32-『銀狼牙』討伐戦-1
それは薄暗い森の中から突然現れた。
太陽の位置がかなり低くなり、夕暮れも間近に迫った頃。
森の奥にぽつんと建つ廃墟の前の開けた場所で、数人の柄の悪い男たちが見張りに就いていた。
とはいえ彼らは与えられた仕事を、あまり熱心には務めていなかったのだが。
「ったく、ついてねぇなぁ……」
男の一人が零した呟きに、残りの全員が頷く。
今頃、仲間の内の何人かは、今日手に入れた獲物を味わっているというのに、自分たちはこうして見張りに就かされている。男たちが思わず愚痴を零すのも無理はないのかもしれない。
しかし、男たちの弛緩した空気は一瞬で切り裂かれる。
突如現れた、それの姿を目にしたことによって。
太陽の光を遮り、薄暗く陰った森の中。
それはそこからのそりと姿を現した。
白黒に塗り分けられた体毛と、のっそりと歩くどこかユーモラスな姿。
突然姿を見せた巨大な熊のようなその生き物を、男たちはぽかんと声もなく見詰める。
「な、なあ、あれって魔獣……だよな?」
「あ、ああ。そうだと思う……初めて見たけど……」
「ど、どうする? 頭に知らせるか? ってか、あれ、頭の魔獣じゃないのか?」
ようやく我に返った男たちは、口々に目の前をうろうろと歩き回る魔獣に関する憶測を交わし合う。
と、その魔獣の顔が、ひょいと男たちの方を向いた。
白く丸っこい頭の中で、目の周りとぴょこんと突き出した耳だけが黒い。
どこか愛らしいその魔獣。その姿から、男たちはその魔獣に対する警戒を思わず弱めてしまった。
それが生と死を分ける重大な判断だと気づくこともなく。
魔獣が相変わらずのっそりとした歩みで男たちへと近づいて来る。
ゆっくりと男たちへ歩み寄った魔獣は、彼らの前でぴたりと停止すると不意にその身体を後肢で支えて直立した。
その体高は優に5メートルを超え、その巨体に改めて男たちの中に警戒心を呼び起こさせる。
しかし、それは遅すぎた。
そのユーモラスな姿には不釣り合いな鋭い爪を持った前肢が素早く振り上げられ、あまりの巨体を呆然と見詰めている男たちへと振り下ろす。
見た目の愛らしさに騙され、その魔獣が秘めた膂力と爪の鋭さを男たちはその身を以て味わう。
もっとも、それに気づいた時には男たちの意識は既に闇へと沈み、二度と浮上することはないのだが。
「……恐ろしいな、魔獣って奴は……」
その光景を森の木々に隠れながら見詰めていたジェイクが零す。
あの魔獣──斑熊が前肢を一振りしただけで、数人の男たちの命が刈り取られた。
あの巨体から繰り出される膂力と鋭い爪の一撃は、おそらくは自分が振る大剣の一撃にも匹敵するとジェイクは考える。
そしてその自分の隣で、件の魔獣を使役している張本人が渋い顔をしている事に気づいた。
「どうした、リョウト? そんな浮かない顔をして?」
「いえ、あいつ……ガドンには極力相手を殺すなと言っておいたのですが……あいつは力加減の調節が不得手だから……」
「おい、リョウト……まさかと思うが、おまえ、今まで人を殺めた事がないなんて言わねぇよな?」
「そんな事はありませんよ、伯爵。僕だって人を殺めた経験はあります」
この世界において、人間の命はそれほど重くはない。
町や村から一歩でも外に出れば、そこは弱肉強食の厳しい世界。
魔獣や野盗といった人の命を脅かすものは数多く存在し、それらから自分を守るにはそれなりの実力か手段──その多くが傭兵などの護衛──が必要となる。
例え町や村の中にいても、時には町や村に侵入した魔獣に襲われたり、盗賊に命を奪われる事はあり得るのだ。
不必要な殺戮や一方的な虐殺などはもちろん犯罪だが、逆に自分の命を守るために相手の命を奪うのは大抵の場合正当な行為として認められる。
ジェイクは『解放戦争』中はもちろんの事、今の近衛隊の隊長という役職に就いて以降、王城に忍び込んだ不審者や犯罪者などの命を奪った事がある。
リョウトにしてもかつて暮らしていた魔獣の森で、幼い頃に魔獣を狩りに来た魔獣狩りたちから「左目だけが紅くて気持ち悪い」と一方的に絡まれ、おもしろ半分に命を奪われそうになった事がある。その際に、彼は思わずバロムを呼び出して相手の命を奪ってしまった。もちろん、直接自分の手で人を殺めたわけではないが、人を殺したという事実は幼かった彼の心に重くのし掛かった。
──自分の命を守るために魔獣は殺しても平気なのに、人間は殺したら後悔する? それはおかしいだろうが。魔獣と人間、一体何が違う? どちらもおまえを殺そうとしたんだ。だったら逆に殺されても文句はないはずだ。
そう言い、彼の心を救ったのは今は亡き祖父のガランであった。
