03-魔物の森の長
リョウトの前に、赤褐色の巨大な生物がうずくまっていた。
皮膜状の翼と、しなやかで長い尻尾、そして鋭い牙と爪を持つ赤褐色の鱗で覆われたその生物は、ぐるるるると唸り声をあげ、硫黄の匂いを周囲に撒き散らしながらも、大人しくリョウトの話を聞いている。
「──と、いうわけなんだ、バロム。悪いけどまた力を貸してくれないか?」
リョウトの言葉に、バロム──魔獣の森の長の飛竜──は、まるで飼い犬のように嬉しそうに尻尾を振る。
その際、近くにあった樹が二、三本へし折れたのはご愛敬。
リョウトは飛竜のしぐさから、自分の提案が肯定されたことを悟る。
「だけど脅すだけだよ? 少しぐらい怪我するのは仕方ないとしても、殺したらだめだ。判ったね?」
バロムはばふっと口から小さく炎を吐いて肯定を示すと、その巨大な翼を打ち振るわせて空へと舞い上がる。
そして上空で二、三度旋回すると、先程リョウトから聞いた魔獣狩りたちがいる方角へと飛び去って行く。
バロムが飛び去ったのを地上から見送ったリョウトは、自身も様子を窺うために元いた方へと静かに歩き出した。
それは咆哮から始まった。
大気が震えた。それに呼応するかのように周囲の木々がざわざわとざわめく。
最初、それが何なのか魔獣狩りたちには判らなかった。
彼らは思い思いに薬草や木の実を集め、小型ながらも稀少な魔獣や動物を狩っている最中だった。
そして不意の大気の振動。
それが何を意味するのか、最初に悟ったのはやはりリーダー格のリガルだった。
「────まさか……」
彼以外の魔獣狩りたちが、何事かと彼の周囲に集まる。丁度その時。
不意にそれまで木々に繁った葉に遮られていたものの、周囲を明るく照らしていた陽光が遮られた。
空を振り仰いだリガルの目に映ったのは、正に悪夢としか言いようがない光景。
それは。
赤褐色の鱗を持った、巨大な飛竜が咆哮を上げながら自分たちに向かって急降下して来る光景だったのだから。
「お、長だっ!!」
そう叫んだのは誰だったか。
だがその警告は遅い。
魔獣狩りたちが反応するより早く、魔獣の森の長は彼らの頭上すれすれを周囲の木々をなぎ倒しながら通過した。
巻き起こる突風に魔獣狩りたちは各々吹き飛ばされる。その際、運が悪い魔獣狩りの一人の肩口を飛竜の鋭い爪が掠め、その鋭い爪は彼が身につけていた金属製の防具を易々と切り裂き空中に真紅の花を咲せた。
ごろごろと転がる魔獣狩りたち。その中で上手く受け身を取る事ができたリガルは、素早く立ち上がると手にしていた数々の獲物を放り捨て、木々がより密集した方へと走り出す。
「くそっ!! どうしてここが判ったっ!? どうやって俺たちに感づいたっ!?」
長の塒はここから遠い。そんな遠くからでも、長は自分たちに気づいたというのか?
それとも、偶々近くに長がいたのか?
