する赤褐色の巨大な魔獣の姿が映る。
「飛竜……」
思わず呟いた彼の視線の先で、その飛竜はゆっくりと大地に舞い降りた。
地面に脚を着けた飛竜は、ぎろりとその縦長の瞳孔を持つ瞳をリガルへと向け、彼を威嚇するように低く唸り声を上げた。
そんな飛竜の背中から、一人の人間が飛び降りる。
その人物は飛竜と同じ色彩の重厚そうな魔獣鎧を装備しており、その手には巨大な棹斧が握っている。
その人物に、リガルは見覚えがあった。それどころか、一時的ではあるものの、その人物は彼にとって仲間とも呼べる人物だったのだから。
「あ、アリシア……?」
呟いたリガルの声が聞こえたのだろう。その人物──アリシアは、彼の正面に立つとにこりと笑った。
「やっぱり、思った通りね、リガル。逃げるのだけは異様に上手いあなたの事だもの。絶対逃げ延びていると思ったわ」
十メートルほどの距離を取り、アリシアは手にした棹斧の柄を握り直してリガルに向かって宣言する。
「決着をつけに来たわ」
棹斧をの切っ先を、アリシアはぴたりとリガルに向ける。
「決着だと? 一体何の決着だ?」
「決まっているでしょう? 今まであなたがして来たことに対してよ」
目を細め、リガルはアリシアを注視する。
だが、彼はすぐにアリシアから視線を外すと、彼女の背後に佇む巨大な魔獣へとその目を向けた。
「その飛竜……おまえの言う事を聞くのか?」
「ええ。バロムは──この飛竜は賢いコよ。私の言う事もきちんと聞き分けてくれるわ」
肩越しに目だけを背後に向け、アリシアは声に愛しさを含めて答える。
初めてこの飛竜を見かけた時のような、心を凍らせるような強烈な恐怖はもう彼女にはない。
そして、リガルはアリシアの言葉に満足そうに頷くと、思いもよらない事を彼女へと提案した。
「どうだ? 俺と組まないか?」
「何ですって?」
棹斧の切っ先を突きつけたまま、アリシアはリガルの提案にぴくりと眉を寄せた。
「その飛竜がいれば怖いものなしだ。俺とおまえ、そしてその飛竜とで、隣国辺りで傭兵でもやって一稼ぎしようじゃねえか。おっと、稼いだ金は山分けなんてケチ臭い事は言わない。俺とおまえ、取り分は七・三でどうだ?」
もちろんおまえが七だぜ、と続けたリガルを、アリシアは信じられないものを見る目つきでねめつける。
「本気で言っているの? あなたが私にした事を忘れたわけじゃないでしょうね?」
アリシアが一度は奴隷に落ちたのは、目の前のこの男が原因である。
その男が今更もう一度組もうなどと言っても、到底信じられるわけがない。
元より、アリシアには今の主を裏切るつもりなど毛頭ありはしないのだが。
「ありゃ、騙されたおまえたちが悪いのさ。あんな稚拙な詐欺にひっかかるのは、世間を知らないおまえらお貴族様ぐらいだからな」
だが、その元凶である男は、悪びれた風もなくいけしゃあしゃあとアリシアに向けて言ってのけた。
そのあまりに自分勝手な言い草に、アリシアの眉が更に寄る。
「今更あなたと組むなんてお断りよ! それに、この飛竜はリョウト様──『魔獣使い』が使役している飛竜よ。私はそれを一時的に借りているだけに過ぎないわ」
おそらく、バロムが自分の言う事を聞き分けてくれるのは、自分がリョウトに従っているからに他ならないとアリシアは考えている。
もしかすると、バロムから見たアリシアとルベッタは、他の魔獣たちと同列の存在なのかもしれない。
だからもしもアリシアがリョウトを裏切れば、バロムも彼女の言う事は聞かなくなろうだろう。
「バロムが私の言う事を聞くにしろ聞かないにしろ、私があなたの提案に乗ることはない」