そもそも、魔獣の森という魔境で暮らしている以上、魔獣に襲われる事は日常茶飯事だった。
襲われたら自分自身を守るために逆襲するのは当然であり、それは相手が魔獣だろうと人間だろうと代わりはないと祖父はリョウトに教えたのだった。
もちろん、リョウトは無理に人の命を奪う事をよしとはしない。だが、必要とあれば躊躇いなく他者の命を奪う覚悟はある。
確かにガドンには極力殺さないように指示を出したが、悲しいかな相手は所詮は魔獣であり、細かな力加減ができるわけもない。今回は間が悪かったと言うしかないだろう。
「よし、それじゃあ次の段階へ入る。ガクセンとジェイナスたちは廃墟に侵入し、連中が蓄えた『戦利品』を確保しろ」
ジェイクが指示を出すと、ガクセンとジェイナスを始めとした五人の近衛兵たちが一切足音を立てる事なく廃墟へと近づいて行く。
ジェイクの言う『戦利品』とは、『銀狼牙』が行商人や旅人たちから奪った物資や攫った女性たちの事である。
ガクセンからそれらの『戦利品』が、拠点の各所に蓄えられているとの情報を得たジェイクは、まずはそれら──特に攫われて来た女性たちの安全を確保する事を優先したのだ。
廃墟の中の構造に詳しいガクセンを案内役に、隠密行動に優れたジェイナスたちが『戦利品』を確保する。
それが終われば、本格的な『銀狼牙』の討伐がいよいよ始まるのだ。
「では、伯爵。僕たちの役目はここで待ち構え、飛び出して来た『銀狼牙』の連中や、首領であるキーグルスが使役するという魔獣の排除です。今の騒ぎで少なからずこの襲撃に気づいた者もいるでしょう」
「おう。心得た」
ジェイクはリョウトの言葉に頷き、森から出て廃墟の前に立つと、背中の大剣をすらりと引き抜くとその切っ先を地面に突き刺し、その柄頭に両手を重ねてその場で直立不動の構えを取った。
「ううぅぅぅ……酷い目に合いましたぁ……はいぃ……」
リョウトたちがいる廃墟から少し離れた森の中。そこでアンナは倒木に腰を降ろして半泣きでぶつぶつと文句を零していた。
「何を今更。リョウト様のためなら一肌でも二肌でも脱ぎますと言ったのはアンナだろう?」
「そ、それはそうだけどぉ……まさか、あんな目に合うなんて思いもしなかったのよ、はい」
アンナは両眼に涙を浮かべながら、傍らに立っているルベッタをじっとりと睨む。
ルベッタとガクセン、そしてジェイナスは、『銀狼牙』の根城である廃墟の場所を突き止め、そこにアリシアたちが連れ込まれたのを確認した後、彼女たちはリョウトたちの元へと戻りそれを報告した。
その後、ガクセンとジェイナスは次の作戦の準備に入り、ルベッタは後方で待機しているアンナの護衛としてここに残っているのだ。
そして、先程アンナが言った「酷い目」とは、黒粘塊のルルードに「型取り」された事を指していた。
黒粘塊のルルードは、「姿写し」という異能を有している。文字通り他者の姿を写し取り、自分の身体をその姿に変化させる異能である。
とはいえ、この異能には幾つかの制限があった。
まずは、変化する相手の「型取り」をする必要があること。
これはルルードの身体の中に全身浸かり、その姿をルルードが覚えるというもので、アンナはいつかのルベッタのように、全身をルルードにすっぽりと包まれ、そしてルルードに身体中を舐め回すように蠢かれて何度も性的な高みを味わった。
「型取り」の詳細を知らなかったアンナは、リョウトに頼まれると二つ返事で承知したのだが、すぐにその事を後悔するはめになったが後の祭り。
さすがに男性陣のいる前でこれを行う事はなく、彼らから離れた場所で同性であるアリシアとルベッタに見守られて裸になり、ルルードにすっぽりと飲み込まれて彼女は自分の姿を「型取り」される事となった。
「姿写し」の異能のその他の制限に、ルルードが覚えていられる姿に限界がある事が挙げられる。
ルルードが一度に覚えておける姿は二、三人が限界であり、その覚えた姿もせいぜい二週間ほどしか覚えていられない。
一度は「型取り」しても、その情報は徐々に劣化していくようなのだ。
そして黒粘塊であるルルードには元々感情というものがないため、状況に合わせて写し取った表情を変えるということができない。
眉を動かせとか、口元を引き締めろなどと指示を出せばその通りに従うのだが、自発的にそれらを行うことはない。
表情が動かない人間などまずいないので、その異様さはすぐに露見されるだろう。
よって今回は、アリシアが同行してその都度指示を出すという手段を用いた。
もっとも、今回は盗賊に攫われるという特殊な情況にあり、連中が怯えて思考が麻痺していると勝手に考えてくれたので、表情に変化がなくても左程不審には思われなかったようだ。