幾つも疑問が湧いてくるが、そんなものは二の次だ。今はこの森の長から逃げる事が第一。
リガルは脇目も振らず──仲間たちさえ見捨てて──脱兎の如くこの場から逃げ出した。
長が巻き起こした突風に吹き飛ばされつつ、アリシアは損得勘定を優先させてこの場に留まった事を後悔した。
あの時。リガルが自分だけでも帰れと言った時、いくら赤字になろうともやはり帰るべきだったのだ。
今回いくら赤字になろうとも、次回で挽回する事ができる。
しかし、ここで死んでしまっては、赤字も黒字もない。
そんな事を考えつつ、突っ伏した大地から身体を引き剥がしたアリシア。そんな彼女の耳に、二度目の長の咆哮が響き渡った。
あまりの大音響。そしてそれが引き起こす恐怖心。思わずぎゅっと目を閉じ、両手で両耳を押さえてうずくまる。
やがて大気の響きが収まり、おそるおそる目を開けたアリシアの正面。そこに恐怖の具現がいた。
太くがっしりとした両脚で大地を踏みしめ、巨大な皮膜の翼を翻し。
ぞろりと生え揃った鋭い牙を陽光に晒す、恐怖がそのまま具現化したその姿。
赤褐色の鱗を日の光にきらりと反射させ、魔獣の森の長がその姿を誇示するかのように仁王立ちしていた。
「……あ……ああ……」
再び心の中に沸き起こる恐怖心。あまりの恐怖に手放しそうになる意識を必死に掴み留めながら、アリシアの足は無意識のうちに後ずさる。
ちらりと周囲を確認すれば、リーダーのリガルの姿は既になく。
残りの仲間たちはこの期に及んでも、少しでも周囲の金になりそうなものを掻き集めようと必死になっている。
アリシアはそんな三人の仲間たちの姿を意識して視界から外す。だがそれは目の前に迫る恐怖を直視するという事に他ならなくて。
アリシアの緑柱石の瞳と、飛竜の縦長の瞳孔を持った瞳。その双方の視線が絡み合う。
恐怖に捉えられたアリシアは、手にしていた剣と楯をかなぐり捨て、飛竜に背中を見せて走り出した。
その走り方は、爪先だけで駆ける走り方ではなく、足の裏全てを地面にべたりとつけた子供のような走り方。恐怖のあまり恐慌状態に陥ったゆえの行動。
魔獣に対して背中を晒す事が如何に愚かな行為であるかなど、恐怖に縛られたこの時のアリシアの頭にあるはずがなく、ただひたすら目の前の恐怖から逃れたい一心でアリシアは走る。
一方、リョウトに脅す程度にと言われているバロムに、アリシアを追うつもりはない。逃げ出した人間一人など、バロムにとっては細事に過ぎない。
バロムの注意は残る三人の人間に向けられる。
一人は先程裂けた肩を押さえながらいまだに立ち上がる事さえできずにいる。
残りの二人はおろおろと周囲に散らばったものを掻き集めている。
そんな人間たちに、バロムは侮蔑を込めた咆哮を吐きかける。
恐怖心を煽られ、青ざめた表情で逃げ出す事もできずに自分の方を振り向く三人の人間。
バロムはそんな人間たちの姿に面白くもなさそうな鼻息を吐くと、猛然といまだに座り込んだ人間たちに向かって突進する。
リョウトも少しぐらい怪我させてもいいと言っていた。尤も、飛竜と人間の「少し」の感覚は大きく隔てられているのだが。
仮にここでこの人間たちが死んだとしても、自分としては何の痛痒も感じない。ひょっとするとリョウトに怒られるかもしれないが、まあ、その時はその時だ。
バロムは凶悪なその牙を剥き出しにして、人間たちに向かって駆ける。
青を通り越してもはや顔色が白くなっている人間たちがどんどん近づく。
彼らの近くを通り過ぎる際、何かがバロムの足に引っかかったような感じがしたが、バロムはあまり気にしない事にした。
「あーあ……やり過ぎだよバロム……」
「だから言っただろう。バロムに頼んでよいのか、と」
「そうだけどさ……まあ仕方ない。運が悪かったと思って諦めてもらおう」
森の長と魔獣狩りたちがぶつかり合っている──いや、森の長が一方的に魔獣狩りたちをいたぶっている場所から離れる事少し。
先程同様繁みに隠れながら、何やら物騒な事を言い合うリョウトとロー。
ちなみに、魔獣狩りは気絶したものの、誰一人死んでいない。
運の悪い一人が、バロムの脚の爪でひっかけられて脇腹を裂かれただけだ。とはいえ、あのままではすぐに失血で死んでしまうだろうが。
「あそこで倒れている三人は、ガドンに頼んで村の近くまで運んで貰うとして……」
「その前に、脇腹を裂かれた者と肩を怪我した者にはファレナに治癒をさせておけ」
「あ、そうか。で、後は逃げた二人だけど……」
「男の方は問題あるまい。恐怖による恐慌を起こすこともなく素早く逃げた。なかなかの手練れだな、あれは。問題は女の方だ」
「そうだね。あのアリシアって人、バロムの姿にすっかり怯えてたからね。自分でもよく判らずに逃げ出したみたいだし」
隠れていた繁みから這い出し、倒れている三人の魔獣狩りたちの方へと歩きながら会話する一人と一頭。