相変わらず、アリシアの棹斧の切っ先はリガルへと向けられ、一切ぶれることはない。
その事に、リガルもアリシアを翻意させる事は不可能だと悟った。
「そうかい、仕方ねえな。だが、おまえは俺を恨んじゃいないと言っていなかったか?」
リガルは背負った愛用の大剣を引き抜きながら、それでも飄々とした態度を崩さない。
「ええ。確かに、あなたに騙された事に対して大して恨みはもうないわ。でもね──」
アリシアの目が細められる。それは、獲物を見定めた猫科の猛獣を連想させた。
「──あなたは、これからも同じような事をするわ。私たちを騙した時のように、卑劣な真似を平気でするはず。私は、私と同じような思いをする者が増える事が我慢できない……いえ、そんな事は所詮は奇麗事の建前。本音を言えば、私はあなたに騙された自分が許せないのよ」
「おいおい。そりゃ、いくらなんでもおまえの一方的な我侭と八つ当たりじゃねえのか?」
「ええ。これは私の独りよがりの我侭で八つ当たりよ。それでも、私はやっぱりあなたを放っておけないの。あなたを倒して、自分自身に決着を着けたいのよ」
その言葉が終わった瞬間、アリシアは一瞬で距離を詰めて手にした棹斧をリガルに叩きつけた。
「いいだろう。その我侭に付き合ってやる。ただし──」
叩きつけられた棹斧を大剣で受け止め、リガルは至近距離にあるアリシアの美しい顔に向けて、にやりとした笑みを向ける。
「──俺が勝ったら、おまえは俺の奴隷になれ。おまえの一方的な我侭に付き合ってやるんだ。それぐらいの見返りがあってもいいだろう?」
「……いいわ。その条件を飲みましょう」
アリシアは真剣な表情でそう答えると、地面を蹴って再び距離を取った。
実を言えば、彼はずっと後悔していた。
彼女を売り飛ばすような事はせず、自分の手元に残しておけば良かった、と。
初めて彼女と出会った時、どこか貴族だった過去を捨てきれないいけ好かない女だと思った。
そして、子供臭いのが抜けきれていなかったのも、彼の好みとは大きく隔たっていた。
だから、彼は彼女を奴隷商人に売り飛ばしたのだ。
しかし、後になって彼は彼女を売り飛ばした事を後悔し始めた。
洗練された物腰とその美貌。それは庶民である彼が、貴族というものに対する憧れだったのかもしれない。
その後悔は日を重ねるにつれて大きくなり、半年ほどして彼女と再会した時、その気持ちは溢れ返る程にまで膨れ上がった。
だが、再び出会った彼女は、既に他の男のものとなっていた。
かつて感じた子供臭さは消え去り、代わりに大人の女を感じさせて。
あの時に感じた狂おしいほどの憎悪。もちろんその対象は、彼女を大人の女に変貌せしめた男。
しかし、その彼女が今、目の前にいて、もうすぐ自分のものとなろうとしている。
彼女の実力は把握している。以前に魔獣の森へと共に狩りに赴いた時、彼女の実力は完全に掴んでいた。
それに半年分の上方修正を施しても、彼女の実力は自分には及ばない。彼はそう判断を下しながら、彼我の距離をで詰めて愛用の大剣を彼女へと振り下ろす。
この一撃で全てが決まる。そう思いながら。
彼の見極めでは、彼女はこの一撃を耐えられないだろう。
まあ、手足の一本ぐらい仕方ない。その程度で彼女が自分のものになると思えば安い代償だ。
その思いは、彼自身も気づかない内にその顔を嫌らしく歪めていた。
だが。
だが、嫌らしく歪んだ顔はすぐに驚愕に塗り替えられる事になる。
彼が渾身の力を込めて振り下ろした大剣を、彼女は見事に棹斧で受け止めたのだ。