実際に攫われた女性の中には、あまりの事に呆然としたまま連中の根城まで大人しく連行された者が少なからずいたのだから、余計に連中が怪しむ事はなかったのだ。
そうやってルベッタがアンナの恨み言を適当に聞き流していると、彼女の元にローがぱたぱたと翼をはためかせながらやって来た。
「ルベッタ。リョウトからの指示だ。次の段階に移行せよ、との事だ」
「承知した。アンナの世話はまかせるぞ、ロー」
自分の言葉にローが頷いたのを確認すると、ルベッタは得物である弓を背負って静かに駆け出した。
ローはルベッタの気配が消えると、相変わらず倒木に腰を降ろしたままのアンナの肩に舞い降りる。
「ううぅ……ローさぁん……リョウトさんに例の約束は絶対に守るように言ってくださいよぉ……?」
「安心するがいい。リョウトは一度交わした約束を違えるような男ではない」
実はアンナは、リョウトに言われた「型取り」を了承する際に一つの条件を出していた。
それはリョウトが縁を結ぶ魔獣たちを、じっくりと納得いくまで観察させてもらうこと。
魔獣の生態の研究者であるアンナにとって、これは何よりも得難い報酬であろう。生きた魔獣、それも飛竜や闇鯨といった凶暴な魔獣や希少な魔獣を間近で観察するなど、普通はあり得ないのだから。
「もちろん、ローさんの事も色々教えて下さいね、はい」
「む、むぅ……致し方あるまい」
なぜか竜であるローの顔が顰められたように見えて、ようやくアンナはくすくすと笑みを浮かべた。
男たちは目の前の光景が信じられなかった。
いや、理解できなかったという方が正しいかもしれない。
「こんなちゃちな縄で私を縛り付けておけると思っているの?」
と言って微笑む赤みの強い金髪の女性。
その女性の足元に落ちている、彼女の両腕を戒めていたはずの縄。その縄はとてつもない力で強引に引きちぎられていた。
そしてその女性──アリシアがさらに口を開くと、男たちは再び驚愕と混乱に陥った。
「マーベク! お願い!」
アリシアが叫んだ瞬間、彼女の影の中から一本の剣──彼女の愛剣の飛竜刀──が飛び出し、すっぽりと女性の右手に収まった。
その常識外の光景に思わず見入ってしまった男たちへ、アリシアは鞘から剣を引き抜きつつ一瞬で肉薄する。
そして三度閃く銀光。
それぞれ僅か一撃で意識を刈り取られた男たちは、その場にばたばたと倒れ伏す。
アリシアは男たちに意識がない事を確認すると、床に敷かれていた毛皮を引き裂いて革紐を作り、それで男たちの手足を拘束していく。
三人の男を拘束し終わり、部屋の片隅に転がしてからアリシアは部屋を出ようと出入り口へと振り向く。
その振り向いた視線の先。そこに男が一人いた。
反射的に剣を抜こうとしたアリシアを、出入り口に立っていた男が引き止める。
「おいおい、俺だよ、アリシア。いきなり剣を抜こうとすんなよ」
「ガクセン……?」
出入り口の前に立っていたガクセンは、戯けた仕草でアリシアを宥める。
よく見れば、扉の外にもジェイクが連れていた近衛兵の一人がいて、周囲を警戒しているようだった。
「リョウトの旦那からの伝言だ」
「リョウト様から?」
リョウトの名前を聞いた途端、アリシアの顔に歓喜が浮かんだ事に苦笑しながら、ガクセンは彼からの伝言をアリシアへと伝える。
「地下にこいつらの戦利品となっていた女たちが数人閉じ込められている。その女たちは……まあ、その、ここの連中にいいように扱われていたみたいでな。男の俺たちより女のあんたの方が彼女たちも安心するだろう? だから、あんたの口から女たちに助けに来た事を説明しちゃくんねえか?」
「それがリョウト様からの伝言なの?」
「ああ。攫われた女たちがいたら、その扱いはあんたにまかせろってさ」
ガクセンの話は理に適っている。そう判断したアリシアは、彼に続いて地下室のある方へと進んで行った。
途中、今頃ルルードはどうしているのかが気になったが、それよりも女性たちの安全を確保する方が重要と判断し、あの粘塊の魔獣の事は頭の隅へと追いやる事にした。
『魔獣使い』更新です。
今回は『銀狼牙』のアジトへの侵入──人質や足手まといとなりかねない『戦利品』の安全確保──、そしてルルードの異能についての詳細でした。
感想でも指摘を受けましたが、ルルードってば本当に某超能力者の下僕の黒豹にそっくりです。いやほんと、偶然なんですけどね。ルルードの設定を作ってから「うわ、これじゃあロ○ムじゃん」と後から気づきました。気づいてから設定を変更しようかどうか悩みましたが、「姿写し」の異能はおもしろそうなので結局そのまま残しました(笑)。
では、次回もよろしくお願いします。
※当面の目標である、お気に入り登録数3000到達まであと83。