近づく途中、アリシアが逃げる際に捨てた剣と楯に気づいたき、それを拾い上げる。
「大事な武器や防具を捨ててまで逃げるなんて……よほど怖かったんだなぁ……」
「なに暢気な事を言っている。闇雲に走って崖から転げ落ちでもしたら事だぞ?」
「確かにその可能性はあるな……よし、マーベクに探させよう」
リョウトは再び左の袖を捲り上げ、その腕に刻まれた不可思議な模様のアザのようなものをさらす。
「マーベク!」
リョウトがその名を口にした途端、そのアザの一つが赤く輝き出した。
アリシアが気づいた時、その視界に入ったのは見慣れない天井だった。
「…………え?」
上半身を起こして周囲を見回す。
そこはどうやら小屋の中のようで、周囲には生活感が溢れていた。
小屋の床には動物や魔獣の革が敷物のように敷かれている。
壁際の小さな机。その上にはやはり動物や魔獣の牙や爪らしきものが、無造作に置かれている。
同じく壁際の収納用の棚。そこには乾燥処理された各種薬草や木の実が、整理されて収められている。
中央部には食事用だと思われるテーブル。ここから死角になっている場所には調理用の竈らしきものが見え隠れしている。
壁には衣服や武器が無造作に掛けられているし。
そして、先程まで自分が寝ていた、獣皮を何枚も重ねた意外に寝心地の良いベッド。
ここは明らかに誰かが生活している小屋だ。
どうして自分がここにいるのか。そう考えた時、先程までの記憶が甦る。
魔獣の森の長である飛竜と対峙し、何もできずに恐怖にかられて逃げ出した。
そのままわけも判らず闇雲に走り、ふと足元から大地の感触が消えた。
気づいた時にはやや傾斜のきつい崖の斜面を転がり落ちて、そのままその下を流れていた川に突っ込み……
そこで彼女の記憶は途絶えていた。川に落ちた事で気を失ったのだろう。
長の姿を思い出て恐怖がぶり返し、振るえる身体を自分で抱きしめる。その時になってようやくアリシアは気づいた。
「え……どうして……?」
彼女は全裸だった。一切の衣服を身につける事なく、裸でベッドに寝かされていたのだ。
驚いたアリシアはベッドから思わず立ち上がった。普通ならそのままベッドの中に身を沈めるのだろうが、流石に彼女も混乱していた。
そして丁度その時だった。
小屋の出入り口と思しきドアは開いたのは。
現れたのは一人の少年。
年齢は18歳であるアリシアとおそらく同じくらい。
身長もアリシアよりは頭一つは高いだろう。
黒い髪を短く刈り込み、身に付けているものは布製の衣服に所々獣皮で補強を施したもの。
どこかあどけなさを残した顔だちは、美形ではないものの整っていない訳でもなく。まあ、中の上といったところか。
だが、何よりアリシアの目を引いたものがある。
それは彼の瞳。右の瞳は髪と同じ漆黒だが、左は紅玉のような真紅。
その少年の瞳は、左右でその色彩が違っていたのだ。
少年は驚愕した表情を浮かべ、その左右で色彩が違う瞳で自分をじっと見つめている。
何をそんなに驚いているのだろう? そう思った時、アリシアは自分の格好を思い出した。
そう。彼女は今、裸だった。全裸のまま小屋の中で突っ立っているのだ。
アリシアは一瞬で身体中を朱に染めると。
「きゃああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
叫びました。そりゃあもう思いっきり。
その叫び声に驚いて、小屋の周囲にいた鳥や獣たちが驚いて逃げ出すほど。
その音量は森の長の咆哮に匹敵するとかしないとか。
目の前で両手で耳を押さえる少年をよそに、アリシアは慌ててベッドの上にあった毛皮の一枚を身体に巻き付けた。
「だ、誰っ!? どうしてここにいるのっ!?」
「どうしても何も、ここは僕の家だし? 川で気絶していた君を見つけてここまで運んだんだよ。あ、君の服はずぶ濡れだったから、改めて洗ってから外に干しておいたよ」
「そ、そうだったの……ありが……」
助けてもらったお礼を言おうとした時、青年の言葉がアリシアのどこかに引っかかった。
今、この青年は何と言った?
自分の服を洗って、そして干したと言っていた筈。それは即ち──
「わ、私を裸にしたのはあなたなの?」
「うん。まあ、その……ね? 悪いとは思ったんだけど……濡れたままベッドに寝かせるわけにもいかなかったし? あ、確かに裸にはしたけど、必要以上に身体には触れないように注意したから」
「い……」
「い?」
「いやあああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
再びの絶叫に、先程の絶叫で逃げ出し、落ちついて戻って来ていた鳥や獣たちが再び逃げ出した。
鳥や獣にしたら実にいい迷惑である。
『魔獣使い』の更新です。
こちらもたくさんの人が来てくださってうれしい限りです。
しかし、どこまでこの執筆ペースが保つかなぁ……。
ともかく、今後もよろしくお願いします。