しかも、彼女はそのまま彼と彼の大剣を、軽くあしらうように弾き飛ばす。
身を捻って何とか着地し、驚愕の思いで彼は彼女を見詰めた。
「どうしたの? まるであの時──魔獣の森で森の長を初めて見た時のような顔をしているわよ?」
彼女は片手で棹斧を担ぐように持ち上げる。
そう。片手で。
彼女は、彼の渾身の一撃を片手で軽々とあしらったのだ。
「お、おまえ……」
彼は知らなかった。彼女がこの半年で、どれだけ成長しているのかを。
彼女の主である『魔獣使い』と共に、彼女はいくつもの戦場を駆け抜けた。
時に魔獣を狩り、時に野盗を退治し。
彼女が秘めていた才覚を開化させたのも理由の一つだが、何より彼女の身に宿った異能が、彼女の力を更に押し高めていた。
僅か半年。
それだけの短期間で、彼女は彼を超えていたのだ。
「ば、馬鹿な……そんな事がある得るわけがねえ……」
呆然と呟く彼。そんな彼に冷笑を向け、今度は彼女がその距離を詰めた。
左から右へ。相変わらず彼女は、片手で棹斧を振るう。
彼女の横薙ぎの一撃を、彼は何とか大剣で受け止めた。
その際に感じる、とてつもなく大きな衝撃。
その衝撃は、彼の両手だけではなく精神までも大きく揺さぶった。
心の揺れを振り払うかのように、彼は大剣を振るう。
下から掬い上げるような斬撃。そのまま隼が獲物を襲うような上から下への振り下ろし。そしてその振り下ろした軌道を巧みに操作し、身体を一回転させて捻転の力を加えた横薙ぎ。
怒涛のような連続攻撃。それは大剣という大質量の武器を扱っているとは思えない程の速さと正確さを秘めた攻撃だった。
しかし、その全てを彼女は防ぐ。
一歩下がって掬い上げの斬撃を躱し、身体を半身にさせて振り下ろしをやり過ごし、横薙ぎを棹斧で軽々と受け止める。
自分自身でもこれまでにない程、鋭く強いと感じられた連撃。その全てを無効にさせられ、彼の顔が再び歪む。
ただし、今度は驚愕で。
「お、おまえ……おまえは一体……?」
大きく目を見開いた彼の視線の先で、彼女は花のようにふわりと笑う。
「私は『魔獣使い』の従者……アリシア・カルディよ」
不意に視界から彼女の姿が消え失せ、彼は体勢を崩してつんのめる。
そこへ、横から棹斧が迫る。
それでも彼は何とか踏ん張り、大剣を立てて棹斧を受け止めた。
だが。
受け止めた瞬間、彼の愛剣は甲高い音と共に砕け散り、大剣を砕いた棹斧はそのまま彼が身につけた魔獣鎧までも叩き割った。
先程とは違う理由で目を見開く彼。
その目がゆっくりと横へ振られ、彼女の姿を捉えた。
両手で、棹斧を持ち、それを振り切った姿勢で静止している彼女の姿を。
どろり、と彼の脇腹から生暖かい何かが溢れ出る。
何が溢れ出たのか悟り、彼はそのまま大地へと倒れ込む。
何とか身体を動かし、仰向けの体勢になった彼はそこに見た。
冷ややかな視線で、じっと自分を見下ろす彼女を。
「私の勝ちよ」
「あ、あ……おま……えの……か……ち……だ……」
言葉と共に胸の奥から熱いものが込み上げ、彼は口から真紅を溢れさせた。
──短い間で随分と腕を上げたもんだ。
だが、その思いが言葉となって零れる事はなく。
脇腹から鮮血と共に命まで流れ出した彼の身体は、もう二度と動く事はなかった。
『魔獣使い』更新。
これにて、着けるべき決着は全て着け終わりました。
後は今回の騒動のエピローグと、物語全体のエピローグの二本で、当『魔獣使い』は完結します。
あと二話。今月中には終わると思われますので、もう少しだけお付き合いください。
では、次回もよろしくお願いします。